枕草子 (My Favorite Things)

【第87回】 感染症の流行と数理モデル(1998年11月4日)

実は,マラリアの新しいワクチンの論文を紹介したかったのだが,明後日の国立国際医療センターで行う「感染症の流行と数理モデル」という講義の準備がまだ十分でないので時間がなく,来週に回すことにした。もっとも,時間がないというのはただの言い訳であって,正確に言えば優先順位が低いだけのことだ。ワクチンの話は講義テーマである「感染症の流行と数理モデル」とも関連が大いにあるのだが,一般の人にマラリアの新しいワクチンの説明をしようと思うと,免疫学を簡単に説明せざるを得ないので時間がかかるのだ。そういうわけで今日は自分の頭を整理する意味もあって,感染症の流行と数理モデルの関連を書く。

感染症の流行を予測したり,過去の流行を説明したりするために,数理モデルが用いられていることは,どこかで聞いたことがあるだろう。ヒトの感染症とは,他個体から移ってきたウイルスや細菌や原虫や線虫などの寄生体(parasite)が,ホストであるヒトと何らかの相互作用をした結果,ホストの恒常性が攪乱されることである(志村則夫さん風にいえば,適応が破綻することである…「歯医者に虫歯は治せるか」参照)。ホスト間での寄生体の移動がなければ感染とは言わないし,ホストの恒常性が攪乱されない限り「症」とは呼ばない。数理モデルの適用が最も役に立つ場面は,異論もあるかもしれないが流行の予測と介入効果の予測である。過去の流行の説明は,科学としては面白いし感染メカニズムを解き明かすことで意味はあるが,状況が変わっても適用できるようなモデルを作って将来予測に使う方が役には立つ。

介入とは,予防接種とか,患者の隔離とか,行動による予防とか,大規模投薬とか,あるいは媒介動物をターゲットにした殺虫剤散布などの手段で,人為的に感染環を断ち切ろうとする試みをいう。介入にはコストがかかることと,介入をした結果,却って流行が酷くなる可能性もあることから,効果の予測が必須である(現実には数学的な予測なしにやってしまうことがこれまで多々あったのだが)。そういうわけで,大規模な介入が行われるような疾患については,数理モデルがたくさん開発されてきている。大規模な介入があるという意味では麻疹のモデルなども重要なのだが,感染環の複雑さや発症率の高さからいって,モデルとして面白いのはインフルエンザ,マラリア,AIDS,住血吸虫である。その意味で,これまで有効なワクチンの開発が成功しなかったマラリアについて,ワクチンによる介入ができるかもしれないというのは大ニュースなのだ(もっとも,数理モデル的に面白いのは,Kermack-McKendrickモデルやRoss-MacDonaldモデルをはじめとする伝播モデルの方で,ワクチンのモデルへの組み込み方などは1つか2つのパラメータ操作に過ぎないのだが)。

数理モデルによる予測が必要である理由をもう少し書いてみる。ワクチン接種には副作用(実はこれも難しい言葉なのだが,ここではとりあえず一般に通用している意味である)が付き物なので,接種によって受ける「感染しない」または「感染したときに症状が軽くて済むか,早く直るか,他人に感染させにくくなる」という利益と,接種のコストと副作用のリスクを秤にかけるのは当然行われるわけである。しかし,大規模介入を行う目的はホスト個体群における感染症の撲滅あるいは流行を抑えることにあるわけで,接種を受けた個人の短期的利益だけを秤の片方に載せるのでは不足なのだ(このことは保健医療活動の現場では往々にして見過ごされているが,患者を治すことと流行を抑えることは別のことでる)。ワクチンを中途半端に打つことによって逆に流行が起こっては何にもならないのである。

うーん,前振りはこれくらいでいいか。後は伝播モデルを順を追って説明するつもりだが,今日を含めてあと2日で講義資料が完成するかどうかが最大の問題だな。


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