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長野県の治水・利水・ダム関連リンク集と私見

最終更新: 2002年 8月 18日 (日曜日) 13時45分 (リンクを追加した)

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「枠組み」と「答申」の整合性について
長野県治水・利水ダム等検討委員会が発表した「総合的な治水・利水対策について(答申)」の全文:浅川砥川。浅川も砥川もダムによらないB案を答申し,「ダム作りを含むA案を支持する意見もかなりあったことを付記する」と注釈がつけられてしまっているので,知事が表明した,いわゆる枠組み案(リンク先は県庁のサイト。信濃毎日新聞のサイトにも答弁要旨があるが,前段の大事な文言が抜けていることに注意)は,A案の要求への対応可能性を含めたB案だという意味で,答申の趣旨に沿ったものだったと判断される(だからこそ「枠組み」という言葉を使っている。具体案は検討時間が足りないのでまだ出せないということは何度も発言されている。そんな状態で国交省に意見を聞きに行った結果など最初から見えている)。この委員会は脱ダム宣言を受けて議員提案により設置(提案者である竹内議員の2001年2月の日誌3月の日誌を見ると経緯がわかる。余談だが,これが42年ぶりの議員提案による条例だったということは,これまで県議会が正常に機能してこなかったことを意味すると思われる)されたもので,委員名簿を見ると県議も入っているのだから,論理的には県議会が答申を蔑ろにするのは通らないはずだ。それでも論点をずらして対案が不十分だなんて言うのは屁理屈だろう。
◎【7月23日付記】もうちょっと丁寧に上の文の趣旨を説明しておく。仮に「答申」に「付記」がなければ,答申を踏まえた回答はB案そのもので良かった。そうすれば,予算も安くて済むと言えた(砥川答申の17ページ,浅川答申の16ページ)。しかし,「付記」されたことで,A案を無視できなくなってしまった。この状態で満足の行く折衷案を練るのは,もし可能だとしても長い時間が必要である。しかし,議会は時間を与えてくれなかった。そこで出した苦渋の方針が,B案をベースに実行するが,治水の「目標」は当面A案にしておく,という言い訳を含んだ「枠組み」であろう。日本語として素直に読めば,これ以外のやり方で答申を踏まえることはできない,ギリギリの線だと思う。
基本高水を巡る問題
●検討委員会での基本高水についての議論は,第4回の議事録に詳しい。従来の計算法での100年規模の雨量が関連性の外挿であること(このやり方があんまり信頼できないことは,truncated distributionである点が共通している例をあげると,運動量と心拍数の関係とかを考えてみるとわかるだろう)や,流量との関係がわからないことや,基本高水がいわば高位推計であることが説明されている。これらの議論を受けて,第12回検討委員会で,『基本高水とは「治水安全度をどのように設定するか?」という選択の問題であることが認められた』と答申にも書かれている。つまり,基本高水は科学的に絶対の基準などではなく,選択の問題なのだ,というのが検討委員会の結論である。
●1999年3月に信大工学部を定年退職した長 尚という方は,土木工学(中でも構造設計学)の専門家だそうだが,検討委員会を何度も傍聴して,問題点があると感じたそうで,いくつもの文書をwebで公開している。基本的に構造物を作るべきだという信念をもった方のようで,整備新幹線にも早期着工を提言している。この方は,「浅川のピーク流量に関する長野市の指摘を巡る第12回県検討委員会での議論について」の注2に『「基本高水」が治水のあり方を総合的に判断する基本的で重要な視点であることが理解できない人には、治水を論ずる資格はない』なんて書いているのだが,果たして本当にそうだろうか? 検討委員会の答申によれば「選択の問題」ということだし,念のためにさっきリンクした第4回議事録とは異なるソースの説明を見ても,基本高水の意味は,国交省の水辺づくり用語集がわかりやすいが,治水のあり方を総合的に判断する視点であるなどとはどこにも書いていない。そうではなくて,「洪水を防ぐ計画で基準とする洪水のハイドログラフ」なので,計画を作るための1つの基準値に過ぎない。

