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2015年9月のPNG超弾丸往還記

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2015. Last Update on 2015年10月3日 (土) at 12:07:36.


【第1日目】 PNGへ出発(2015年9月20日)

6:30起床。前夜のパスタを温め直して朝食。紅茶を合わせた。8:15までデータ入力をしたが終わらないまま,8:30のバスで三宮へ。関空行きのリムジンバスの中でもデータ入力をしたが,まだ終わらない。関空に着いたとき,まだチェックインが始まっていなかったので,とりあえずベンチでデータ入力の続き。漸く終わってUSBに入れたらチェックインが始まっていたので,とりあえずチェックイン。

JetStar Asiaは機内持ち込みの手荷物が2つまで,7 kg以下ということだが,別に荷物の重さを量るわけではないので,軽そうな荷物が2個以内なら大丈夫なようだ。今回の旅はマニラ,ポートモレスビーを経由してダルーに行くのだが,マニラ以降のAir Niuginiのチェックインはマニラに行かないとできない(ということは,当然預け荷物もスルーにはできない)というので,荷物を預けず全部機内持ち込みにした。機内持ち込みの荷物にはCarry-on baggagesという紙のタグが付けられるので,2つに分けて持ち込むつもりなら,この時点で2つに分けておく必要がある。ここで寝袋と蚊帳を持ってくるのを忘れたことに気づいた。マニラで探してみるが,無かったらPNGに着いてから代替物を探すしかないなあ。

pdfを印刷するのにはコンビニの複合機が安いだろうという発想から,2階に降りてファミリーマートに入った。レジの並びの奥に複合機があり,狙い通りに2012年と2013年のデータシートをプリントすることができた。

昼飯を食べる暇がなくなってしまったので,そのまま手荷物検査場,出国審査を通り,シャトル? で移動してから37番ゲートの待合室に着いた。ちょうどのタイミングだった。

関空を12:50頃飛び立ち,4時間半かかって,現地時間16:20頃にマニラに着いた。さてトランジットなのだが,健康チェックの黄色い紙は他のゲートに行くすべての乗客が通らねばならず,そこが長蛇の列で萎えた。どうやら,記入に不備がある人が多く,書き直しに時間が掛かっているようだった。機内で紙を配るだけでなく,簡単にインストラクションしておけばいいのに。

そこを通ってまっすぐ歩くと,入国審査場に向かう流れの途中にTRANSFER DESKがあった。そこにいた係員にPXでポートモレスビーに行くというと,まだ受付が始まっていないから,1階上のラウンジに行って19:20まで待つように指示された。手荷物検査機を通して1階上に上がると,各航空会社のラウンジに向かうところに係員がいて止められてしまった。階下のTRANSFER DESKの係員からラウンジで待つように言われたんだけど? と言うと,右手を示されてあっちへ行けと言われた。行ってみたら,そこは無料待合室であった。まあ,確かにFree Loungeと書かれていた(通路を挟んで反対側にはTransit Loungeと書かれた無料待合室もあった)。そこまでPXはサービス良くなかったか。

NAIA1のPiazzaという軽食喫茶とりあえず腹が減ったので,Piazzaという店に入って,マルガリータピザ(120ペソ)とコーヒー(40ペソ)を買った。米ドル小額紙幣が使えて,160ペソ=3.75ドルということで,4ドル払ったら,ちゃんとお釣りもくれた。マルガリータピザは10分掛かるというのでちょっと期待したが,たんに冷凍ピザをオーブンで焼くのに10分掛かるだけのことで,ただ空腹を満たすだけのものであった。しかし,コーヒーは意外に美味だった。店内で電源は取れないがテーブルと椅子があったので,ピザを食べつつコーヒーを飲んで,このメモを打っていたら18:00近くなった。ちなみにネット環境は,GlobeFreeWiFi@NAIAというWiFiで利用規約にOKすれば無料でネット接続できた。

まだTRANSFER COUNTERのある階は見ていないが,この階には寝袋と蚊帳は売られていなかった。

19:00を過ぎたので階下へ。TRANSFER DESKで尋ねたところ,まだPXの係員が来ないので手続きできないというので,高野秀行『移民の宴:日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』講談社文庫,ISBN 978-4-06-293183-0(Amazon | bk1 | e-hon)を読み進めた。「不思議」かどうかはともかく,とても面白い食と文化のレポートであることは確かだ。

