枕草子 (My Favorite Things)

【第150回】 蛍(1999年7月15日)

昨夜も終電で長野駅に帰り着くと,東京の大雨が嘘のように,路面さえ乾いていた。また雨の中を自転車を漕ぐのかと思って鬱々としていたので,乾いた路面はまるで乾いた洗濯物のように,ぼくの気分を明るくしてくれた。

ふと見上げると,いつものように黒々としてギザギザした長野駅東口の屋根の回りが目に入った。ギザギザは無数のツバメの巣である(16日追記:どうもこのギザギザはぼくの心象風景らしい。今朝確認したら,どう見てもツバメの巣の縁が輪郭線を作るはずがない)。屋根のツバメの巣を取ってしまうのではなく,「フンにご注意ください」と貼り紙をする,長野駅の姿勢がぼくは好きだ。取れと要求しない乗客も。もっとも,迂回することができるほど,利用人数当たりの駅面積が広いからこそ,できる芸当ではあるのだろうが。

いつものように北側駐輪場へと階段を下り,自転車に跨ると,家路についた。東から吹いてくる湿った微風がちょっと気持ち悪いが,なに,東京ほど気温は高くない。メルパルクの先の横断歩道を渡ってしばらく経つと,急に周囲が暗くなる。コンクリートで護岸された用水路を右手に見ながら,信越線の踏切を渡ろうとしたときである。

不意に,目の端に何かが光った。自転車を漕ぐ足を緩めて目を向けると,小さな点がゆらゆらと漂っている。「……ホタル」無意識につぶやいていた。そういえば,何日か前の信濃毎日新聞に,長野市内でも蛍が見られるって書いてあったっけ。この光の強さからするとゲンジボタルか? ぼーっと見ているうちに,蛍は用水路の方へ消えていった。数秒のことだったと思うが,こういうときの時の流れというやつが,異様にゆっくりになるのは何故だろうか。

それにしても,あんなところで蛍を見られるとは思わなかった。日本で蛍を見たのは,何年ぶりのことだろうか。パプアニューギニアでカヌーで川下りをしたとき出会った,蛍でクリスマスツリー状態の木は凄かったが,ただ一匹儚げに,しかし力強く飛んでいる蛍も,またいいものである。なんとなく幸せな気分で帰宅した。

だけど,今日2時間も寝坊して,あさま2号で大宮乗り換え,Maxやまびこ114号で上野9:22着になってしまったのは,決して蛍に興奮して眠れなかったせいではない,と思う。

