今日はとても気持ちのよい青空が広がっている。朝のInterFMのnewsによれば予想最高気温は摂氏15度だということだ。小春日和,北米でいうIndian Summerといえるほど暖かいかどうかはわからないが,過ごしやすい一日になるだろう。
昨日は予定通り講義は終わったものの,論文を書く時間の目標達成率はせいぜい50%といったところ。ついつい講義準備が食い込んでしまった。しかも,気合いを入れすぎたせいか講義内容が十分に理解されなかったようなのが心残りである(わかっていたのなら何か反応して欲しい>学生諸氏)。
理解されにくかった原因を愚考するに,講義内容がいわゆる二つの世界に跨るものだったからではないかと思い至った(ただぼくの話が下手だっただけだという可能性はひとまず別にして)。いうまでもなく「二つの世界」とはC.P.スノウのそれである。養老孟司さんの「唯脳論」にも書かれているように,理科と文科という二つの文化,いいかえると実証主義と観念論である。養老さんの論は,それは脳の使い方の違い,使う場所の違いに過ぎないから,脳の機能という点で統合できる筈である,と進むのだが,世の中の大部分の人は,文系,理系を違いとして意識しすぎているために,ヒトに関する研究が理解困難なのではないかと思うのである(理系に対して幻想をもちすぎともいえる…ここでちょっと書いたが,両者に本質的な違いはないと思う)。
昨日の講義内容は人口学の「出生の分析」である。出生に関わる要因は,もっともミクロに見るならば【受精・着床・妊娠期間・分娩】であるが,それらがうまくコントロールされるためには適当な時期に適当なレベルのホルモンが働かねばならず,ホルモンの放出はさまざまな外界の因子の影響を受けた神経内分泌系の支配を受けるので,必然的に外界の因子を考慮する必要がある。外界の因子には視覚刺激,嗅覚刺激,内分泌攪乱化学物質の他にも,栄養とかストレスといったものも含まれる。さらに,ヒトはかなり意図的に出産コントロールをするので,その意思決定にかかわる社会経済因子も無視できない。また,言うまでもなく栄養やストレスは社会経済因子と強く関連する。ところが,従来の学問体系では,社会学者や経済学者は生物学的因子をほとんど無視した分析しかしてこなかったし,ミクロな生殖内分泌学をしている人たちは相対的に社会経済因子への配慮が不足していた。これらのアプローチを包含する出生力研究を行っている人は,かつてぼくの留学を受け入れてくれたPennsylvania State UniversityのJames William Wood教授など世界でも数えるほどしかいないのが現状である。生物学的なプロセスに基づいた個体ベースモデルで出生力転換のような集団の状況を説明できることが一つの目標となろうが,かなり遠い目標である(遠い方が面白いこともあるのだけれど)。
こういった内容は出生のページでおいおい整理していくつもりである。関心のある向きは気長に待たれたい。