19:20頃,係員が来たということでカウンターに行ってみると,白人男性が1人,東洋人女性が1人先にいて,既に手続き中だった。2人が話している内容が漏れ聞こえてくるところから推察すると,白人男性はバングラデシュに住んでいていろいろな国に数週間ずつ行くことがあり,ワニが旨かったなどと言う話をするちょい悪オヤジな感じで,正体不明の東洋人女性の方は,栄養学の研究者のようで,人々が何を食べているのか調べに行くと言っていた。よほど話に割り込もうかと思ったが,2人で話が弾んでいるところで邪魔できなかった。

ともあれ,カウンターで無事にボーディングパスを入手してみたら,出発ゲートはすぐ隣なのだった。この空港は3つのターミナルに分かれていて,ターミナルが違うとタクシーで移動しなくてはいけないくらい広大なのだが,この乗り継ぎはラッキーだった。再び上階に上がってTransit Loungeの方に歩いていたら,萩原さんから声を掛けられた。彼は第二ターミナルに着いていったん入国し,タクシーで第一ターミナルに来てチェックインと出国審査をしてからここに来たとのこと。山内さんがなかなか来なかったので先にゲートのところに行ったのかと思い,16番ゲートの待合室に行ってみたが,そこにもいなかった。ボーディング開始の10分前くらいに現れたので聞いてみたら,羽田からマニラの飛行機が1時間遅れだったとのこと。

無事にボーディングが済んでから離陸まで暫く待ったが,無事にマニラを飛び立った。


【第2日目】 どたばたのPNG初日(2015年9月21日)

飛行機は早朝にジャクソン空港に着いた。いつの間にかOn arrivalのビザ発行手数料が要らなくなったようだ。入国もスムーズだった。国際線ターミナルの出口のところにはDigicelとBe mobileの店があって,こんな早朝だというのに営業していた。DigicelのSIMカードを買って,Coviaのスマホにセットアップして貰ったが,何の問題もなかった。SIMカード本体が10K,通信が7日間コースとかで20K,通話に20Kという契約で50K払った。前回よりSIMカード自体は半額になっていた。

ダルーからのアレンジをしてくれているはずのB氏にショートメールを送ってから国際線のチェックインカウンター前にあるコーヒーショップ(店名は忘れたが,壁際のコンセントやカウンター前のテーブルのUSBや電源の集中タップが使えるのが嬉しい。ただし,テーブル上のUSBタップは電圧が低いのか電流が弱いのか知らないが,山内さんのiPhoneには充電できるのに,ぼくのCoviaには充電できなかった)でコーヒー(ぼくはエスプレッソ,他の2人は普通のブラックコーヒーで,どれも7キナ=約350円だったが,スタバレベルの旨さであった)を飲みつつ3人で戦略会議。B氏から電話があって到着について少し話したが,すぐに切れてしまったので詳細はわからず(後で聞いたら,電力の問題? とかで突然切れてしまったそうだ)。

Kukiホテルの晩飯やや不安を抱えたままボーディング(チェックインはマニラで済んでいたので)。ダルーまで約1時間強の旅は快適だったが若干疲れた。空港の外には誰も迎えが来ていなかったので,その辺にいた若者の力を借りてKUKIホテルの送迎車を読んで貰い,チェックインした(予約はとっていなかったが大丈夫だった)。K村行きの小さい飛行機を飛ばしているMAFに問題があり,最近はフライトが無いというので,翌日にディンギー(ここの人たちは船外機付きのボートのことをこう呼ぶ)でオリオモステーション廻りでK村を目指すことになった(ちょうどスーパーの前でK村の代議員P氏に会って,彼が同行してくれるという話になったが,実は忙しいB氏から我々のK村行きのアレンジを頼まれてダルーに来ていたらしい)。別口で昔からの知り合いE氏もちょうどポートモレスビーから帰ってきていたので,村まで一緒に行こうと言ってくれたのだが,P氏が自分の方が代議員だから村で何かするなら自分の方を優先すべきだと言って譲らなかったので,P氏がアレンジしたボートとトラックを使うことになった。

その後はスーパーに行って蚊帳とシーツと食糧を買ったり,病院に行って院長,歯科医,看護師長,事務長といろいろ喋って情報収集したりした後,宿で暫く休んでから晩飯。時々停電するのが鬱陶しいが,バラマンディーと鶏肉とクレイフィッシュのフリッターはそこそこ美味だった。

