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書評:川端裕人・岸裕司・汐見稔幸『「パパ権」宣言! お父さんだって子育てしたい』,大月書店

最終更新: August 4, 2006 (FRI) 21:21

書誌情報

書評

呼吸するのが生き物として当然であるように,父親だって親なのだから子育てするのが動物として当然だ。このスタンスを,ぼくは川端君と共有していると思っている。同様に母親だって,親なのだから子育てするのは当然のことで,社会なり職場なりのルールが往々にしてそれを許さないという文化は洗練度が低いと思う。

「パパ権」とは,本書「はじめに」によれば,「男性が子育てと家庭生活にたずさわり,その苦労とよろこびを享受する権利」を指す言葉として考案されたもので,社会は,子供がいるといないとによらず,すべての男性にパパ権を与えねばならない,というのが本書の主張である。

本書は子育てする物書きとして知られる川端君が自身の経験というトークンレベルでの父親の子育てを語り,秋津コミュニティをベースとする岸裕司氏が地域での子育てとその中での父親の役割を語り,「父子手帖」を作った汐見稔幸教授が父親の子育ての歴史と社会の中での位置づけを語り,最後に3人が鼎談するという構成になっているのだが,個人的には川端君のパートが一番共感した。岸,汐見両氏のパートは,当然と思う部分と,都会でのみ通用する話だなと思われる部分があって,もちろん凄い実践をされているなあとは思うのだけれども,ちょっとズレを感じた。岸さんの話にはPTA活動のヒントがたくさん含まれていて,それはそれで有益だと思ったが,地域活動については,長野くらいの地方都市でさえ,大都会の新興住宅地とは違って元々の伝統が残っているし,農村部に行けば,まったく事情が違うだろう。まあ,日本人口の大多数は,いまや都市部に住んでいるので,農村部の人をターゲットにした本は出せないにせよ,多少は言及してくれたっていいのではないかと思った。

ただ,本書のターゲットは,ぼくのように「パパ権」をある程度行使している者ではなくて,むしろ,それまで家庭生活とも子育てとも縁が薄かったお父さん,しかも都会で満員電車に揺られて通勤しているようなサラリーマンであろうと思うので,そういう方には,目からウロコが落ちるような考え方や実践が多いと思う。多少自慢めいた書き方になっているところもあるが,楽しさが伝わればいいのだろうし,確かに楽しさは伝わってくるので,それはそれでいいのだろう。

以下,川端君のパート「第1章 マーパーの薔薇色の日々」について,多少細かく感想を書きたい。全然書評ではないんだが,inspireされたので書いてしまう。もしかしたら何かの参考になるかもしれないし,お許しを。

今から八年と少し前,息子が「やってきた」とき,いわゆる「立ち会い出産」だったこともあって,強い衝撃に打たれた。

もともと「観察好き」だから,目を大きく開いて一部始終を見届けた。人間の出産に立ち会うのは,医師や看護師や助産師でもないかぎり,自分の配偶者の出産のときくらいだから,せっかくの機会を逃すなんてどうかしている,というふうに考えるほうなので,つれあいも望んでいる以上,立ち会いは当然だった。

感動した,というのとは少し違う。いや,少し,どころか,かなり,違う。

やはり,衝撃,としか言えない。(p.19)

立ち会い出産は,保健学科出身故,いろいろ知識があるので,ぼく自身は,「衝撃」というのとはちょっと違った。助産師さんのテクニックが凄いなあとか,ある意味冷静に観察しつつ,でも,子供が外の世界に出てきたとき,手を差し出して,背中を受けたときの感じは,やっぱり「感動」に近かったかと思う。「せっかくの機会を逃すなんてどうかしている」には強く同意する。

ただ,多くの父親が,この頃に味わう,甘やかな敗北感(?)について指摘しておきたい。ぼくはそれを日々実感していたし,後に保育園で知り合ったほかの父親も似たようなことを異口同音に口にしていた。

それは,

おっぱい,ずるい。

である。(p.21)

まったく同感。何をしても止まらなかった夜泣きが,母親のおっぱいにありついた途端にぴたっと止まるのは,「ずるい」としか言いようがない。しかし,この経験を『ふにゅう』収録の「おっぱい」という小説に結実させたのは,川端君の作家的才能だと思う。

……(前略)……場合によっては,母親から「主任」の立場を奪うことすら夢ではない。

もちろん必ずしもそこまでやる必要はないわけだが,ぼくの場合はこのあたりから「主任」の意識が芽生えた。息子にマーパーと呼ばれたのもこの頃だ。

直接のきっかけは,というと,園の連絡ノートを書くようになったこと,かもしれない。子どもの園でのようすと,家庭でのようすをめぐって,保育士さんとかわす「交換日記」みたいなものだ。実はこれを書く父親は意外に少ないのだそうだ。(p.23)

連絡ノート! うちは妻と半々くらいだったかな。それでも,保育園の先生方とはすっかり仲良しになった。あれも楽しい。送り迎えだけではなくて,連絡ノートを読んで書くことこそ,保育園時代の子育ての醍醐味の1つといえよう。

……(前略)……子どものいない若いカップルは,その土地に住んでいても,人づきあいのネットワークという意味では,まったく「住んでいない」ことが多い。

今の世の中,多くの場合,子どもが地縁を引っ張ってくる。(p.24)

これも強く同意する。ぼく自身,元々は地縁も何もない長野市に住んでいるので,これは余計に感じる。

住んでいる土地で、人とのつながりがあることが今やごく自然に感じられる。少し、いや、かなり「大人」になった気分だ。もちろん「地域」が強すぎると、逆に「村社会的な閉塞感」に悩まされることだってありえるわけだが、目下のところそこまでタイトなものは感じないし、むしろ、心地よいのだ。(p.26)

