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2010年2月ソロモン諸島往還

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2009. Last Update on March 3, 2010 (WED) 08:09 JST .

間が悪い往路(2010年2月14日日曜〜2月15日月曜)

16:05に大学をタクシーで出て新前橋に行った。高崎行きは定刻に出たが,新幹線への乗り継ぎがいま一つで,しかも満員だったので,上野まで立っていかねばならなかったのは誤算だった。上野から京成上野に歩いたら,ちょうど最後のスカイライナーが出てしまったところで,次のイブニングライナーが出るまで30分ほど待たねばならなかった。ちょっと間が悪かった。

JALのカウンターでチェックイン時に,3 kgの超過料金がかかりますと言われたが,結局全体での荷物は多くないので,3 kg分取りだしたとみなしてもらえ,超過料金は取られずに済んだ。これまで,30 kg未満ならば見逃してもらえるのが通例だったので,これも経営危機の影響か?

機内では『二十世紀少年 最終章』だけ見たのだが,隣に座っていた人がMagic IIIの操作リモコンの上に腕を置いて眠りこんでいたので,それ以上の操作は諦めて眠って行った。

ブリスベンに着いてトランジットカウンターに行くと,例によってソロモン航空はここでは扱わないので直接ゲート85に行けと言われ,行ってみると誰もいなかったので,中央ホールに戻ってカプチーノレギュラーとハムチーズトマトクロワッサンを買って食べた。

と,8:05頃,ソロモン航空IE701の乗客はチェックインの手続きをするのでゲート85に来るように,というアナウンスが流れた。あまりに早いのでいぶかりつつも行ってみると,若い男性が張りきって作業をしていた。たぶん新卒でもあるのだろうか,ソロモン航空にはこれまで見られなかったような気合の入り方でとても良い感じだ。願わくば,このままの気合いを保ち続けてくれるといいんだが。ボーディングは9:00だそうだ。別にフライトが早まったわけではないらしい。

出発はわずかに遅れた。豪雨のせいか,ヘンダーソン空港への着陸も少し遅れ,着いてからはタラップに隙間があるとかいう理由でなかなか降りられなかったのだが,入国審査はとくに問題なく済んだ。荷物がなかなか出てこなくて焦ったが,どうやら飛行機から荷物を運ぶためのキャリアが小さいものしか使えないようで,A330などという大きな機体(こんなエアバスでヘンダーソン空港に着くのは初めてのような気がする)から荷物を運び出すのに時間がかかっていただけだったようだ。無事に出てきた荷物を通関させるのもすぐにできた。新幹線とスカイライナーは間が悪かったが,ブリスベン以降はかなり順調といえよう。

外に出てみると,SIMTRIのFPさんがドライバーPA氏と一緒に迎えに来てくれていて,メンダナホテルにもすんなり行けた。車を借りる話のうち1つがポシャりそうで,結局例によってレンタカーを借りるしかなさそうな話になりつつあるので,荷物を部屋においてからSIMTRIに行ってみたが,交渉するまでもなくVector Borne Disease Control Sectionの車は借りられないという話になっていた。まあ仕方がないか。

コーヒーとトイレットペーパーと殺虫剤を買ってホテルに戻り,今日決まった話を含めて最終的な予定をpdfにし,後からやってくる調査グループ宛にメール添付で送信した。夜は聞き取りのためのデータシートの作成と打ち出しなどをやっていたが,完了しないまま眠ってしまった。地球環境学事典の人口転換の初校にまでは手が回らなかったが仕方がない。

作業をしながらNHKの国際放送を流しておいたのだが,香川照之のインタビューで,『坂の上の雲』の子規役を演じるために17 kg減量した話が印象に残った。朝食はしっかり食べ,後は食べないという。そこまではわからないでもないが,昼から夜に腹が減ったら走って内臓を揺らすことで空腹をごまかせるという話には仰天した。そこまでやれば痩せるのも当然かと思ったが,並みの人間ではできない方法だとも思った。17 kg痩せると肉という肉が落ちてしまうので,骨が当たって痛くて脚が組めないとかいうのも,凄まじい話だった。命を賭けて仕事をしているなあ。自分も頑張らねば(減量ではなくて仕事の話だが)。

交渉・交渉・交渉(2010年2月16日火曜)

7:00起床。シャワーを浴びてからいろいろ印刷していたら,8:30になってしまった。食事をする暇もないが仕方ない。

まずは銀行。前回は日本の銀行の取り扱い手数料も取られたのだが,今回は取られなかったので,係員に尋ねてみたら,そんなものは要らないという。前回損をしたのか,今回得をしているのかわからないが,まあいいか。それとも,レギュレーションが変わったのか?

