枕草子 (My Favorite Things)

【第285回】 読書ノート(2000年4月22日;23日ちょっと追加)

今日は6:00前に起きて自転車で3往復,転居の一部としての荷物運びをし,娘を保育園にやってから,9:36発あさま510号に乗った。新宿で12:00から人口大事典の編集委員会があるので,大宮乗換え埼京線だ。昨日あたりから長野市内の桜も満開に近くなり,暖かくなってきたためか,自転車で荷物運びをしている間は花粉症の症状はでなかったのだが,新幹線で佐久平,軽井沢近くにきたら,くしゃみと鼻水が止まらなくなった。高性能人間花粉探知機とでもいおうか。

最近はちっとも書評掲示板も書いていないのだが,実は読了した本は貯まっているので,ここで簡単に紹介しておこう,というのが今日の主旨だ。書評というといろいろ書く必要があってなかなか登録できないのだけれど,そこまで行かなくても感想を書かないのはもったいないような気がするので,こういう手をとることにした。そういう主旨で書いていたものとしては,18年前から7年ほど前まで紙として存在していたのだが,今は最後の1冊しか残っていないのが残念だ。

宗田理「新・ぼくらの円卓の騎士」(角川文庫)
以前の「ぼくら」シリーズを「七日間戦争」以来ほとんど全部読んでしまった流れで手にとってしまったのだが,子どもに元気をという主旨はいいにしても論理の単純化が過ぎるのではないかなあ。
橘みのり「トマトが野菜になった日」(草思社)
中南米原産のトマトが,いかにしてこれほどポピュラーな野菜として世界中で食べられるようになったかを追った,渾身のルポ。「絶対音感」と同じく素人にしては良く詰めてあると思うが,結局は「よくわからない」で終わっている部分が多いのがやや残念。とはいえ,トマトが良く育った南仏やイタリアでは簡単に受け入れられて食べられるようになったのに,育たないイギリスや北仏では「毒がある」と信じられることが長かったという記載は,現代の都市住民にとって生産の現場が遠くなってしまっていることや,感覚的なGMOへのアンティパシーを考えると,示唆に富んでいる。
川端裕人「緑のマンハッタン」(文藝春秋)
この日記でもさんざん触れた(4月6日7日)けど,環境保全運動について知りたい人は必読。希望としては今後日本で同種の取材をして本を書いてくれないだろうかということ。ディープエコロジストや似非エコロジストはたくさんいると思うし,最近企業でもゼロエミッションが義務のようになってきているし,安渓さんや和尚さんみたいな面白い人もいるしね。どう?>川端
グレッグ・ベア「ダーウィンの使者(上・下)」(ソニーマガジンズ)
訳者の大森望氏が巻末で野田令子博士に本書を捧げているのはさもありなんという感じの本。ブラッド・ミュージックを書いたベアであってみれば,内なる異物モノのバリエーションとして思いつきそうな話ではあるが,ロビン・クックのコンタジオンとインベーションを混ぜて,小松左京の静寂の通路と継ぐのは誰かを練り込んで,イエスの遺伝子でトッピングしたような贅沢さといおうか。あるいはループのような搦め手からでなく,リング+らせんに正攻法で解を与える方法ともいえる。ていうかSFファンなら必読と思う。とくに生物系SFが好きなら読まずにいることは不可能であろう。
川端裕人「オランウータンに森を返す日」(旺文社)
については昨日書いたように,児童書の枠にとどめておくのが惜しいような本である。環境教育とかいうなら,ケナフを植えるとかいう単純かつ欺瞞的なやり方ではなく,本書を読ませた方がずっと役に立つ。最後に解題されて,ああ,そうだったのか,と漸く著者の意図に気づいたのは,ぼくは相当にぶいかも。これを書いていたら新幹線の電光掲示板で埼玉のブリーダー失踪によって放置された犬の大量死のニュースが流れて,ふと考えたが,家畜と野生動物の境界って何なのだろう。いくつかの捉え方があるのは自明だ。動物そのものの側から考えれば家畜は自分自身の能力で自然界から餌を得ることが十分にはできないが野生生物はそれができる,といったところか。しかしこの場合は境界が曖昧になる。例えば,銀座のレストランのゴミ箱で餌あさりをしているラットや浅草寺でパンくずを貰っている鳩と,パプアニューギニアの村でバンディクートや野鳥を捕って暮らしている飼いネコとでは,明らかに後者の方がこの能力は高いが家畜には違いない。するとまったく別の考え方が浮かんでくる。つまり,「飼い主がいれば家畜」という考え方だ。この場合は境界ははっきりしているが,家畜か否かがその動物自身の属性でなくなり,飼い主という妙な存在との関係性によって決まることに注意が必要である。ここで放置されて大量死した犬について考えてみると,飼い主たるブリーダーがいてもいなくても彼ら自身の属性に違いはないから,放置されて死んだのは飼い主個人の責任であって社会保障をする必要はない。しかし翻って考えてみると,ブリーダーという職業の存在を許しているのは社会だから,やはり社会保障する必要があるのかもしれない。とすれば,問題はそこまで考えて「飼い主」なるものの存在を許しているのかどうかということだな。社会保障を否定するなら,許さないように社会的に運動しないと論理的整合性がない。もっとも,常に自分の行動に論理的整合性を維持し続けている人などほとんどいないと思うし,それでいいのだけれど。
篠田節子「女たちのジハード」(集英社文庫)
直木賞をとったのが頷ける作品。田辺聖子解説によれば,男性審査員に評判が良かったのが紀子だというが,ぼくは自立したくないというのは人間として幼稚なだけではないかと思うので,なぜ評判がよいのかわからない。

人口大事典の編集代表委員会は大先生ばかりで緊張した。ぼくもまだまだ人間ができていないな。

パソコン通信友達だから10年前くらいからの知り合いだが,銀座で行われた友人の結婚披露パーティに出て,昔話に花を咲かせ,有楽町から上野に出て22:14発あさま537号で帰宅。


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