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書評:川端裕人『エピデミック』(角川書店)

最終更新: January 16, 2008 (WED) 10:33

書誌情報

書評

川端君自身が書いている通り,『竜とわれらの時代』以来,久々の書き下ろしで「本格感」のある長編小説であった。他の作品も,それはそれで味わい深いのだけれども,やはり読み応えという点からすると,川端君には,ときにはこういう小説に取り組んでほしいと思う。川端君の「本格感」のある長編小説は,ただ小説として面白いだけではなくて,『夏のロケット』は航空宇宙工学,『リスクテイカー』は金融工学,『竜とわれらの時代』は恐竜学といった具合に,科学のある分野のわかりやすくて筋のいい入門書になっているという特徴をもつ。言ってみれば,読むだけで教養が身についてしまう。

5年間は待ち長かったけれど,本書は,読者を待たせただけのことはある作品だと思う。謎の感染症が流行して,右往左往したり冷静に対策したり謎解きをしたりするという小説は数多あれど(古くはデフォー『ペスト』とか,ロビン・クック『感染』とか),現実にそうした感染症が流行したときになされるであろう対策として,本当にありそうな道具立てを使って論理的に謎解きを追うことができる作品は他にないだろう。篠田節子『夏の災厄』は公衆衛生的なリアリティの点ではかなりいい線いっていたんだが,結局は人間ベースの謎解き話に還元されてしまったのが惜しいところだった(まあ,それもありうることだが)。新興・再興感染症に対して,人類はウイルス学・微生物学のみならず,疫学を使って対処できるのだということを鮮やかに,生き生きとした物語に結実できたのは川端君の才能だと思う。つまり,本書はオッズ比やR0(アールノート)について正しく説明されている,たぶん本邦初(もしかすると世界初)の疫学小説なのだ。個人的にも,その成立に多少とも貢献したつもりなので,売れてほしいなあと思う。

ストーリーを簡単に紹介する。東京に程近い半島の突端にあるC県T市で,突如として謎の熱病が流行しだすのが,物語の発端である。偶々C市の院内感染対策でC県にいたフィールド疫学者島袋ケイトが,T市の総合病院から重症化するインフルエンザと思われる患者が3例集積したという連絡を受けて現地に向かう。他のフィールド疫学者,現地の保健所職員,開業小児科医,総合病院の医師,ウイルス学者,新聞記者,謎の団体,動物愛護施設,漁村や農村の住民たち,といった多彩な登場人物とケイトのやり取りを通じて,徐々に事態が明らかになっていくわけだが,そうした現地調査をしているうちに,一旦は終息するかと思われたこの病気が蔓延しはじめる。このまま大流行してしまうのか,という気配を半分くらい漂わせながらも,ケイトたちは,原因も感染経路もわからないまま,「確率密度の雲の中で踏みこたえつつ」1つずつ可能性をつぶしていき,疫学の道具立てを使って真相に迫っていく。そして最後は……という話である。テンポ良くサスペンスが盛り上がっていくので,疫学用語に多少引っ掛かりを感じるかもしれないが,それでも最後まで一気読みできると思う。

感染症対策の現場における疫学・公衆衛生学関連の記述が鋭くも正しいので,本書は,学生に疫学を教えるときのサブテキストとしても使えると思う。例えば,p.205のケイトの科白「感染症って,そんなに甘いものじゃない。SARSの時だってそうだったけど,感染を断ち切ることと,人権の保護は,両立しない瞬間があるのよ」とか,p.240から241の,新聞記者が書いた新型インフルエンザの解説記事の内容とか,さらに既に触れたオッズ比に加え,p.267では交絡要因(コンファウンダー)までもが正しく紹介されている。p.378での棋理文哉がいう,未知の感染症で人をパニックに陥れる要素は致死割合と空気感染の2つだというのも名言だと思う。例えば,エボラの怖さは「炸裂」と表現される症状の激烈さもあるけれど,それ以上に致死割合の高さが源だと思う。他にもこういうのがてんこ盛りだ。しかもそれだけではなく,SARSとかインフルエンザとか麻疹といった現実の感染症流行と虚構との織り交ぜ方が絶妙だと思う。

あと,もう一つ強調しておきたいのは,自然描写が鮮やかで美しいことだ。その点,篠田節子に勝るとも劣らない。例えば,T市を走るバスの車窓からの風景についてのp.46の鮮烈さ。

さらに一〇分ほど走ると,ケイトはクジラのことを忘れて,山側の景色に意識を奪われた。

黄色,赤,オレンジ!

色が爆発する。

一瞬,何がどうなったのか分からず,気づいた時には,涙が出そうになっていた。

極楽ってこんなふう? 祖母が亡くなる前によく言っていた。極楽は,一面の花畑で,好きな人と好きな時に会える……。

まさに,その一面の花畑,なのだ。

実は,ぼくは何度も千葉県館山市に通ったことがあるのだが,まさに館山の花畑といったらこの通りで,脳裏のイメージが一気に甦った。なかなかこんな風に書けるものではないと思う。

末筆ながら,本書を読んで疫学に関心をもったり,オッズ比の信頼区間の求め方を知りたくなった方は,拙著『Rによる保健医療データ解析演習』(編集者の手が入る前の草稿はpdfで公開)の第10章とか,山口県立大学に勤務していたときの疫学の講義資料とか,群馬大の公衆衛生学の講義の中でやっている疫学の講義資料が参考になるかもしれない。時間があったら,これらを元ネタにして,棋理文哉の疫学講義の様子を二次創作したいところだがなあ。「や,いいところに気づいたね。そう,稀な病気の場合は,罹患率を計算しようとすると莫大な人数をフォローアップしなくちゃいけない。だから症例対照研究でも出せるオッズ比に大きな意味があるんだ。」みたいな。

(おまけ)誤植を2つ見つけたので書いておく。

(25日追記)この評へのリンクも含むblogエントリを川端君が書いているのだが,そこでリンクされているkashinoさんとかkelsoさんとかのサイトを拝見すると,『エピデミック』をきっかけにして,感染症数理モデルに嵌ってしまったり,『ロスマンの疫学』を読んだり,という波及効果がもたらされている。これって凄いことだ。医学部の講義で疫学を説明してもなかなか学生の心の琴線に響かせるのは難しい(affinityをもった学生にしか響かないことが多い)のに。日本疫学会は『エピデミック』を推薦図書として普及奨励賞でも出したらいいんじゃないだろうか。

【以上,2007年12月11日;12日追記;25日微修正・追記】


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