手続きが終わって9:30頃だったので,SIMTRIに向かう途中でホットドッグを買って食べた。11 SBD。エッグバーガーだと8.5 SBDらしいが,今日は何となくホットドッグの気分だった。もっとも,そのどちらよりも,米におかずをかけて食べる方が絶対に美味いと思うが,そこまでちゃんと食べたい気分ではなかった。

SIMTRIに着いたのは約束の10:00より少し早かったが,FPさんはちゃんと待っていてくれた。予定表と去年の熱帯医学会ポスターの縮刷版(といってもA3だが)を渡してから1階に降り,ドライバーPA氏と,そのセクションの入り口にいた人(ライオネル・リッチーに少し似ているので,以下では仮名ライオネルとする)とともに外に出た。レンタカー屋に行くのに車がいるので,ライオネルがヴェクターコントロールのHiluxに我々3人を乗せていってくれて,ライオネル氏はそのHiluxで帰り,我々はレンタカー屋で借りるRAV4で帰ってくるという計画である。

車の借り方が複雑だったのと,燃料を満タンにして借りるためにオーナーのサインが必要で,オーナーが帰ってこなかったので,結局タンクがほとんど空の状態で借りることになったのだけれども,20分ほど無駄に待ったことで,すべてが終わってメンダナホテルに戻ってきたのは11:40頃だった。13:30に迎えに来てもらうことにして,それまでメール受信をして昼食をとることにした。昼食はメンダナホテルのレストランで,キタノバーガーから名前がGrilled Burgerに変わったものを食べた。少しハンバーグが小さくなったように感じたが,味は変わっていないと思う。そこそこ美味だ。飲み物はキニーネが入っていることで有名な,シュウェップスのインディアントニックウォーターにした。キニーネは予防にはならないのだが,マラリア治療薬としては,古くから使われていて,かつあまり耐性原虫が存在していないという薬効成分である。しかしトニックウォーターに入っているのは,その苦味ゆえだろう。マラリアがない国でも売られているはずだし。

約束の13:30より少し前に迎えが来て,無事に村まで行けた。今回の調査については,いつも泊めてもらう家の持ち主でありTulagiというかなり離れた町で教会のかなり高い地位にあるCS氏に事前にメールで連絡してあり,返事には自分は忙しくて村にはいられないけれど,奥さん(この人も頭文字はCS)を派遣して食事や身の回りの世話をしてくれるようにセッティングしておくと書かれていたので,ちょっと期待していたのだが,CS氏から村への連絡は正確には届いておらず,かつ奥さんの到着は水曜になるのだそうだ。まあ1日くらい何とかなるだろうと思っていたら,CS氏の実の叔父にあたるJCN氏の奥さんであるMKさんが晩飯を作ってくれた。

この日は,まだ身体が暑さに慣れていないこともあり,とりあえず今回の予定を説明してから,少し世間話をしただけで眠った。

村を回って聞き取りと健診アナウンス(2010年2月17日水曜〜18日木曜)

朝,SB氏の長女であるARBさんに聞き取りを手伝ってもらいながら村を回った。3番目の村まで終了。ついでに金曜からの健診の宣伝をしたが,感触は上々だった。

昼過ぎに,TF君とDI君が無事に到着した。レンタカー屋で借りたRAV4も調子が良かったようだ。もっとも,窓ガラスまで泥撥ね痕だらけだったが。暫く,彼らが落ち着くための部屋のセッティングをしたり,調査計画の詰めなどをしてから,長旅の疲れもあるだろうし,村人が畑から帰ってくるまでは聞き取りもできないし,ということで15:30頃まではインスタントコーヒーを飲みながらまったりと過ごした。水浴びをしてから,再びARBさんに手伝ってもらって午後の聞き取り。たまに一家でいない家があったが,まあ予定通りに聞き取りを進めることができた。好調だったといえよう。

