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書評:生田哲『インフォドラッグ 子どもの脳をあやつる情報』(PHP新書)

最終更新: June 1, 2007 (FRI) 15:32

書誌情報

書評

タイトルから想像される,宗田理『ぼくらのグリム・ファイル』とか川又千秋『幻詩狩り』に出てくるような,知るだけで危険な文字列が本当にあったという話なら面白かったのだが,そうではなかった。一言で言うと,科学の顔をした《反ゲーム》プロパガンダ本だった。類書としては,森昭雄『ゲーム脳の恐怖』(NHK生活人新書)は論外として,岡田尊司『脳内汚染』『脳内汚染からの脱出』に近いらしい(らしい,というのは,そっちを未読なので)。本書はいろいろ書きすぎな点があり,そのまま受け入れるにはかなり眉唾である。ただ,『ゲーム脳の恐怖』よりも煽り方が巧妙なので,引っ掛かってしまう人が多いような気がする。その意味で,クリティカル・シンキングのための格好のトレーニング材料となると思う。

例えば,著者は,欧米で暴力犯罪が増えているという統計をもちだして,コロンバイン高校銃乱射事件のような特殊例や主観的主張を散りばめつつ,暴力ゲームが「暴力脳」を作ってきたせいだ,と主張する。しかし,仮に暴力犯罪が増えているという統計が正しいとしても,ゲームの流行状況がどう変化してきたかという統計がないので,それがゲームのせいであるという推論は不可能である。著者の主張は推論ではなく,たんなる主観に過ぎない。暴力犯罪の増加は,9.11以降の米国が対テロという大義名分を掲げ,真実がどうであるかによらず武力行使という暴力で問題解決を図ってきた世界の状況の影響かもしれない。あるいは,明確な外因がないセキュラートレンドかもしれない。つまり,時間を追って何かの発生率が上がってきているということだけでは,その原因を論じることはできないのだ。日本で若者の暴力犯罪が増えていないことを「ジャパン・パラドックス」と名づけ(何でパラドックスなのか? 暴力の原因曝露が同じという証拠もないので,欧米と違っていてもパラドックスではない。フランス人が高脂肪食を好んで食べるのに冠動脈疾患が少ないフレンチ・パラドックスとは話が違う),暴力に走る代わりにニートが増えていると主張するのだが,ニートの定義が間違っている。ニート問題の第一人者であろう玄田有史君が指摘するように,ニートになってしまうのは必ずしも本人の問題ではなく,社会的排除なのだということを,意図してか無意識か知らないが,著者はまったく無視している。

また,ゲームをすると前頭葉が発達しないと著者は主張するが,これにも根拠がない。マシュー教授のfNMRによる研究は,ある暴力ゲームとある非暴力ゲームをやった被験者の間で,暴力ゲームをやった方が前頭葉が働いていなかったというだけのものであり,それが暴力/非暴力の差なのか,ゲーム自体の特性の差なのかもわからないし,ゲーム一般に前頭葉が働かなくなるということではない(むしろ,マシュー教授のデザインは,「ゲーム」とひとくくりにして影響を論ずることの愚かさを示すものだと思う。情報の本質はメディアにあるのではなく,当然,そのコンテンツにある)。

また,コップ博士らのNatureの論文で「ゲームによる脳内でのドーパミンの放出は,アンフェタミンやメチルフェニデートを静脈注射したときに匹敵する」と書かれている(注:原著未確認だが,著者はそう紹介している)からと言って,『コップ博士らの研究結果を言い換えるとこうなる。成長段階にある子どもの脳にとって,テレビゲームをすることは,覚醒剤を静脈注射するのに似た行為である』と書いてしまうナイーブさは科学者とは思えない。もし本当にこの違いがわからないとしたら,誇大広告に騙されたり,自民党政権から「B層」として操作される危険が高いレベルなわけだが,薬学博士である著者がわからないわけがないので,意図的に読者を騙そうとしているのだろう。学者としては自殺行為だろう。

ただ,ゲームが依存を起こしやすく(「はまる」ように)作られているという点や,ドーパミンが放出されるという点はある程度当たっているだろう。読者が知っておかねばならないのは,ドーパミンが放出されること自体は悪いことではない(参考:東京都老人総合研究所・青崎敏彦室長による解説記事「脳内物質ドーパミンのはたらき」)ということだ。覚醒剤などは放出を促すと同時に再取り込みをブロックすることによってA10ニューロン付近にドーパミン過剰状態を持続的に引き起こすために,異常な興奮状態になったり幻覚をみたりするわけで,ゲームをしたときでは再取り込みがブロックされるメカニズムは考えにくいので幻覚を見たりはしないのだと思われ,「似た行為」とは到底言えまい。持続的な異常な興奮によって幻覚をみるほどなら飽きないかもしれないが,通常,ゲームは一時的に「はまる」だけで,時間が経てば飽きるということも著者は無視している。その意味でも「似た行為」ではない。

以上挙げた事例からわかるように,本書の論考は,ショッキングな事実を取り上げ,印象的なエピソードを混ぜながら,事実を主観的に拡大解釈していって,論理が飛躍した結論に至るというスタイルがつらなっている。クリティカル・シンキングのトレーニングとでも思わない限り,読む意味がない本だと思う。

【以上,2007年6月1日記】


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