枕草子 (My Favorite Things)
【第264回】 冬から春へ(2000年3月25日)
- 終電自体は悪くなかったのだが,長野駅で降りてみると,水分をたっぷりと含んだ雪が激しく降っていたのには参った。朝になっても降り続いていて,3 cmくらい積もっていた。真冬と違ってべちゃ雪なので,足元が気持ち悪い。どうせ上田に出たら止んでるだろうなあと思いながら,めちゃ混みのあさま2号に乗っていたら,案の定,上田近くのトンネルを抜けると晴れていた。上野の山では,既に花見の準備が着々と進められ,提灯がつるされた桜の木々には蕾がついたものもあれば,品種が違うのだろうか,既に花が咲いているものもある。不忍池の畔を歩いていても,芽ぐんだり芽吹いたりしている木々を見るのは,心を和ませてくれる。シジュウカラみたいな小鳥も見えるし,水面で戯れているカワウやカモ類やカモメなども,心なしか元気になっているように見える。東京は既に春である。そういえば科博に行った3月5日,本郷近くの梅の木には鶯の姿も見えたっけ。これで,花粉となんらかの汚染物質がくっついたアレルゲンさえ飛んでなければ最高に過ごしやすいのだけどねえ。
- そう,土曜日はたいてい休日なのだが,今週は学際シンポジウム「遺伝子組換え作物をめぐる諸問題と政治・経済・社会」の発表準備があるために大学に来ているのだ。もっとも,報酬の有無によらず,民間のシンポジウムで喋ることは「短期兼業」という扱いになるらしく,月曜のその時間の振替えとして休日出勤することを求められて今日にしたので,どのみち来なくてはいけないのだ。研究上の発表を無報酬でするのに,なぜ「兼業」となるのかは謎であるが,事務手続きには理屈では理解しきれないことも多々あるので,とりあえずいいことにしよう。
- 昨日はいろいろ書いたけれど,新しいことは往々にして異端から生まれるので,新しいことをやろうとするなら,ポジションを得にくいことは甘んじて受け入れねばならないのでろう。これまでにも何度か触れた「理系のための研究生活ガイド」(講談社ブルーバックス, 1997)の著者にしてドライアイの発見者,坪田一男さんが,さっきテレビのニュースで,新しい近視治療の手術をする医師として紹介されていたが,彼も眼科の世界では異端のようである。あれで稼いだ金を研究に投入するのだろう。蒲原さんにしても同様であろう。そもそも,新しいことが異端として登場し,(異端とは利害が対立する)既成権威/組織から猛烈な反発を買いながらも徐々に受け入れられていくというのは,研究に限らず,一般的に成り立つことのように思う。この受け入れられやすさは,その社会のダイナミズムあるいは許容量を示す尺度となる筈である。市場原理のみが公共資本投資の決定原理となる社会においては,マスを相手にする売り手が決定力をもつ,つまりは上で既成権威/組織と呼んだものが決定力をもってしまうので,異端の受け入れられやすさは低くなる。すると社会はダイナミズムを失い,閉塞感が高まるだろう。こう考えてみると,議論がいやな方向に流れている独立行政法人化というのは市場論理からの発想だから,人智を進化(変化を伴う継承,という意味で)させる場所である高等教育機関にはもとよりそぐわないのだが,人智が進化する速度を緩めこそすれ,速めはしないことになる。俗に銅鉄研究と呼ばれる量の変化速度はあがるかもしれないが,質的な変化速度の低下を補うほどではないと思う。いいかげんに市場原理とか景気といったものを価値判断の基準にすることを止めなければ,この悪循環は止まらないだろう。もっと多面的な見方をするよう,マスへの働きかけ(つまりプロパガンダ)をしなければいけないのかもしれない。まあ,だからシンポジウムで喋るってわけではないが。
- しかし,今日は雪に覆われている長野でもいつかは春はくる。春のこない冬はない,という程度には人智の制御能力を信じてみたいのだけれど,核の冬なんてのもあるから駄目かもなあ。いや,そうならないように努力すべきなのだろう。
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