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2007年ソロモン諸島往還

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2007. Last Update on September 20, 2007 (THU) 16:29 JST .

往路(2007年9月3日,月曜〜9月4日,火曜)

QFは予定通り成田を発った。今回はマラリアACD用のスライドグラスなども預け荷物に入っているので,重さが19.8 kgとギリギリだったのだが(トランクなんて買わなくて良かった),スルーでホニアラまで行くことになっている。機内映画はファンタスティック4というものだったが,眠いこともあったが今ひとつ面白さがわからず,途中で眠ってしまった。

ブリスベン到着は予定よりやや早いくらいだったが,カンタスのトランジットデスクに行くと,信じられないことに,"Sorry, we don't look after a flight to Honiara any more. Please go straight to the gate."と言われてしまった。つまり,もうカンタスではホニアラ行きはもう面倒見ないから,直接ゲートに行ってね,ということで,チェックインもさせてくれないのだ。

もちろんゲート87(最初86と表示されていたが87に変わった)に行っても誰もいないので,暫く待つしかなかった。そこで,普段使っている電波腕時計の針表示の時刻変更の仕方がわからないことに気付いたので,安い腕時計を買った。ついでに,以前から買おうと思っていたSONYのポータブルGPSが売られているのを発見したので,それも買ってしまった。たぶん日本で買うより安いんじゃないかという値段だった。これらの買い物の際にボーディングバスを求められるのだが,もちろんチェックイン前だから無いわけで,ホニアラ行きのトランジットだからボーディングバスはまだ無いと説明して,ホニアラまでスルーの荷札を確認されてOKということになった。

1時間くらいして,ゲートに係員らしき人が集まってきたので,近づいて行ったら,チェックインは済んだか聞かれたので,まだだと言ったら,チケットとパスポートの提示を求められて,カウンターに並べてあったボーディングパスの中から自分のものを選び出して渡してくれた。最初間違えてブリスベンから成田に戻るチケットをちぎられてしまったが,それは違う,ホニアラ行きのチケットはこれだとtravel agencyが言っていた,と言ってReceiptを指差したらチケットを返してくれて,ボーディングパスもくれた。去年と違って,ゲートが正反対のところに急に変わったりしなかったのは救いだが,帰りもこんな感じなんだろうかと思うと,とても不安だ。

今回,飛行機の手荷物で液体を運べなくなってしまった(ブリスベンまでなら出国ゲートを通った後のDUTY FREEで買ったものは運べるらしいが,そこから先に乗り継ぐと没収されると言われた)ので,土産の酒が買えず,もしかしたらそれを楽しみにしているかもしれない現地の人には申し訳ないのだが,まあ許してもらうしかなかろう。ここブリスベンの空港でワインを買うという手はあるかもしれないのだが,なんだかもう気力がなくなってしまった。もちろん日本で買っておいて預け荷物に入れれば問題ないわけで,次回必要ならそうするが。

9:30発の予定だったが,10:00に延期というアナウンスがあった。とても不安だ。今日ホニアラに着いたらSIMTRIに行ってスケジュール表を渡す予定なので,もしかすると,今のうちに印刷しておくといいかもしれないが,この待合所でやると衆目を集めそうだなあ。

9:15頃になって,ゲートが84に変わったというアナウンスがあった。やはり一筋縄ではいかないのがソロモン航空である。しかし今度は飛行機が来ているので(見たことが無いデザインの小さい機体だが,ジェットではあるようだ),たぶんちゃんと飛んでくれるだろう。

Our Airlinesという名称のこの飛行機はナウルのものらしい。10:00頃にやっとボーディングが始まったが,その後はちゃんと離陸してちゃんと着陸してくれた。機内食は軽食のみだったので,やや空腹気味だが,重いよりはましだと思う。

入管は簡単に済み,検疫にはとくに報告することがないし,税関も問題なく通れた。タクシーに乗ってSIMTRIに行くと(50 SBDもした。去年は30 SBDだったけど? と言ったら,今年は値上がりしているんだという答えだったのだが,もしかしたらボられたのかもしれない),DirectorのB氏はGlobal Climate Changeのworkshopに出ていて17:00頃にしか帰らないという。まあ,B氏がメールを読んでいない可能性は考えていたので,仕方ないと諦めた。偶然にも昨年の調査を手伝ってくれたテクニシャンD君がいたので少し喋ってから,いったんメンダナホテルに行くことにした。バスに大荷物を載せるのは心苦しかったのだが,偶然にも,やってきたバスがガラガラだったので助かった。バス代は以前と同じく2 SBDであった。

北野建設の人がやってきて増設工事中のホテルにチェックインしてから,まずANZ Bankに行って日本円をソロモンドルに換金し,ソロモン航空の事務所に行ってみた。窓口で今のところ大丈夫だが来週もう一度来てくれといわれたのは,たぶん運行状況そのものが安定していないからだろう。

ちなみに,ホテルが増設工事中なのは,客が多いためで,宿泊代が去年から倍増しているのもそのためらしい。ホテルのKさんによると,客が多いので値上げしても大丈夫というムードがホテル業界があるそうで,キングソロモンホテルなどはメンダナホテル以上に値上げしているとか。だとすると,タクシーも主に外国人相手の商売だから値上げしていても不思議はない。そういえば同じ飛行機で台湾人御一行様が着いて,偉そうな格好をした人たちから歓待を受けていたが,相当,台湾からの投資も入っているようだ。台湾は(先日失敗に終わったが)独立承認と国連加盟を悲願としているので,南太平洋の小さな国からの支持を取り付けるために,たぶん国策としてソロモン諸島を金銭的にバックアップしようとしていて,Solomon Star紙などを眺めていると,台湾からの援助の話題が実に頻繁に出てくることが明白だ。