煮魚付きディナー

夕方,CS氏がわざわざTulagiからボートを駆って奥さんと末の息子さんを送り届けてくれた。奥さんは途中ホニアラに寄って買ったという生魚を持っていて,これの煮付けが晩飯に出て実に美味だった。それだけでなく,野菜入りのラーメンとか,やや固めに炊かれたご飯とか,バランスの取れたご馳走であり,参ったという感じであった。ちなみに米もラーメンも輸入物なのでかなり高く,米は20 kgバッグで200 SBD(1 SBDが11.5円くらいなので2,300円くらい)だそうだし(参考:Solomon Starの記事によると,ホニアラ以外では若干値下がりしたらしいが),ラーメンの値段も日本のスーパーと変わらない。一方,収入はというと,下級公務員とかストアキーパーでは年収二〜三十万円未満なはずだし,教会の中でかなり高い地位にいるCS氏といえども,そんなに高給取りなはずはないので,これほどご馳走してもらってしまうと気が咎めてしまう。いや,もちろんありがたいのだが。

明けて木曜の朝も聞き取り。1軒だけ誰もいなくて後回しになってしまったが,他は完了。午後は聞き取ったデータの整理をして,健診に備えた。これが予想以上に手間がかかり,コンピュータを長い時間使わなくてはならなかったため,バッテリーの1本目が切れる寸前になってしまった。もう1本しかないので節約しなくては。

水浴びに行って帰ってきてから晩飯。この日は確か,イモと,野菜入りのラーメンライスだったと思う。村人に前日何を食べたか聞くと,たいていの人ははっきり覚えているのだが,ぼく自身は,どうも自分が前の日に食べたものを覚えていることが苦手だ。これは老化とかではなくて,昔からそうだった。食べることに興味がないわけではなくて,食べる瞬間は楽しんでいるのだが,あまりメニューとしてちゃんと覚えていないのだ。もし自分が調査対象者だったら,さぞ困った対象者になっただろう。

健診の日々(2010年2月19日金曜〜22日月曜夕方まで)

金曜朝は7:00少し前に起床。いよいよ健診開始だ。村に泊まった3人は8:30頃からスタンバイしていたのだが,例によってホニアラからやってくるマラリア検査チームのトラックは,約束通りには来ないのだった。それでも1時間くらいの遅れで来たのだから,これまでの実績からするとマシな方だったといえようか。我々のカウンタパートであるFPさんによると,決して自分たちが悪いのではなく,州政府が貸してくれることになっている車を前日に使っていた人たちが前日中に返さずにいて,当日朝になって返してきたのが悪いということであった。まあきっとその通りなんだろうし,開き直って「ソロモンスタイル!」と苦笑いとともに言われると仕方ないとは思うんだけれども,このいい加減さには参ってしまう。

元々,金曜日は畑仕事やプランテーションに行く人が多いのと,初日だから様子見するであろう人が多いと思っていたが,果たしてその通りで,村人の出足もそれほどではなく,夕方までかかって49人の健診ができた。これまで2回は一人で受付と尿検査の両方をやっていたので,マラリア検査まで終わった後,溜まった尿サンプルを分析するのに一人だけ夜まで作業を続けていたわけだが,今回,受付をDI君にやってもらったのが奏功し(かつ,ARBさんが受付助手として物凄く役に立ってくれて),尿検査も早々に終わり,明るいうちに作業が終了したので水浴びに行けて良かった。受付をやってくれたDI君から,受付の聞き取り用紙の改善案があったのでメモしておこう。

夜は疲れてしまって,この日はデータ整理もせず,イモと葉っぱの煮物中心の晩飯を食べてから,インスタントコーヒーを飲みつつ,少し喋っていたら眠くなってしまった。歯を磨きながら空を見上げたら,この村にくるといつもそうだが,空が星で汚れているといいたくなるほど,満天の星空であった。ちょうどオリオン座が中天にあったが,日本では長野でもせいぜい小三ツ星くらいまでしか見えないのに,この村では他にもたくさんの星があることがわかる。暫く空を眺めつづけていたら,流れ星が見えたのは,得をした気分であった。

