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2004年ソロモン諸島往還

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2004. Last Update on October 8, 2004 (FRI) 19:16 JST .

記録的な大所帯で記録的な大荷物(2004年9月6日〜7日)

2004年9月6日の夕方,MAXとき号の車内から記録を始める。上野から京成上野に出てイブニングライナーに乗る予定なのだが,大分苦労して私物はリュック1つに収めたので,待ち時間は苦ではない。問題は他のメンバーと合流してからだ。今回は総勢11人の大所帯なのだが,うち2人は神戸から関空発ブリスベン行きなので,成田発は8人である。預け荷物が250 kgとか言っていたので,素直に計算されると莫大なエクセスを取られてしまう。何とか許してもらえるといいのだが。

ホニアラまでのスルーにするのに手間取ったけれども,8万円くらいのエクセスで済んだようでよかった。お土産を買って時間をつぶし,予定通り21:05にボーディングが始まった。2階席だったが,階段のそばだったし,空いていたので快適にブリスベンまでの9時間を過ごすことができた。機内映画はいろいろ選べたのだが(前の座席にくっついているタイプのディスプレイだったので),「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」だけ見て,後は来るときに上野で買った,鈴木光司「エール」を読破して眠った。「エール」は,鈴木光司のマッチョ好きな側面が前面に押し出された作品で,まあ楽しめた。しかし,あの終わり方はないよなあ。伏線かと思ったら放り出されたままになった設定も多々あって,若干消化不良気味であった。

窓外のすばらしい夜明けのグラデーションで目が覚め,朝食をとって,ほどなくブリスベンに着いた。4時間待ちなので,いま,こうやってここまでの記録をタイプしているところである。

ブリスベンでは,その後携帯用のラジオとタオルを買い,カフェオレを飲みながら人口学研究の論文の査読をして時間をつぶした。ホニアラまでの飛行機はヴァヌアツ航空の機体をソロモンエアラインが運行しているもので,わりと快適な3時間の旅だった。ホニアラでは入国手続きに並ぶ時間が呆れるほど長くかかり,何手かに分かれて慌てていろいろなことを済ませた。日本円をソロモンドルに両替したり(もう銀行は閉まっている時間なので空港の郵便局でやったのだが,ここのレートがsellとbuyの差がやたらと大きくてひどい上に,準備されているソロモンドルが少なくて,ぼくらの希望額すべての両替をすることができなかった。後は仕方ないのでムンダかノロでやるしかないだろう),殺虫剤処理した蚊帳を買ったり,発電機を買ったり,明朝の国内線のリコンファームをしたり,明朝のためにビスケットを買ってきたり,といった作業が終わってメンダナホテルに皆がチェックインしたのは17:30頃だった。オーシャンビューの部屋に2人ずつ泊まることになったのだが,部屋に入ってみたらきれいに盛り付けられたフルーツが用意されていたので驚いた。18:15から晩飯に出た。最初はSea Kingレストランに行こうかと思ったが,味が落ちたという情報があり,Hong Kong Palaceに切り替えた。9人でさんざん飲み食いしたわりには安く上がった。後は,明日ちゃんと起きられるかどうかだな。一応,5:00起きの予定で,目覚ましをセットした。

早起きしてWestern Provinceへ(2004年9月8日)

腕時計の目覚ましで5:00起床。慌てて着替えをし,冷蔵庫で冷やしておいたミネラルウォーターの中身を,いつも使っている魔法瓶水筒に移してから,ロビーに出た。玄関脇の倉庫から,荷物を軽トラックに載せて空港へ。ここまでは良かった。

最初の問題は飛行機にチェックインするときに起こった。発電機を飛行機に載せてくれないのである。昨日買ったときに試運転したので,ガソリンが残っているというのだ。逆さにして振っても出てこないのだが,たしかに飛行場の係員がいうとおりガソリンの臭いがプンプンするので,向こうの言い分もわかる。それでも,パイロットに交渉して,本当に空にすれば臭ってもいいことにはしてもらった。が,問題はそれだけでは終わらなかった。要するに我々の荷物が多すぎるというのである。結局,別にカーゴ便が飛ぶことになり,発電機もガソリンが抜けたら運んでもらえることになったので,我々は一足先にムンダに飛び立つことになった。満席の上,手持ちの荷物も相当多かったので,ひざの上にまで荷物を抱えた状態でのフライトとなったので疲れたが,とにもかくにも1時間弱でムンダに着いた。

すると,今回の調査のカウンターパートであり,ヘレナ・ゴルディ病院看護部長のP氏が出迎えに来てくれていたのみならず,カーゴ便が既に着いていて,その荷物が病院のトラックに乗っていた。ただし,荷物は全部着いたわけではなく,2つ積みきれなかったらしく,午後の便で届くという話。しかたないから,先に他のことをしようということになり,まず銀行に行ってみた。ムンダにある銀行はNational Bank of Solomon Islandsというのだが,この銀行はNational Bankでありながら既に2回も倒産しているという,いわくつきの銀行なのである。で,やや不安だったのだが,窓口のお兄ちゃんに,たくさんの日本円をソロモンドルに換えたいんだけれど,と言ったところ,首都ホニアラに電話してくれて,まず換算レートを教えてくれた。空港の郵便局では1ソロモンドルが20円以上という非常に悪いレートだったのだが,ここでは17円ちょっとであり,レートは非常によかった。しかし,実際に換金する額を日本円で100万円と伝えたところ,額が大きいのでちょっと待てといわれて,再びホニアラに電話した結果,ここでその100万円を買うことはできるが,売れないと困るので,日本大使館に日本円の買取を保証してもらわないと換金できないという,甚だ妙なことを言ってきた。大使館がそんなことを保証するなんて聞いたことがないので,その筋で進めるよりも,ノロに行ってみようということになった。ノロはちょっと前までソロモンタイヨーが操業していた本拠地で,日本人船員もたくさんいたし,WestpacやANZ Bankという外資系の銀行の支店があるので,望みがあるかもしれないと思われたのだ。

とりあえず朝飯ということになり,近くの食堂で牛飯とかラーメンとかを食べてから,5人でノロへ向かった。100万円を一度に換えると文句を言われそうならば,1人20万円ずつ,バラバラにいけばいいのではないかという目算である。40分くらいの船旅でノロに着き,すぐにANZ Bankに行ってみると,レートは18.76円だったけれども,あっさり100万円をソロモンドルに換えることができて拍子抜けしたほどだった。若干の買い物をしたら12:30近くなったので出発した。途中,Rawaki村に寄って,ちょうど家で大工仕事をしていたT氏(村の偉い人の1人)に対して,2週間後に調査に来ることと,今週末に偉い人たちに話をしにいくという話をした。すべてOK。その後慌ててロッジに戻ったら,13:30は10分ほど過ぎていたが,病院からの迎えはまだだった。暫く待ったが埒があかないので歩き出したら,途中でP氏の乗ったトラックに出会った。いったん病院に行って様子をみた後,今日中に道具をセッティングしてしまおうということになり,数人が再びトラックに乗ってロッジに戻り,荷物を積んで再び病院に戻ってセッティングをした。17:00過ぎに完了。ロッジに戻って晩飯のオーダーを出し,シャワーを浴びたりしてから少々休んで,19:30頃から晩飯。クレイフィッシュオムレツというのを頼んだが,実に美味だった。主食としてはハーフライス・ハーフポテトにしてもらったのだが,これも当たりだった。

