枕草子 (My Favorite Things)

【第238回】 科学と学問,あるいは表明できなかったコメント(2000年2月7日)

修論にコメントしていていつも思うのは,専門によって常識が違うということである。例えば,実験動物の数。実験系では往々にして各群3匹で統計的に有意な差がなかったとかいうことがあるが,よく見ると分散が大きかったりして,なんで3匹なのか「統計的には」納得がいかないことがままある。1例だけで過度の一般化を行っているように見える場合もある。母集団が何かということをどの程度意識しているのか疑問に思う。

observationをlogicでつなぐことによりconjectureとrefutationを繰り返すのが科学の営みであるが,徒に先行研究が3匹だからという理由で3匹で実験するのは,observationとしての質に問題があると思う。なぜobservationの質が悪いのかといえば,統計学の立場からのrefutationが不足していたのではないかと思われる。Fisher以来の実験計画法を少しでも囓ったことがあるならば,先行研究で少なくともコントロール群の分散がわかっている以上,それを元にして「これこれの差を検出するためには何匹必要か」という検討はできるはずである。

ところが学問となると,知識の(権威的集積)体系という一面をもつので,科学的な立場から最善と思われる方策が最適とは限らない。先行研究との比較可能性,あるいは(ほとんど同じことだが)その学問体系の中での常識が科学的推論よりも優先された方が,体系構築には寄与するという理由で採択される場合が多い。例えば,冒頭にあげた例で,統計的には各群50匹必要だということになったとしても,先行研究がすべて各群3匹ならば,50匹使ってみるには相当な勇気,レフェリーと戦う覚悟,指導者を説得するだけの理論武装,といった諸々の条件がクリアされねばならない。また,先行研究と比較しにくくなることは,大きなデメリットである。

ここであげたのは,偶々統計学と動物実験をする何かの実験科学とのコンフリクトだが,細分化された学問体系を横断してみれば,このようなコンフリクトは多々あることであろう。それをぶつけることで新しい何かが生まれるかもしれない,という考え方もある。複雑系とか? 学融合とか? メタレベルのconjectureがなされたときに新しい学問領域ができるのであり,これをパラダイム・シフトと呼ぶ(のか?)。ともあれ,科学の営みそれ自体には,先述のように専門領域間の壁は存在しない筈である。壁が存在するのは知の集積体系としての学問の方である。

しかし,生活者としての科学者がやっているのは,科学だろうか? それとも学問だろうか? こう問い直してみると,科学であるよりも学問である側面が多いように思う。少なくとも,職業としての科学者が行う生業は,科学ではなくて学問である。ピュアな科学という形而上的存在のみを行う主体は存在しえないだろう。科学は必ずしも文章を必要としないが,学問を行うには文章が書けなくてはいけない。脳が楽しいと感じるのは主に科学なのだが。

科学者は社会へのインパクトを考えずに好奇心で活動してよいかという問題に対して,好奇心の充足こそが人類の進歩の動因であったという理想論と,科学と技術が不可分だから好奇心のみで科学を行うことは不可能という現実論が戦わされるが,問題なのは科学と技術以前に,科学と科学者の区分なのではあるまいか。科学者は科学もすれば学問もするし,その結果が技術として社会にインプリメントされることもある。人間は,そういう重層的な存在だと思う。

以上,まだ煮詰めていないが,最近漠然と考えていることを書いてみた。乞うご批判。


今朝は,寝坊した上に,雪が解けて凍った地面がツルツル滑って自転車が転びそうになったことが何度かあって,7:50のあさま2号も逃してしまった。が,考えてみれば定期券が昨日で切れていたので,8:05発に乗るには丁度良い時間だったのだった。3月に短期海外出張をするため,今回は1ヶ月定期を買ったら,窓口で粗品をもらった。もしかすると,3ヶ月では何もくれなくて,1ヶ月定期にだけ粗品を出すのだろうか?

ミーティングの後,スタッフ会議。毎年のことだが,大学では師走よりも年度末の方が忙しい。今日も帰りは終電である。


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