再びSIMTRIに行ってもB氏はいなかったが,自宅にいたのを呼び出してもらって明日からの計画の打ち合わせを終えた。土産に日本の風景のトランプを進呈しようと思ったが,彼はEvangelical Churchなので受け取れないというので,名刺入れにした。AnglicanやUnitedはOKだが,これまで知らなかったが,Evangelical ChurchはPlaying Cardsが禁止されているそうだ。彼自身はともかく,奥さんが敬虔なEvangelistなので許されないそうだ。PNGのEvangelistは平気でplaying cardsしていたが,彼らはきっといい加減な教徒だったんだろう。

打ち合わせ終了後は,B氏が車でメンダナまで送ってくれた。ちょうどカウンターに調査を手伝ってくれるかもしれないJOCVのKさんから電話が入って,これからOKというので調査の打ち合わせをした。たぶん明日は一緒に村まで行って,そのまま一旦ホニアラに戻るかもしれないし,村に滞在するかもしれないとのこと。まあたぶん去年の感じだと村人とはうまくやっているので,こちらとしてもどちらでもいい。8日からの健診のときに手伝ってくれるならありがたい。Kさんと晩飯を一緒にとも思っていたのだが,今夜はロータリークラブの方々がJOCVの慰労(?)のため会食をしていて,Kさんも打ち合わせの後それに合流するとのことだったので,晩飯は一人で食べた(昨年お世話になったFさんに連絡しようかとも思ったが,今回日数が短すぎることもあって連絡もしていないので,いきなり連絡しても迷惑かと思って諦めた)。何を食べたかというと,メンダナホテルのレストランの今日のシェフのお勧めという,ヴァヌアツ風サーロインステーキ(焼き加減はミディアムで,味付けはPepperで)とガーリックトーストとジンジャーエールと日本茶ティーバッグ。さすが,シェフのお勧めだけあって,サーロインステーキが絶品のうまさだった。貧血気味なのでステーキにしたわけだが,実は血清鉄は低く保っておいた方がマラリアにはたぶん感染しにくいので,これでマラリア感染リスクは上がってしまったかもしれない(まあ,ここの場合は日が暮れてから足元をしっかりガードしていれば大丈夫なはずだが)。食後,部屋に戻ってきてこの記録を打っているのだが,満腹になると眠いなあ。

眠気に負けて21:30頃から1:30頃まで眠っていたので,必要な印刷をするのに4:00近くまでかかった。これから6:30までもう一眠りしようと思っているが微妙だなあ。このまま起きておく方が無難かも。

村へ(2007年9月5日,水曜)

そういうわけで,結局ずっと起きていた。6:50頃パンを買いに行き,7:10頃戻ってきた。クリームパンとスコンで5 SBD(昨日のレートだと1 SBD=約18円)。焼きたてなので,かなり安いと思う。

荷造りをしてチェックアウトしたら,約束どおり8:00過ぎにB氏が車で迎えに来てくれた。荷物を全部積んでSIMTRIへ向かい,Facility Feeの支払いを済ませてから,いよいよ村に出発である。先に保健省のHealth Promotion部門の建物に行って,JOCVのKさんをピックアップしてから,幹線道路をひたすら東に向かう。30分ほどでGPPOL2という大きなプランテーションとTetereのポリスステーションのところを通過した。路傍にANZ BankのATMがあって驚いたが,GPPOL2に発電所ができて電力供給されるようになったらしい(ホニアラからの送電線は切れたまま)。ATMの情報通信は無線なのか専用線を引いたのかわからないが,まあスタンドアロンということはありえないので,何らかの常時通信が確立されているとみていいだろう。去年からは考えられない大きな変化だ。ちなみにここのクリニックには同じ発電所から電力が供給されているので,冷蔵が必要な薬品もおいておける。その意味でも電力の影響は大きい。

1時間ほどで村に着く直前,ホニアラに向かうバスとすれ違った。このバスは毎日2便,ホニアラと村を往復していて,片道20 SBDだそうだ(去年聞いた通りだった。後で通勤している人に聞いたところでは,定期乗車のディスカウントはあって,2週間で150 SBD,1ヶ月で300 SBDとのことであった)。12年前は往復12 SBDだったから値上げされているが,それにしてもタクシーとかに比べたら遥かに安い。SIMTRIのランクルで来ると燃料代だけでも往復100 SBDかかるので,バスでも同じ燃料費がかかるとすれば3人以上乗らないと燃料費にもならない計算だが,ほぼいつも超満員なので,そっちの心配はいらないらしい。朝1番は村を6:30に出るホニアラ行きで,それが8:00頃ホニアラを出て村に帰ってきて,9:30頃第2便がホニアラに向かい,昼間はホニアラとGPPOL2の間を往復していて,最後にホニアラを15:30頃出る便が村に帰ってくるとのことであった。通勤帰りの人は15:30発では早すぎるので,たぶんその後のピックアップトラックか何かに乗って帰ってくるのだろうと思ったが,後で通勤している警察官に聞いた話では,ホニアラに泊まりになることも多いそうだ。

村に着くと,いつも泊めてもらっているC神父の奥さんがいて,今回もお世話になることができそうで良かった。昨年までと違って,C神父は村に神父として定着したのか,現地語で神父を意味する「ママ」と呼ばれるようになっていた(元々この村で育ってきた人なので,村人という側面の方が神父という側面より強かったのと,今でも本来の任地はセントラル州のツラギ辺りらしいことから,去年はファーストネームで呼ばれていたが,このところずっと村にいるので村人の見方が変わったのだろう)。奥さんまで彼のことを「ママ」と呼ぶのが面白い。C神父自身はココナツを収穫に出かけていたが,その辺にいた子供が呼びに行ってくれたので,暫くして村に帰ってきてくれた。今回の調査計画と滞在計画の説明をするとOK,問題ないとのことだったので,SIMTRIの車はホニアラに帰ってもらった。次はSIMTRIスタッフだけで土曜日に来てくれないと困るわけだが,さて大丈夫だろうか?