お茶を飲みながら3人で研究費の打ち合わせ後,23:00頃まで部屋で打ち合わせした企画について入力していたが眠さに負けた。


【第3日目】 ディンギーとトラックでK村へ(2015年9月22日)

6:00頃に起きてメモ打ち再開。8:00にはP氏が迎えに来るといっていたので,それまでには昨日打ち合わせした内容の入力を終わらせねばならない。クーラーを入れなくても比較的涼しくて過ごしやすい朝。

ダルーの海岸沿い道路8:30頃にP氏が現れたので港の方に歩き始めたが,それからが長かった。陸路のトラック用の燃料を買ったり(まず燃料容器を買わなくてはいけないと言って店を回ったのだがなくて,結局中古の食用油容器を買って,それをなぜか水で洗い,何軒かの燃料屋を回って安いところで買おうとしたら当然のごとく共洗いされて水で洗った意味が無かったり……),人に会って握手して話をしたり(これがとくに急ぎでもない話だったりするのだが),等々,延々と引き回された。途中会ったK村出身のビジネスマンのA氏が,金曜日ならK村からダルーへの朝のMAFの飛行機があって(K村には村人が作って管理している滑走路があるのだ。もちろん未舗装だが,セスナ機の発着には支障ない),エアニウギニのポートモレスビー行きに接続しているはずだから,エージェントに言って2席取ってやるという。飛行機は1人当たり270キナだし,それに乗れるなら木曜も調査ができるので素晴らしいことで願ってもない。しかし席が取れるかどうかわからないので,もし予約できたら村のエージェントに連絡するように頼んでおいた。ここの調査(今回は予備調査だが)は常に予定通りに行かなかった場合の次善の策を講じ続けなくてはいけないのが難しいところだ。ディンギー代は最初はふっかけられたが,P氏も乗るのでハイヤーではないし(P氏の分はP氏自身に出して貰った。たぶん彼は最初アレンジを頼んだダルーのB氏から貰っているはずだから),一人70キナ掛ける3人と燃料代の120キナしか払わないと主張し,合わせて330キナで済んだ。とはいえ,日本円にしたら約16500円もするわけで,決して安くはない。

オリオモ川河口部にて最終的にディンギーに乗ったのが10:45頃で,それからまたP氏が追加の燃料を買おうとしたり,タバコを吸ったりと待たされて,出航は昼過ぎになった。海を渡る間はかなり飛沫で濡れたが,オリオモ川を遡行し始めてからは順調で,14:30頃にオリオモステーションという場所に着いた。以前はなかった立派な鉄製の桟橋ができていて驚いた。

しかし,これで一安心というわけにはいかないのがパプアニューギニア。今度は,ここまで迎えに来て貰うはずだった車が来ないのだった。我々の中で,どんどんP氏の「アレンジ」への信頼が落ちていった。代議員とはいっても,とくにビジネスをしてきたわけでもない,素朴な村の男なので,ビジネスマンと渡り合って的確なアレンジをできるわけがないのは,ある意味仕方ないことだが。

車を待つこと3時間,空の色とともに気持ちまでだんだん暗くなってきたとき,おそらく林業会社のトラックと思われるものが偶然来なかったら,ここで夜明かしをする羽目になっていたかもしれない。本当にこのトラックが来てくれたのはラッキーで,しかもウィピム村までタダで便乗させてくれた。ただ,オリオモステーションを出たのが夕方だったので,ウィピム村に着いたら真っ暗で,20:00を過ぎていた。しかも,普段なら1台や2台はあるはずの車がガマエヴェという村で葬式があったために出払っているので,朝まで待たねばならないという。

オリオモステーションの桟橋ウィピムで驚いたのは,昨夜一緒に行こうと言ってくれたE氏がいたことだ。彼は昼間のうちにここまで着いたが,やはり葬式で車がないので足止めされていたそうだ。ということは,彼と一緒に来ていれば,ウィピムからK村まで3時間歩いていくという手もとれたということで,我々は昨夜の選択を少し悔やんだが後の祭りだ。

