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書評:川端裕人『算数宇宙の冒険 アリスメトリック!』(実業之日本社)

最終更新: January 4, 2010 (MON) 17:28

書誌情報

書評

約2年前の『エピデミック』の書評に書いたように,川端裕人の作品群の中には,科学教養小説とでも呼ぶべきものがある。本書のターゲットとなる科学は数学である。

Amazonのぶーのんさんという方の書評で指摘されているように,他にもさまざまな作品へのオマージュがあると思うのだが,読後感が一番近いのは,もう30年くらい前に読んだ,小松左京の傑作ジュブナイルSF『青い宇宙の冒険』であった。どうして『青い宇宙の冒険』を思い出したのかといえば,子供が宇宙の調和の乱れと戦う話だからである。しかも,戦うための道具立ては科学なのである。つまりたぶん,『エピデミック』がフィールド疫学を使って感染症のアウトブレイクと戦うという意味で『疫学小説』であったように,この小説は数学を武器として使うという意味で数学小説なのである。

昨今の数学小説というとすぐに思い浮かぶのは,結城浩『数学ガール』シリーズである。『数学ガール』は,萌え要素を散りばめ,青春の日常をおかずとしながら,丁寧に数学を説明してくれることによって,数学をわかることの喜びそのものを伝えることを目指して書かれていると思う。しかし本書は違う。もちろん数学(算数も,か)そのものの面白さを伝えようとしてくれる部分もある。例えば,丁寧な式変形を示してオイラー積の説明をしてくれるところなど,アッと言わせてくれるくらいの美しさを感じる。

しかし,リーマン・ゼータ関数を理解しようと思って,評者を含む素人が一番困るのは,解析接続という概念で,主人公空良くんもそれがわからなくて困ったりするのだが,そこは解決してくれない。読者も,空良君と一緒にイメージの奔流に飲み込まれて,物語の流れの中に放り出されてしまうのであった。

以前読んだ,黒川信重・小島寛之『リーマン予想は解決するのか? 絶対数学の戦略』青土社,ISBN 978-4-7917-6487-7(Amazon | bk1)の,小島さんが書かれた「リーマン予想まであと10歩」の「あと6歩」のところ(だったか?)でも,解析接続の説明はわかったようなわからないような感じで終わってしまっていた。小島さんの説明で,群盲象を撫でるような状態でしか複素平面でのゼータ関数はわからないということの比喩はわかったが,それに続く,複素平面にはζ(s)に対応する唯一のF(s)があって,ζ(-1)=1+2+3+4+...=-1/12みたいな直観に反する式はF(s)を使って出てくるという説明(誤解しているかも?)は,どうしてもわかったようなわからないような感じで終わってしまっていたので,そこが直観的にわかるようなイメージを見せてくれたら最高のsense of wonderだったのだが,そういう比喩表現はなかったように思う。きっと,ぼくが読めていないだけではなくて,川端もそこはよくわかっていないんじゃないかと思うが(あるいは,仮にわかっていたとしても,それを素人にわかるようなイメージで伝えることはできなかった),まあ相手がリーマン予想であるからして,仕方ないところか。

本書における数学は,あくまで宇宙の調和の乱れと戦うための武器なのである。それと同時に感じるのは,小川洋子『博士の愛した数式』から感じるのと同じような数学への憧れというか愛である。しかし,感染症という現実の危機と闘うために実際に疫学が使える武器であることを鮮やかに描き出してくれた『エピデミック』とは違って,宇宙の調和の乱れは間近に迫った危機ではないから,そこが少しぬるく感じる読者はいるかもしれないが,それは無い物ねだりというものだろう。

数学小説としては,TeXを開発されたDonald E. Knuth大先生の『至福の超現実数』という不思議な作品もあったが,あれは冒頭から非日常に飛ばされてしまって,ほとんど純粋論理だけで話が進んでいくので,実験的な小説という色合いが強すぎた。

しかし,本書は,天下一鮨の読んでいるだけで涎が出そうな江戸前鮨や小学校の日常から,神社や小学校の図書準備室(算数小部屋)へと半日常を経て,複素平面が具象化した非日常への飛び方がスムーズだったので,ちゃんと小説として楽しめた。そういう意味では,舞台が『銀河のワールドカップ』で出てきた桃山小だったり(で,ちゃんと『銀河のワールドカップ』らしい出来事への言及があったし,数学の天才三つ子の一人が中学生になった姿らしきものも描かれたりしていた),『桜川ピクニック』で出てきた桜川のそばだったり(『川の名前』の舞台は野川の支流だったと思うが桜川ではなかったっけ?)という,海堂尊がすべての小説の舞台を同じ場所にしているように,ここでは不思議なことが時々起こる,という舞台をつなげてくれた読者サービスは心憎い演出であった。探偵小説を読んでいると,どうして名探偵ばかりが不思議な事件に出会うのかという不自然さがあるわけだが,桃山・桜川という舞台を不思議なことが起こる特異点として設定したことにより,この問題は解決できた。今後もきっと,ここを舞台にした作品を描いてくれるのだろう。空良とユーキがどう成長するのか,見てみたいと思った。

気になったところいくつか。(1)p.227で『「23区の田舎」であるこのあたり』と書かれていたが,そこまで地域限定しなくても良かったのではないか。(2)p.259の式は右辺で平方根をとっているので,無理数が素数の掛け算で表わされているといってはいけないように思う。むしろ,小島さんが書いているように,円周率が素数とつながっているという式で,無理数一般というよりも,超越数である円周率が左辺にあるところが肝なのではなかろうか。(3)p.353「だから興味がないわけではないで。」は「だから興味がないわけではない。」の誤植であろう。(4)柏野さんの解説中,図2の説明で「赤線がπで、黒い線が右辺の数値計算の結果」というのは,モノクロ印刷なので,どちらがどちらかわからない。いや,もちろん,π(x)関数は(円周率ではなく)x以下の素数の個数なので,サポートページを見るまでもなく,折れ線の方がπで,滑らかな曲線の方が数値計算の結果だとわかるけれども。

柏野さんのサポートページは凄くて,とても強くインスパイアされ,ついついRで数学をやってみたりした。数学好きな方は是非そちらもご覧いただきたい。

【以上,2009年12月4日記】


sionoiriさんの読み筋が深いのに唸った。そう考えると,ストーリーのすべてが180度違って見える。そこまで狙っていたのだとすると,川端は凄いなあと思うし,狙っていたのでないのに書けてしまったとしたら,それはそれで凄いことだ。

【以上,2010年1月4日追記】


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