余談だが,国交省でもダムを作った後の管理については地方では問題があるダムもあるという話も出ている。長氏の文書については,納得できる点もあれば,偏見や誤解によると思われる部分もある。全般的にいえることは,言葉についてあまりsensitiveでないように思われる。例えば,「言葉のもつきつさの違い」は的を外している。dictatoralとarbitraryは意味が違う。

京都大学防災研究所災害水象研究領域で助手をされている上野鉄男氏(熊日の川辺川ダムに関する記事によると,民間研究機関「国土問題研究会」にも所属しているようだ)が発表している「治水事業をめぐる諸問題とこれからの治水の課題と展望」は,基本高水の計算方法そのものに問題があること(上野氏は「過大な基本高水流量が採用されている」と言い切っている。上野氏たちが紀の川の基本高水計算のやり直しを求めた文書の解説の論理はわかりやすい。より詳しくは,信州大学自然災害・環境保全研究会編「治水とダム」(川辺書林)で浅川について数値を挙げて説明されている),ダム治水では超過洪水による危険性が大きいこと(放水被害のイメージといえば,真保裕一「ホワイトアウト」が思い浮かぶ),等々,impressiveである。(2002年7月27日追記)上野氏が浅川について出した計算が載っているサイトを見つけた。川辺書林の「治水とダム」に載っている計算方法と概ね同じものである。(2002年8月6日追記)忙しくて部分的にしか中身を読めないのが申し訳ないのだが(一応目は通したのだが,議論に応答するには時間が足りない),上野氏の計算をYahoo! 掲示板で紹介したときに,技術者と思われるprivileges_of_youthという方がされた上野氏の計算への反論()。1の最初の項目の後半とか,確かに上野氏が書いていることにも論理的につながっていない点があるのは認める(でも,該当部分の2つの部分が論理的に連接なのかどうかという点には解釈の余地があると思うが)。が,大筋は依然として上野氏の計算の方が妥当に見える。新田川合流点前では,少なくとも60年間は,70立米毎秒弱のピーク流量しか観察されていないのに,100年確率の雨というとその約3倍以上もの232立米毎秒を想定しなければならない理由に納得がいかない。回帰の外挿による歪みではないかと思う。そもそも,統計計算の結果であるなら,点推定値と95%信頼区間を出すべきである。95%信頼区間の上限みたいな(たぶんそれより遥かに大きい)値を点推定値として使うというのは変だと思う。
●長野市メールマガジンのバックナンバーから浅川ダムの話し その2。「昭和12年7月に実際に降った雨を計算したところ、毎秒415立方メートルという流量になる」と書かれていることから毎秒415立方メートルの流量が実測されたように誤解している人が多いように思うのだが,これは実測ではない。実測されたのは雨量であって(しかも雨量測定の精度は怪しい),当時の流量は不明である。実測された雨量を元に,回帰の外挿を使って推計された値なのだ。上でリンクした第4回議事録や上野氏の説明(とくに「治水とダム」の説明がクリア)を読めば,この計算の無意味さがわかると思う。上でリンクした長氏が長野市長に出した意見書の内容が件のメールマガジンで大きく使われているのだが,この内容では大熊氏や上野氏の論理と正面から対決していず,科学的には説得力に欠ける。この方,本当に信大工学部の教授だったのか? 「確率論から言うと、たとえ百年に一回の確率の事象でも、百年間に二度起きる可能性はかなりあるし、三度以上起きる可能性も無視できない程度にある」は,嘘ではないが誘導的である。二項分布で考えると,「百年に一回の確率の事象」が起こる確率は1年あたり0.01ということだから,確かに百年にちょうど1回起こる確率は100×0.01×0.99の99乗で0.3697,ちょうど2回起こる確率は0.1849,3回以上起こる確率は0.0795となる。しかし,百年間に一度も起きない可能性が0.99の100乗で36.6%あることを書かないのはフェアじゃない。