ただし,1つだけ,困った事実が判明した。今回は集中的な健診を土,日,月と3日間にわたって実施する予定なのだが,そのうち土曜日が,村を挙げてのビッグ・イベントであるSt. Mary's ceremonyと重なっていたのだ。毎年9月8日にやるというのだが,去年は偶々終わった後に着いたということだったか。しかしSIMTRIとは日程を決めてしまったし,C神父が,大丈夫,11時頃にセレモニーが終わってから夕方までは時間があるから,そこで健診をすればちゃんと人数は集まるだろう,と言われるので,強行することにした。というか,強行せざるを得ないのだが。

ラーメンライス(こういう急な客にはよく出される)の昼飯をご馳走になってから,この1年間にあったことを漠然と聞き取る。Kさんが前もって得ていた情報どおり,毎回いろいろお世話になるJC氏とMKさんご夫婦の長男TG氏が亡くなってしまったそうだ。まだ30代のはずなんだが,突然のことだったらしい。C神父が病院の医者の話として教えてくれた死因は胃潰瘍なんだが,あまりにも突然に吐血して数日で亡くなってしまったことと,病院で開腹したら腹腔内が血だらけだったことから,ブラックマジックによるという噂もあるとのことだった。村の中では他にも,子供が1人,おそらくマラリアと思われる症状で亡くなったとのこと。あと,この辺りの最高齢者だったBM氏もたぶん老衰で亡くなったそうだ。それに数倍する新生児が生まれていて,転入も転出も何人かいたとのことだったが,全体として差し引きすると人口は殆ど変わってないようだ。

St. Mary's ceremonyの日は,church serviceの後でfestivalがあり,ダンスや寸劇などの演芸があったり,食べ物が振舞われたりするそうだ。食べ物はキャッサバプディングなので,木・金は村を挙げてキャッサバプディング作りをするらしい。つまり,今回は食事調査をしても意味が無いかもしれない。いろいろ頭が痛いが仕方ない。

昨年に続いて今回も同行しているJOCVのKさんは,保健省の健康増進部門で働いているので,ホニアラでの生活習慣病対策のため,住民に万歩計をつけてもらって毎日の歩数を計り,同時に食事や行動などの聞き取りをするというプロジェクトを進めていて,ここでも,こちらの調査の手伝いをしてもらうのと同時に,そのプロジェクトの対象地の1つとして調査することも計画していた。C神父に話すとまったく問題ないとのことだったので,さっそく成人男女6人ずつ,合計12人に万歩計をつけてもらった。つけた人たちはとても張り切っているのだが,あくまで日常の活動状態を知ることが目的なので,あまり張り切って歩きすぎてくれても困ってしまう。

夜,食事を済ませてから(サツマイモ煮とラーメンライスだったと思う),C神父夫妻とMKさんに人口動態の聞き取りをした。バンバラ地区で,この1年間に亡くなった人,新生児,結婚,転入,転出についての情報を得たわけである。しかし彼らだけではわからないところもあるので,翌日他の村に聞きに行くことになった。22:30頃聞き取りが終わったが,思った以上に転出が多かった。GPPOL(アブラヤシのプランテーション)の運営が軌道に乗ったためか,そこでの仕事のために単身赴任という人が何人もいた。

聞き取りが終わってからも雑談しながら暫く起きていたのだが,C神父はこれからレンガラウ(彼らは"Big village"と呼ぶ。"Big village"には"go up"する。電車の上り下りのようで面白い)へ行って,ぼくらのためにインスタントコーヒーを買ってきてくれると言いだした。店なんかやってないだろうと言ったのだが,いや,たぶん店の人は起きているから,言えば売ってくれるはずだと言い残して行ってしまった。仕方ないので23:00就寝。

人口動態の確認など(2007年9月6日,木曜)

6:45に腕時計のアラームで目が覚めるまで熟睡した。まだ眠い。前日2時間睡眠だったからだろう。外に出るとC神父がやってきて,昨夜は0:30にレンガラウから戻ってきたが,コーヒーは売られていなかったので入手できなかったと済まなそうにいう。いやそんなこと全然問題ないと言ったのだが,E氏が今日タウン(ホニアラのこと)に行く(これも"go up")ので,金を渡してコーヒーを買ってきてくれるよう頼んだという。そこまで気を遣わなくていいのに,どうも彼の気の回し方は年々細かくなっていくように思う。

朝飯は蒸し焼きにしたサツマイモ(クマラ)が出たと思うが,とても美味だった。紅茶を淹れてくれたのだが,意外にもこれもとても美味だった。

ところで,この村は海岸沿いにあるせいか,昔からサンドフライがとても多い。サンドフライというのは,見えるか見えないかくらいの小さな吸血昆虫なのだが,油断しているとすぐに腕などボコボコになってしまう。風の無い日の朝晩は最悪で,今回もこの日の朝だけで腕を20箇所以上食われた。長袖にしておけばあまり刺されないが,虫除けはあまり効かない。暑い日にはどうしても袖をまくってしまうので食われることになる。Tシャツなんかだと首周りもやられるので最悪だが,Yシャツで襟を立てておけば,ある程度防げる。腕にはキンカンを塗りまくって,掻かずに耐えるのが大事だ。掻き壊すと今度はハエがやってくる。自分の傷口にハエがたかっているのは見ていて気持ちのいいものではない。またこれが追い払っても追い払ってもやってくるほどしつこい。聞き取り調査などしているとハエばかり追い払っているわけにもいかないので,いつの間にか何匹ものハエが傷口にたかっている状態になる。そうならないためには,どんなに痒くても掻いてはいけない。耐えねば。