食後にチューブのラベル書きをしてから,今後の予定についてのディスカッションをして,22:15に就寝。

健診開始(2004年9月9日)

4:45に起きて5:15に外に出てみたものの,真っ暗だし,約束していた迎えの車は見当たらないので,暫く待ってみたが,一向に来る気配はないのだった。しかたないので5:35頃歩き始め,6:00に病院についた。

P氏が部屋のドアをちょうどあけようとしていたところで,すぐに電源を入れて,いろいろとセッティングの仕上げをして,7:00頃に最初の村人が来た。尿検査までは何事もなく済んだのだが,次の採血のところでトラブルが発生した。P氏自身が採血してくれることになっていたのだが,これが途方もなく下手なのだ。多少指導したところでできるようになるとは思われなかったので,採血のできるテクニシャンを探してもらうことにした。するとほどなく,この病院でただ一人のラボ・テクニシャンだという巨漢G氏が現れ,巨体に似合わぬ繊細さを発揮して実にうまく採血を始めてくれたので当面の問題は解決した。しかし,採血できる人が彼ただ一人ということは,Paradise村やRawaki村に連れて行けないことを意味するので,そちらに行ける人を別途探さねばならないことになった。

健診作業を続けていたら,またもや問題が起こった。この病院のドクターが怒ってやってきて,ここで健診をするなんて話は聞いていないから出て行けというのである。どうやら,カウンタパートであるP氏が,この調査の話を正式に病院スタッフに説明していなかったらしい。我々のチームリーダーが保健省からも正式に許可を貰っていることなどを説明し,ドクターへの説明を怠っていたことを詫びて,なんとか場所は使わせてもらえることになった。

一難去ってまた一難とはこのこと。順調に健診が進んでいたのだが,G氏が10:15になったら職場に戻らねばならないというのである。ともかく病院に一人しかいないので引き止めるわけにもいかず,糖負荷試験の途中だったが泣く泣く断念し,本日は34人で健診を終えることになった。

被験者用にケータリングサービスを60食頼んでおいたのだが大量に余ったので,朝食がまだだった我々も,いろいろ手伝ってくれたカウンタパートの面々も,それを食べたのだが,まだ余って勿体無かった。しかし参加者数は読めないので仕方がない。明日も巨漢G氏は2時間程度しか手伝えないというので,あまり大勢の参加者は処理できないのが辛い。土曜はG氏がフリーなので,土曜に大勢やるしかないだろう。

午後はG氏の代わりにパラダイスに行ってくれそうな人を探したり,改めて謝ったりするために,ドクターのオフィスに行ったり,ホニアラにFAXを打ったり電話をしたり,買出しに行ったり,ケータリングの支払いをしたり,といろいろ忙しかった。結局ギゾ病院のメディカル・ラボのR氏が来てくれそうな雰囲気なのだが,P氏の例もあるので,本当に採血できる技量があるかどうかを確かめに(買い物もあるのだが),土曜に何人かがギゾに行くことになった。ギゾはウェスタン州の州都であり,ここムンダからボートで1時間ほどの場所にある。小さな島なのだが,かなりいろいろな店もあるので,買出しもできそうな感じである。

ところで,アグネスロッジの晩飯は16:30頃注文して18:30頃出てくるのが普通である。今回は11人という大所帯なのでもう少し時間がかかって,19:00を過ぎた頃がディナータイムである。今日は前菜としてraw fishというのを頼んだら,白身魚を湯通しして生野菜と和え,コショウとビネガーで味付けしたものが出てきて,大変に美味だった。メインディッシュはカニのチリソース煮にした。少々甘酸っぱい感じだけれども食べやすく,なかなかに美味だった。難点はライスで,昨日はべちゃべちゃで,今日はパサパサだった。フライドポテトの方がライスより絶対においしいと思う。

今日は皆早く眠った。もう22:00を過ぎたので,ぼくも眠ることにする。

捨てる神あれば拾う神あり(2004年9月10日)

今日は5:30に迎えの車が来ることになっていたので出てみると,まだ誰もいなかった。今日はパラダイス村の調査の件について教祖にお願いするため,我々のチームリーダーと,この地域で長く調査していてロヴィアナ語を喋れるF君がCFC教団本拠地のドゥヴァハという村に行くので,9人で健診をしなくてはならない。ほどなく迎えの車は来たのだが,今度はこちらのチームのメンバーの何人かがなかなか来ない。後で聞いてみたら,昨日からF君の目覚ましに頼っていたので,出発時間が異なる今日は目覚ましが鳴らず,寝坊してしまったらしい。結局10分くらいの待ちで済んだが,病院に着いたのは昨日と同じ6:00になってしまった。

P氏は今日もちゃんと待っていて,部屋の鍵を開けてくれた。ケータリングは8:00に取りに行かなくてはならないので,そのアレンジもお願いした。今日は二日目なので我々の準備もスムーズに進み,6:15にはセッティングが完了した。ちょうどその頃G氏も到着し,インフォームドコンセントをとるところを担当するナースとか血圧測定を担当するナースも現れたので,スタート準備が順調に整ったわけである。

最初の対象者がやってきたのは6:30頃だったかと思うが,ともかくそれから7:45頃受付を締め切って8:30頃採血が完了するまでの2時間は,次から次へと村人がやってきて嵐のような忙しさであった。受付を締め切った理由は,そもそも採血をするG氏が出勤前にしか手伝えないということと,それから逆算して対象者に出す弁当を50人分しか注文していなかったことの2つである。そんなわけで採血を優先して先にやったので,尿検査はほぼ同時に終わったが,その結果を記録用紙(こちらにとっておく分と対象者に渡す分を切り離すように作ってある)に書き込んだり,検査済みの尿を捨ててきたりするのに時間がかかった。血液処理の方が終わるまで暫く時間があったので,昨日の結果をコンピュータに入力(今日はたぶんそういう待ち時間ができるだろうと読んでY2を持ってきたのだ)して20番までの入力が終わった。

