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書評:高見広春『バトル・ロワイアル』,太田出版

最終更新: August 18, 2005 (THU) 18:30 (書評掲示板より採録)

書誌情報

書評

巻末のFrom Editorsというところを読むと,大変な問題作で,凄い衝撃度だなどと書かれているが,フィクションである以上,何も現実の中学生が生き残るための殺し合いをするなどという字面通りの読み方をする必要はないわけだから,「少年の自立をテーマとした不条理文学」と位置づけて,何も問題はない。「デス・ゲーム小説」などという分野があるのかどうか知らないが,本作品の意義を矮小化するレッテル貼りではないか?

そう,これは不条理文学である。カフカの「変身」の主人公ザムザが目覚めてみると何の前触れもなく大きな芋虫になっていたのと同じく,主人公の中学生たちが目覚めてみると,住民を退去させた島で殺し合いをして生き残った最後の一人だけが助かり,しかも死者が丸一日出なければ皆殺しされる,という状況に放り込まれている。もちろん背景はきちんと用意されていて,彼らの暮らす社会は,日本が第二次大戦に負けなかったらかくあろうかという全体主義国家「大東亜共和国」であり,毎年ランダムに選ばれた中学3年生が50クラス,「プログラム」と称する殺人ゲームに放り込まれることになっている。しかし,それに「あたって」しまう確率は800分の1以下なので,主人公たちを含め,一般には実感されないイベントとなっており,だからこそ彼らはそれを不条理と感じるのである(とはいえ,密かに囁かれる恐怖となっており,政治的統制力の源の一つである)。

物語は,中学生たちの中でも,七原秋也という少年の視点から語られてゆく。普通の中学生である彼らは,当初は協力してこの不条理な場から脱出しようと試みるのだが,中に入っていた1人のサイコパス(脳の器質性の障害により無良心)と1人のアダルトチルドレン(被虐児)は,躊躇うことなく自分が勝ち残るために殺人を始め,実際に殺人が起こるのを見て恐怖心を募らせた中学生たちは,何人かの例外を除いて,殺し合いをエスカレートさせてゆく(しかし,最初の殺人は,この2人によってではなく,イジメを受けていた普通の中学生が,恐怖心を募らせた挙げ句に引き起こされ,この物語の展開を暗示する)。普段とは違った本性をみせる同級生に接して人間というものに対する考え方が変わったり,自己認識を改めたり,悔いが残らないように恋を告白したり,と多様な対応を示す中学生たちの姿が,情景が浮かぶほどの綿密さで描かれる。つまり,不条理な極限状況にあって,彼らは成長してゆくのだ。しかも,この成長は社会化という方向ではなく,人間としての内面的成長である点に注意すべきと思う。

物語は,不良と思われていた転校生,川田が,危機にあった秋也を意外にも助けてくれるところから,意外な方向に転がってゆく。二転,三転するストーリーは,緊張感を盛り上げつつ,アッという(だが,頭のどこかでは希望的観測として思い描いてもいた)結末へとつながる。読んだときの興趣をそぐといけないから,これ以上詳しくは触れないが,冒険小説としても青春小説としても第一級のものである。

しかし,別の読み方もまた可能である。肉体的な次元で描かれている状況としては,なるほどこれはフィクションだが,精神的な次元に投影してみたらどうだろうか。これは紛れもなく現在の中学生を包む現実かもしれない。他人を蹴落とし,イジメを行い,教師には心を許せず,と報道される中学生の姿を想起すると,恐怖心から互いを信じられなくなって殺し合う姿が不気味なリアリティをもってしまうのだ。

この作品の評価が不当に低くなされることがあるとすれば,ときおり地の文の中に括弧付きで挿入される「合いの手」のようなことばや,3年B組の主人公たちを戦闘状態におくための管理者が坂持金発,部下の兵士たちが田原,近藤,野村(かつ野村はどことなく影が薄い)といった,作者の遊び心が気に触ってのことだろう。しかし,「3年B組金八先生」という,あの生徒を理解するような振りをしながら如才なく生徒を大人に社会化させてしまうテレビドラマへの批判を読みとれば,一見たんなる遊び心の発露と見えたこれらの諧謔が,別の意味をもって迫ってくる。成長とは無批判に社会化することではなく,社会がおかしければそれを批判することも含むべきだし,その基準は自己の内面にあるべき,という強いメッセージがここにはあるのだ。この作品が胸を打つのは,そのためではないだろうか。

【1999年10月5日記】


本書中のサイコパスと同じことが実際にありうるらしいことが最新のNature Neuroscienceで報告された。本書の設定がよく考え抜かれたものであることがわかる。

【1999年10月28日記】


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