既にざっと通読済みだった,鈴木光司(2000)「現在を生きよう」(実業之日本社,税別1300円,ISBN4-408-10345-4)を帰りの車内で読了。若者に向けて書かれた人生指南書といった体裁である。思いこみや牽強付会が多々あって辟易するが,著者鈴木光司が本書に込めた3大メッセージ「他人の目を気にせず自分で価値判断しよう」「父から子へ社会性と生活知の伝承をしっかりしよう」「上記2点を踏まえて現在をしっかりと生き,明るい未来を作ろう」には共感した。とくに,他人がどう思うか想像して自分の行動を変えるということの馬鹿馬鹿しさをはっきり指摘している点はすばらしい。リング3部作の読者の半分でもいいから本書を読んでくれれば,本当に社会は変わるかもしれない。タバコへの考え方にはまったく同感だし,イメージ戦略の有効性に気づいているのは鋭いと思う。With Loveでの竹野内豊が,手持ち無沙汰なときにタバコなんぞ吸わないで飴でもなめていれば,10代の若者の喫煙率はちょっとは減ったことだろう。もっといえば,外では吸わないんだ,という発言をさせると効果的かもしれない。年会費1万円くらいの行動するNGO「咥えタバコを止めよ(STOP SMOKING WALKING)」てアイディアは如何(飴やガムのメーカをスポンサーにするとか)? なお,後の方で触れられている,マスコミの報道が危険を過大に煽ることに偏っているという指摘もその通りだが,ぼくは寡聞にして凶悪犯罪件数の推移の実データといったものを見たことがないので,折を見て調べてみようと思った。
辟易した点は自己の体験を絶対視するが故にあるので,記述の力強さを犠牲にしない限り改善されないだろうが,例えばバイクでなくたって自転車旅行でもいいじゃないかとか,高校生の時点で進路を決めるのに問題があるのは年が若すぎるからではなくて,押しつけられるからだろうとか,読みながら文句をつけずにはいられなかった。著者は,自分に自信があるように見られる,と書いているが,何を隠そう,ぼくも無根拠に自信をもっていることでは人後に落ちない。「他人の目を気にして生きるなんてくだらないことさぁ」と,いけないルージュマジックを歌っていたキヨシローにもウンウンと肯いたものだが,本書は自信をもつことの責任もきちんと指摘している点がただのパンクスではなく偉い。もっとも,偉いことが万人の共感を呼ぶかといえば,その限りではないので,どこまで本書が受け入れられるかはハテナ? なのだが。
自分の好きなことには甘くなるという危険は常にあって,鈴木光司はバイクやクルマが好きな故に,「子どもたちは否応なく交通社会に組み込まれていくのだから,高校で免許取得を禁止するのではなく,親がきちんと運転技術を教えるべきである」という主旨の文を書いて,現状の自家用車が並んで渋滞何十キロという「交通社会」,空から東京をみると覆っているのがわかる紫色のスモッグの傘の元凶でもあり,子どもが安心して家の近所を出歩けないような状態のそれの,存続を前提とした議論をしている。その一方で,人智はこれまでもいろいろな問題を解決してきたし,これからも解決できるように進歩するという明るい未来像を描いているのだから,これは明らかに議論が「甘い」。これまでも何度か(例えば道交法改正についての私感や電気三輪車)東京には原則として自家用車は要らないという主旨の文章を書いてきたが(もちろん,クルマをもちたいという物欲,「自分のクルマ」への愛着というのはわかるし,反対できる根拠もないが,健康な東京23区在住者に「必要」とは思われない),さらに考えを進めれば,東京に限らず,都市部では自家用車は要らないのではないかと思われる。
どういうことかといえば,論旨は単純である。まず日常か非日常かという観点でわけてみよう。日常的に農作業や営業などでクルマを使う場合,それは自家用車でなくて業務用である。そんなことはない,クルマでなくては通勤しにくいんだ,けれど業務用とは認められないんだ,という人は,転居という手段がある(もちろん,事情があって転居できない場合もあるだろうけれど)。中途半端な距離だったら,自転車という手段もある。決して「必要」ではない。しかも,自家用車を使う人が減って一定の需要が見込めるようになれば,バス路線を拡大することができる。パプアニューギニアやソロモン諸島で,Public Motor Vehicleという,安い料金で網の目のように市内を循環するマイクロバスが成立するのは,高価なために自家用車が普及していないことが基盤にある(みんなが欲しがっているけれど)。市内に給電所を整備して,電動マイクロバスを走らせれば,初期コストもあまりかからずに,地方都市でも交通の公共化は可能と思う。バスでは決まった時間にしか走らないから不便だという反論は考えられるが,日常利用で,かつ時間が不定ということは,都市生活ではあまりありそうにない。
主な用途が非日常だとすれば,必要な都度,タクシーを使うか,レンタカーを借りればよい。出先で困るかとも思ったが,現代には携帯電話という文明の利器があり,タクシーを呼ぶことができる。エネルギー的にはいうまでもなく圧倒的な節約になるが,経済的に考えても,非日常でしか使わないのだから,いい勝負ではないかと思う。初期投資(聞くところによると,定期的に買い換える必要もあるらしい)だけではなく,駐車場を借りたり車検に出すとかいった,使わなくてもかかっていく維持費もなくなることを考えてみよう。
自家用車がなくなったらどうなるか。運転に熟練した人しかクルマを走らせなくなり,しかも総クルマ数が減るわけで,渋滞が緩和されるのは明らかである。業務で運転しているわけだから,責任感も大きい筈だということも考えれば,交通事故も間違いなく減るだろう。上記のようにマイクロバスやタクシーが整備されるならば,雇用創出にもなる。利用率が上がればタクシー料金も安くなるだろうし,利用区間が決まっていれば回数券などの利便性向上も図られる可能性がある。業務用車だけになるのだから排ガス規制なども容易になるし,犯罪にクルマが使われることが減るはずである。老人の足がわりに,という点で便利さが謳われる自家用車ではあるが,周囲への注意力や視力,反射神経が要求される,クルマの運転を安全に行うことは,70歳を超えた老人にとってはかなりの難事であり,むしろバスやタクシーが整備された社会の方が暮らしに優しい筈だ。地方都市では自家用車普及にともなってバス路線がどんどん縮小されていて,クルマに乗らない人には暮らしにくくなってきていた。最近,市内循環の安いバス路線を導入する市がいくつか出てきたが,利用率がいま一つのようである。既に自家用車に投資してしまった人は,多少つらくても元をとろうとするだろうことは十分に考えられるので,利用率が低くてもこれらのバス路線はしばらく続けて欲しいものだと思う。