対象者が多かったので弁当の残りが少なく(忙しすぎて気づかないうちに届いていたが,ドライバーがちゃんと運んでくれたようだ),カウンタパートの分が何とか出せたくらいで,我々は朝から何も食べずにアグネスロッジまで戻ることになった。戻ってから今日と明日の朝食用にパンを買いに行ったり,明日のケータリングサービスを注文しに行ったりした。P氏の予想では明日は80人から100人は来るだろうというのだが,その通りには来ないだろうと判断し,80食を注文してきた。空港に行ったら発電機はまだ届いていなくて,14:30の飛行機で着くだろうという返事で,すごすごアグネスロッジに戻ってきた。遅い朝食として食べた焼きたてのパンは美味だったが,アグネスロッジの昼食として頼んだトマト&チーズの焼きサンドとポテトスティックはさらに絶品だったので,幸せな昼下がりを過ごした。

食後,Y2でapacheを動作させ,htmlとcgiを書いて(といっても,4年前に書いたコードを書き直しただけだが),webフォームから尿検査結果を入力できるようにし,今日健診を終えた83番までのデータ入力を終えた。一休みしているとチームリーダーとF君がドゥヴァハから帰ってきた。首尾よく教祖その他の重要人物に会うことができて調査の許しをもらい,パラダイス村に行って会場の見当もつけてきたとのことである。すばらしい。しかし,やはりパラダイス村には発電機は一台もないということも判明した。それでいよいよ発電機の確保が重要になってきたわけだが,14:30の便で着くというさっきの係員の言葉を信じて16:00過ぎに空港に行ってみると,やはり届いていなかった。これはいよいよ本格的に対策しなくてはやばいだろうということになり(つまり,ホニアラから届く可能性は限りなく低いと考えて別の入手方策を考えねばならないということだが),1つ考えたのが,ホニアラでもY. Satoの店で購入したので,ちょうど明日行くことになっているギゾのY. Satoの店から発電機を購入し,ホニアラにあるものは返品してしまうという作戦である。Y. Satoという方は日本人なのだが,ソロモン諸島の国会議員にもなっている大物で,かなりの権力をもっていて,いくつもの雑貨店を経営しているのである。Y君が電話をして交渉した結果,この目論見は成功し,明日には発電機が入手できる見込みとなった。もし飛行機でも届いてしまうと困るのだが,そういう場合はギゾから持ってきた分を送り返せばいいということで話がついたらしい。一件落着というわけでほっとした。ソロモン航空には見捨てられたが,Y. Satoが救ってくれたということになる。捨てる神あれば拾う神あり,といったところか。

今日の晩飯はビュッフェ形式で行われ,炒飯とか鶏料理,サラダ,煮たカニ,煮たロブスター,煮野菜,フライドポテトなど,いくつもの美味な料理が並んだので(カニやロブスターは昨日のように甘辛いチリソースで濃い味がついてしまったものよりも,こうやって煮ただけの方が素材のうまさが生かされるような気がする),食べ過ぎてしまった。食後,来る前に上野で買った,小泉武夫「食の堕落と日本人」を読破した。ところどころ「トンでも」なところがあるのだけれども,著者の憤りには共感するところが多々あって面白い本だった。決して名文ではないけれども軽妙かつ教養ある文章のリズムも,スッと入ってくるもので読みやすかった。ただしこの本,ストレスの源でもあった。なぜかというと,ソロモン諸島に来ていては絶対に味わえない美味が情感たっぷりに書きたてらられているからである。例えば次の一節。

さて,いよいよそのサンマを心ときめかして焼いた。しばらくして「ピュープツプツプツ」と音を立てながら,サンマの表面が焦げはじめる。そこで思いきって,その煙の上に顔を近づけ,深呼吸してみた。

この匂いがまたたまらない。脂肪が火に落ちて焦げた匂いなのだが,それを嗅いだだけで,もう食の欲は完全に奮い立ち,涎が舌の裏や頬の内側からとめどもなく湧いてくる。高鳴る気持ちを抑えつつ,ひっくり返して反対側も強火の遠火でしっかりと焼く。焼き上がったら,まだプツプツと鳴いているのを,大皿の上にどんと置く。そしてよく見ると,腹部のあたりの脂肪はもう溶けはじめてボッテリと膨らんでいる。

焼きたてのサンマの側には,下ろしたての大根。ご飯茶碗には,炊きたての真っ白ふっくらほっかほかの飯を盛ってある。

かなり最初の方にある文章なのだが,これなど読んでいるともう駄目だ。匂いなんて嗅がなくても,読んでいるだけで涎がとめどもなく湧いてくる。かなりたくさん食べて満腹に近いのだけれども,その満腹感を乗り越えて迫ってくるサンマと大根おろしなのである。満腹した一冊であった。

その後,Paris Matchのflat5を聞きながらこの記録を打ち終えたところで23:00となったので,目覚ましを翌朝5:10にセットして眠ろうかと思っているところである。

激闘の一日(2004年9月11日)

5:10に目覚ましで起床し,着替えてから,昨日買っておいたパンを食べて出発。今日は,調査チームの方は全員時間通り5:30に集合したのだが,迎えの車が来なかった。暫く待っていたら,まだ真っ暗な道を西の方から歩いてくる人がいて,どうしたんだと尋ねられたので,病院に行きたいんだけれど車が来ないんだと答えたら,ドライバーは飛行場の向こう側に住んでいるから見てきてやるよ,と親切にも言ってくれた。よろしく,とお願いして暫く待っていると,飛行場のターミナルの建物の西側から車が出てくるようにみえ,漸く車が到着したのは5:45を過ぎた頃だった。結局,今日も病院に着いたのは6:00頃だった。

驚いたことに最初の対象者はもう来て待っていて,巨漢採血者G氏もほどなく着いたので,今日は6:10から健診が始まった。9:00頃受付を閉じたのだが,最後の方は長蛇の列で,チームリーダーも大勢断ったほどだったという。終わってみると,今日の対象者は72人だったので,80食分の弁当はちょうど良かったといえよう。尿検査は他のパートより早く終わるので,データ入力もやってしまった。完璧である。

今日は病院での調査をいったん終える日なので(来週からパラダイス村の予定),カウンタパートの調査協力者たちに謝金を支払わねばならない。チームリーダーが受付で働いていて早く身が空いた2人へは払ったけれども,採血以降の作業が終わらないうちに10:00近くなり,チームリーダーはギゾに向けて旅立たねばならない時刻なので,他の3人への支払いと受け取りへのサインをもらうことを託された。10:30頃までに無事支払いを終えることができてよかった。日当100ソロモンドルから300ソロモンドルという,ソロモン諸島の相場からするとかなりの額なので,こちらも緊張したが(もっとも,後で知ったところによると,せっかく一人ずつ呼んで秘密に手渡したのに,この額は彼らの間ではツーツーで,金額の差について不平を持つ人が現れたりしたらしい)。