土曜はトラックが9:00前に着いて健診も普通に開始。この日は大盛況で,79人やった。これまでのやり方だったら絶対に暗くなるまで尿検査が終わらないような人数だが,受付分離方式のおかげで,17:30にはすべての作業が終わって水浴びに行けた。その後,翌日から結果を返すために,健診参加者の写真整理と氏名,居住地の入力を開始したが,晩飯までには終わらなかった。これまで,結果を返すためには,OpenOffice.orgのWriterで用紙サイズをL版にし,そこに1枚ずつデジカメ写真ファイルを挿入して,下に名前などを打っていたが,今回は効率を上げるためにやり方を次のように変えた。これは非常に効率が良かった。

  1. デジカメで撮った調査対象者の写真を,1人1枚ずつ,1つのディレクトリに入れる。
  2. IrfanviewのBatch Conversion機能を使い,そのディレクトリの全ファイルを,名前をpxxx.jpg(xxxのところは指定番号から始まる連番)に振り直し,サイズを25%縮小し,smallというディレクトリにまとめて入れる。
  3. Adobe Photoshop Elementsを起動し,ファイル>自動処理>バッチで,smallディレクトリ内の全ファイルをEPS形式に変換しながらepsというディレクトリにコピーする。
  4. ID番号と氏名と居住地をOpenOffice.orgのCalcで入力したものを,タブ区切りテキスト形式で保存し,それをRで読み込んで,pLaTeXのソースを出力させる。この際,pLaTeXのソースコードとして,\documentclass[b5j,12pt]にするのと,\includegraphics[width=10cm]{./eps/p001.eps}のようにして写真を読み込ませるコードが出力されるようにするのがミソである。
  5. pLaTeXでコンパイルし,dvipdfmでpdfに変換すると,B5サイズで,1ページごとにひとりひとりの写真とID番号,氏名,居住地(最終日は体重と健診結果での異常所見も出力されるようにしたが,それまではそれらの情報は後で手書きした)が出力されたpdfファイルができあがる。
  6. pdfファイルをAdobe Readerで開き,Canon iP100のプリンタドライバの設定で,B5をL版に縮小印刷するように設定する。
  7. 実際に印刷する。

日曜も7:00起床。DI君はウェスタン州P村の暮らしに慣れているので,それより若干早く起きているようだが,実は近所の子供たちが朝から大騒ぎしていることが多く,自分自身も6:30頃には目は覚めていた。しかし,朝の涼しい時間に蚊帳の中でボーっとしているのは至福であり,起き上がるまでに時間がかかっていたのである。調査の種類によってはこんなことはできず,夜明けと共に起きなくてはいけなかったりするのだが,今回の目的からすれば,自分の体調維持とか,健診をきちんと遂行することとかが大事で,早起きは必要ないのであった。

お別れパーティ2010年2月のメインディッシュ

日曜はお祈りがあるので,元々,健診開始は10:00からということにしていたが,ホニアラからのトラックの到着はそれより若干遅れた。しかし,朝食後,前夜やりかけていた写真整理とデータ入力とpdf作成を完了し,写真印刷をしていたので丁度良かった。128人分ともなると,印刷するだけで1時間以上かかるのであった。健診自体は順調で,この日も順調に人数が増えて,60人やった。ただ,一部の道具が不足し,研究所から取ってこなくてはいけなくなったため,むしろ60人のところで打ち切らざるを得なくなったのは想定外だった。とはいえ,尿検査が終わったのが17:00過ぎだったことから考えたら,それ以上やったら暗くなるまで尿検査をする必要があったかもしれず,ちょうど良かったのかもしれない。なお,翌日にはホニアラに戻ってホテルの熱いシャワーを浴びられることを考え,この日は水浴びには行かず,写真整理と氏名・居住地の入力をした。pdfファイルはできあがったが,Let's Note Y5のバッテリーが残りわずかになってしまい,印刷が終わるかどうか不安だったので,印刷前にpdfファイルをUSBメモリにコピーしておいた。これは正解で,印刷残りが25枚くらいのところでバッテリーが尽き,ハイバーネーションモードに入ってしまったので,Onkyo BXを起動し,USBメモリを挿して印刷を継続し,事なきを得た。壊れたときのバックアップ用にと思ってOnkyo BXを持ってきたわけだが,ウェストバッグに入れたままで空港の手荷物検査も通るし,調査の一番クリティカルなところで決定的に役に立ってくれたし,これは大当たりだった。晩飯はお別れパーティで,鶏をつぶしてくれて,豪華なディナーとなり,例によってJCN氏の演説があった。ぼくも返礼したが,どうしたって演説のうまさでは,毎週のように教会で説教を垂れているJCN氏には敵わない。講義ならできるんだが,パーティ演説で講義調では無粋だしなあ。