8:15から小村落を回って,昨日の人口動態の聞き取りでわからなかったところを中心に,各地の住民に聞き取りをして名前や生年月日の確認をしていく。同時に,今度の週末にマラリア検査と尿検査と体重測定を中心とする健診をすることを宣伝する。これをしっかりやらないと,健診をしても住民が来ないことになる。昼前に一応完了した。

Cassava Pudding

午後はキャッサバプディング作りを見て回った。Kさんはキャッサバを擦りおろす作業を手伝ったりしていた。キャッサバ削りもだが,ココナツを削るのもかなり重労働であり,削ったココナツに水を加えて絞ってココナツミルクを作り,それを擦りおろしたキャッサバに混ぜながらsimiuの葉(こういう料理に使う葉は何種類もあり,どの葉をどの料理に使うか決まっている。simiuは畑の辺縁部に植えているのだが,魚にはkarouという森に自生している植物の葉を使うし,石蒸し料理をするときの下敷きはvaoという大きな葉だし,上に掛けるのは現地語でvundiと呼ばれるバナナの葉である)に包んでパーセルとし,それを焼いた石の上に載せてバナナの葉などを何重にもかぶせて蒸し焼きにしてやっと完成するプディング作りは,かなり大変な仕事だ。今回はfestivalで食べるのでどの家でもかなりたくさんのパーセルを作っていて,一日がかり,下手をすると二日がかりの作業であった。

晩飯のときにコーヒーが出た。SUPER CLASSというもので,14.90 SBDだったそうだ。PABLOは19.00 SBDだそうで,あのPABLOより安い割には美味しかった。たしかNescafe Gold Blendは50 SBDくらいしたと思うので,それよりは,いずれにせよずっと安いわけだが。

食後はC神父一家と雑談をし,翌日の行動計画を相談してから眠った。C神父と奥さんはプディング作りのためラジオを大音量で鳴らしつつ朝方まで起きていたようで,夜中に何度も起きてしまった。

WHOQOL-BREFの聞き取り(2007年9月7日,金曜)

7:00起床。早朝にラジオの音がしなくなったのでC神父夫妻も眠ったのかと思ったが,C神父は徹夜したそうだ。たぶんPA(ラジカセのステレオミニジャックからつないで使っていた)のバッテリー(ソーラー充電していた)が切れたのだろう。朝食後,Kさんは用があるのでバス停まで歩いてホニアラに一時帰っていった。

C神父に通訳をしてもらいながら昨年もやったWHOQOL-BREFの聞き取りをするのが今日の仕事である(もちろん,ついでに週末の健診の宣伝もするし,他の聞き取りもする)。この一年の環境変化(主にバス運行の再開によって齎された)がQOLに与えた影響を知るため,できるだけ同じ対象者に聞くことを目指した。村を回りながら,高卒レベルの人には直接聞き取り,中学以下の人にはC神父に現地語で概念説明をしてもらいながら聞き取るわけだが,これがなかなか大変だ。例えば,WHOQOL-BREFの中にはhealthという言葉が出てくるが,現地語には直接healthに対応する概念はないそうだ。一番近い言い方としては"zuri doc"だというのだが,"zuri"はbodyのことで,"doc"はgoodという意味なので,healthよりも即物的な感じがする。WHOがいうhealthはphysicalだけではなくてmentalにもsocialにも十分に良い状態が保たれていることを含意するので,"zuri doc"といって聞いてしまうと概念として狭くなってしまう危険がある。C神父は神学と歴史学でUniversity of South Pacificのマスターを取った(学位記を見たわけではないが)人なので,この辺の概念はわかっていて(それどころか,たぶんspiritual well-beingのこともわかっていて),現地語で補足説明を加えてくれるのだが,それが正しく対象者に伝わっているのかどうかが,今ひとつわからない。とはいえ,日本人を相手に日本語版のWHOQOL-BREFをやった場合だって,健康概念の受け止められ方は対象者一人ずつ異なる可能性があるわけで(というか,ほぼ確実にそうで),これはソロモン諸島での調査に限った問題ではないはずだが。

対象者に一人,既にリタイヤしたが元看護婦だった人がいて,一つ一つの質問に考え込んでしまうので,聞き取りに時間がかかった。英語もわかる人なんだが,専門知識があるだけに簡単に答えられないということもあるのかもしれない。

昼食を食べるために一旦村に帰ると,C神父の奥さんが食事の準備ができなかったという。6年生の娘が遠足に行ってしまったため,一番下の子の面倒を見てくれる人が見つからなかったそうだ。C神父はさっそく子守をして,その間にさっと奥さんが昼飯の用意をしてくれた。メニューはボニート(カツオ),タマネギ,生姜,ブラックソースと塩を混ぜて煮込んだスープと,米とキャッサバプディングだったが,その手早さに感心した。早さだけでなく,ボニートのスープは味も素晴らしかった。

夕方までかかって27人の聞き取りができた。中には毎週日曜にクロロキンの予防内服をしているなどという人がいて驚いた。あとは,明日以降,健診の合間を縫ってC神父に聞き取りをやってもらうしかない。あと20人くらい増やせればいいんだが。