もちろん荷物も引き上げ,会場も片付けねばならない。途中までやったところで,後は血液処理班に任せて,尿試験紙リーダや体重・体脂肪計や,いくつかの消耗品を詰めたダンボールとともに,先にロッジに引き上げることにした。トラックの大きさからして,どうせ一度には運べないので,まあ妥当な判断だったと思う。雨が降ってきたので,荷物を座席に,人間が荷台に乗って帰った。ちょうど昼だったので,血液処理班の分も含めてロッジのレストランに昼食をオーダーし,ぼくと一緒に先に帰ってきたY君と2人で食べ始めた。今日も焼きサンドとフライドポテトにしたが,昨日と変わらず美味であった。

暫く休んでから弁当代を支払いに行った。最初の支払いのときは緊張していたレストランのマダムももう慣れて,2992ドルの支払いを淡々と済ませた。たぶんあのレストランの売り上げの1週間分以上になるんじゃないかと思うが,3日も続けばどうってことないらしい。

その後は暫く部屋で休憩。I先生が持ってきた,野沢尚「破線のマリス」を読破した。最初のスピード感と人物造形の達者さに取り込まれ,そのままもっていかれてしまったのだが,非常に後味が悪い小説だった。戦う女性の話という意味では,来るときに上野で買って読んだ,鈴木光司「エール」と似たところがあるのだが,破線のマリスの悲しさは,愛に背を向けてしまったところに原因があるのだと思う。登場人物の心が弱すぎるのも気になった。戦う人の話は,やっぱり大沢在昌や今野敏の方がうまいし,気持ちがいいよなあ,と思う。これで読み物はほぼ読破したので,これからの空き時間は人口学研究の論文の査読に使おうと思う。

今日も晩飯はビュッフェなのだそうだ。昨日みたいな感じなら悪くはないんだが,食べ過ぎてしまうのが欠点だ。なるべくセーブしようと思う。

いま,18:00少し前だが,まだチームリーダーたちはギゾから帰ってこない。発電機の件がうまくいったのかどうかと,採血予定の人が無事に来てくれるのかどうか,とても心配だ。まあ,心配したって仕方ないのだが。吉報を待つのみである。

18:15頃にギゾからの帰還報告があり,万事うまくいったとのことで安心した。発電機も入手できたし,採血者は確保できたし,後は月曜にパラダイス村に行くだけである。安心してから晩飯となったので,さっきのセーブしようという決意は忘れ去ってしまい,またもや食べ過ぎた。満腹して部屋に戻り,シャワーを浴びたところである。明日は別に早起きしなくてもいいので,これから暫く人口学研究の査読をしてから眠ろう。

Beautiful Sunday(2004年9月12日)

9:30起床。昨夜査読すべき論文に最後まで目を通してから眠ったので疲れたとはいえ,眠りすぎかも。とはいえ,今日は午後Rawakiに行って挨拶して健診場所の見当をつける以外にはとくにすることもないので,のんびりと食堂に行って,SIMPLY EGGという,目玉焼きをトーストの上に載せただけの朝食メニューを頼んでコーヒーを飲むなどした。今後の予定を暫く喋ってから部屋に戻ってきたのが11:00だった。

実に爽やかな晴天で,随分前に田中星児がカバーして歌っていたBeautiful Sundayという歌が自然に脳裏に浮かんでくる。歌はいいのだが,あの田中星児の笑顔が一緒に脳裏に浮かんでくるのには参ってしまう。記憶は自由にコントロールできないので仕方ないが。

昼飯はロッジの焼きサンドとフライドポテトで,焼きサンドの具も昨日と同じくトマト&チーズ。定番というのもなかなかよいものである。その後暫くしてRawakiへ向けて出発。メンバーはチームリーダーとY君とぼくの3人であった。途中ものすごい土砂降りになったが,今回もってきたmont-bellのポンチョは優れもので,水をよく弾いてくれるので,まったく濡れなかった。40分ほどでRawaki村に着いたのだが,ほとんどのメンバーがFather's Dayのミーティング中であった。ボートをつけたT氏の家のところに,ノロクリニックで働いているという息子S氏がいたので,彼にともかく今度の金曜にまた来るときまでキープしておいて欲しいと言って調査用具を託し,我々は皆がミーティングをしているBig houseとやらへ行った。暫くBig houseの入り口付近で待っていたら,偉そうなおじさんが立ち上がって我々を紹介してくれたところでは,どうやらこのミーティングの輪の中にはfatherしか参加できないらしい(女・子供はその外側に大勢いたが)。今回来た3人がすべてfatherであることは偶然なのだが結果オーライというところだ。暫く待ってからギルバート語への通訳を介して,今度の土曜と,日曜をはさんで月〜木と5日間の健診をする予定であること,何も食べず排尿もせずに来て欲しいこと,朝6時から受付すること,終了後は食事を提供すること,結果の一部はその場で返すことなどを説明した。質問はないか尋ねたところ,何人もの人から来たので驚いた。相当に関心が高いようである。この調子なら大勢の参加者が見込めそうだ。一緒に食事をしていけと誘われたが,ノロロッジのブッキングもしなくてはいけないし,ボートのオペレータを待たしているので,今度来る金曜日までに健診会場にどこを使っていいかということと,手伝ってくれる人を5人探しておいて欲しいことを伝え,Rawakiを去ることにした。

ノロロッジではなかなか人が出てこなかったが,部屋の予約は希望通りにできたので良かった。そこからムンダへ戻る船でも,また雨に降られた。余程雨に好かれているようである。アグネスロッジに帰り着いたら17:00頃だったので,晩飯の注文取りは来てしまった後だったが,I先生が適当に頼んでおいてくださったようである。19:15に食堂に行ってみたら,ちょうど食事の用意ができたところで,カニと魚とどちらを選ぶか尋ねられたのでカニを選んだら,ボイルしただけのカニなのだが,実に美味で当たりだった。

食後データ入力をするために,まず30分かけてフォームとcgiを書き,20:30頃から入力を開始した。3日かけてとったデータをすべて入力するのはさすがに大変で,0:30を過ぎたけれどもまだ終わらない。これまでのペースからすると,終わるのはたぶん2:00頃になるだろう。今朝寝坊したので,別に眠くはないのだが,明日の朝は辛いかもしれない。でも,あと30人分だから頑張ろう。

ほぼ読み通りに2:20頃入力完了したので眠りについた。

パラダイス初日(2004年9月13日)

6:40頃起床。荷造りしたり朝食用のビスケット(無茶苦茶に塩辛いチキンなんとかビスケット)を食べたりトイレに行ったりしているうちに7:00を回ってしまい,慌ててロビー(というか食堂の片隅)へ行ったが,まだ燃料を補充しに行ったボートが帰ってきていなかったので,暫く待ち。