月曜は最終日で,9:10頃スタート。これまであまり来なかった成人男性がドッとやってきて,11:30まででは39人だったが,合計が225人に達した。やはり先に聞き取りをして回ると大勢来るようだ。

2009年2月,GPPOL2の常設マーケットにて

昼飯を食べ,いろいろと支払い(先方からいくらくれと要求されているわけではないので,こちらの気持ちを示す謝礼であり,SIMTRIのワーカーに比べたらタダみたいに安い値段だし,領収書も貰っていないお金)を済ませて13:00頃に村を後にした。9月にまた来るとはいえ,大勢の村人とのお別れはグッと来るものがある。途中,GPPOL2 (Tetere)のマーケットに寄った。マーケットは土日だけではなく常設されているようで,いいバナナがあったので買ってしまった。写真の1房でたったの7 SBD(約80円)だったと思う。

GPPOL2から先はきれいに舗装されているので,SIMTRIの古い方の建物まで,平均時速60 km/hくらいで進んだと思う。ここでスライドの染色を頼み,これまで4日分の染色作業への労賃を払い,ワーカーの1人へも労賃を払ってからホテルに行き,チェックインした。前日日本を発ったO先生は,予定通り無事にメンダナホテルに着いていた。しかし話をする間もなく,すぐに借りたRAV4のうち1台は燃料をリフィルしてから返しに行った。もう1台は治療のためもう1日借りねばならない。本当はこの日はHiluxを借りて,翌日はRAV4を借りることになっていたのだが,Hiluxが1台故障,1台事故を起こしたとかで無くなっており,代わりにHilux1台分の料金でRAV4を2台借りるという契約になったため,こういう事態になったわけだ。運転手を1人余計に雇わねばならないのと,ガソリンよりもディーゼルの方が若干高いので微妙なところだが,背に腹は代えられないので仕方ない。レンタカー屋の事務所が混んでいたなど,いろいろと手間取ったので,保健省のsecretaryであるMT氏に会いに行くのが16:00ギリギリになってしまったと思い(FPさんがそういう段取りをつけてくれていたはずだったので),慌てて行ったのだが,彼は不在だった。SIMTRIのFPさんとの約束は完全に忘れ去っていたらしい。マラリアのワークショップに出ているというので,そこに行くと,ちょうどワークショップが終わったところで,会うには会えたのだが,すぐオフィスに戻らねばならない,忙しいというのでメンダナホテルに連れて帰るのは諦めた。代わりに翌朝,彼のオフィスで会うことにした。仕方ないか。

この夜はO先生,DI君,TF君と19:00に待ち合わせて,明日の夜にお疲れさま会をやる予定のレストランで予約がてら晩飯にした。いつもながら美味であり,かつ安かった。予約はできたが,どうも個室ではないらしかった。この中華レストランは個室は2つしかなく,しかもいつも混んでいるので仕方ないところか。明日は7:30にFPさんにメンダナホテルに検査結果を取りに来てもらって出発し,保健省の前で自分だけおろしてもらって,FさんとドライバーとO先生にはそのまま治療に行ってもらい,自分は8:00にMT氏と会談というか,プロポーザルを渡すことになっていて,その後はSICHEの人と9月調査について打ち合わせとか,今回の調査結果の入力と分析とかいったことになるであろう。たぶん今回のSICHE調査は無理っぽいので,次回への布石をちゃんと打っておくことが大事だろう。元々このSICHE調査計画はExtraなもので,できれば儲けものくらいの感じだったので,これはこれで問題ない。最初の計画通り,できるだけたくさんの村での調査データを入力してしまい,できるだけちゃんと分析して中間報告書を作れば良いだけのことだ。

