枕草子 (My Favorite Things)

【第578回】 アナログとデジタル(2001年7月4日)

今日は目が覚めたら五時を半刻ほど過ぎていた。ぼくの時計は大きい針がついているので,一目でだいたいの時刻がわかるのが利点だ。反面,正確な時刻を読み取ろうと思うと,ちょっと目を凝らして,少なくとも小学校一年生が使うくらいには前頭葉を働かるか,あるいはボタンを押して小さなデジタル画面の表示を日付から時刻に変えねばならない。しかし,正確な時刻が必要なのは電車に乗るときくらいだし,そこまで正確に時計を合わせているのかといえば疑問なので,一般の人には実質的には問題ないだろう。新幹線通勤者としては,電波を受信して自動的に時刻合わせする機能をもったWAVE CEPTORの,アナログ針とデジタル表示を併せ持つコンビというシリーズに心惹かれるが(5月に出た新型は格好いいけど六曜は要らないので,旧型のWVA-100KJ-8AJFや,ちょっとごついが10気圧防水のFKT-110DJ-7EJFが物欲をそそる),ntpプロトコルで常に正確な時刻合わせがされているデスクトップコンピュータを見ながら研究室で手動で時刻合わせをすればいいのだから,環境負荷をかけないためにも,とりあえず壊れるまでは現在の時計を使い続けようと思っている。

目分量で味噌汁を作って手早く朝食を済ませ,六時四十分に家を出た。結局チェーンカバーには問題がなかったのでカバーをし直したら五分かかってしまい,自転車を飛ばした挙句に七時二分発あさま号に駆け込み乗車する羽目になってしまった。まあ,いい運動である。

さて。時計からの連想というわけではないのだが,昨夜書いたベイブレードとベーゴマの違いも,デジタルとアナログの違いではないかと思いついた。ベイブレードの最新のものは5層構造になっていて,各層ごとにいくつもあるパーツを組み合わせ,いろいろなオリジナルベイブレードが作れるそうだ。ベーゴマも削ったり半田を載せたりしてオリジナルものを作るわけで,自分の駒を強化するという意味では共通である。違いは,ベイブレードの強化がデジタルで,ベーゴマの強化がアナログということだ。いくらたくさんの組み合わせがあるといっても,仮に各層10パタンあるとしても全部で10万通りの駒しか作れない前者に対して,切り込み一条でもほぼ無限の形と深さがありうる後者を比べれば,どちらが多様になりうるかは明らかだろう。

しかも,前者の差異は見た目にもはっきりしていて紛れがなく,デジタル情報なので何度でも再現されうるから,強い組み合わせがあれば,そこに向かって淘汰がかかりそうだ。そうすると,ますます前者の多様性は減じる方向になる。一見大きな違いがあることが目立つので多様な気がするが,種類としては少なくなりそうだ。一方,後者の差異はごくわずかであり,かつ再現可能性が低い。つまり,仮に手順を書いたマニュアルがあって,それをできるだけなぞったとしても,まず同じものはできない。それゆえ,多様な駒は多様なままに存続しうる可能性が高くなる。

最大の差異は,デジタルのモノにはスキルの入る余地が小さいということである。しかも,一度覚えてしまえば偶然失敗する可能性も低い。覚えなくても,機能がマニュアル化できそうだ。実際,「カオスだもんね」によれば,ベイブレードでは攻撃型とか防御型とか持続型という組み合わせが提供されているそうだ。一方,三十年程前の経験からすると,ベーゴマは,実に微妙な違いで,強かったり弱かったりしたことを思い出す。初期値の微妙な違いが強さという目に見える違いを生み出し,それが連続でないということは,即ちカオスである。アナログにはカオスが見出される可能性があり,そこが期待感を生む。言い換えると,偶然強いものができるかもしれないという要素は,その遊びの奥行きを深くする。その点に限界があるベイブレードは,各層のパーツの種類を増やしたり層を増やしたり,あるいはシューターに速度表示機能をもたせるといった付加価値をつけたりという方向性で商売は進むのかもしれないが,この,アナログにしかない面白さを得ることはできないと思う(あるいは,もしかすると子どもたちは勝手にアナログな改造を施し始めるかもしれないが,商売を全国規模で展開する基礎となる対等な対戦可能性のために,アナログな改造はルールにより抑圧されそうだ)。人々がかつて一世を風靡した「たまごっち」に飽きた原因もこのあたりにあるのだろう。