水浴びに行ってから,晩飯までの約2時間,尿カップを配って回り,翌日からの健診への参加を呼びかけた。でもやっぱり,明日は来ない人が多そうな感じだ。成人の対象者についてはホニアラに出かける頻度も聞いてみたが,やはり去年より頻度が上がっている気がする。少なくとも,どの家でも定期的に農作物を売りにホニアラのマーケットに行っているようだ。バスでもピックアップトラックでも往復40 SBDかかることを考えたら,農作物にはそれ以上の売り上げがあるということなんだろう。本当は体重測定も尿カップ配りと同時にやりたかったんだが,配る個数を考えたらとても無理だった。昼間マラリア検査をするときに体重測定するしかなかろう。

晩飯のメニューはサツマイモ1個,野菜入りラーメン,米,コーヒーであった。食後,C神父ご夫妻と話して得た情報では,診療所としてはまだNguviaを使っている人が大部分だそうだ。けれども,Tetereに発電所ができたのでNguviaにも電力供給があり,去年とは全然違うとのこと。重症のときはバスでホニアラのNRH(National Referral Hospital。俗にNo.9と呼ばれる)に行くこともできるし,という。けれども,胃潰瘍が重症化して腹膜炎を起こし出血に至ったような場合,それでは間に合わないのだから,やはりNguviaくらいの位置にちゃんとした病院があってほしい。

C神父ご夫妻からの提案があって,自分たちはホームステイしてもらうのは構わないのだが,Dr. Minatoに限らず,外部からの人がいつ来ても使ってもらえるようなゲストハウスを作ろうと思う,という。伝統的な造りの建物にするので材料はブッシュから取ってくるのでタダでできるから,人件費2000 SBDくらいで建てられるそうだ。だから半分出資してくれないか,というのだが,村で払うべきいろいろなお金を考えると,手持ちの金の余裕は500 SBDくらいしかないので,積み立てということにして,とりあえずそれだけ出すことにした。ホニアラに出ればカードも使えるし,ATMで引き出すこともできるので問題はないだろう。こういう金は研究費からは当然出せないので,自腹なわけだが,1000 SBDというと村人にとっては大金なんだが,専門書1冊より安い程度の金額だと考えると,それで家1軒建ってしまうというのは凄いことだ。

22:30頃になって,そろそろ眠ろうかと思っていたら,エンジンの音がして,ホニアラから車が着いた。C神父の妹さんがホニアラに住んでいるのだが,明日のSt. Maryのために一家でやってきたそうだ。ご主人はUPNGのポリテクを卒業したエンジニアで,17年間もSIBC (Solomon Islands Broadcasting Corporation)で働いていたが,数年前に民間企業に移ったそうだ。SIBC時代に日本にも3ヶ月来たことがあるそうで,筑波の関根さんとは古い知り合いだと言っていた。1:00近くまでピジンで喋っていたのだが,彼はかなり博学で,こんなところでstem cellを使ったorgan transplantationによる医療の将来性について議論することになったのは驚きであった。

St. Mary's Ceremony and Festivalの合間に健診開始(2007年9月8日,土曜)

前夜の夜更かしが祟って7:00起床。C神父はSt. Maryのchurch cerebrationのため,身を清めて正装している。ほとんど村が空になってしまうのだけれども,Pさんという人が1人だけ残るので,何か困ったことがあったらその人に言ってくれ,と言われた。Pさんは,いろいろな意味でかなりユニークな人で,元々どこか遠方から流れてきて,ココナツプランテーションで働いていたが,この村の女性と結婚して定住することになったという。去年の調査で紛争の心理的影響について尋ねたときは,多くの人が怖かったとか悲しかったとか答えた中で,唯一人,敵を攻撃しているのを見て嬉しかったと答えたことが鮮明に記憶に残っている。

素ラーメン,サツマイモ1個,食パン3切れ(これはたぶんホニアラから来た妹一家から貰ったのだろう)とコーヒーというメニューの朝食を済ませ,昨夜尿検査用のカップを配った対象者について,去年までの調査のリストからIDを確認し,年齢を調べて紙に記入していくという作業をした。時折Pさんと喋る他は,黙々と作業をした。1人くらい尿サンプルを持ってきてくれないかと淡い期待を抱いていたのだが,見事に全員が教会に行ってしまったようだ。

10:20頃,ホニアラからSIMTRIのチームとKさんがやってきたのと,子供たちが教会から帰ってきはじめたのは,ほぼ同時だった。12:30頃までかかって,子供を中心とする約40人について,体重測定,尿検査,マラリア検査をした。けれども,午後はお祭りだからまた誰もいなくなってしまうというので,検査は昼過ぎで店仕舞し,昼食後にSt. Maryに行ってみることにした。昼食は大きなパパイヤの他,ラーメンと米とキャッサバプディングというメニューであった。

St. Mary's Festival

結局3時間あまり,このお祭りを見ていたわけだが,ニワトリの動きを真似たココラコ・ダンスとか,PNGからの旅行者集団が痴話げんかも交えながら大暴れする寸劇とか(これをやったのが60歳過ぎくらいの女性たちだというのが凄いと思った。痴話げんかシーンでは髪を振り乱して本気で暴れるので,観衆も興奮して大受けだった),普段,あまり娯楽のない場所であるためか,住民は皆楽しんでいたようだ。最後は,新しい教会に多額の寄付をしてくれたNZ人(?)の神父さんと,この地域出身で道路を再開通させた張本人である教育大臣殿の演説で〆となった。