2年間来なかった間にウィピムがずいぶん廃れていて,行政の地方事務所やそのオフィサーの宿舎が空き家になっていた。原因は燃料がなくて電力供給ができなくなったためとのこと。行政機能はオフィサーごとダルーに移転されたらしい。携帯電話の電波は入らないし,ポンプで水を汲み上げることもできないので,オフィサーの宿舎の水洗便所が使えないのだという。さながらゴーストタウン。しかし屋根と壁があるので,ここに一泊するかという話になりかかったとき,たまたま連絡がついたらしいトラックの1台がウィピムに帰ってきて,そのドライバーがすぐにK村まで行ってくれるという連絡が入った。このチャンスを逃してはならないので,すかさず交渉に入った。ドライバーは以前から顔見知りのK君だったが,ウィピムを本拠地とする彼の一族は骨の髄までビジネスマンで,稼げるときはきっちり稼ごうとする。開口一番,これから危険な夜道をハイヤーでK村まで行ってやるのだから900キナ払えと言ってきた。日本円にしたら約4万5千円である。もちろんそのままの額を払うはずがないことはK君もわかっているので,とりあえずふっかけてみたということだろう。我々は燃料を持っているので,それを10リットルあげること,村人も乗っていくこと,などを材料にして交渉し,結局350キナで話がついた。半額以下に値切ったわけだが,たぶんこの方が正しくて,言い値で払ってはいけないのだと思う。道が悪いので片道1時間弱かかるが,燃料もこっちもちだし,2時間の労働で2万円近く稼げるのだから,K君にとってもいいアルバイトのはずだ。

ウィピム村での簡単な晩飯ただ,我々全員,朝買ったビスケットをかじっただけで,他に食べていないので,とりあえずウィピム村の店で米と缶詰とラーメンを買って(警官にお金を渡して買ってきて貰った)調理して貰い,それを食べてから出発ということになっており,既に調理が進んでいたので,食べ終わるまで待って貰うことになり,ウィピム村を出発したのは21:00を過ぎていた。助手席に載せて貰ったのだが,K君がガタガタの悪路を時速60kmでかっ飛ばすので大変怖かった。しかし山内さんと萩原さんは村人と共に荷台に乗ったので,もっと怖かっただろうし,尻が痛かっただろうと考えると文句は言えない。途中,鹿が目の前の道路を横切っていったので,ドライバーのK君が,撃ちたいけど銃も弓矢も持ってきてないのが残念だと言っていた。ここの人たちの交渉術もハンター故か。

22:00過ぎにK村に着き,毎度泊まらせて貰っているB君の家に行ってみると,いつも我々が泊まらせて貰う部屋はもうきれいに掃除されてマットが敷かれていた。町で働いている彼の兄G氏にメールで訪問を連絡しておいたのが一応伝わっていて,何日も前から準備はしていたのだそうだ。でも正確な日時はわからなかったので,とりあえず部屋だけ用意しておいたということだったが,それで十分だ。B君とは彼が乳児だった頃からの付き合いだが,いつも誠実で心温まる歓待をしてくれるのが嬉しい。今回は,とてもきれいなトイレもできていた。地面に埋設したドラム缶に溜めるだけなので,そのうち糞尿を分けることで悪臭が出ないようにして,かつ堆肥も作れる,いわゆる「エコトイレ」を紹介したら良いかもしれない。彼らの生業は狩猟採集と焼畑農耕なので,基本的に施肥はしないし(だから野菜も作っていない),町から遠くて肥料を買うのは非現実的だが,糞便から堆肥が作れれば,農業研修を受けに行った人とかもいるので使ってくれる可能性はある。もっとも,そうやって生業を変えてしまうような介入をしていいのかどうか,まだ自分の中でも結論はでないし,情報提供くらいはするとしても,実際に事業にしたいと言われた場合にどこまでコミットしていいのかは難しい問題だ。


【第4日目】 一夜明けて調査(2015年9月23日)

ある晴れた朝のK村7:00頃に起床。たしか,旬だというヤムイモやバナナをココナツスープで煮込んだものが朝食だったと思う。乾季のK村で,抜けるような青空の下,高床式の家に囲まれた広場を歩くのは気持ちいい。

MAFの飛行機が飛んできたので,金曜の便があるかどうかを聞いて貰ったところ,機体や燃料に問題があるわけでは無いが会合のためかなにかで金曜は飛ばないという,衝撃的な答えが返ってきた。そのため,我々3人全員で調査をできるのは今日しか無くなってしまった。トラックとディンギーでの移動は一日がかりなので,明日には出発しなくてはならない。日本を出てから村に着くまで3日,村で1日だけ調査して,村から日本に帰るのに3日というのは,あまりにも効率が悪い。ダルーからの飛行機が飛んでいればこれが2日,3日,2日となったはずで,それならまあ良かったのだが。さてどうするか。

