最終更新: 2002年 8月 18日 (日曜日) 13時45分 (リンクを追加した)
余談だが,国交省でもダムを作った後の管理については地方では問題があるダムもあるという話も出ている。長氏の文書については,納得できる点もあれば,偏見や誤解によると思われる部分もある。全般的にいえることは,言葉についてあまりsensitiveでないように思われる。例えば,「言葉のもつきつさの違い」は的を外している。dictatoralとarbitraryは意味が違う。
しかし,治水・利水等検討委員会の答申では,A案に比べB案の方が安上がりと試算されている(砥川答申の17ページ,浅川答申の16ページ)。だから,これもおかしな書き込みである。基本高水を同じにした治水計画では,河川改修の方が高価になるという試算値がある,というなら事実だが,何の留保も条件付けもなく「河川改修の方が高価」と言い切っているのは,誤解を呼ぶ。繰り返すが,答申のB案はA案より安価で済むのだ。言い切りは広まりやすいので,文脈が明確でない掲示板などへの書き込みでは控えて欲しいと切望する。田中知事の支援団体にいわゆる土建業者が入っていることと関連付けて(別にそのこと自体には何の問題もないにもかかわらず),ダムなし利権と揶揄するような書き込みもある。(注)本筋から話がずれるので小さいフォントにしました。
たぶん,問題の質は全然違うけれど,これと似た状況じゃないかと思う。愛着をもってやってきた事業が,完璧でもない計画によってつぶされてしまう,という喪失感・挫折感は想像に難くない。提案して準備を進めてきた生徒だけじゃなくて,お好み焼きの作り方を勉強してきた人だって,えー,これからまたクレープや肉野菜炒めの作り方を勉強しなくちゃいけないのか,これまでの努力が無駄になったじゃないか,と思って反発するだろうし,怒るだろう。でも,クラスの多数の意志が動いてしまったなら,仕方がないのだ。前に決めたじゃないか,という論理は通用しないのだ。学校の文化祭のクラス参加企画として,例えばお好み焼き屋をやろう,と一所懸命盛り上げてきた生徒がいて,まあ自分が働くんじゃなければいいか,という程度の人が多いクラスの皆(でも少しは,お好み焼きなんて大量に作って売れなかったらどうするんだ,という反対派もいたりする)から資金を集めて,学校から補助金をもらって,材料の小麦粉も卵もキャベツも肉も買ってきたとする。そこへ,「この学校の文化祭は先輩がやってた企画をなぞってるのが多くて面白くないし,時代遅れだなー,みんなこれで面白いんだろうか?」と考えている転校生がやってきて,「たぶん客層とか考えると,お好み焼きより,クレープと肉野菜炒めを2つの店に分けてやった方が無駄が少ないし,うまく行けば安上がりかもよ(でも失敗したら無駄も出るし,損をする可能性はゼロじゃないけど)?」と言い出す。なるほどー,クレープの方がなんか格好いいしね,と深く考えずに賛成する人もいて,クラスの皆がそっちに靡いてしまった。じゃあ,専門家に聞いてみよう,とお好み焼き提唱者が言い出して,町のお好み焼き屋とクレープ屋と中華料理屋を連れてきて,クラスのお好み焼き派代表とクレープ+野菜炒め派代表も入って議論したら,どちらかといえばクレープと野菜炒めの方がうまく行く可能性が高そうだからそっちにしようよ,ということになった。
開発と環境という問題においては,誰もが他者ではありえない。だから,コミュニティ構成員はコモンズについてのコミュニティの合意形成過程に主体的に参加しなければならないと思う。たぶん,これからの公共事業というのは,民意を反映してダイナミックに変わっていくしかないのだと思う。このことは,諫早湾の干拓事業のような,状況が変わったのに既に決まっているからというだけで継続実行されてきた公共事業に対して,それはあまりにも馬鹿らしいんじゃないか,ということに一般市民が気づき出した以上,当然の流れだろう(※)。