■(2002年8月6日追記)高めの上に高めの推定値をとった(高田氏や大熊氏の指摘と上野氏の指摘は論点が違うが,いずれにせよこれまでの推定値が高め側の高め側をとったものであることは間違いない)基本高水を目標とした治水計画は,本当に住民のためになるのだろうか? 住民が希望することは水害の減少だろうし,「十分な治水安全度を保つため」と言われれば,水害が起きないためだなと想像するだろう。が,少なくとも浅川では,千曲川との合流点地点の水位を計画高水以下に抑えても水害の発生は防げるとは限らない。浅川の治水問題に長年取り組んできた竹内議員がいみじくも浅川流域治水対策連絡会の中で触れているように,ダムも含めた浅川の治水計画というものは,千曲川の水位が高いときには「溢れることを前提とした」ものなのだ。いわゆる内水災害問題である。そういう状況で,基本高水が治水安全度だと言うことに何の意味があるのだろう? 少なくとも,「治水安全度」という言葉が意味すると思われる内容,つまりどれだけ水害の発生が防げるかということについて,具体的に計算された基本高水という値は指標としての妥当性が不十分だと思う。ダムを作るよりも,ポンプを設置することや千曲川の新潟方面にあるダムを壊すことや立ヶ花を拡幅することに金を使った方が役に立ちそうなことはわかっているが,それにはそれで副作用もあるし補助金がつかなかったりということで,いままで話し合ってきた結果採択された手法がダムなのだ,というのが竹内議員のスタンスのようである。粗いと思う。内水災害がある以上,治水計画そのものが所詮は妥協なのだから,もっと妥協点の可能性は柔軟に探られるべきであり,中には,例えば,ダムも作らないしこれ以上河川の拡幅をしなくてもいいならば(つまり金をこれ以上かけないならば)基本高水の計算のもとを30年や50年確率の降雨に下げてもいいという選択肢が入ってきてもいいはずである。それができないのは,多様なシナリオに答えた予測をするだけの技術がないのか,それとも事業への愛着(後述)が邪魔しているかのどちらかだろう。
国レベルの治水方針の動き
●国レベルでは一般河川にも「流域」ごとの総合治水対策を適用する方針に既に転換している(上野氏の文書だけではなく,国交省河川局のダム事業についての「基本的な考え方」国交省河川審議会の中間答申など,他の情報を併せて考えても,そう判断していいと思う。いわゆる抵抗勢力はあるみたいだが)ので,長野県議会が大きな声で主張しているような「ダムを作らないと金を返さねばならない」事態はまずないだろうと考えられる。
●京大防災研のサイトには都市域の水災害の防御システムの研究もある。「流域」を単位としたfail-safeな防災という視点ではそちらの方が今後重要になってくると思う。
森林の治水・利水効果について
●森林に治水・利水効果があることは,少なくとも経験的には世界中で認められている(国交省は認めていないが,ここでデータとして取り上げられている東京大学愛知演習林はスギやマツやヒノキなどの針葉樹林だし,地すべりが起こったような地層のところだから適切なデータとはいえないのではないか? 水源林といえばブナであろう。樹種の多様性を無視した議論には意味がないし,現在の浅川上流域の森は実際に見たところ針葉樹林ばかりだし林床植生も乏しいので,森林整備の余地は十分にあると思う。だいたい,ちょっと雨が降っただけであんなに濁る浅川流域の森林が良好な状態であるはずがない)。森林の専門家である藤森隆郎「森との共生」(丸善ライブラリー)を読んでも,国交省の「オピニオン」にあった緑のダム否定論のおかしさは明白である。東京都だって(ずいぶん昔のことだが)小河内ダムを作っただけではなく,奥多摩には天然林70%を含みブナやミズナラも多い水源林を広範囲に涵養している。あの森は,都民が山菜取りをする場としても黙認されていると聞いたので,アメニティ機能もある。
●(2002年8月7日追記)誤解されるといけないから書いておくが,ぼくは,コンクリートのダムとまったく同じ効果が森林によって得られるとは主張していない。ただ,森林の治水・利水効果を否定する人に対して否定はできないと書き,計算に入っているから改善の余地がないという主張に反論しているに過ぎない。作った当初の貯水量は,たしかにコンクリートのダムの方が多くなるだろうが,そこまでの貯水量が必要だという前提を捨てて考えてみれば,より低いレベルかもしれないが,森林の治水・利水効果でも十分かもしれないではないか。しかも,例えば千年持続するかと考えると,山を本来の植生に戻すか,あるいは人工林ならきちんと手入れをする方が持続可能なありかたであろう。林の手入れは大きなエネルギーを必要としないけれども,100年後にダムを作り直すようなエネルギーと資源が世界にあるかどうかは怪しいのだ。