マラリアの新しいワクチンの話はやや専門的になりすぎたので,マラリアの第6章,マラリア対策の章に取り入れることにした(…と書いたものの,他の章の直しから始めたら終わらなかったので未完)。結論だけいうと,形質導入した組織がガン化するとか予想外の代謝が起こるとかの副作用がワクチンを受ける誰にも起こらないことが確かめられさえすれば,かなり有望と思う。
今朝,研究室に来る途中で,正門を入ってすぐ右のジュウガツザクラが咲いているのを見つけた。正門から安田講堂に続く銀杏並木が黄金色に色づくのはまだ先のようだが,医学部1号館と理学部2号館の間のケヤキ並木は結構色づいてきた(写真)。この分なら山上会館裏というか,御殿下グラウンド傍のカエデの紅葉も近いだろう。秋深し…と実感するのは,こんなときである。朝も結構肌寒くなってきて,自転車のハンドルに置いた手が,気が付いてみると冷たくなっていたりする。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので,夕方の日の暮れ方も早い。最近,子どもの浸出性中耳炎の治療のため17:30頃保育園に行くことがあるが,もう辺りは真っ暗である。もっとも,「釣瓶落とし」に実感をもつことは,今の東京では難しいかもしれない。釣瓶で水を汲む井戸なんてないもんなぁ。こうして死語が生まれてゆくのだろうか。先日買った,小林信彦さんの「現代<死語>ノート」(岩波新書, 1997)で取り上げられているような,流行語が死語となる場合ばかりではなく,モノの消滅とともに何となく使われなくなってゆくコトバも,何となくもの悲しさ(ノスタルジイ?)を感じさせる。
ところで,14:00から15:00まで母校にて逢坂剛さんの講演会があったので行って来た。第三志望人生だったというのは意外だったが,「百舌の叫ぶ夜」「カディスの赤い星」誕生秘話が聞けて満足である。「カディス…」は編集者が読んでくれなくて押入れで10年間眠っていた1400枚が二段組最小活字で1冊に纏めるため1250枚に削ったとか,スペインの写真も逢坂さん自身が撮ったのを使ったのはプロのカメラマンを使う予算がなかったからだとか。どちらもタイトルは編集者の功績とのこと。「さらばスペインの日々」じゃ旅行記みたいだもんな。「百舌…」は,最初は「百舌の啼く夜」だったが,「百舌」と「啼く」と2つも今どきの人は読めない漢字が入ってはいかんと指摘した集英社の編集の方は慧眼。百舌が叫ぶか? という逢坂さんの抵抗感もわかるけど,あの百舌の場合,啼くも叫ぶも甲乙つけがたい。鳴くよりは雰囲気が出ている。お父上は今でも現役の新聞の挿し絵画家で,デビューが直木三十五氏が名古屋新聞(今の中日新聞)で連載したものだったとか。その方が逢坂さんの直木賞受賞に際して,「実るほど首を垂るる稲穂かな」を餞したというのは流石であると思った。うーん父子鷹。(注:この段落,メモなので意味不明のところあるかもしれず,御容赦されたし)