ナタリー

ボートは3台頼んであって,うち2台はパラダイス村へ直行し,残り1台がギゾに行って買い物をし,採血者をピックアップしてくることになっている。直行する方に荷物をほぼ全部積み込んだこともあって,人は5人しか乗らないのだが,ぼくはそちらに入った。ここには珍しいほどのベタ凪ぎのおかげで,約2時間でパラダイス村に着いた。小雨がパラパラきたけれども,これくらいならまったく問題ない。ナタリーという愛称を後にソロモン人から貰うことになるNさん(右写真)を初め,皆かなりの重装備で行ったのだが,パラダイス先行隊については無用な心配だった。

林業組合ディレクターである金持ちI氏やシニアパスタのN氏や村長代理P氏ら,村の主要人物に会って,いよいよ調査を始めたいというと,今夜ミーティングをするから喋ってくれという。F君がロヴィアナ語を話せるから通訳はいらないだろうと言われたので,OK,わかったと伝えた。次に校長に会うと,建築中(といってもほとんど完成していて,後はドアだけだったのだが)の幼稚園の建物とその隣の建物は自由に使っていいというので(ただし幼稚園のドアの取り付け工事を明日やるので,そのときはドアの周りで作業できるようにしてくれと言われたが),ありがたく使わせていただくことにした。

工事中とは言っても,新しい建物なのでトタン屋根でコンクリート張りであり,健診会場としてはうってつけである。さっそく校長にお願いして机を運び込んでもらい,機材をセッティングすることにした。すると,小学生たちに机を小学校から運ばせてくれたので,学校の机をもってきてしまって授業は大丈夫か心配になったが,校長は,大丈夫,なんとかやりくりするから,という意味のことを言ってくれたので安心した。

パラダイスの教会内での調査説明

機材のセッティングが終わってもギゾ組が来ず,そのうち窓の外は土砂降りになった。ボートの安否が心配になってきた頃になって,やっとギゾからのボートが着いた。皆ずぶ濡れで,大変に気の毒だった。なんでも,ボートのドライバーが間違えて一度ノロに行ってしまったらしい。待望のネスカフェゴールドブレンド(日本にいたら洟も引っ掛けないが,ここではたぶんこれ以上コーヒーらしいコーヒーは飲めない)も買ってきてくれたので感激した。今夜の食事はサツマイモの皮を剥いて茹でたものと米と缶詰を葉っぱと一緒に調理したもの(I氏の娘C嬢――嬢と言ったって25歳を過ぎて6月に出産したばかりの未婚の母なんだが,ニュージーランドの高校に5年も留学していたお嬢様には違いない――が,村の娘たちを指揮してやってくれた)。これはこれで美味だと思う。

その後教会へ行って調査の説明。F君が実に立て板に水で流れるようにロヴィアナ語で説明してくれたので,村人がときどき大歓声を上げるほどの盛り上がりぶりで,成功を予感させた。インタビューの手伝いをしてくれる4人のアシスタントを選ぶ時だけは議論になったが,最終的にはちゃんと決まって,終わったのは22:00頃だった。その後は疲れ果ててすぐに眠った(雨が降ったりしたので,教会と幼稚園の間の道が泥で滑りやすくなり,ほんの3〜4分だったけれども気疲れしたせいもある)。

パラダイスの健診開始(2004年9月14日)

パラダイス健診風景

激しい鐘の鳴る音で5:30起床。ビスケットとコーヒーで朝食を済ませ,健診開始,と思ったが,昨夜決まったはずのアシスタントが来ない。暫く遅れてやってきたので,6:30頃開始。一日当たり約70人という見当でしか消耗品を用意していないこともあり,また長い間の絶食は辛いだろうとも思われたので,まだ並んでいる人たちを説得して受付を終了したのは9:30頃だったかと思う。3時間で68人というペースはやや遅いが,最初が遅かったので仕方ないだろう。血液処理まですべて終わったのは12:30頃で,昼食は昨夜とほぼ同じ。

その後,水浴びに行った。この村は半島にあるのでカヌーで湾を渡ってドロドロの道を暫く歩かないと水浴び場にいけないのだが,それだけの価値がある清流であった。服ごと洗ってさっぱりした。しかも,帰りはそこまでカヌーをもってきてくれて,湾まで川下りをしたので,いわばジャングル・クルーズといった感じで非常に楽しかった。戻ってから暫くして晩飯になり,その後尿検査のデータを入力した。ついでなのでタブ区切りテキスト形式で出力し,Rで簡単な分析をしてみたら,健診中にも思ったとおり,3年前の調査時と同じく,この村には非常にアルカリ尿の人が多いのだった。村人は相変わらず肉のない,芋と魚と野菜と果物と木の実だけの食事をしているということだろう。22:00就寝。

パラダイス健診2日目(2004年9月15日)

今日も激しい音で4:53起床。昨日,もし学校の先生も健診を受けたいなら6:00前に来るように,と言っておいたので,その分早く鳴ったのかと思ったが,結局学校の先生たちが来たのは6:00過ぎだったので,そうでもなかったようだ。今日は昨日より早く6:00からスタートし,9:30過ぎまで受け付けたので,69番から141番まで73人できた。しかし,最後は昨日と同じく,お断り申し上げなくてはならなかった。村人の参加意欲はすごいので,できれば全員やってあげたいが,ない袖は振れないので仕方がない。

昼飯はカレー風味のラーメンライス。ラーメンには葱を刻んだものやピーマンやコンビーフが入っていて,なかなか美味い。今日は午後水浴びにはいかず,こうして3日分の記録を打ってみたところである。その後,尿の分だけデータ入力を終えた。

晩飯を食べた後,記憶に頼って昔のアニメキャラの絵を描いてみるという暇つぶし。暇つぶしにはなった。

パラダイス健診3日目(2004年9月16日)

5:15起床。今日は鐘は鳴らなかったような気がする。6:00頃始まって,11:30頃終了。尿検査が終わったのは9:30頃だったと思う。142番から215番まで74人の参加者があった。本当はもっと希望者がいたのだが,消耗品が足りなくなりそうだったので,切りのいいところで受付を〆た。

昼食後,会場として使っていた幼稚園の建物にカーペットを敷くというので,発電機から始まっていろいろなものを別の場所に移動した。雨が降っているのでやや濡れたが,小ぶりのときを見計らって,なんとか移動が完了した。

その後土砂降りなのでコンピュータを開いて,昨夜からの記録を打っている今は,14:00ちょっと前である。疲れたのとバッテリーが終わってしまったので,雨が上がるまで待とうと思って一眠りしたが,目が覚めてもまだ雨だったので諦めて傘を差して発電機を動かしている小屋まで行き,尿検査のデータ入力を始めた。18:00終了。