また,世界中で森林破壊による水質汚濁や土壌流出があるという報告があって,それが少々の植林では取り返せないことも経験的にはわかっている。沖縄とかソロモン諸島の海に赤い土が流れ出している写真を見た方もいるであろう。人工林を手入れすることは林業によってなされるのだが,コストだけ考えると(現在は流通コストが安いために)安い外材があるために引き合わないから,国内の,とくに中山間地域の林業には補助金を出してでもちゃんと間伐をしてもらうという(田中前知事がやった)政策は理にかなっている。グローバル経済の視点から見ても,将来的には石油資源が枯渇するので流通コストが上がると予測されているので,それ以前に林業に体力をつけて準備しておく方が合理的である。林業は一朝一夕に改善されるようなものではない。地球温暖化対策「長野モデル」の提言を生かして,間伐材を有効活用する道も考えれば,一石二鳥であろう。アメニティ機能まで含めて考えても,せいぜい養殖魚の釣りくらいにしか使えないダム湖よりも,昆虫採集とか山菜とりとか木の実の採集とか森林浴のような多様な恵みが得られる森林の方が優れていると思う。
ダムの安全性/危険性について
●長野県議会のインターネット中継を聞いていたら,国交省からの回答に,返金を求めない事例として,申請時にはわからなかった地盤の問題が見つかった場合など,というのがあった。それが本当なら浅川ダムは中止しても返金は求められないことになる。地附山の地すべりはダム計画段階ではわかっていなかったし,ひずみ集中帯もGPS連続観測でわかったのだから計画段階ではわからなかった話で,事情が変わったという合理的かつ十分な説明になっていると思う。森林に過大な期待をするなというのも変な話で,ダムを作ったら森林は減るのだということが考慮されていないし,樹種の違いあるいはspecies abundanceが無視されている。
●長野市メールマガジンのバックナンバーから浅川ダムの話し(部会での議論)その1。第4段落がはっきりおかしい。計画段階の権威って30年前の権威に何の意味があろうか。自然科学をまったく誤解している。新しいデータが出て,新しい理論が提案されるたびに,かつての仮説は検証され,論理矛盾が生じれば棄却するのが自然科学である。専門家の議論に委ねよといいつつ過去の権威を恃んで,現在の専門家の間で議論が伯仲し,検討委員会の答申として両論併記となったダムの安全性の問題を否定するやり口は稚拙である。
●検討委員会でもさんざん浅川ダム立地の危険性を主張している内山氏による,浅川ダム計画の「危険マップ」
web掲示板での言説について
FM長野の「Let's 午前中」という番組の掲示板。普通の長野県民の民意を反映していると考えてもいいのではないだろうか。
●【河川改修が三面コンクリ張りだというデマ】2ch掲示板とかYahoo!掲示板とかを眺めていると,知事のいう河川改修が三面コンクリ張りと巨大堤防だと何度も書き込んでいる人がいるのだが,それはありえないのではないか? ソースがどこにも示されていないし,いくら探しても見つけることができないので,これはデマだと思われる(関係しそうな文言としては「脱ダム宣言」中,下諏訪ダム計画の中止に触れた部分で,「治水は堤防の嵩(かさ)上げや川底の浚渫(しゅんせつ)を組み合わせて対応する」があるが,この文言と「巨大堤防」には非常に大きなギャップがある。また,件の検討委員会の活動の一環として行われた,砥川の第3回公聴会議事録に,諏訪建設事務所米山ダム課長によるB案の説明として,構造物が60度勾配で,上流側がコンクリートブロック積み,下流側がコンクリート擁壁というのがあるが,これについては答申にはまったく入っていないので,正式なB案の内容であるのかどうかわからないし,ましてや知事がそれを受け入れていると考えるのは無理であろう)。知事は浚渫の重要性は何度も言っているが,河川改修の具体的方法にはあまり言及していない。それでも,木工沈床による石堤を提案したこともあったし(ソースは昨年の県議会での答弁これも),コンクリ三面張りやU字溝はやめるよう発言している(ソースは,「知事と語る建設女性の集い」のご意見に対する回答)。いったいどこで,いつ,どこの川についてコンクリ三面張りをすべきだと言ったというのか? あるというなら教えて欲しい。
●【河川改修は金が掛かるという発言の問題点】(7月26日に書き方をより正確にした)上記掲示板では,河川改修の方が金がかかるという書き込みも多々見られる。