これは玄田有史君がよく言う,weak tiesってやつであろう。子供がきっかけでできていくweak tiesのwebが広がっていくのは何とも面白い。ぼくも少年野球やら育成会やら学校の環境美化活動やらで,日々実感している。

子どもが二人とも保育園児だった頃は,「パパチャリ」の前と後に一人ずつ乗せて,片道三〇分以内を目安にあちこちの公園や川に連れて行った。(p.27)

長野とか前橋では非常に珍しがられるのだが,ぼくもどこに行くにも自転車なので,子供が2人とも保育園のときは後ろとサドルに子供を乗せて押していた(パパチャリではなかったんで)。片道2時間範囲くらい行ったものだが,長野で2時間押すと,すっかり山の中なので,子供たちも楽しんでいた。そのとき作った,長野遊び場案内というページを見ると,今でもその頃のことを思い出して楽しい。だから,川端君が「世界についてのガイドになる」という伝統を大事にというのは良くわかるし,ついでにいえば,子供と経験を共有した記録としてのガイドブックを作ってみると,もっと楽しい。これ,お薦めである。

息子と接するときには,「昔の自分」がどこかにいて,少年時代を生き直してしまうのに対して,娘とのかかわりは「知らなかった世界に導かれる」感覚がある。(p.32)

川端君とは,かなり共通した経験や感覚をもっているのだけれども,ここは大きく違う(今のところ)。我が娘は「新しい世界」に導いてくれることはなくて,息子とほとんど同じである。少年野球もやっているし,髪の毛が長くなるのも嫌いだし,ガサガサや釣りや昆虫採集も大好きだし。Kat-tunの亀梨和也君のファンなので,「女の子」でないこともないと思うが,服も息子のお下がりを好んで着たがり,おしゃれには関心がない。genderの差以上に個人差が大きいってことだろうな。まあ,まだ小学校4年なので,きっとこれから成長するにつれて,「知らなかった世界に導いて」くれるかもしれないが。今後の楽しみにしておこう。

ぼくが「マーパー」に目覚めた前後。つまり,息子が二歳児から三歳児だった頃,保育園の保育士さんから,絶賛されることしきりだった。

いわく,

「育児に協力的ですね。えらいですね。」

(中略)褒められているんだから,まあ,素直に喜んでおけばいいじゃないか,と言われると,そうかもしれない。でも,やはり違うのだ。

だって,ぼくは協力などしていない。

自分の子どもだから育てているのだ。(p.37)

この感覚も,ぼくにも同じ経験があるので,良くわかる。向こうに悪意はないのだけれども,やはり「協力」はバイプレーヤーがするものだ。だから,川端君が「なんだか我々の社会は,父親が育児をすることに慣れていないようなのである(p.39)」というのは正しい。でも,少しずつ変わってきているとは思う。10年前だったら図書館でも空港でも男性トイレではオムツ換え台はなかったものだが,今は新幹線の駅のトイレも多目的トイレは男女を問わず入れる。男性用トイレでも子供を待たせておく台がついているところもある。社会は一気には変わらないので,少しずつ慣れていくのを待つしかないのかもしれない。

p.40〜p.43のPTAの話については,昨年PTA会長をやってしまったこともあり,いろいろ感じることはある。確かに,幼稚園組の人が平日昼に会議を入れてくることはあるのだけれども,地域の区長の会議とか人権同和問題関連の会議とかもそうなので,自分の代わりに幼稚園組の人に出てもらわないとやっていけなかったりもして,それが納得の上でうまく動くといい組織になると思う。ぼくがもう少し連絡を密にとっておくべきだったと反省しているが,組織としてはいろいろ立場や活動可能な時間が異なる人が混ざっている点を困ったことと思うのではなく,利点に変えてしまうことはできるように思う。そうは言っても,我が校でも,各学級会長が出るPTA評議員会が年に5回ほどあって,この開催時間を変えようという動きが毎年あり,毎年挫折して妥協案で16:00からということになるのが実情である。つまり,フルタイムで働いていて小さい子供がいない人は土日とかもっと遅い時間帯がいいと言うし,パートか専業主婦で小さい子がいる人はもっと早い時間がいいと言って,互いに妥協せざるを得ないわけだ。前者は職場から「ママ権」を認められていなくて,この理由で時間休を何度か取ったために退職勧告を受けたりした人もいるそうだ。後者は夫が「パパ権」を行使していないか認められていないってことだろう。会議をバーチャル化できればいいのか? と思ったりもするが,やはり顔を合わせないとコミュニケーションが不十分という面もあって,なかなか解決はできない。今後,川端君がPTA活動をやっていく中で,何かうまい手を見つけてくれたら,日本中のPTA関係者が喜ぶに違いない。PTAという組織は,出来上がりすぎている面もあるし(とくに市P連の活動などはやりすぎな気がする。橋本治が言う,総務の肥大化が起こっている),未熟な面も多々あって,改善の余地は大きいはずだ(とは言うものの,ぼく自身は思ったことの半分もできなかったが)。

ラスト3行,

こっちの水は甘いぞ。

「子供」という存在が日常生活のなかにいるこの時期は、自分の人生の中の「珠玉」だ。

みすみす逃すのはもったいない。(p.43)

これはまったく同感,というか,子育てについては,これに尽きると思う。ぼくも以前どこかで似たようなことを喋った気がする。にもかかわらず,ぼくくらいの関わり方しかしてなくてもシンポジウムに呼ばれたり取材されたりしてしまうくらい,子育てに関わらない父親が多いということは,それに耳を貸すだけの余裕もない人が大部分なのだろう。そういう人にこそ,この本は読んでほしいんだがなぁ……。

【2006年8月4日記】


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