その後も雨は降り続いていたが,健診会場のカーペット(といっても毛などのいわゆるカーペットではなくて単なるビニールシート――木目調ではあったが)敷きが終わっていて,夕食が運び込まれ,お別れパーティの用意が整おうとしていた。パラダイス村に残っている主だった人たちが勢揃いしてパーティが始まったのは19:00を過ぎた頃だっただろうか。まず村長代理P氏が開会を宣言し,続いてシニアパスタN氏がお祈りをする。とはいえ,略式のもので,まず「ワン,トゥー,ツゥリー,トゥー,ワン」という掛け声とともに,手を「ワン」で下,「トゥー」で胸の前,「ツゥリー」で額に動かすのに続いて,「ニューライフ!」と唱えると,皆が「ハレルヤ,グラッドネス」と声を合わせた後にクラッピングするだけで終わる。それに続いてお互いにこういう機会があってよかったとかお礼を言い合って儀式的なものは終わり,食事会に移る。今日はいつもの米とラーメンに加えてキャッサバプディング(しかも石焼きしてある)とパンケーキが出てきて,ラーメンの具も鯖缶と野菜がたくさん入っていてとても美味だった。最後は再び互いにお礼を言い合って握手をしてお別れであった。N氏に前回来たときに人口調査で大変お世話になったお礼をしたいとずっと思っていて,プレゼントとして小さな日本のカレンダーを持ってきていたのだが,お別れの握手のときにやっと渡すことができて良かった。

その後は暫く喋って,発電機に給油をしてから23:00頃就寝。明日は早起きをしなくてもいい移動日なので,蚊帳の中でこの記録を打っているところである。

パラダイスからノロへ(2004年9月17日)

6:30起床。必要はないのだが,皆,早起きの習慣がついてしまっていて,ぞろぞろ起きだしている。外も明るいし。曇っているが,この様子ならじきに晴れ間も見えてきそうな感じだ。まずは荷造りか。

15分で自分の荷造りを終わって外に出た。まずはコーヒーを飲む。もはやSuperClassという,かなりまずいインスタントコーヒーしか残っていないのだが仕方がない。暫くすると食事が出てきた。この5日間,C嬢が指揮する賄いのクサゲーレ(ここの人々の言語をクサゲ語というのと,ピジンで女性はゲレなので,仲間うちでは併せてこう呼んでいるのだ)たちにも随分世話になった。米の炊き方などはアグネスロッジやノロロッジよりもずっと上だ。その後,昨夜と同じく牧師さんの家からパンケーキの差し入れがあって,少々食べ過ぎた。

頼んだ3台のボートは暫く間をおいてきたので,ムンダ行き,ノロ行き,ラワキ行きと分かれて出発したのだが,ぼくが乗った最後のラワキ行きが出たのは12:00を過ぎていて,ノロに着いたのが14:00近かった。冷えたコーラとパンとフィッシュアンドチップスを買って昼食とし,ロープを買ってラワキへ……と思ったら,ボートの燃料が切れたから買ってくれといわれ,ムッとしながら(普通,ボートを借りたら,賃料に燃料代も込みな筈なので)買ったりしてさらに時間をロスし,漸くラワキに行って村長T氏と話し,健診会場に荷物を運び込んでセッティングを終え,アシスタントを探しに行ってもらって,今は人がいなくて無理だけれども明日の朝は必ず差し向けるからという返事を貰ってノロに帰り着いたら17:00だった。明日は朝5:30にボートでノロを出て,6:00から健診を始める予定で,ぼくらと前後してムンダに行った人たちが明日採血をしてくれるボブ・サップに似た例の巨漢G氏を連れてきてくれた。これで明日も何とかできそうである。

久々にビールを飲んだので多少気分が悪いのが失敗だったが,かなり豪華な晩飯だった。米の炊き方以外はかなりうまいと思う。食後,外のベンチで歓談していたら,採血をしてもらっているR氏がCFC批判。なるほどね。この人とあまり議論する気もしないし,I先生がYさんへの教育的指導をしているところに水を差すのもどうかと思ったので黙っていたが,SDA信者がCFCを洗脳されていると批判するのはあまり説得力がないと思う。どういう印象をもつのも勝手だが,SDAを信仰するのとCFCを信仰する違いが,もし彼が言うとおり選択の自由がないことだというのなら,それは違うと思う。選択の自由は程度問題に過ぎない。ヒトは環境からフリーではないのだから完全なる自由などどこにも存在しないのだ。じゃあ,あなたはなぜSDAを信じているのですか? と突っ込みを入れてみたかった。もう少し頑張って欲しかったなあ>Yさん。Scientistとしては,「材料不足で判断はできないけれども,自分の印象を大事にしたい」というのは決して間違った態度ではない。I先生もチームリーダーと同じくencourageの仕方がわかりにくい人だなあ。

22:30を過ぎたので部屋に戻った。暫くして戻ってきたチームリーダーによると,明日採血をしてもらうG氏が謝金の増額要求をしてきたとのこと。いつも謝金を払うときは気を遣うのだが,何人もの人に払うときに職種によって額が違っていたりすると彼ら同士の間で額がツーツーなので不満を持つ人が出てきたりするらしい。しかし,よくもまあ,こう次から次へと問題が起こるものだと思う。ともかく,明日は5:30にボートが出る筈なので,5:10に目覚ましをセットして,眠ることにした今は,23:30である。

ラワキ1日目(2004年9月18日)

5:10起床。着替えたりコーヒーを飲んだりして5:29にロッジを出て,5:32頃船着場に行ったら,ボートのドライバーが既にいて(後で知ったところによると,ボートの持ち主でソルタイのCEOであるA氏が,日本人は早く来るから5:00から待っておけと言われ,4:00に起きて5:00前から待っていたとのこと),1隻のボートに13人がなんとか乗り込んでラワキに向かったのは5:45頃だった。まだ漸く空の端が明るんできたかというくらいなので,ドライバーは慎重にボートを進める。そのため,早ければ10分もかからない航路で20分もかかって,ラワキについたのは6:05頃であった。健診会場にはすぐに着いたけれども,まだアシスタントが揃っていなくて,一人ずつやってきたアシスタントが揃って手順の説明ができたのは6:30を過ぎており,最初の対象者の受付を始められたのは7:00近かった。受付を始めても対象者はポツポツとしか来なくて,5分ほど対象者が来なくなって,受付を閉めることにしたのが9:30過ぎだったが,それまでに27人しかできなかった。やはりパラダイスとは大分様子が違う。この調子では,木曜日まで目一杯やらなくては目標の200人に達しないだろうと思われた。

閉めてから20分ほど経って,新たに3人の受診希望者が現れた。まだ食事もしていないしトイレにも行っていないというので受付を再開することにして,3人だけ追加したので,結局この日の受診者は30人となった。血液処理が終わったのは12:40頃であった。明日は日曜なので休むため,測定機器類を箱にしまって,会場の扉は施錠してもらい,再び13人が1隻のボートに乗ってノロのソルタイに向けて出発したのが12:50頃だったと思う。ソルタイに着いたのが13:05頃だったが,困ったことに冷凍庫を貸してもらう予定のB氏が昼食中で13:30まで戻ってこないという。辺りにいた従業員に代わりの冷凍庫がないのかいろいろ訪ねてみたが,どこからかやってきた女性従業員が船体編成オフィスに連れて行ってくれて,そこにあった家庭用冷凍冷蔵庫に一時保管してもらうことになった。霜だらけであまり冷えそうでなかったが,まあB氏が来るまでの間だからいいか。