田中知事の支援団体にいわゆる土建業者が入っていることと関連付けて(別にそのこと自体には何の問題もないにもかかわらず),ダムなし利権と揶揄するような書き込みもある。(注)本筋から話がずれるので小さいフォントにしました。

しかし,治水・利水等検討委員会の答申では,A案に比べB案の方が安上がりと試算されている(砥川答申の17ページ,浅川答申の16ページ)。だから,これもおかしな書き込みである。基本高水を同じにした治水計画では,河川改修の方が高価になるという試算値がある,というなら事実だが,何の留保も条件付けもなく「河川改修の方が高価」と言い切っているのは,誤解を呼ぶ。繰り返すが,答申のB案はA案より安価で済むのだ。言い切りは広まりやすいので,文脈が明確でない掲示板などへの書き込みでは控えて欲しいと切望する。
その他
●長野県議会議員の中で,まともな発言をしているなあと感心した石坂千穂氏のサイト。日記を読むと,マスコミが報道していない実情がわかる。
●【脱ダムを“宣言”した意義】2002年7月16日夜追記。“脱ダムネットワーク”結成お祝いメッセージに掲載されている,元京大防災研教授の奥西一夫氏のコメントは,改めて読んでみると,きわめて示唆に富んでいる。「長野モデル」の1つとしての「脱ダム宣言」を考えると,地方からの国政改革につながるアドバルーンとしての意義が見えてくる。これに対して多くの長野県議会議員のように既得権を失うリスクを恐れて批判的に受け止めてしまうのか,先駆者たりえることを誇りに感じるのか,県民一人一人の鼎の軽重が問われる提言なのである。現在の長野県は,寿命が長いだけでなく健康余命が長くて高齢者就業率が高いし,失業率は全国で最も低く,医療費が安く済んでいるし,福祉政策も全国的にみてトップクラスである。また一方では,住民当たりの博物館や公民館などの文化施設の数もトップクラスであり,高齢者のQOLが高いといわれている。しかも,県の財政の危機は,主としてオリンピックが招いたものであって,これらのこととはほとんど無関係である(もっとも,商工会議所副会頭としてオリンピック誘致で大きな役目を果たした鷲沢氏(現長野市長)には責任があるかもしれない)。長野県民は,トップクラスの生活の質をもつことに誇りをもっていい。いや,もつべきだと思う。長野は先駆者たることができるのだ。地球温暖化対策「長野モデル」も,本当に先駆的で,将来の社会を破滅させないための処方箋となりうるモデルだと思う。これを住民ベースで発案したことも画期的だったし,それを受け入れて「長野モデル」としての発信をしようと本気で知事が考え,「政治生命,行政生命をかけて行う」と発言したのは,実に志が高かった。政策とは,本来そういう視点で語られるべきものではなかったのか? 以前青空MLにも投稿したが,大きな改革が必要なときに説得力をもつのはモデルケースの存在である。諺にも,Lead the way by setting an example.(隗より始めよ)というではないか。それに対して政治手法を云々するのは,はっきりいって御門違いだったと思う。そもそものスコープが違いすぎる。
■(7月26日追記。愛着についての喩え話)それにしてもどうして,これほどまでにダムに拘る人がいるのだろうか? 竹内議員の日誌を読むと強く感じるのだが,これは,きっと愛着の問題なんだろう。経済的な問題もあるかもしれないが,それだけではないと思う。協議を重ね,長年にわたって手塩にかけて育ててきた事業が,完成が見えた段階になって,「計画にまずい点があった」と言われて中止されたら,仮に,かなり合理的な理由が示されたとしても,「これまでの努力はなんだったんだ」という気になるのは,たぶん人間として当然だと思う。しかも,今回示された中止理由は,一目瞭然のものではなく,B案の方がどちらかといえば良い,というものだ。あまり喩え話をするべきではないのかもしれないが(不謹慎だと思う方がいたらごめんなさい),技術論・資質論・政治手法論といった面倒なことを抜きにして,事業への愛着を説明するために,喩え話を書いてみる。