書類作りと交渉(2010年2月22日月曜夜〜23日火曜夕方)

夜のうちにやらねばならないことは,月曜に調査した39人の写真整理と氏名と居住地の入力をして写真印刷をし,KK先生がスライドを鏡検しおえたら,その結果も記入し,翌日の治療ができるようにすることと,SICHE調査のプロポーザルを打つことであった。調査許可自体は包括Agreementで得られているのだが,調査対象者を追加するためには,倫理委員会用に別途プロポーザルを作らねばならないという(内容はほとんど同じなんだが)。それでも書式を合わせるのに手間取り,写真印刷もかなり時間がかかったので,この夜はほとんど眠る暇がなかった。GPPOL2で買ったバナナをかじりながら,インスタントコーヒーを何倍も飲んで,一晩中作業をしていたので,朝には胃がもたれるような感じがしたが,なんとか間にあった。

FPさんがメンダナホテルに来たのは7:45頃だっただろうか。検査結果についての説明を大急ぎで済ませ,写真を渡しながら保健省のオフィスに行ってもらった。治療についてはO先生が同行するので大丈夫だろう。この朝はMT氏はちゃんと待っていてくれて,半徹夜で書いた(というか打って印刷した)プロポーザルを渡し,O先生も交えて順調に話が進んだ。プロポーザルはメール添付でFPさん経由でも送る必要があるとのことだが,たぶん9月調査なら問題ないだろうという話でほっとした。

次いで,SICHEに行って貰った。JOCVの隊員はまだ出勤前だったが,校長先生と会談することができたので,ここでもプロポーザルを渡し,9月にしっかり調査するという線で話を進めることができた。校長先生との話の後,少しだけ待ってみようということで5分ほど待っていたら,JOCVの隊員であるSYさんが出勤してきたので,こちらもいろいろ話をすることができて良かった。

この後,RAV4は村へ,自分はホテルへと分かれると思っていたのだが,SIMTRIに寄ってから,FPさんは銀行に行ってから村に行くというので,結局ホテルのそばまでRAV4に乗ってくることができた。運賃3 SBD(でも皆2 SBD札1枚しか払わない)のバスに乗ってくるつもりだったが,楽をしてしまった。ホテルに戻ってシャワーを浴び,暫くデータ入力をしたら昼飯時になった。ロビーに出ると,DI君とTF君が統計データを入手しようという話をしていて,自分でも行こうと思っていたので,昼食後に行くことになった。昼食はいろいろ新しいところを試そうかという話も出たが,結局,香港宮殿(Hong Kong Palace)という,昔よく行ったが最近味が落ちたということで足が遠のいていた中華料理屋が復活していないかチェックすることにした。結果は……うーん,悪評通りだったかなあ,という感じ。まあ安いから腹は立たないが。

食後,さて統計局に行こうと道を歩いていたら,FPさんから声を掛けられて驚いた。既に村での治療が終わって戻ってきたのだという。ちょうどいいので,DI君,TF君と一緒にRAV4に載せてもらって統計局まで行った。RAV4には4人しか乗れないので,FPさんともう一人の便乗者(運転手のPA氏によると,FPさんの姪らしい。調査にはまるで関係ない人だが,こういう便乗はソロモン社会ではごく普通のことで,まったく気が引けるようなことではないようだ)は一旦降りて,道路わきで待つとのことになった。着いてみると,実は統計局はホテルの並び,すぐ近くにあった。帰りは歩けばいいので,PA氏に,「我々は歩いて帰るから,FPさんのところに行って,彼女の用を済ませてあげていいけれど,RAV4は今日レンタカー屋に返さなくてはいけないので15:00にはホテルに戻ってくるように」と告げて解放した。統計局ではちょうど責任者らしい人がいて,話をしたら,いまは準備ができていなくて,明日は忙しいので,明後日の午前中に来てくれたら,手に入る限りの統計資料が買えるようにしておくということだった。2009年センサスはまだ集計中で,まとまるのは2010年6月頃になるだろうというのが少し残念だったが,TF君が明後日の午前中に来ることができるので,統計資料を入手することはできそうだ。もっとも,その統計資料自体の信頼性はというと,クエスチョンマークがいくつもつくのだが。でも無いよりはずっといい。