村に戻ってデータ整理を少ししてから晩飯。食後,C神父夫妻といろいろな話をした。最初,子供数を聞かれて2人と答えたら,何でもっとたくさん子供をもとうとしないんだ? というので,いろいろな理由はあるけれども妻も仕事をもっていて忙しいし難しいんだと答えたら,C神父は,そんなの気にしないでもっと子供をもてばいいと言うのだが,奥さんからすかさず,いや男は妻に産ませるだけで自分は何にもしないから気楽にそんなことをいうが,女は子供を育てたり水を汲んできたり畑仕事をしたり洗濯をしたり,とても忙しい,女にも自由があるのだから,そんな簡単に子供をたくさんもてなんて言うな,と突っ込みが入って,C神父が苦笑いをしていたのは面白かった。C神父がなぜ笑うんだというので,いや,ぼくの妻も同じことをいうからさ,と答えておいた。どういう経緯だったか忘れたが,話しているうちに,C神父の専門の神学の話になった。彼は日本の神道にも興味があるという。彼によると,神学とはキリスト教の教義の研究ではなく,human developmentの研究なので,どのような宗教にも共通する本質をもっているという。神道は本来,自然をあるがままに受け入れるということで,human developmentは必要なかったはずだと言ってみたら,しかし,と彼は言う。ヒトは物事をありのままに受け入れているだけではいられず,必ず理由付けを求めてしまうので,そこで必要になってくるのが宗教であり,神学だというのだ。なるほど。でもそうかなあ。buddismでは理由付けなんて求めないのを解脱というのではなかろうか。彼の考え方は,やっぱり相当キリスト教寄りだと思うがなあ。

C神父は教会で働く人(礼拝の時間に鐘を鳴らす係とか)への教育をしていて,神学とか歴史とかいくつかの講義をしているのだが,それ以外にも教育者だなあと思わされたのは,夜回りの話だった。実は,この辺りでは,子供が畑の隙間にマリファナを植えて収穫し,自分で吸うのが流行っているそうだ。それを警察が見つけると取り締まるわけだが,彼が言うには,それでは本当の解決にならないという。彼が毎晩のように"Big Village"に出かけて長い時間帰って来ないのは,夜回りしてマリファナを吸っている子供を見つけ,話をしているからなのだそうだ。必要なことは話を聞いて,子供たちの考えていることを理解してあげることであって,取り締まったり責めたりすることじゃない,と彼は言う。マリファナを植えている子供は,親がちゃんとした畑やプランテーションを作っていないために,昼間暇で働くチャンスがないのが問題なのだそうだ。普通に考えると,そんなのは甘えた子供の御託だと思うが,彼の立場では,それでもまず,どうしてその子がそういう行動を取るようになったのかを理解してあげなくてはいけない,という。彼は,自分の子供たちがケンカをしていても,刃物を持ち出したりしない限り,じっと成り行きを観察しているという。ケンカが煩いからといって親が止めてしまうと,それは子供から争いごとをうまく収めるやり方を学ぶチャンスを奪うことになるから,止めてはいけないという(確かにその通りだと思われ,耳が痛かった)。マリファナを吸っている非行少年に対しても,頭ごなしにやめさせるのではなくて,自分からやめた方がいいと悟らせることが大事なのだそうだ。C神父自身にさえ心を開いてくれない子供に対して,わざと奥さんが軽く接して話を始めるきっかけを作ってやるなどということもするそうだ。実際,身内にもそういう非行少年がいて,親はもう匙を投げていたのだが,彼らがその少年をボートで海に連れ出して話を聞いたりして心を開かせ,いろいろ話して自分自身のことをちゃんと考えさせたことで,その少年は更生し,今ではGPPOLのスーパーバイザーとして元気に働いているそうだ。凄い。これはまるで「夜回り先生」そのものではないか。「いいんだよ」とまず認めてあげるという方法論も水谷先生と共通している。まさかソロモン諸島でこんな話を聞く経験ができるとは思わなかったが,夜回りによる非行少年の救済という活動において,「いいんだよ」という方法論は,かなり普遍的な有効性をもつのかもしれない。

Kさんの調査で万歩計の歩数チェックを夜やっているのだが,今夜はビールを飲んでいる人がやたらに多い。明日の尿検査でケトン体がたくさん出る,なんてことにならなければいいんだが,と思いつつ23:00就寝。

健診2日目(2007年9月9日,日曜)

7:00起床。早速尿サンプルをもってきている人がいたので,尿検査と体重測定を開始した。マラリア検査はSIMTRIのチームが着くまで待ってくれと言ったが,前日の夕立で川がfloodになっている部分があったとか何とかいう理由でSIMTRIチームが着いたのは10:30頃だった。

日曜の礼拝に行っている人も10:30ともなれば帰って来るので,そこから17:00頃まで,朝食と昼食(どちらもラーメンライス)の各30分を除いては,ずっと健診活動をしていた。100人くらいやったと思うが,かなり疲れた。昨夜の心配は杞憂で,ケトン体はほとんど出なかった。まあ,ビールを飲むといっても1缶か2缶だから,そんなに負荷がかかるわけはなかったのだ。

Farewell party at Tasimboko

今日は村での最後の夜だから鶏をつぶしてパーティになる。だから晩飯は多少遅くなってしまうが我慢してくれ,とC神父がいうので,17:30頃からは,C神父やJC氏といろいろな話をした。C神父が前にも使ったPAをラジカセにつないで音楽を鳴らそうとしていたので,あのレゲエっぽい音楽を延々と聞くよりは,と思ってICレコーダーをPAにつながせてもらった。ソロモン諸島でスガシカオとかaikoとか山下達郎を聴くのは,なんだか妙な感じだけれども,GONTITIは不思議なほどぴったりとはまった。21:00からKさんの歩数チェックと聞き取りがあり,22:00になって漸く晩飯となった。写真のような素晴らしい食卓であった。こんな美しいフラワーアレンジメントは村では初めて見たが,どれも畑に植えている植物なのだそうだ。鶏は,養鶏している村まで行って買ってきて,2羽つぶしてくれたものを,すぐさま調理するので,鮮度は抜群である。しかも養鶏といってもかなり広い鶏舎で自由に動ける状態で飼われているので,肉質も割と締まっていてうまい。ピジンでの演説などもあり,雑談もあり,笑い話もあり……で,お開きとなったのは日付が変わろうとする時刻であった。眠る前に夜空を見上げると,この夜も満天の星が輝いていた。地上に光がないので,かなり暗い星まで見えるし,天の川が白っぽく見えるのは以前から変わらない。この星空がずっと見える村であって欲しいなあ,と思う一方で,それは電力供給がないままでいて欲しいということとほぼ同義なので,こちら側のエゴかもしれないとも思うのだった。いずれにせよ,なるようにしかならないのかもしれないが。