学校の文化祭のクラス参加企画として,例えばお好み焼き屋をやろう,と一所懸命盛り上げてきた生徒がいて,まあ自分が働くんじゃなければいいか,という程度の人が多いクラスの皆(でも少しは,お好み焼きなんて大量に作って売れなかったらどうするんだ,という反対派もいたりする)から資金を集めて,学校から補助金をもらって,材料の小麦粉も卵もキャベツも肉も買ってきたとする。そこへ,「この学校の文化祭は先輩がやってた企画をなぞってるのが多くて面白くないし,時代遅れだなー,みんなこれで面白いんだろうか?」と考えている転校生がやってきて,「たぶん客層とか考えると,お好み焼きより,クレープと肉野菜炒めを2つの店に分けてやった方が無駄が少ないし,うまく行けば安上がりかもよ(でも失敗したら無駄も出るし,損をする可能性はゼロじゃないけど)?」と言い出す。なるほどー,クレープの方がなんか格好いいしね,と深く考えずに賛成する人もいて,クラスの皆がそっちに靡いてしまった。じゃあ,専門家に聞いてみよう,とお好み焼き提唱者が言い出して,町のお好み焼き屋とクレープ屋と中華料理屋を連れてきて,クラスのお好み焼き派代表とクレープ+野菜炒め派代表も入って議論したら,どちらかといえばクレープと野菜炒めの方がうまく行く可能性が高そうだからそっちにしようよ,ということになった。

たぶん,問題の質は全然違うけれど,これと似た状況じゃないかと思う。愛着をもってやってきた事業が,完璧でもない計画によってつぶされてしまう,という喪失感・挫折感は想像に難くない。提案して準備を進めてきた生徒だけじゃなくて,お好み焼きの作り方を勉強してきた人だって,えー,これからまたクレープや肉野菜炒めの作り方を勉強しなくちゃいけないのか,これまでの努力が無駄になったじゃないか,と思って反発するだろうし,怒るだろう。でも,クラスの多数の意志が動いてしまったなら,仕方がないのだ。前に決めたじゃないか,という論理は通用しないのだ。

もし,お好み焼きを準備してきた人たちを不幸にしたくなければ,まずその人たちを説得して,企画を自らもっと練って貰った方が,大勢で議論する必要もなかったし,改善された企画によってクラス企画の収益はスムーズにあがったかもしれない。見かけ上はクラスの平和も保たれる。でも,説得を受け付けなかったらその手は不可能だし,それでは多くの生徒が主体的に参加していない状況は変わらないし,他のクラスは変わらないのだ。文化祭全体のレベルアップは達成できない。ところが,こうやって強烈な提示をしたことで議論が起これば,他のクラスでも,このクラスの議論がきっかけで,企画について真剣に議論するようになって,皆が主体的に参加するようになって,文化祭の企画が充実した,となれば,転校生の狙いは成功したことになる。それに,たぶん,生徒全員が,文化祭に参加するとはどういうことか,ということが主体的にわかって意識が向上する。

開発と環境という問題においては,誰もが他者ではありえない。だから,コミュニティ構成員はコモンズについてのコミュニティの合意形成過程に主体的に参加しなければならないと思う。たぶん,これからの公共事業というのは,民意を反映してダイナミックに変わっていくしかないのだと思う。このことは,諫早湾の干拓事業のような,状況が変わったのに既に決まっているからというだけで継続実行されてきた公共事業に対して,それはあまりにも馬鹿らしいんじゃないか,ということに一般市民が気づき出した以上,当然の流れだろう(※)。適宜見直しをして,問題があれば中止するべきなのだ。それでも,愛着というのは,どうしようもない心の動きだ。自分の所有物ではない公共事業でもこうなんだから,自分の所有物を制限せよ,という地球温暖化対策「長野モデル」が進める脱マイカーに至っては,もっと強烈な反発がくることが予想される。環境問題を解決するための妥協点を探る上で,実は最も困難な課題が,愛着を克服することかもしれない。

