枕草子 (My Favorite Things)

【第177回】 どのあたりまで教育か?(1999年11月11日)

今日は1並びの日などと称して,記念切符などの便乗商法があるらしいが,元号はもちろん,西暦にしても日付など所詮恣意的に定めたものだと考えると,馬鹿らしくて買う気になれない。ミレニアムベイビーなどというのも,人間社会の,もっといえばキリスト教的近代世界の約束事に過ぎないところに拘っているわけで,如何にゲン担ぎといっても,くだらない思いこみに過ぎない。例えば,蝋燭の火がふっと消えたら船に乗らないなどといったゲン担ぎに比べれば,経験的意味においてすら物質的世界との関わりをもたないという意味で,日付に関わるゲン担ぎは,脳という舞台の中でだけ意味をもつものである。13日の金曜日然り,仏滅然りである。もっとも,コンピュータウイルスの中には13日の金曜日に活動を始めるなんてやつもあるので,コンピュータという道具を媒介にすれば,これらも現実的意味をもつようになることがある。そう考えてみると,コンピュータという代物は,脳を外部に延長しただけでなく,外界を脳に取り込んでしまう機能ももっていることになる。

なんて,養老孟司さんが以前「解剖学」の講義でいっていたことのパクリであるような気もする。現在,学部学生向けの解剖学の講義は順天堂大の坂井建雄先生にお願いしているのだが,養老さんの頃に負けず劣らず,満員の大盛況だということだから,解剖学には関心をもつ学生が多いらしい。たんにお二人が有名人で講義がうまいからだけではなかろう。ところで,養老さんの解剖学はちょっと独特で,臓器の名前を覚えさせるということをあまりしなかった。構造と機能の関係といったあたりから話を始められるので,ぼくなどには大変面白かったが,資格を必要とする学生は困ったかもしれない。それに比べると,坂井先生の解剖学はずっと普通で,系統的に臓器の名前も解説されるようだ。

何を教えるべきかという,この大問題(原則としては,データを教えるときは,そのデータを扱うメソッドを内包したオブジェクトとして教えるべきと思う。大問題なのは抽象度である)を別にしても,講義というのは,つくづく難しいと思う。一人で1つの科目を組み立てることができればまだしも,1つの科目の中で1時間だけというのが困る。先日のマラリアと環境の話もそうだったが,他の時間とまったく関係ないトピックを並べるという形になってしまうと,その科目自体の魅力が低下するのは否めない。そうかといって,他の講師と事前に相談してまとまりをもたせるなど至難の業だから,仕方なくトピックを並べる講義を続けることになっている。もちろん総講義時間も大事で,人口学など1単位なので,ほんの上っ面を舐めるだけで終わってしまう。文系の人口学だったら通年講義が普通だから,3分の1以下であるのに,文系の人口学では扱わないようなトピックまで含めようとするので,中身がぎゅうぎゅう詰めになる。しかも今年度は,いわゆる3連休法のために,成人の日が1月10日になってしまうので,人口学の講義は例年より1回少ない。内容の組立てにスタッフで頭を絞ったのであるが,さてうまくいくかは,やってみないとわからない。余程気の利いた学生でないと,不消化になってしまいそうだが,はて,どういう目が出るだろうか? 幸い,平成13年度から全面的にカリキュラムを改訂しようという動きがあるので,今後の抜本的改革を目論んでいる今日この頃である。

実習には別の難しさがある。どこまで指導する側で準備するか,いつも悩んでしまう。学習するべき内容だけさせているわけだが,その準備や後始末にどれほどの手間がかかっているか,ということを知らせなくてよいのだろうか。学生のときにそれを想像できる能力があるということはほとんどありえないので,知らせなくては知らないままに終わってしまう。例えば,先月の学生実習で使ったピペットなど,昨日オートクレーヴ(高圧蒸気滅菌)をかけて捨てたのだが,オートクレーヴをかけることは水質検査と関係ないものの,それをしないと測定が成り立たないわけで,実はそこまで教育なのではないか,と悩むわけだ。現実問題として学生に準備や後処理を担当させることは,ほとんど不可能なのだが。

実習に限らず,評価しなくてはいけないというのも,意外に負担である。一所懸命やっていてレポートの出来が悪い学生や,真剣に講義を聴いていろいろ考えていても,記憶力が良くないか時間配分が下手なために試験の出来が悪い学生に,講義ノートをコピーしたりして要領よく正解を出す学生より低い評価をしていいのだろうか? 「いい」というのが,高度成長時代の考え方だったように思う。所詮はすべてが結果で評価されるというわけだ。しかし,最近の社会情勢は,プロセスを重視する方向に変わってきている。なるほど,企業の中には相変わらず効率だけを考えてリストラの嵐を吹かせているところも多いが,個人レベルでなく,事業主体としての評価を見れば,正当なプロセスを踏むことが重視されるようになってきている。それがISO 14000番台の取得とかいう動きにつながっている。そう考えると,大学における評価も,結果よりもプロセスを重視するように変えるべきなのではなかろうか? そう思うのである。試験の仕方を工夫することに改善の余地は残されているように思うが,まあこちらの負担が増えるのは覚悟せねばなるまいな。学生のすべてが研究者を目指すわけではないし,むしろ研究者でない職を目指す学生が社会に出て税金を払って研究職を支えてくれるのだから,文部教官として給料をもらっている以上,その程度の負担は仕方ないのではないだろうか。なんて,年間3〜4回しか講義をしないぼくがいっても,全然説得力がないか。

ふとCurrent Anthropologyのサイト(http://www.journals.uchicago.edu/CA/journal/index.html)を見たら,最新号がWEBで全文読めるようになっていた。過去に2度ほど触れたGreg Ladenらのヒト化のきっかけについてのベークドポテト仮説の論文を早速ダウンロードしたが,これは次回の教室ミーティングネタにできそうである。ついでにメモしておくと,昨日の信濃毎日新聞朝刊に出ていたガラパゴスゾウガメの近縁種の話は,ProNASの最新号にソースがあった。ここまでいくとほとんど趣味の領域に属しそうな気がするが,一応ダウンロードした。時間があるときに読んでみる予定である。

今日のあさま2号は殺人的な混み方であった。団体客がいる風ではないので,偶然なのだろう。デッキで立っている人が各車両10人以上いるのだ。1本遅らせようかと思ったが,どうせ大宮で乗換えだし,到着時刻が30分ほど違うので,ぼくも立っていくことにした。というわけで,この文は左手でvaioを支えて右手だけで打っているのだが,やっぱり打ちにくいなあ。


前【176】(朝の虹 [Rainbow in the morning sky](1999年11月10日) ) ▲次【178】(3歳児健診と七五三(1999年11月12-14日) ) ●枕草子トップへ