ホテルに戻ってから,3人でデータ入力を進めた。しかし昨夜の半徹夜の疲れが出てきて,眠くて仕方がない。食事調査のデータを入れるのが大変で,なかなか進まない。そうこうするうちに15:00になったのでロビーに行ったが,待てど暮らせどRAV4は来そうにないので,いったんフロントに伝言して部屋に戻り,データ入力を再開した。今回はいくらソロモンタイムといえども,画期的な遅れで,RAV4がやってきたのは16:45だったのには唖然とするばかりであった。まあ,レンタルの時間は19:00までなので,間に合うと言えば間にあうのだが。ガソリンを満タンにしてから返しに行ったら,その事務処理がまた長い時間がかかり,タクシーに乗ってホテルに帰りついたら17:30を過ぎていた。それから1時間余りデータ入力をしたら,もう慰労会に行かねばならない時間であった。忙しいことこの上ない。

慰労会後にデータ入力と分析で徹夜した翌朝に中間報告書提出(2010年2月23日火曜夜〜24日水曜午前)

慰労会はスライドの染色をしてくれたA氏が若干遅れてきたのを除けば,ほぼ時間通りに皆集まり,和気あいあいと食事をし,調査の成功を祝い,論文を出すことを誓い,次回調査も頑張ろう! と気勢を上げて21:00前に終わった。FPさんが貝殻で作られたネックレス(マライタでは高い価値があり,婚資として使われたりもするもの)をプレゼントしてくれた。

ここから先が本当の勝負だ。DI君とTF君と3人で交代しながらデータ入力を進めた。22:30頃力尽きてベッドの上に倒れ込み,次に意識を取り戻したのは0:00頃だったが,DI君とTF君が頑張ってくれて,ちょうどデータ入力が終わったところだった。素晴らしい。再び選手交代し,MTVを流しながら最後に残った尿検査データ入力をした。時折バナナをかじり(結局GPPOL2で買った1房のバナナをほとんど全部一人で食べ切ってしまった。食べ過ぎでバナナアレルギーになりそうだ),インスタントコーヒーの飲み過ぎで胃が痛くなりつつもデータ入力が終わったのが2:00頃だったと思う。3:30頃までかかってRで簡単な解析と作図をしたが,そこで再び力尽きた。

次に目が覚めたのは6:30頃だったか。解析結果と図を埋め込んだ中間報告書を作って,印刷が終わったのは8:00頃だったと思う。メールチェックをしたかったので,ホテルの売店でBumblebeeカードとココナツビスケットとSOLOというレモン味の炭酸飲料を買ってきた。Bumblebeeカードは2時間で50 SBDの無線LAN用のプリペイドカードである。ホテルのビジネスルームで有線LAN接続をすると(1分が1.50 SBDなので)2時間では180 SBDとなり,無線LANの方がずっと安いのだ。ビスケットをSOLOで流し込みながらメール送受信が終わった頃,O先生も報告書をプリントしたいということでCD-Rを持ってこられた。9:15頃から必要部数を印刷し,TF君も含めた3人でSIMTRIの新事務所があるTONG'Sビルに向かった。

SIMTRIでの報告も,1階のベクターコントロールでの報告も無事に終わり,飛行機のリコンファームもしてからホテルに戻った。これで,後は飛行機さえ無事に飛べばOKだ。時間的に,あとはメールチェックの続きをするくらいしかないので,再びホテルの売店でBumblebeeカードを買った。11:30頃から使い始めれば,空港でも使えてちょうどいいだろうと思ったのだ。

