朝刊を取ったとき,父母からのメモ書きが入っているのに気づいた。昨日の昼間来たのだろうが,平日の昼間なんかに来たって,いるわけはないのである。信州方面に旅行に来て善光寺にお参りした後で寄ってみたと書かれていたが,そういえば今年は一度も板橋に行っていないので,たまには来いというプレッシャーなのかもしれない。
今日は,外に出たら土砂降りだったので,長野電鉄に乗った。しかし,長野駅に着いたら雨はあがっていた。良くあることだが,なんとなく腹立たしい。往路あさま502号は,比較的空いていた。今日は,さっき読んだ朝刊の「斜面」欄での,昨日の首相発言への批判がちょっと変だと思ったので書いておく。
首相発言はダーウィンの進化論の言葉として「変化に対応できるものが生き残る」と言ったもので,それ自体は嘘ではないと思う。一方,「斜面」の記事は(新幹線内では手元にないので記憶が間違っていたら申し訳ないが),「人類学者の今西錦司」の「棲み分け」を,ダーウィンへの批判として挙げ,違ったものが違った場所に生きるというのもいいではないか,と反グローバリズムの立場から首相発言を批判していた。きっと反グローバリズムを言いたい気持ちが先にあって,論を組み立てたのだと思われるが,最大の突っ込み所を外していると思うし,故今西錦司への触れ方が間違っている。今西は,たぶん日本屈指の探検家,フィールドワーカー,ナチュラリスト,思想家,または生態学者として触れられるべきであり,人類学者と呼ぶには抵抗がある。南方熊楠の流れにあるとみれば,むしろ博物学者として触れても良かったかもしれない。ともかく,棲み分け理論は生態学者としての仕事だと思うので,「人類学者の」というラベリングはまずいと思う。
人類の社会について安直に進化論を適用するのは,「社会ダーウィニズム」と呼ばれる思想であり,しばしば差別や優生思想につながるとして批判が大きい。時間がないので詳細は書かないが,首相発言を批判するなら,ダーウィンを誤解しているか誤用している点をすべきなのだ。ダーウィニズムなら,生物が[対応」するのは意図的ではない。常に多様な突然変異が起きているから,環境の変化に対しても生き残れるものが存在する,というのがその元々の意味だ。つまり,反グローバリズムの立場とダーウィニズムは,元々矛盾しない。変化に対応して変わるならば,それはラマルキズムだと思う。(以下2001年10月1日に加筆)あるいは,変化を予測して対応できるのが人間だけの特殊能力だという話なら,ドーキンスがヒトの特殊性としてあげている考え方であって,ダーウィンの進化論とは一応無関係だ。いずれにせよ,今西の棲み分け理論を持ち出してもそれへの批判にはならないことは明らかだと思う。この項,後で時間があったら首相発言もちゃんと読んでフォローしたい。
さて実習だ。
一日目が何とか無事に終わった。疲れ果てたので,20:38発あさまに乗り,座れたのでずっと眠っていた。