そうこうするうちに雨が降ってきて,雨宿りをしていたら,B氏がやってきた。時計をみたら,ぴったり13:30だった。彼の車に乗せてもらって冷凍庫のところまで連れて行ってもらうことにしたが,着いてみたら,そこは彼の家だった。彼は釣りをするので,釣れた魚の保管用にSANYO製の冷凍庫を自宅に装備しているのだ。釣れる魚というのが,マグロ類やカジキ類が多いので,実に巨大な冷凍庫で,サンプルをちょっと入れてもらうくらいはなんでもないのである。サンプルをありがたく保管させてもらった後,家を出る前に壁際をみると,たくさんの本が並んでいて,しかも彼の奥さんは,かつて一緒に調査をしたこともある日本人なので,日本語の読み物が多く,何冊か借りることになったのは,必然といえよう。明日は何もすることがない休日でもあるし(いや,本当は人口学研究の査読が終わってないので,やることがないとはいえないのだが……)。しかし,借りた本のうち,椎名誠「インドでわしも考えた」は,ロッジに帰ってから夕食までの間に読破してしまった。面白いけれども疲れる本だった。

夕食は超豪華といえる。ロッジのシェフが提供してくれたカニ料理やカレーやチャーハンや野菜の煮物などに加え,B氏がもってきてくれた新鮮なカツオを使った刺身が出たのだ。控えようと思っても堪えきれず,ついつい食べ過ぎてしまった。その後SBというちょっと濃い目のビールを1本飲みながら,B氏一行(彼の秘書……いかつい男性だが……とか,ソルタイの人事部の人とか,ドライバーとか)と歓談。話題はサッカーのことが中心で,彼らが属しているサッカーチームが夕方試合をやって引き分けだったけれどもB氏が2年越しの宿願であったゴールを決めたこととか,それが25ヤード離れたところからのロングシュートだったこととか,10月9日にホニアラでソロモン代表対オーストラリア代表が試合をやるのだけれども,そのチケットが発売後すぐに完売したこととか,その数が30万とか21万3万とか2万1000とか定かでないのだけれども(10月8日追記:いよいよ試合が明日に迫ったが,ABCニュースによると後者が正しいらしい。それにしても,ローソン=タマ・スタジアムに2万人も入れるとは思えないのだが……),オーストラリアのサポーターが大挙してホニアラにやってくるだろうからこちらも対抗して応援してやるとか(後でナタリー……という呼称をB氏の秘書氏から頂戴した我々のチームメンバーの一人……から聞いたところでは,皆でベテルナッツを噛んで,「カーッ,ペッ」と赤い汁を吐いて威嚇してやるのだとかいう話も出たそうで,それは確かに怖いだろうと思う),でもノロにいてはラジオ中継を聞くしかないとか,まあそんな他愛もない話で盛り上がった。ぼくは21:30過ぎに部屋に帰って眠ったのだけれども,23:00頃まで話は続いたらしい。というか,もっと続きそうだったけれども,ロッジがB氏ご一行を帰らせようと蛍光灯をつけたり消したりしたそうで,23:00に打ち切られたらしい。

何もすることがなかったので釣りをした日曜日(2004年9月19日)

7:15起床。別に起きなくてもいいのだが,21:30から眠っていたら,もうこれ以上は眠れない。トイレに行ってから食堂に行くと,チームメンバーのUさんとYさんがいて,コーヒーを飲みながら話。今回はこなかった,博士論文執筆中のI君についてYさんが知りたがったので,彼がなぜヴァングヌ島ボポ村での調査をやめてパラダイスでの研究で博士論文を書くことにしたのかについての話とか,いろいろ。でも,まずい話はしなかったので安心するように>I君。暫く話していたらチームリーダーが起きてきて,UさんとYさんは部屋に帰ってしまったので,暫く話の続き。続いてナタリーがやってきて,その命名話などしていたらリーダーがコーヒーと本を持って外のパラソルの下に行ってしまい,入れ替わるようにR氏がやってきて,なぜ寝坊する予定だったリーダーが早起きしたかという理由を明かしてくれたところでは,ベッドから転落したとのこと。しばしナタリーと大笑い(いや,無事だったことだし)。10:00近くなってブランチの用意ができ,皆で朝食。Yさんは調子が悪いとかで来ず。

あまりに暇なので釣りに行こうということになり,まずSDAの店に行って釣り針と糸と錘とスイベルを買ってきた。仕掛けを作って昼過ぎから釣り。岸から手で糸を垂れるだけなのでなかなか釣れない。最初5人で始めたのだが,3人はすぐにやめてしまい,K君と2人で残って続けた。餌として,R氏が引っ掛け釣りでたくさん獲ってきた小鯵を切って付けたのだが,最終的に釣れたのは,それより小さい魚が3匹だけだった。R氏や地元の子供たちがsnakeと呼んだ,海蛇だかウツボだかわからない大きなやつを,K君が2回引っ掛けたのだが,こいつが根にもぐってしまって全然出てこず,最後は糸を切られて終わってしまったのが残念だった。とはいえ,明日以降も午後から夕方は暇があるはずなので,snakeには再挑戦する機会があるだろう。当面の目標は,このsnakeへの雪辱である。

帰ってきて晩飯はライスとビーフカレーと鶏肉とサラダに加えて,昨日と同じカツオの刺身だったので,つい食べ過ぎてしまった。ビールも2本は飲んだので,もうへろへろである。明日は5:25には出発することになっているので,そろそろ寝ようかと思っている今は,20:45である。

夜中に下痢。たぶんビールの飲みすぎだろう。暫くトイレから出られないでいたら,部屋のドアの鍵を閉められてしまった。R氏を起こして開けてもらったが,やや辛かった。

ラワキ健診2日目(2004年9月20日)

5:00起床。眠い。ナタリーが起きるのを待ってエクトールを貰い,2錠飲んで出発。5:38にボートが出て,6:00ちょうどにラワキ着。暗い中なのに的確に浅瀬ではエンジンを止めてパドリングにするのはさすがだ。

6:10頃1人目の受診者が現れ,8:35までは途切れずにやってきて44人。そこでパタッと止まってしまい,9:00に受付を閉めるまでは1人も増えなかった。この辺りも村によって全然違っていて面白い。11:45頃ボートを出し,ソルタイのオフィスを目指したが,B氏が見当たらなかったので,氏の家に近い入り江までボートでサンプルを運び,そこから上陸して崖を上がった。崖上からは徒歩2分くらいだったか。ちょうど車で氏がソルタイ方面からやってきたところに出会った。家で電話を受けて迎えに行ったけれど遅かったとのこと。待っていてくれても良かったのだが親切なことである。