適宜見直しをして,問題があれば中止するべきなのだ。それでも,愛着というのは,どうしようもない心の動きだ。自分の所有物ではない公共事業でもこうなんだから,自分の所有物を制限せよ,という地球温暖化対策「長野モデル」が進める脱マイカーに至っては,もっと強烈な反発がくることが予想される。環境問題を解決するための妥協点を探る上で,実は最も困難な課題が,愛着を克服することかもしれない。もし,お好み焼きを準備してきた人たちを不幸にしたくなければ,まずその人たちを説得して,企画を自らもっと練って貰った方が,大勢で議論する必要もなかったし,改善された企画によってクラス企画の収益はスムーズにあがったかもしれない。見かけ上はクラスの平和も保たれる。でも,説得を受け付けなかったらその手は不可能だし,それでは多くの生徒が主体的に参加していない状況は変わらないし,他のクラスは変わらないのだ。文化祭全体のレベルアップは達成できない。ところが,こうやって強烈な提示をしたことで議論が起これば,他のクラスでも,このクラスの議論がきっかけで,企画について真剣に議論するようになって,皆が主体的に参加するようになって,文化祭の企画が充実した,となれば,転校生の狙いは成功したことになる。それに,たぶん,生徒全員が,文化祭に参加するとはどういうことか,ということが主体的にわかって意識が向上する。
(※)その背景にあるのは,未熟な技術への不信感である。18世紀から20世紀にかけての先進工業国では,人知の万能性という幻想がはびこっていたのだが,20世紀後半になって,原発の事故,高速増殖炉の頓挫,PCB汚染,フロンによるオゾン層破壊,温室効果ガスによる地球温暖化,抗生物質の濫用による多剤耐性菌,安易な遺伝子組み替えが予期せぬ毒物を作り出してしまった昭和電工トリプトファン事件等々,未熟な技術がもたらした解決困難な問題が多数噴出したことにより,一般市民でも,盲目的な技術信仰を失ったということなのだ。完璧に制御できる技術などというものは,非線型の関係が絡んだシステムでは,ほとんどないのだということを,複雑系の研究は明らかにしてくれた。
そういう背景のもとで,副作用があることがわかっているか,あるかないかすら予想できないような技術であれば使わない方がましだ,というのが最近の世論だと思う。だから,何らかの事業を計画して,それを実施したいときに,そんな必要があるの? 十分な影響予測もしていないのに本当に安全なの? 副作用はないの? と問われたら,実施したい側が十分な説明ができなくてはいけないのであって,事業に反対する側に代替案を出せ,というのは筋違いなんじゃないかと思うのだ。いくら規模が大きくないから法律上は該当しないといっても,環境影響評価法の精神は,事業者に説明責任があるという点にあるので,それが第三者アセスでなくて事業者アセスだから不十分だとまで言われている時代に,いいことをしてやるんだから黙ってみてろという態度は,一般市民から受容されないだろう。「脱ダム宣言」の理念が多くの支持を集めているという事実は,そういうことを意味するのだと思う。
多くの開発の場面で,実際に技術が未熟なために信頼するに足る予測ができない上に,立場や価値観によって,ありうる可能性の中でどれを選択したいと思うか,という判断は違ってくる。つまり,唯一絶対の正解はない場合が多い。そうなると,市民一人一人がきちんと情報を集め,自分で判断して合議により意思決定する以外に,意思決定が正当化されうる根拠はなくなってくる。だから,一般市民を蚊帳の外においたやり方は,如何に短期的目標達成が早くても,正当化されない。一見遠回りにみえても,市民一人一人の主体性を向上させるための努力こそ,たぶん真の市民社会への近道ではないかと思うし,それ以外に環境問題が解決される可能性はないと思う。如何だろうか?
以上の意見に対して誤りや反証があれば,是非メール(宛先はminato@ypu.jp)等で指摘されたい。