インスタントコーヒーを飲んでから調査開始。今回はこの研究の一環で来ているので,K村の小学校の先生の協力を得て,学童の身体測定と運動能力の評価をすることが目的である。ここの人たちは焼畑農耕もしているが,タンパク源は狩猟で得る鹿,イノシシ,ワラビーなどか,網などで漁る淡水魚が主であり,エネルギーも半分以上はサゴヤシという半自生しているヤシの木の幹を削って搾り取ったデンプンから摂取する。成人男性の筋力は凄まじいレベルなのだが,発達過程ではどうなっているのかということが未知なのだ。上述の通りローカルな飛行機が無かったため,調査できる日が少ないと対象者の人数も減ってしまうが,萩原さんは明後日以降も残るので,自分と山内さんがいる間に,学校の先生が調査の戦力になるようにトレーニングすることにした。もちろん実際に調査をしながらOJTのような形でトレーニングするわけだ。

学校自体は今週一杯休みなので,先生たちも子供も暇なのだが,この村出身でない生徒が帰ってしまっていて不在なのが残念なところだ。ともあれ,村の中だけでも数十人は小学生がいるはずなので,この子たちの全数調査を目指したい。B君の兄であり現在はウィピム村で学校の先生をしているI氏がK村に帰ってきていたので,彼に頼んで小学生を呼び集めて貰い,山内さんと萩原さんで身体計測と運動能力測定,中澤が学校の先生を通訳兼アシスタントにして質問紙を使った聞き取り調査を担当した。十数人やったところで要領がつかめたようなので一人でやって貰ったら問題なく聞き取りができたので,後はこの先生に託すことができた。

焼いて皮をむいたヤムイモとバナナとインスタントコーヒーで昼飯を済ませた後,午後は川が淵のようになっている水浴び場に行って,砂埃とディーゼル(車の燃料として運んできたのだが,容器が悪いのか気体が漏れて酷い臭いだった)で汚れた体を洗ってさっぱりした。ボートの上で直射日光を浴びすぎたのか,腕の日焼けがひどくて汗もでない状態になっていたが,暫く水に浸かっていたら火照りがとれてきた。

2年前は水浴び場に行く途中で携帯電話が繋がる場所があったのだが(以下電波スポットと呼ぶ。K村周辺には合計3ヶ所),ウィピムが停電しているためか,以前より電波状態が悪くてスマホが繋がらなかった。トラックは村にあって,燃料も持ってきたから,オリオモステーションまでは行けるとして,そこから先のディンギーを手配するのに,ディンギーの持ち主(K村出身のまだ若いビジネスマン)がいるダルーへの連絡が必要なので困ってしまった。夜の方が電波状態は良くなるから,後で別の電波スポットに行って連絡してみる,とB君が言ってくれたが,スマホはたぶんダメだから,通話料が十分入ったSIMカードだけ貸してくれという。アルカテルという会社の携帯電話の方がスマホよりも電波を良く拾ってくれるのだそうだ。

晩飯までの間に,朝とったデータをコンピュータに入力した。日が暮れる前に食事調査以外の入力が終わって良かった。食事調査は24時間思いだしをしたのだが,入力形式が難しい。今回はBreakfast,Snack1,Lunch,Snack2,Dinner,Snack3という形でカラムを分け,それぞれのカラムに複数の食材が入る場合はカンマで区切ろうと思うが(分析するときは読み込んでからstrsplitして%in%を使ってDietaryDiversityのスコアに変換するコードを書けばいい),とりあえず時間がないので,バックアップの意味で写真だけ撮った。

晩飯は缶詰入りのラーメンライスとヤムイモ,バナナだったと思う。B君の家の食事は野菜がほとんど無いので(昔は野草を食べていたはずだが,この数年はどういうわけか食卓に上がらない),ビタミンはたぶんほとんど肉やフルーツから摂っていることになると思うが,今回滞在中はフルーツも出てこなかった。シダみたいな外見の野草は,スープに入っていると旨いのだが,乾季が続いているというから,なかなか採れないのかもしれない。

