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書評:川端裕人「竜とわれらの時代」(徳間書店)

最終更新: October 7, 2005 (FRI) 16:58

書誌情報

書評

書き出しはこうだ。

雑木林の林床は、雪が完全に融けた五月下旬になってようやく乾いた音を立てるようになった。一歩進むごとに、足音が軽快に鳴る。来週になれば田植えにかり出されるはずだし、そのあとにはすぐに梅雨がやってくる。だから、今、この瞬間が、今年で最高のフィールド日和だった。

急峻な丘の稜線に達すると、風見大地は振り向いて大きな声で言った。

「海也、がんばりんか!」

ふたつ年少で高校一年生になったばかりの弟が、背中に色の褪せた青いリュックを背負い、真っ赤な顔をして登ってくる。すんなりと背が高い大地よりもいくぶん肥満気味で、お下がりのマジソン・スクエア・ガーデンのTシャツが、やや突き出した腹に張り付いていた。

これだけで日本海側の冷たく透き通った空の下,山奥を歩き進む兄弟の姿が目に浮かんできて,読み進むのを止められなくなってしまった。本書は,少なくとも,1つの読み筋としては,この兄弟が恐竜の化石を発見して,それを発掘することを通して大人になる,青春小説だといえる。もちろん,これは川端裕人の小説なのだから,それだけの話ではない。綿密な取材に基づいたさまざまなファクターが絡んできて,多層的な読み方ができる。が,互いに微妙なコンプレックスをもちつつ認め合っている兄弟が,それぞれの自己実現をしながら,恐竜の化石を発掘することで少年時代の夢を実現する,という基本線が1本通っていることによって,この物語には揺るぎない骨格が与えられたのだと思う。

現実問題として,少年が恐竜の化石を発掘してしまうことはできない。大人に知らせたが最後,自分の手の届かないところに行ってしまうかもしれない。そこで兄弟は恐竜化石のことを秘密にして,将来自分たちで発掘する道を選ぶ。

大学を出た大地は,米国の恐竜研究の第一人者であるクリス・マクレモア教授の下に留学し,Ph.D.の研究計画として,少年時代に恐竜が埋まっていることを知った手取層群の発掘を進めようとする。クリスの下で技官として働いているロジャー・フォレストは,実は風見兄弟が高校生だった当時,手取を訪れて海也に会っていたことがわかり,なにやら裏がありそうな雰囲気を感じさせるのだけれども,そのロジャーが紹介してきた「The Foundation」からの資金提供の申し出を,クリスは受けてしまう。全米科学財団が資金援助を断ってきたためである。一方,海也は農学部を出て,手取の里で農家を営んでいるのだが,いよいよ大地が発掘を進めるためにロジャーとともに帰国したのを出迎えるところから,再び兄弟はこの恐竜に向き合う。

とはいっても,発掘は一筋縄ではいかない。兄弟が恐竜化石に初めて出会った場に偶然居合わせたことから彼らの運命に絡んでくる,高校のマドンナ的な存在であった草薙美子とか,高校時代から兄弟に勝手にライバル意識を燃やしている,地元の名士の息子で野球部キャプテンだった辻本裕一,兄弟の父親で反原発ジャーナリストであり挫折感を抱いて鬱々としている風見忠明,手取の自然とつながって生きている,兄弟の祖母である文ばあ,といった人々が絡んできて,青春小説的な側面に深みを与えるのと同時に,村おこしには熱心だけれども舞い上がって学問的には頓珍漢なコメントをしてしまったりする地元村長とか,村おこしの目玉を争って競い合う3町村の様子といった,現実の複雑で難しい状況も自然に描き出してくれる。読み進むうちに,手取が現実にある場所であるかのように錯覚してしまうほどだ。何とか世界最大の恐竜,テトリティタンの発掘に成功したかとみえたとき,クリスが暗殺されそうになって失踪し,ほとんど同時にテトリティタンの化石も盗まれてしまう。

最初の方で出てきた,クリスの教室運営法はすぐれていると思う。教授の仕事のうち最大のことは金を取ってくることだが,「常にT-REXのような,目立つ恐竜を表に打ち出した発掘を行い,その時に,地味だが学術的に価値の高い,ほかの化石も手を抜かずに集めてきた。そして,自分自身の論文だけでなく,各国研究者との共著,自分の学生たちの研究を通じて,サイエンスに多大な貢献をしてきた。」というのは,米国の有能な研究者の理想像の一つであろう。他にも,サイエンスの現場を支える現実が丹念に描写される。現実そのものではないにしても,かなり似たような状況が現実にある,科学の営為をわかってもらうためのテキストとしても優れていると思う。大地たちと対立するK大学青戸教授のような,権威だけはあるダメ科学者も現実に少なくない(また,このダメさの描き方が上手いんだ)。フィールドワークの描き方も絶妙だと思う。

クリスが戻ってきてからは,話が大仕掛けになっていく。恐竜がアメリカそのものだという語りを背景に,クリスチャン・サイエンティストやイスラム原理主義者が絡んできたりする一方で,恐竜を巡る古生物学的な仮説もどんどん変わっていく。クリスと大地たちとの論戦(恐竜古生物学会でのやりとりが面白い。とくに,分岐分析の不完全性をつきつけられてクリスが打ちのめされるところ)など,進化古生物学の最先端の現場の雰囲気があますところなく描かれている。そこらの科学ルポよりよほど優れている。

ここから先,3町村の対立も絡みながら恐竜博が開催されることになるのだけれども,そこで大惨事が起こりそうになり……と,ラストに向けてサスペンスが盛り上がっていくスピード感は,冒険小説としてもこの作品を優れたものにしている。いろいろな意味で,何度も楽しめる作品である。

なお,「本」というメディアとしてみると,表紙の美しさも特筆すべきである。ハードカヴァーの重厚なテトリティタンの頭蓋骨格も素晴らしかったが,文庫版の生態復元画は,ため息がでるほど美しい。カヴァー絵の作者との間で,出資者を募って版画化して販売する計画が進行中なようで,楽しみなところだ。


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