最終更新: August 12, 2005 (FRI) 14:03 (書評掲示板より採録)
著者がコロンビア大学に留学中,自然とは対極にあるようなニューヨークという大都会でエコロジー運動を展開している人たちに広汎な取材をした結果のレポート。多様な立場の発言が取り上げられているという意味で,環境問題に関心がある人は必読だし(自己相対化に有用),関心がないという人にも本当は読んで貰いたいと思う本だ。以下,書評という枠組みからは外れてしまうかもしれないが,本書をきっかけとして考えたことを書いてみる。
ニューヨークにもぼくと似たことを考えている人がいることを知って嬉しくなった。ぼくが青空MLで提案した新型リキシャ構想([921])に,ジョージ・ブリスの電気三輪車はかなり近い。ぼくの構想が基本的に人力なのに対して,彼の構想は基本がハブ設置である点,屋根を付けるか否かという点など違いもあるが,両立可能だし,ニューヨークや東京のような大都会でガソリンで走る自家用車に乗ってのろのろ走るのが,余程の特殊事情でもなければ馬鹿げているという基本発想はまったく同じである。しかも,考えているだけのぼくとは違って,彼は実際に電気三輪車を開発し,ペディ・キャブという形で普及を図っていて,大手自動車メーカを電気自転車,電気自動車開発に参入させるほどのインパクトを作り出している点がすごい。資本と暇があれば,東京に代理店を作って誘致したいところだ。いや,それよりもノウハウを学んで自力展開すべきか? などと空想が膨らむ。
本書には,電気三輪車以外にもimpressiveな記載が溢れている。例えば5章「おいしい空気は誰のもの?」に出てくるラブ運河など,1970年代当時の様子は,小松左京「静寂の通路」そのままだし,現在の状況(薄皮一枚下は有害化学物質の塊だという)は,篠田節子「斎藤家の核弾頭」(書評)に出てきたニュータウンと同じである。
第8章の菜食主義についての記事にも考えさせる点が多い。ディープ・エコロジーやアニマルライツと重なり合いながらもそれを包含する新しいライフスタイルの勧めだという話だが,ヒトはゴリラとは違う道を歩んできてしまったのであり,食べものとしての肉を完全に諦めることは難しいように思う。ちなみに,この章で著者は,試しにvegan(乳製品や抽出エキスなども含めて動物性食品を一切食べない人)の生活をしてみたら生臭くて牛乳が飲めなくなったと書いているが,それは米国の牛乳がまずいからかもしれない。
本書によれば,菜食主義の活動家パメラ・ライスは,その著書「わたしが菜食主義である101の理由」の中で,「もし人類全員が菜食主義者になったら現在の農作物の生産量でも理論的には百億の人々を養うことができる。これは二〇五〇年に人類が達すると考えられている人口に等しい。しかし,現実には現在でも八億四千万人の人々が栄養不足に苦しみ,五万人の人々が飢餓の状態にある。」と書いているそうだ。しかし,この議論は流通と分配の問題を無視しているし,食文化も無視している点に問題があって説得力に欠ける。例えば,veganの食生活では,少なくともビタミンB12(コバラミン)だけは不足することがわかっているので,米国のveganはsupplementをとっている。この錠剤がどうやって作られているかといえば,工場でエネルギーを使って作られるはずだし,栄養補助食品という位置づけであればFDAの認可が必要なはずだから,動物実験もされているだろう。少なくともその意味で,supplementなど入手できない狩猟採集社会の人に対して,アニマルライツ活動家が「将来的にはveganになれ」などということは傲慢である。だいたい,著者も指摘しているが,アニマルライツは所詮カウンターカルチャーなので,ヒトの文化という枠組みを抜きにしては存在しえない。つまり,文化が有用あるいは有害としてヒトの生活と関連づけた動物のみが「動物」として認識されているわけで,そこを意識せずに動物の代弁者をもって任ずるのは馬鹿げている。彼らが守っているのは,所詮は彼らの頭の中に構築された理想の動物に過ぎないと思う。(なお,菜食主義について,これ以上の考察は日記に書いたのでそちらを参照いただきたい。)
著者への希望としては,今後日本で同種の取材をして本を書いてくれないだろうかということ。ディープエコロジストや似非エコロジストはたくさんいると思うし,最近企業でもゼロエミッションやLCAは常識だし,安渓さんや和尚さんみたいな面白い人もいるし,期待したいのである。
【2000年6月28日記】
著者のblogの記事によると既に絶版なのは,とても残念だ。いい本なのになあ。
【2004年12月28日追記】