晩飯後にB君がダルーに連絡が取れてディンギーはOKだが450キナかかるという返事をもってきた。ここは直接交渉できないので仕方ないか。往路で330キナまで値切れたのはかなり特殊な状況だったし,今回はダルーから迎えに来て貰うわけだし。その後暫くして,村の端に住んでいるドライバーが,明日のトラックについて話があると言ってやってきた。開口一番,K村からオリオモステーションまではトラックハイヤーだと800キナだというので,乗り合いだと一人の場合は50キナで8人以上の乗客がいれば乗り合いにするという話だから50掛ける8で400にするのが筋だろうと主張し,彼自身はそれに反論する根拠を見つけられなかったのだけれど,トラックオーナーが隣村にいるので,とりあえず明朝早くにオーナーのところに行って400でいいか確認してくるという話に収まった。その後はB君とドライバーともう1人の若者と雑談をしているうちに22:00近くなったので就寝。今回は肌寒いほど涼しくて蚊も少なく,シーツをかぶって寝るので十分で,結局蚊帳は必要なかった。


【第5日目】 トラックとディンギーでダルーへ(2015年9月24日)

7:00頃起床。昨夜の話の通り,7:30頃にドライバーがトラックを運転し,B君が同乗して隣村に出かけていった。我々は朝食を済ませてから,9:00には戻ってくるはずというトラックを待って所在なく過ごしていた。この時間に調査をすることもできないわけではなかったが,トラックが帰ってきたらすぐに出発しなくてはいけないので,後はすべて萩原さんに託すことにしたのだ。とはいえ,何もしないのも勿体ないので,村人と雑談しつつ,この2年間の人口動態の聞き取りを少しだが進めた。人口規模からすると意外なほど多くの高齢者がこの2年間で亡くなっていた。偶々そういう巡り合わせなのかもしれないが寂しいことだ。

ダルー帰還結局トラックが帰ってきたのは11:00近かった。ドライバーはオーナーを納得させることができず,オーナーが同乗してきたのは,半ば予想通りだった。オーナーも隣村の人だから現地の人で,何度か隣村にも住まわせて貰ったことがあるので知り合いでもおかしくないのだが,面識がなかった。たぶん若い頃から町に出て高等教育を受け,ビジネスをしてきた人なのだろう。

というわけで,我々とオーナーの交渉になった。オーナーのジャブは,当然800キナから始まる。日本政府から金を貰ってきてるんだろうから,それくらいの金はあるだろうというのだ。うーん,そうくるか。実際には,もちろん科研費で航空機のチケット代は出るのだけれども,今回のようにディンギーとトラックのような定価の無い旅程を取らざるを得ない場合,たとえ領収書を書いて貰っても支出されない可能性がある。その場合は自腹となる。宿泊費が安い国であれば安宿に泊まって差額を当てることでトントンになったりすることもあるのだが,PNGの宿泊費はダルーのシャワーとトイレが共用のKUKIホテルでも一泊素泊まり15,000円くらいするにもかかわらずオセアニア地域ではそんなに高い宿泊費は認められていないため,赤字になってしまうことも珍しくない。というわけで,トラック移動費はできる限り安く抑えなくてはいけないのだ。

まずはこっちもジャブを打ち返す。今回は超短期だし日本政府からそんなにお金は貰っていない。それに,ドライバーにも言ったが,1人50キナで8人以上いれば乗り合いにできるというんだから,400キナでいいだろ? 残っている燃料15リットルも提供するし,といった趣旨のことを言ってみた。

するとオーナー氏,今日,本来なら自分はこのトラックを使って別のことをする用があったのだ。それを日本人がどうしても移動したいと言うから使わせてやるのだ。色を付けるのは当たり前だろうというフックを打ってきた。まあ一理あるが,はいそうですかとは言えない。

そこで攻防はどれだけ色を付けるのかというフェイズに至った。とりあえず,「わかったわかった,確かにあなたのビジネスよりもこっちの都合を優先させて貰うのだから色を付けよう。400キナに50キナ上乗せして450キナでどうだ?」と言ってみた。するとオーナー氏,心底あきれたような顔をして,「ダメだ。話にならん。繰り返すがこれはそっちの都合なんで,こっちにはトラックを出す義理はないんだからな。600キナは出せ。これが最後通告だ」と言ってきた。

漸く譲歩を引き出せたが,もう一声行きたい。今度は泣き落としにかかる。ぼくの手持ちが1000キナしか残っていないので,オリオモステーションからのディンギー代450キナ(と電話で言われていた)を払ってしまうと600キナは出せないから,500キナにしてくれと言ってみた。