ここで,ちょっと論点を変えてみる。ニッポンニッキで最近大介さんが展開していた例え話でいえば,粘土細工はアナログであり,ブロック模型はデジタルだ(だから,あの対比は学習方法の違いである以上に,対象物の属性の違いを意味してしまうと思う)。別の例でいえば,自然はアナログで情報はデジタルである。アナログのモノを完璧に写し取ることは,量子力学的に不確定性原理により不可能である。そこで生まれる微妙な違いこそが創造の原動力なのではないかとさえ思える(生物の世界を考えてみても,突然変異の多くは一塩基置換であり,淘汰と隔離によるその集積が進化の原動力である。故大野乾のいう「一創造百盗作」)。分析的な科学の面白さは,アナログのものをいろいろな切り口で切ってみて,その断面(おそらくはデジタル化しやすい)で見える仕組みを解き明かす点にあるが,切り口をいくら集めても全体を完全に再構成することはできない。だから,既知の要素を組み合わせ確率的変動を加味した再構成,たとえばシミュレーションモデルで得られる結果は,常に現実のある断面の抽象に過ぎない。

もちろん,完璧な再構成ができなくても,コアとなるいくつかの切り口から再構成された「全体」には実用上十分な意味があるし,実際,医学や工学はそれで動いている。いや,実はアナログのモノがカオスであるならば偏微分は不可能だから,本当は「切り口」も存在しないのだが,ある変数で偏微分可能と思われる点で偏微分してデジタルな仮の切り口を得るというのが科学の「仮説」であるともいえる。しかし,そろそろこのやり方も限界に近づいてきたのではないだろうか。ニッポンニッキで奥野さんが再三科学の限界みたいな点に触れられるのは,この言い方でいえば,現実には偏微分不可能な点がたくさんあるということではないか。アナログのモノを丸ごと把握することが可能な科学は成立しうるだろうか? とちょっと考えたが,科学の方法がconjectures and refutationsによっていて,問われるのが再現性である以上,これは語義矛盾である。不可能でないかもしれないが,それは既存の科学とはまったく違うものになるはずだ。

読み返してみると,アナログとデジタルの定義をせずに書いているし(ここで論じたことの多くは,この対比[あくまで対比であって二分法ではない]を連続と離散と言い換えても成立すると思うし,それとの異同も論じるべきかもしれないが,あまり厳密な立論をすることがこの文章の目的ではないので放置することを許されよ),どこかで聞いたようなネタで,例え話が多くて,なんだかまるでソーカルに批判される科学論者が書きそうな文章の出来の悪い模倣のようなので赤面するが,まあ日記だし,せっかく書いたからとっておくことにしよう。

でも欲しいぞ,ベイブレード。

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川端からメールが来て,「ペンギン、日本人と出会う」は版元品切れではないことがわかったので,再注文しようと思う。しかし本の流通というのは妙なものだなあ(あまり首をつっこみたくないが)。

今日発行のProceeding of National Academy of Sciences, USAのPopulation Biologyセクションに載っていた論文は強烈だ。疫学調査結果なのだが,デハイドロエピアンドロステロン(DHEAS)という舌を噛みそうな名前の副腎ステロイドホルモン(生理学的には役割は未解明)の濃度と喫煙の有無によって分けたグループ間で死亡率を比較したら,女性では差がなかったけれど,男性ではDHEASが低い群は高い群より70歳未満での死亡率が統計的に有意に高くて,とくに喫煙者でDHEASが低い群が最高の死亡率,非喫煙者でDHEASが高い群が最低の死亡率だったとのこと。これまでも喫煙の有無と肺ガン罹患との関係はクリアだったけれど,DHEASとの相互作用を含めて死亡率への影響を示した研究は初めてだと思う。読んでみなければ。


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