(※)その背景にあるのは,未熟な技術への不信感である。18世紀から20世紀にかけての先進工業国では,人知の万能性という幻想がはびこっていたのだが,20世紀後半になって,原発の事故,高速増殖炉の頓挫,PCB汚染,フロンによるオゾン層破壊,温室効果ガスによる地球温暖化,抗生物質の濫用による多剤耐性菌,安易な遺伝子組み替えが予期せぬ毒物を作り出してしまった昭和電工トリプトファン事件等々,未熟な技術がもたらした解決困難な問題が多数噴出したことにより,一般市民でも,盲目的な技術信仰を失ったということなのだ。完璧に制御できる技術などというものは,非線型の関係が絡んだシステムでは,ほとんどないのだということを,複雑系の研究は明らかにしてくれた。

そういう背景のもとで,副作用があることがわかっているか,あるかないかすら予想できないような技術であれば使わない方がましだ,というのが最近の世論だと思う。だから,何らかの事業を計画して,それを実施したいときに,そんな必要があるの? 十分な影響予測もしていないのに本当に安全なの? 副作用はないの? と問われたら,実施したい側が十分な説明ができなくてはいけないのであって,事業に反対する側に代替案を出せ,というのは筋違いなんじゃないかと思うのだ。いくら規模が大きくないから法律上は該当しないといっても,環境影響評価法の精神は,事業者に説明責任があるという点にあるので,それが第三者アセスでなくて事業者アセスだから不十分だとまで言われている時代に,いいことをしてやるんだから黙ってみてろという態度は,一般市民から受容されないだろう。「脱ダム宣言」の理念が多くの支持を集めているという事実は,そういうことを意味するのだと思う。

多くの開発の場面で,実際に技術が未熟なために信頼するに足る予測ができない上に,立場や価値観によって,ありうる可能性の中でどれを選択したいと思うか,という判断は違ってくる。つまり,唯一絶対の正解はない場合が多い。そうなると,市民一人一人がきちんと情報を集め,自分で判断して合議により意思決定する以外に,意思決定が正当化されうる根拠はなくなってくる。だから,一般市民を蚊帳の外においたやり方は,如何に短期的目標達成が早くても,正当化されない。一見遠回りにみえても,市民一人一人の主体性を向上させるための努力こそ,たぶん真の市民社会への近道ではないかと思うし,それ以外に環境問題が解決される可能性はないと思う。如何だろうか?