予想通り,1000から450を引いたら550だからということで550キナで決着したわけだが,隣村から便乗するつもりで来たのであろう学校の先生が,ずっと給料未払いが続いているためにダルーまで給料支払い請求に行くのだと言っていて,気の毒だったがこの人に通常の1人分である50キナを払って貰ったので,我々が出すのは差し引き500キナで済んだのはラッキーだった。

そんなこんなで昼過ぎの出発となったが,これで問題が終わったわけではないのだった。今度は,B君がこれから出発という電話をダルーに入れようとして繋がらないという問題が起こった。何度試してもダメなので,トラックはオーナー自身が運転し,ドライバーが村に残って電話連絡をしてくれるということになった。不安だが仕方が無い。

ウィピムを過ぎ,道路脇に携帯電話用の電波塔が建っているところまで来て,漸くダルーに電話がつながった。しかし恐ろしいことに,もう時刻が遅いからダルーからオリオモステーションまで迎えに行くのは無理だという返事だった。やっぱりドライバー氏からは電話がつながらなかったようだ。落ち込んでいても仕方が無いので,B君の上の兄に電話をして相談してみた。(B君が当初考えた)地方政府のディンギーを出して貰おうというのは無理筋だったが,オリオモステーションにはディンギーが留まっていることも多いから,ともかくオリオモステーションまで行ってみれば? という有益なアドバイスを貰ったので,それに従うことにした。

それから40分ほどで無事にオリオモステーションに着いてみると,なぜか大勢の人がいた。理由を聞いてみると,この地区のラグビー大会があるためにダルーからディンギーに分乗してきたユースチームとその応援だという,大変ラッキーな状況だった。B君がディンギーの持ち主に交渉してくれたところ,燃料費込みで500キナだという。ダルーと違って村の方が燃料費が高いと言われてしまうと,これ以上交渉の余地が無い。元々450キナは払うつもりでいたので,K村から一緒に乗ってきて,元々ダルーまで行くつもりだった学校の先生が1人分の50キナを出して乗ってくれればOKということで話が付いた。トラックはK村に戻るというし,ダルーまで出れば我々は何とでもなるので,B君にはとても世話になったのにお礼もできなくて心苦しいが,ここでお別れとなった。せめてものお礼として,結局未使用のままになった蚊帳をプレゼントした。

ダルーの路上マーケットディンギーは川下りなので往路より早く着けるはずだが,燃料を買うために途中の村に寄ったり,他のディンギーとすれ違うたびに停めて情報交換したり,カヌーとすれ違うたびに減速して大きな波がカヌーを襲わないように気を遣ったりという運転だったので,異常に時間が掛かって,ダルーに着いたのは日没間近だった。

驚いたことに,この時刻のダルーには路上マーケットが立っていて,農産物のみならず新鮮な魚がたくさん売られていた。以前は魚といえばバラマンディーなどの大型魚しか売られていなかったが,この日はサンマのような魚が束になって売られており,大変旨そうだった。

まだ宿はとっていないのだが,この時点で我々にはいくつかの選択肢があった。1つは,金を節約して,カトリック教会のドミトリーに1人40キナで泊めて貰う手である。2番目は,KUKIホテルまで行って泊まり,翌朝にATMで金を引き出して払うという手である。しかしいずれも海岸から若干遠いので,日本人だけで暗がりを歩くことになり,セキュリティ上問題がある。第3の選択肢として,これまで泊まったことはないが,海岸にあるNew Century Hotelという華僑系のホテルを試してみるという案が浮上した。もしクレジットカードで払えればATMも使わなくて済む。そこで,とりあえずNew Century Hotelのreceptionに行ってみた。残念ながらクレジットカードは使えないそうだが,支払いはチェックアウト時でいいということだったし,ツインルームを2人でシェアすれば400キナということでKUKIホテルのシャワー,トイレ共用のシングルを2部屋よりもずっと安いので,ここに泊まることに決めた。何よりもう歩かなくていいのが利点だった。

くたくたになったのでシャワーを浴びて,ホテルのレストランで晩飯にした。さすが華僑系で,中華料理のメニューが豊富だったが,海鮮野菜スープが大変に美味だった。ポテトが多すぎて食べきれなかったので部屋に持ち帰った。


【第6日目】 ポートモレスビー経由マニラへ(2015年9月25日)