健診を了えてホニアラへ(2007年9月10日,月曜)

眠さは残っていたものの,6:30起床。7:30頃から尿検査を始め,9:30にSIMTRIチームが着いてから14:00まで最終日の健診をした。参加者は40人くらいだったかと思う。7つある小村落のうち,2つからほとんど来ていないのは,たぶんSt. Maryのせいだろう。逆に言えば,これら2つを除けば,子供も含めた全住民のうち約7割が健診に参加してくれたことになる。十分なカバー率といっていいだろう。

金の支払いをして土産を進呈してからホニアラに向かった。いろいろあって出発がやや遅くなったので,16:20頃にSolomon Airlinesのオフィスに着いた。本来は16:00までがSolomon Airlinesのオフィスアワーなのだが,無理に開けてもらって,やれやれ,これでリコンファームができると思ったら,そんなに世の中は甘くなかった。Eチケットだとしても必要な紙がないとかいって,係員がリコンファームの受付をしてくれないのだ。成田でもブリスベンでもこれで大丈夫だったといっても,ダメの一点張りであった。とりあえず明日空港に行って交渉しろというので引き下がるしかなかったが,たぶん情報が行き渡ってないのだろう。ブリスベンのトランジットカウンターで扱いがなくなってしまったことといい,何ともSolomon Airlinesの仕事がお粗末なように感じる。

ホテルにチェックインしようとしたら,予約が明日からになっているとかいうわけのわからないことを言われたが,何とか修正が利いてよかった。前日日本から着いたK先生にお会いしたら,先生はブリスベンの空港でEチケット絡みのトラブルにあったという。H.I.S.にファックスを送って文句を言ったので,何らかの対応があるだろうという話だが,さてどうなるだろうか。

晩飯はSIMTRIのB氏,健診をしてくれたAS氏,DM氏,JOCVのKさん,K先生,自分と,村から一緒に来てくれたC神父とで,恒例の打ち上げディナーをガーデンシーフードレストランで食べた。いくらになるかわからないのでATMで2000 SBDも引き出してしまったが,7人で鱈腹飲み食いしたのに300 SBD程度で済んだ。きっとアルコールの消費量が少なかったのが勝因だろう。

ホテルに戻ってから,データ入力と報告書作成を始めた。データ入力が終わったのが,確か1:30頃だったと思う。まだ中間報告書を書くという仕事が残っているのだがとりあえず眠る。

ブリスベンへ(2007年9月11日,火曜)

5:00頃から7:50までかかって報告書を打って印刷し,データも1部だけ印刷した。途中,プリンタのバッテリー残量が無くなりかけて,何度も停まったのには閉口したが,騙し騙し印刷を完了した。

7:55にフロントに行ってK先生と一緒にB氏を待っていたら,20分ほど遅れて現れたが,待っている間に印刷したものをコピーすることができたのでちょうど良かった。SIMTRIではG-Prov.の偉い人はエマージェンシーコールがかかってどこかへ行ってしまったとのことで,調査結果を中間報告する"debriefing"ができないことが判明した。仕方がないので,後でSIMTRIの2人から伝えてもらうことにして,SIMTRIの2人(A氏とB氏)に対して調査結果を報告した。実に興味深い結果だという反応であった。自分でもそう思う。今回は2本くらい論文が書けるんではないだろうか。

ホテルまでB氏が送ってくれたが,まだ10時なので,チェックアウトする前に,メールをやってみることにした。朝,K先生が日本から受け取ったFAXによると,やはり今回のブリスベン=ホニアラのチケットはEチケットに違いないのだが,そのことを示す紙があり,本来はチケット引き換え時にそれを受け取っておかねばならなかったそうで,自分の分もメールでリクエストすることにしたのだ。メールを受信し始めてみると950通以上溜まっていて,しかも途中で瞬停があったりしてネット接続が切れたりしたこともあり,10:15から始めて12:00までかかった。受信前にH.I.S.にメールを送っておいたのが奏功し,添付ファイルでEチケットの証明書のようなものも届いた。実はFAXで送ってもらおうとしてメールにはそう書いたのだが,メンダナホテルのFAXの調子が悪いらしく,表紙しか届かないので,もし受信できればと思ってメールでも送ったとのことだった。ホテルのカウンターでプリンタが使えるか聞いてみると,USBメモリに保存したpdfファイル(元々htmlファイルとして届いたのだが,PDF reDirect v2を使ってpdf化したもの)を,カウンタ奥の部屋で印刷してくれた。ちなみにネット使用料は,最初の30分が50 SBDでミニマムチャージとなっていて,そこから時間刻みで課金されるらしい。しかし,どういう計算か知らないが1時間45分使っても105ドルであった。印刷代も本来チャージされるらしいのだが無料サービスしてくれた。