■(2002年8月6日追記)さて,この愛着を断ち切るにはどうしたら良いだろうか? 1つの案として考えられるのは,議員任期制である。長々と1つの事業に携わって育てるなんてことをするから,自分の事業だという間違った愛着が湧くのだ。議員を選ぶという間接民主制の理念は,住民の意見のなにがしかを代表してモノを言ってくれる人を選ぶという思想なのだから,それが固定された人である必然性はまったくない。その時点で少なからぬ住民が希望していることならば,そのうちの誰でも議員になれるはずだ(代わりが出せないほど1人の資質に依存した希望ならば,議員という立場で参加する必要はなくて,むしろ専門家としてかかわるべきと思う)。現状の議員には日本語能力が不自由な人が少なくないし,多くの議員は法律だって勉強しながらやっているのだから,資質のある人しかなれないなんてことはないだろう。とすれば,議員任期制は事業への愛着を断ち,その時点での合理的な判断を下すために,きわめて有効に機能するはずである。行政や企業についてはある程度継続性も必要かもしれないが,間接民主制の理念からすれば,議員には継続性は必要ない。このことを裏返すと,議員は住民代表という立場に徹するべきであって,専門家になるべきではない,ということになる。職業としての議員は否定されるべきである。長くて4年しかできない仕事であるならば,いや,いっそ任期を2年くらいにすれば,本来の仕事を休職してすることも不可能ではない。もちろん2年ごとに今のような形の選挙があっては金が掛かって大変なので(多くは人件費と広報費らしい),時代遅れの公職選挙法を直して選挙公報はすべてメディアを通して行うようにし,オープンワーク(などという言葉があるかどうか知らない。ソフトもオープンソースでハードも仕様を公開して作業に携わる人も公開でボランティアベースでグループワークすることを意味している)で電子投票システムを整備すれば,きっと大して金もかからないシステムに変えられるであろう。しかし,よくよく考えてみると,この方向の行き着く先は,問題が起こるごとに専門委員会を作って専門家(技術面だけでなく,社会文化面も含めるべきである),行政,企業の技術者,住民の代表で話し合い,その結果を公開し,十分に広報もした上で住民投票で決議する,という形での直接民主制ではないか? つまり,この方向で改革が進めば,遅かれ早かれ,従来の形の議員は不要になるような気がする。だから議員たちがあんなにも怒ったのかもしれない,と思うのは考えすぎだろうか……って,考えすぎに決まっているな。議員任期制はぼくの案であって,田中前知事の考えとは関係ないから。でも,仮に違う道を通っても,上に書いた意味での真の市民社会が成立すれば,職業としての議員は要らなくなるような気がする。田中前知事が目指していたのは真の市民社会だから,センスとしては遠くないように思う。
と書いた後で,産経新聞の田中知事ダイアリーの6月19日のところに「議員はパートタイムでいい」という発言を見つけた。考えすぎではなかったかもしれない。
一般的に治水・利水・ダムに関連がありそうな情報
●水文学全般は,水文・水資源学会の守備範囲のようだ。河川工学プロパーの学会は見つからなかった。土木学会の中にあるのか?
●森林の治水・利水効果に関する研究は,森林水文学という分野で行われている。
Computing the Mean Areal Precipitationは,テキサス大学の地表水の水文学の講義資料と思われる,GISを使った流域への降水量の推計法。Thiessen methodというのが非常に粗いことがわかる。6. Modelling the fluxes of matter(pdf文書)でも図ではっきり分かる。河川フォーラム21にある集中豪雨の増大と治水対策でも指摘されているように,気象力学的シミュレーションに期待したい。吉野川第十堰の関係で出ている土木学会水理委員会の流域流出評価班報告によれば,計画降雨の策定に際して,建設省の河川砂防技術基準(案)(案であるなら全文webで公開して欲しいものだが,4冊組みの高価な本である)に書かれている方法に限定せず,安易に従前の方法を踏襲するのでなく,できうる限り地域特性を考慮し,近年の新しい研究成果を取り入れて柔軟に対応する必要がある,ということだ。同感。
●河川フォーラム21のダムの役割くらいの書き方だったら,まだわかる。会議室は3件しか書き込みがなく,しかも偏っているのが惜しいが。洪水の脅威とダムの効果について。ダムが治水に役立った事例。これは納得できる。こういうことは,シミュレーションではできないのか? 『社会、経済、自然環境その他の多くの要因について多方面から分析し、関係者全てがメリット・デメリットを十分把握し、その後、事業の実施について判断されるべき』であるなら,事前評価としてこのくらいのものが出て,パブリックインボルブメントが行われないと不十分だと思う。
On Line 河川法(注釈「河川法」)
環境影響評価法施行令によると,第一種事業が湛水面積100 ha以上,第二種事業となるのが75〜100 haであり,75 ha以上のダム新築計画は環境アセスメントを受ける必要がある。各自治体で環境影響評価条例が作られていて,一般にもっと厳しい。滋賀県は50〜75 ha広島市は40 ha以上,沖縄に至っては一般地域で20 ha以上,特別配慮地域では10 ha以上のものについては環境アセスメントをしなくてはいけない。長野県は,条例施行規則の中で,第1種事業50 ha以上,第2種事業は30 ha以上となっていて,まあ普通である。浅川ダムは11 haしかないから,環境影響評価条例の対象にはならない,という趣旨の,県民のこえホットラインへの回答が出ていた。ところで計画段階での湛水面積はどうやって計算するのだろう? どうも,湛水面積の割に総貯水量が多いように思うのだが……とも思ったが,たぶん前後関係が逆で,湛水面積を先に計画して総貯水量を計算するのだろう。それで,ORみたいにして必要な貯水量を満たすところまで湛水面積を広げるのだろうと思うが,実際にはどうしているのか,知りたいものだ。

以上の意見に対して誤りや反証があれば,是非メール(宛先はminato@ypu.jp)等で指摘されたい。

リンクと引用について