Manila Airport Hotelのレストランのスペシャルピザ7:30頃起床。昨夜の残りのポテトを朝食代わりに食べ,コーヒーを飲んだ後,8:30頃にATMに行った。ぼくらより前に数人並んでいたが,とくに危険な雰囲気は無かった。暫く並んでいると,目の前の金網の柵に鍵が掛かっていなくて,風で開き始めた。一つ前に並んでいた男がそれを見て柵を押さえ,警備員を呼んだところ,柵を直しただけではなく,外国人がこんなところで並んでいては危険だと思ったのであろう,並んでいる人たちをすっ飛ばして列の先頭にしてくれた。並んでいた人たちには申し訳なかったが,安全に現金を引き出せて助かった。

飲み物を買ってホテルの部屋に戻り,暫く打ち合わせとか荷造りをした。11:00近くなると,空港に行くべき時間だと言ってホテルのドライバーがやってきたのでチェックアウトし,割ときれいな車で空港に行った。さすがにダルーでは国際線のボーディングパスは発券されないので,ポートモレスビーまでの分だけだが,我々は2人とも荷物は全部機内持ち込みだし,チェックインは簡単だった。ただ,何も言わずにいたら予約した席と違う席を割り振られそうになったので,二人とも予約した通路側の席に変えて貰うのに少々手間取ったが。

暫く待つ間がとても手持ち無沙汰だったが,ダルーからポートモレスビーの2時間の旅は快適だったし,ポートモレスビーでもチェックインはスムーズだった。2時間の乗り継ぎ時間では慌ただしいかと思っていたが,実はかなり余裕があった。往路と同じ喫茶店に入り,コーヒーを飲みながらスマホを充電しようとしたが,テーブルに備え付けられたタップからはぼくのスマホには充電できないことがわかったのはこのときだった。30分ほど経ったところで手荷物検査場への通路が開いたので,出国手続きをした。出国の時もとくに税金などはかからなかった。国際線の待合室は実にきれいになっていて,寿司を売っている店もあったが,多くの種類のコーヒー豆を並べて売っている店があって,豆のままのものを買うことができたのはラッキーだった。値段もダルーのスーパーと大差なかった。

ほぼ定刻に離陸したマニラ行きのエアニウギニの機体には,往路と同様,各座席にディスプレイが備え付けられていたので,映画を2本見てしまった。500 DAYS OF SUMMERという,あまりにも主人公が可哀想すぎる恋愛映画(?)と,ライラの冒険の第一話,黄金の羅針盤だが,どちらもそこそこ楽しめた。

フィリピンの入国手続きも簡単で,マニラのNAIA1から徒歩5分ほどのManila Airport HotelをAgodaというサイトで予約しておいたので,そこに行くのも簡単だった。荷物を置いて晩飯を食べようと外に出たら雨が降ってきたので,結局晩飯はホテルの中にあるレストランで食べたが,Pork Berry with Asian Slawという料理とシェフのスペシャルピザが安くて美味だった。


【第7日目】 帰国(2015年9月26日)

7:00前に離陸する飛行機なので,Manila Airport Hotelに朝4:00にモーニングコールを頼んでいたが,それより早く起きてしまった。4:40にチェックアウト。

ミニバーも使わなかったし,Agodaでクレジットカードを使って取った宿なので,ただ鍵を返しただけで済んだ。車で空港まで送ってくれたが,昨夜説明してもらった通り,Jetstar Asiaの大阪(関空)行きが出る第一ターミナルはエアニウギニを降りたのと同じターミナルで,歩いてもすぐだった。

チェックインも出国審査もスムーズに済み,フリーラウンジにあるスターバックスでスパニッシュオムレツラップとトールラテを買って(8ドル弱だったので,往路のPiazzaという店の倍くらいの金を使ったことになるが,値段ほどの違いは感じなかったので,たぶんPiazzaの方が得だと思う)メール受信やtweetで約1時間過ごした。JetStar Asiaの関空行きは予定よりやや早く離陸し,関空着も予定より若干早かった。機内で,高野秀行『移民の宴:日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』講談社文庫,ISBN 978-4-06-293183-0(Amazon | bk1 | e-hon)を読了。最後まで面白かったが,文庫版あとがきに書かれた失望感には悲しくも共感した。重要な指摘。

予定より若干早く関空に到着。後は鵯記へ。


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