枕草子 (My Favorite Things)

【第162回】 時間の連続と空間的分断をつなぐもの(1999年9月7日)

上野駅の
地下3階に
アオスジアゲハ

一瞬,そこだけ異世界が紛れ込んだような,錯覚。ひらひらと,弱々しく羽を動かす蒼い昆虫。灰色のタイルが埋め込まれた階段の地面に,今にも埋もれそうな気がして,目が離せない。それでも,大脳の一部がぼくの足に命令を発して階段を上がらせる。目は階段の下に置きっぱなしにして。

視界から蒼が消えたとき,何かを置き忘れたような感じが残った。

地下2階
エスカレーターに消えてゆく黒い点。弾丸のように飛ぶ塊。

カナブンとは思えないから,大きな蠅だったのだろう。ぼくの脳裏には,相変わらずアオスジアゲハがゆらゆらと漂っている。新幹線で通勤すると,時間は連続しているのに空間が分断されているせいで,疎外感を受けるように思う(※)。アオスジアゲハは分断された世界をつないでくれたような気がしたのだ。それにしても,どうやって地下3階まで来たのだろう。新幹線に乗ってきたのか,上野公園から迷い込んだのか? 忙しい朝に,アオスジアゲハに目をとめた人は,どれくらいいたのだろう。

(※)余談だが,こういう表現をするとき,どういうコトバを使ったら一番伝わるか,なんていつも一瞬悩むのである。が,ぼくは作家ではないので,悩みは一瞬だけで済む。作家だったら「空間が分断されているせいで」がいいか,「空間的分断のせいで」がいいか,「空間が切り離されているせいで」がいいか,etc., etc.と悩むのだろう。またそういう鋭敏な言語感覚がない人は,ぼくは小説家としては買わない。繰り返すが,上記3表現はほぼ同じ実体をさすから,論文ではどれでもいいことだし,自分が表現するときには一瞬しか悩まない。

昭和堂から出ている,「エコソフィア」という雑誌がある。第3号が今年の5月に発行されているのだが,その特集「農の風景」に寄稿している赤坂憲雄さん(東北芸術工科大教授)の文章を偶々読んだのは,今朝の新幹線車内であった。あるいは,その影響もあったかもしれない。赤坂さんは,山形県を中心に消えゆくムラを尋ね歩き,老人たちから民俗学的語りを聞き取っているのだが,ある時,「昭和40年代末に全戸の総意にしたがって山を下りて町に移転したという村」の話を聞くのだ。赤坂さんがその村の跡地を見ようと行ってみると,そこには一人の老人がいた。老人は,移り住んだ町には仕事がないので,ただ一人,村にやってきて,時々は泊まり込みながら,植林した杉の手入れをしているという。彼が何か守るべきものを抱いて村に通ってきていることは確からしい。しかし,先祖伝来の家を守り抜くといった依怙地な思い入れではなさそうに見えた,という。

この老人が守りたかったものは,「キリンヤガ」でコリバが守りたかったものと同じものかもしれない,とふと思った。町に移った村は,元のムラではない。そう考えると,いかに似ていても,テラフォーミングされた小惑星キリンヤガは,はなからキリンヤガではなかったのだ。コリバは,もしかすると,最初から薄々気づいていたのではなかったか。考えてみると,これも時間の連続と空間的分断かもしれない。つなぐものは何だったのだろうか。


丁寧に説明するのは面倒なので,感性に下駄を預けてしまった,トサ。


話は違うが,先週のNatureのMighty Mouse研究には危険な方向性を感じた。遺伝子操作で記憶力が増したからといって,知性が向上したといえるのか? 脳に手を加えて,自我の連続性が保たれるのか? 仮に自我の連続性が保たれたとしても,そこまで身体装置を外部化してしまっていいのか。どうも,それで幸せになるとは思えないのだ。偏見かもしれないが,そういう感じ方しかできないのである。こうした遺伝子操作が,外部装置を身体化するような(そう,医用工学の井街先生がいわれるスーパー人工臓器みたいな)技術と根本的に異なる点は,自己と非自己の境界を曖昧にしてしまうことにあると思う。埋め込み型のコンピュータは取り出すことができるが,遺伝子発現産物を一つ一つの細胞から取り出すことはできないだろう。もっとも,ナノマシンなんて技術が実用化されてしまったら,この違いすら不分明になるのだろうが。

(今週の子どもと遊んだメモ)土曜日は雨だったし,家の中でビーチボールサッカーに熱中してお茶を濁した。日曜日は,家から徒歩50分くらいのところにある,辰巳公園というところまで子どもたちと散歩した。水鳥がたくさんいたので,子どもたちは興奮していた。3歳になった娘も片道はきちんと歩いてくれたので,今回は大分楽だった。よしよし。


前【161】(ちょっとした飲み会(1999年9月1日) ) ▲次【163】(Windows2000の憂鬱(1999年9月17日) ) ●枕草子トップへ