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話は違うが,来週月曜,夏休み前最後の論文紹介ミーティングの発表担当になっていたことに気づいたので,昨日からネタ探しをしている。目に付いたネタは次の通り。もしかしたら後で見直すかもしれないので,メモをしておくのも無駄ではあるまい。Br.J.Nutr., Vol.81 (6): 427-434, 1999. サハラ以南のアフリカにおける鉄過剰障害のレビュー。ぼく自身の鉄過剰障害のレビュー文書に以前少し書いたが,1992年に発表されたGordeukの画期的な仮説をフォローし,その後の進展をまとめたもの。中での最近の知見としては,Blood, Vol. 91 (3): 1076-1082, 1998. 鉄分の多い地ビールを飲んでいても鉄過剰蓄積しにくい家系の存在から,遺伝的影響を傍証したもの,を見つけた。取り敢えずミーティングにはこれが本命かな,と思う。Natureの7月8日号では,Diamond, Jared M.の"Dirty eating for healthy living"というnews and viewsの記事が目を引く。geophagy(土食症,とでも訳すのだろうか?)が全大陸の伝統社会で,とくに妊婦に見られること,ヒト以外でも多くの哺乳動物,鳥類,は虫類,蝶などで見られることは何故なのだろうか? という疑問に,進化生物学的な一つの解「食物としての植物中に含まれるアルカロイドや毒素を解毒するためのミネラルを得るため」を提出した,Gilardi, J. et al.(1999) J. Chem. Ecology, 25: 897-922.の紹介である。元ネタがヒトだったら良いのだが,アマゾンのオウムなので,ちょっと人類生態のミーティングには向かないような気がする。他には125ページの,鳥類や哺乳類で卵細胞の数が少ないのはミトコンドリアと関係するというKrakauer and Miraの論文も面白そうだけど,短すぎるので却下だな。マウスの実験だけどSchenk et al.の,アルツハイマー症状を抑える抗体(p.173-177)ってのも面白い。アミロイドβで免疫しておくと抗体ができて症状が弱くしか出ないという話だ。ただ,ちょっとぼくが紹介するには唐突すぎるのでやめておく。Scientific Americanの8月号に出ていた,ポルトガルとオーストラリアから出た化石を元にした,人類のアフリカ単一起源説への疑義を呈する記事にも目を引かれたが,考古学の論文を紹介するのはちょっと気が引けるので止めておこう。ちなみにポルトガルの元論文はProceedings of the National Academy of Sciences, USA (ProNAS)の6月22日号,オーストラリアの元論文はJ. Human Evolutionの6月号で,ソーンだのウォルポフだの多地域進化説の有名人の名前が頻出する。うーん,まだ負けてないんだなあ。ちなみにSciAmの論調は,もはやDNAは後部座席においておいて化石を! というのが結論らしい。一部同意するのだが,ゴリゴリの分子進化学者の反論がまた楽しみだったりする。ProNASといえば,7月上旬号で目を引かれた論文は3つ。あの数理生物学で大久保賞を受賞したMartin Nowakが書いた"The evolution of language"(言語の進化; pp.8028-8033)という論文が1つ。もちろん進化ゲーム理論に基づく数理モデルである。2つ目はWeninger, Stavie C. et al.の"Stress-induced behaviors require the corticotropin-releasing hormone (CRH) receptor, but not CRH." (pp.8283-8288)である。尿中や唾液中のCRHを測ってストレスの指標にすることは良く行われるのだが,本論文によれば,CRH自身ではなくてそのレセプターが鍵を握っているというわけだ。最後はGibbs, Mark J. and Weiller, Georg F.の"Evidence that a plant virus switched hosts to infect a vertebrate and then recombined with a vertebrate-infecting virus." (pp.8022-8027)である。タイトルだけでもぞくっとするのだが,系統樹がEvidenceなので人類生態のミーティングではやや紹介しづらい。J. Nutr.の7月号では,バングラデシュの低栄養児に鉄剤を長期間投与したがコントロール群に比べて成長が良くなることはなかったという論文(pp.1319-1322)と,エベレスト登山中に部分的に筋肉量が維持されている状態では,エネルギー代謝が活発になり,部分的に脂肪が減少するという論文(pp.1307-1314)が面白そうだった。とくに後者は気になったのだが,デザインの妥当性がクリアでないのでミーティング向きではない。ちょっと古いのだが,Am. J. Human Biol.の今年の第2号の体組成特集の中にあった,Roemmich and Rogolの思春期のホルモン変化とその脂肪分布との関係についての論文(Am. J. Human Biol., 11: 209-224.)も面白い。とくに図1は出色の出来である。これが第2候補かなあ。しかしどうせレプチンに触れるなら上原財団シンポで聞いてきた話も折り込みたいところだから,これは次回だな,と思う。最後は科学と関係ないけどパプアニューギニアネタ。台湾との国交によって資金援助を得たものの中国とオーストラリアから強い非難を浴びて即刻退陣したスケート首相に代わり,新たに昨日モラウタ首相が選任されたとのこと。6人目の首相だそうだ。53歳でガルフ州出身というから,スケート首相に続いてパプア側からの首相ということになる。まあ何にしても早く政情安定して欲しいものである。念のため書いておくと,もちろん,こいつはミーティングネタにはならない。


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