12:20頃にチェックアウトして,メンダナホテルの送迎バスで空港へ向かった。これもまたドライバーが見つからないなど若干の問題があったが,レセプションの若い男性が近所に住んでいるらしいドライバーの家まで探しに行ってくれて何とかなった。空港に着いたのは12:50頃で,IE700のチェックインは既に始まっていたので,打ち出したばかりのEチケットの証明書とパスポートを見せたら,難なくチェックインできた。ついでに出国ゲート近くにある屋台みたいなブースに行って40 SBDの出国税を払い,ボーディングパスにその印紙を貼ってもらった。

昼がまだだったので,待合室にあるカフェムームーで牛挽肉野菜炒め掛けご飯とミリンダを買って食べた。たしか28 SBDくらいだったと思うが,わりと美味だった。それから1時間近く待って出国手続きをし,余ったソロモンドルでいくつか土産物を買ってからボーディングとなった。飛行機のタラップを上がるときに,C神父が見送りに来てくれていたのが見えたような気がするが,遠くて確認できなかった。

飛行機はOzJetという会社のものらしく,機内誌もDiscoverというPNGのことばかり載っているもので,Airlines PNGの機内誌となっていた。客室乗務員は全員がオーストラリア人らしく,不思議な感じだった。たぶん,オーストラリア資本でPNGに新しく就航した会社なんだろう。ソロモン航空の機体が差し押さえられているので代わりに飛んでいるものの1つなんだろうか。

この時刻の便は夕方に機内で軽食が出る。オーストラリアについてから晩飯を食べることを考えると,もっと早く出てくれるといいんだが,今回もかなり遅い時刻に出た。ブリスベンに着いてからの手続きはとてもスムーズだった。入国手続きをしてからゲート外に出て,無料電話でExplorer's Innに電話をしてみたら95ドルだがいいかというので,OKと答えて名前を告げ,タクシーで直行したら,40 AUS$弱かかった。市の中心部で大きな工事が進んでいて美観が損なわれているのが残念だったが,Coleもやっていたし,サブウェイなども営業していたので,サブウェイで6インチミートボールをとって晩飯とした。モールの路上で営業している洒落たカフェの料理にも心惹かれたのだが,量が多すぎるように見えたのでやめた。後はとくに何もせず宿に戻って眠った。

帰国(2007年9月12日,水曜)

5:00に自然に目が覚めた。意外に疲れていないらしい。早速湯を沸かして,昨夜Coleで買っておいたカップ麺を作って食べたり,オレンジマンゴージュースの残りを飲んだりしていたら5:50頃になったので着替えて荷物を詰め,グラウンドフロアに降りてチェックアウトした。電話料金の残りがリファンドされたが,AUS$ 7くらいだったと思う。フリータクシー電話をかけてYellowタクシーを呼んだのだが,目的地がInternational Airportであることを告げたあと,オペレータが何か聞いているのが「Your ナエ」しとしか聞き取れなくてわからず,結局それは答えられないままにOKということになって受話器を置いてから,ハタと気付いた。ここはオーストラリアなので,aというスペルはアなのだ。タクシーを呼んだら聞かれることといえば,名前しかないではないか。要するに"Your name?"と聞かれていたのだった。我ながらアホだ。

程無く到着したタクシーの運転手は,オペレータからAsian gentlemanがInternational Airportに行きたがっていると聞いてきたそうだ。オペレータがアジア人の名前を発音できないのが悪いんだから気にするな,と運転手は言うのだが,いや,こちらがオペレータが名前を聞いていることがわからなかったんでこちらのミスだと説明したのだが,運転手はどうしてもそのことをわかってくれなかった。自分と会話できるくらいには英語がわかるのに名前を聞かれていることがわからなかったなんて,想像もできないのだろう。タクシー代がほぼ40 AUS$かかった。FARE RATEが3となっていた(昨日の夜,着いたときのRATEは確か1だった)ので,もしかすると早朝割増料金なのかもしれない。

空港に着いたのは6:35頃だったのに,JALのチェックインカウンターは既に長蛇の列であった。20分ほどしてチェックインカウンターに行き着いてチェックインするまでは,退屈だったがジリジリと前進していくのでコンピュータを開くわけにも行かず,周りの人を観察して過ごした。やはり休暇を楽しんだ帰りという感じの日本人が多い。チェックインはスムーズに済んだが,昨日買った土産などを詰め込んであるので,預け荷物は15 kgあった。席は51Kというので窓側のようだ。まあ非常口のところでさえなければどこでもいいのだが,帰りの機内映画は「オーシャンズ13」のはずなので,多少見てみたい気もする(乗ってみたら大スクリーンすぐ横の席で,前の小さなスクリーンも大スクリーンもどちらも見にくいのでガッカリした)。出国手続きもスムーズに済んで,荷物検査も無事に通ったのだが,出たところでいきなり呼び止められて驚いた。どうも,ホコリか何かのサンプリングをしているらしい。名前は確認されなかったから,抜き打ち的に匿名でサンプリングしているのだろう。それとも汚い格好をしているから狙い撃ちされたか?

土産物をいろいろ買ってから,ほぼ予定通りの時刻に83番ゲートからボーディングが始まったので搭乗し,離陸後に飲み物が出て,食べ物が出て,「オーシャンズ13」の上映が始まった。映像が見難くても音が聞こえれば何とか内容がわかる映画でよかった。実は今日までの記録を打っているので,画面は見難い方がよかったのかもしれない。しかし,気がついたら「オーシャンズ13」は終わっていた。内容はわかったと思っていたのだがやっぱりよくわかっていなかったのかもしれない。次の「Next」という映画は凝っていて面白かった。

成田にはほぼ予定通りについて,入国手続きも検疫も税関も何も申告するものがなく,楽に通過できた。Nexで東京駅に出て,長野行新幹線に乗り換えると,後は相変わらず慌しい日常が待っている。


Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.

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