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書評:三中信宏『系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに』,講談社現代新書

最終更新: September 6, 2006 (WED) 20:05 (前回更新8/11=ページ作成,今回更新=大幅追記,一応完成)

書誌情報

書評

世の中,超人的な能力を発揮される方は決して少なくないが,三中さんの博覧強記ぶりは常軌を逸している。本書は学問における分類思考と系統樹思考を対置し,後者がある意味で事物の統一的把握として成り立ちうることを,手を変え,品を変え,古今東西変幻自在に飛び回りながら描き出すという代物なのだと思うが,あまりに広いランドスケープが描き出されるので,時折道を見失いそうになった。ぼくも相当な本読みであり,事物への関心の幅は広いと思うが,三中さんは桁が違っている。楽しい旅に連れ出してくれたことには感謝したい。ただし,トゥーランドットを章立ての基調に据えたのは,音楽をやる人たちにはわかるのかもしれないし,何より著者自身にとって楽しい仕掛けなのだと思うけれども,ぼくには音楽の素養が足りないので,そこはあんまりピンとこなかったのが残念だ(いや,読み方として想像力不足だし手抜きなんだけれども,そこまでのパワーは,ぼくにはない)。

ぼくの本の読み方としては,鵜呑みにするのではなくて,常に相対化しながら読む方が深く読めると常々思っている。しかし,本書を相対化するのは,なかなか大変なことだ。諸学の統一の試みとして,E.O.WilsonのConsilience(邦題『知の挑戦』角川書店),分類思考について,中尾佐助『分類の発想』(朝日選書),科学哲学について,戸田山和久『科学哲学の冒険』(NHKブックス)くらいは読んでおかねば,言葉の奔流に流されてしまうだろうし,それでは著者が言わんとするところを本当の意味でわかったことにならないと思う。

本書のコアとなる部分の1つとして,推論の方法として演繹と帰納の他にアブダクションがあり,歴史学のように(実はたいていの科学に通じると思うが)真偽がきっちりと決められない場合には,『観察データが対立理論のそれぞれに対してさまざまな程度で与える「経験的支持」の大きさ(p.63)』によって理論選択を行う過程としてのアブダクションが推論の鍵である,というくだりがあると思う。アブダクションという言葉に,ぼくが最初に出会ったのは,1993年に読んだ,C.R.ラオ『統計学とは何か ■偶然を生かす■』(丸善)であった。ラオは,データに基づく新しい知識の創造である帰納でもなければ,提案された定理の真偽を論理的に証明する演繹でもなく,データに基づくことなしに,まったくの直観や想像力のひらめきによって新しい理論が生まれることがあり,それがアブダクションと呼ばれる,と書いていて,有名な例としてDNAの2重螺旋性,相対性理論,光の電磁気学的理論などが挙げられる,としているので,アブダクションの鍵は相対的選択ではなく,仮説を生み出す段階での創発性にあるように思われる。やや三中さんの捉え方と違いがあるようにも思うが,いずれにせよ,経験的データを,相対的にもっとも良く説明するモデルを採択するという山登りにつながるわけだから,大した違いではないだろう。この手口が非常に強力であることは論を俟たない。

しかし,この立場は,伝統的な科学のいくつかにとっては,とても恐ろしい立場な筈である。本書で,三中さんは,本質主義は人間の認知的な癖である分類思考故であるなんてことや,種問題は形而上学的な問題であるなんてことを,さらっと書かれているわけだが,これらは,伝統的な分類学にとっては死刑宣告になりかねない。だから多くの論争があるわけだ。心理的本質主義の壁を多くの人が乗り越えられないならば,乗り越えた世界把握法があっても,その人たちにとっては意味が無いようにも思う。その意味で,三中さんの立場はとても厳しい。

三中さんは,かなり徹底的に誤植などのバグつぶしをされていて,webでも公開されている。それでもなお未報告のバグじゃないかと思った点がいくつかあるので書いておく。きっとweb上で答えてくださるだろう。

  1. p.144 「科学者は科学が科学を生むための道具ではない」,これは「科学者は科学を生むための道具ではない」あるいは「科学者は世界が科学を生むための道具ではない」ではないか?
  2. p.172 もしかしたら深い含意があるのかと考え込んでしまったところだが,『ヒトを含む霊長類の系統関係を推定するときには,霊長類に含まれないサルが外群に……』は,「霊長類」ではなくて,類人猿とか真猿亜目とかでないと話が通じない。霊長目に含まれないサルはないのでは?
  3. p.183の伝言ゲームの話では,情報伝達のエラーは受け側と送信側の両方で起こる可能性があるので,PさんのところでXがX’になることは,Pさんが聞き間違えたとは限らず,Pさんの前の人がPさんに伝え間違えた可能性もある。
  4. p.238「子孫手紙」は「子孫に手紙」では?

なお,新書では省略されがちな文献と索引であるが,本書は逆に,そこが極めて充実している。これだけ文献が挙がっていると,それだけで嬉しくなってくるのは本読みの業だろうか。

【2006年8月11日,9月6日記】


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