ブリスベン経由で帰国(24日水曜午後〜25日木曜)

メールをチェックしたが回線の調子が悪く,余計なメールを消すだけで12:00近くなってしまったのは誤算だった。ホテルをチェックアウトし,タクシーで空港に向かった。空港での飛行機へのチェックインは何の問題もなくできたのだけれども,問題はBumblebeeカードであった。無線LANのアクセスポイントまでは「良好」な接続が確立するのだが,そこから先の調子が悪いようで,いくらメールを受信しようとしても,途中でタイムアウトしてしまうのだ。有線の部分が混んでいるということか。きっと細い回線なんだろう。仕方ないのでwebメールでだましだまし接続したが,とても全部のメールを読むことはできなかった。

来たときほどではなかったが,A320もかなり大きくて立派な飛行機であった。予定よりやや早く離陸し,ブリスベンにはほぼ予定通りに着いた。入国審査も何の問題もなく通った(貝殻のネックレスも一応申告したが,ただ見せただけで済み,何の問題もないようであった)。

ぼくは若干のオーストラリアドルを持っていたので,3人でタクシーに乗ってホテルに向かった。オーストラリアのタクシーは大きさと料金は無関係だそうで,ちょうど待っていたミニバンみたいな巨大なタクシーに乗ることになった。運転手があまり道が良くわからないらしく,1本違う道に入ってしまったりされたが,38 AUS$くらいでWickham Terrace 193のAstor Metropole Hotel Brisbaneに着いた。日本からネット予約しておいたのだが,実に気持ちのいい,部屋の広いホテルであった。ともかく,荷物をおいてすぐに,市街地中心部に向かうことにした。新しい構造物ができていて若干迷いかけたが,ちゃんと目指すThe Mallに辿り着けた。Coleというスーパーで土産用にチョコレートなどを買い,Mallの歩行者天国みたいなところのオープンカフェでサーロインステーキとトニックウォータを頼んで食べてからホテルに戻った。

汗だくだったのでシャワーを浴びてからインスタントコーヒーを入れ,落ち着いて部屋の中を見てみると,壁にEthernetの端子があった。部屋にあったガイドみたいなものを見たら,接続料金は宿泊料に含まれているらしかったので,手持ちのケーブルでLet's Note Y5をつないだら,見事に100 MbpsでDHCP接続できてしまった。ただ,ここもルータから先の回線状態が悪いのか,メールダウンロードは途中で接続が切れてしまうので,webメールでちまちまメールチェックするしかないのが面倒だった。時々テレビでフィギュアスケートを見ながらメールチェックをしていたのだが,あまりに良く回線断が起こるので,鬱陶しくなって眠ってしまった。

そういうわけでメールはチェックしきれないまま,6:00にホテルをチェックアウトしてタクシーで空港に向かった。今度のタクシーの運転手はソマリア出身だとかいう,非常によくしゃべる男だった。なんでも,中東ではラクダのミルクを飲むことがよく行われていて,最近学術的な研究によって,ラクダのミルクには抗HIV作用があることがわかったとかいう。本当か? 暇があったらPubMedで調べてみよう。他にもいろいろな話をマシンガンのように喋りつづける運転手であり,多少うるさかったが,退屈しなかった。チェックインも出国手続きも何の問題もなく終わり,免税店でワインを2本買った後は,ほぼ定刻にボーディングが始まった成田行きJL761に乗って,ほぼ定刻に成田に着いた。機内映画を3本も見てしまったので疲れた。箱根駅伝への挑戦(フィクションだけれども)を題材にして「走る」とはどういうことかを問うた青春映画の傑作『風が強く吹いている』と,抜け忍カムイに罪悪感を抱かせることにしか関心がないような大量殺戮がいじめを想起させて気持ち悪かった『カムイ外伝』と,もう1つは何だっけ? 空港地下に降りたら,Nexが運航停止していたので,スカイライナーで京成上野に行き,上野から新幹線に乗って帰った。

こうして今回も無事に調査が終わり,日本に帰ってくることができた。いつまでこういう調査が続けられるだろうか? と自問しつつ,日常へと戻っていく。


Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.

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