その後昼食はノロマート隣のカイバーでいろいろ。カレーパンがピロシキみたいでとても美味だった。その後,長ズボンがもう駄目っぽいので,収納力の高い短パンを購入してロッジに帰り,土曜と2日分の尿検査データを入力した。終わって疲れたので,少し昼寝でもしようと思って横になったら,思った以上に疲れていたらしく,気がついたら18:30だった。なんだか何もしないで夜になってしまったのが悔しい。晩飯のときに聞いてみたら,K君も今日は釣りにはいかなかったらしいが。やはり健診をすると疲れるのだよなあ。

晩飯では,昨日に引き続き,B氏差し入れ(彼はソルタイの偉い人なので,本人が持ってこなくても部下が運んでくれるのである)のカツオの刺身と干しカツオが来た。干しカツオはとても味があって噛めば噛むほど旨みが出てきてすばらしい。エクトール服用中でなければ,ビールを飲みながらこれをかじりたいところなのだが,今日は控えておこう。ロッジ提供のメニューは,ご飯,白身魚(キングフィッシュか?)のフライ,鶏肉甘辛炒め,ステーキハンバーグ(牛挽肉で作ってある,ツナギがないハンバーグで,たしか千石とかバンビとかではこういう名前で出てくるメニューだったと思う),スイカ,サラダであり,これだけ食べたら満腹になるのは当然といえよう。問題は,チームリーダーを筆頭に我がチームメンバーが大量にビールを注文しているせいで,冷えた飲み物がビールしかなくなってしまっていることであった。ブッシュライムも品切れとかで,ビールが飲めないと水しか飲み物がないのだった。まあ,それはそれでいいのだけれど。食後の歓談中,ラワキへのプレゼントの名案がR氏から。各グループ1つは集会所をもっているので,それぞれにバタフライランプとケロシンをプレゼントしてはどうかというもの。良さそうに思えるので,明日,その線でラワキの村長と相談してみることになった。

20:40頃,チームリーダーが眠るというのでコンピュータを持って食堂に移動し,この記録を打っているところである。昼間眠りすぎてしまったので,あと30分くらいコンピュータを触ってから,シャワーを浴びて眠ることにしたいと思う。

ラワキ健診3日目(2004年9月21日)

5:00起床。昨日と同じように準備して昨日と同じように出発し,昨日と同じように受診者が現れ,11:15完了。今日は124番まで。

ソルタイオフィスでB氏にサンプルを預け,ノロマート横のカイバーで昼食後,ロッジに戻ると大雨。尿検査のデータ入力が終わっても降り続いていたので昼寝など。晩飯でカツオが届いたら使おうとマーケットでナタリーがショウガを買ってきたのだけれども,この雨では出漁できなかったらしく,刺身はなし。

その後いろいろ雑談をして就寝。

ラワキ健診4日目は不調(2004年9月22日)

5:07にチームリーダーの目覚ましで起床。自分の腕時計の目覚ましにはまったく気づかず。それだけ熟睡していたということだろう。コーヒーを飲み,ビスケットを食べて出発。出発直前までの大雨が嘘のように止んで無事に行けた。出発時刻も到着時刻も昨日と同じくらい。

一つだけ違っていたのは参加者の人数で,9:00まで待ったけれども24人しかいなかった。昨日までノロに働きに行っていて帰ってきた人たちが来るという触れ込みだったのだが,ほとんど来なかった。受付の男に聞いたところでは,疲れていて起きるのが遅いらしい。本当かなあ。

ともかく仕方ないので11:10頃ラワキを出て,ソルタイの事務所に行ってB氏にサンプルを託し,ノロマートの前まで戻った。今日はラワキ村へのプレゼントを買ってあげることになっていて,村での話し合いの結果,ブツがバタフライランプ4個ということになったということで,ヴィレッジチェアマンだという渡辺謙をちょっとくすませたような感じの偉丈夫と一緒に,ローカルマーケットとロッジの間にある,わりときれいな店に行って購入。1個260ドルだったのだが,4個買ったらディスカウントになって1000ドルで済んだ。

今日の昼飯は皆がパンとかフィッシュアンドチップスとかを買ってきてロッジで。ロッジのサンドイッチも美味そうだったが,巨大なフルーツパンというものを買ってもらってしまったので,それとコーヒーで済ませた。今日は久々に晴れているので,数日前に頼んだ洗濯物が乾いているんじゃないかと思ってロッジの男に聞いてみたが,すぐにはわからなかった。どこにいったんだろう。やはりここくらいのロッジでは自分で洗濯すべきなのか?

Zebra fish caught at Noro

頼んだ人を見つけて聞いてみたら,乾燥できているから後で持っていくという返事で,暫く待っていたら,ちゃんと乾いた洗濯物が出てきた。やっと帽子とTシャツが手に入ったので,これまで長く着ていたYシャツを洗濯してから,K君と一緒に釣りに出た。今日が最後のウツボへの雪辱のチャンスなので,60ポンドテストという途轍もなく太いラインと巨大なフックを買って,餌釣りのために極小のフックも買って,餌としてバンズを買って行った。ともかく最初は餌釣りからと思って船着場で始めたら,これが面白くてなかなかやめられず,先日ウツボが出たポイントに行ってみても,もうウツボの姿は見当たらないのだ。で,結局ずっと餌釣りをして,すっかり薄暗くなる18:20頃までに5匹ずつの小魚(最大のものが15cmのゼブラフィッシュ:右写真)を釣ってきた。2時間の暇つぶしとしては,かなり面白かったと思う。惜しむらくは20cmを超える大物が掛かったのに2人ともばらしてしまったことで,なかなか釣りも難しいものである。

晩飯はチャーハンが美味だった。21:00を過ぎてからB氏がやってきてチームリーダーと飲み始めてしまったので,先に失礼して部屋に帰ってしまったが,23:30過ぎまで飲んでいたらしい。

ラワキ健診最終日(2004年9月23日)

4:50にチームリーダーの目覚ましが鳴って起床。眠い。今日は健診後ムンダに行くため,私物全部に加えて,コールマンの冷凍庫などもボートに運ばねばならない。運良く満天の星空で助かったが,これが昨日までのように雨催いだったらと思うとぞっとする。

健診最終日は6:00に着いた時点で何人か待っていたので,もしかすると凄い数がくるかも,とちょっと期待したのだが,結局9:00まで受け付けて18人で終わった。5日間で166人というのは,ムンダやパラダイスに比べるとかなり少ないのだが,大挙して働きに行ってしまった人たちがいたりしたので,仕方がないところかもしれない。

Girls' dance at Rawaki village

終了後,お別れパーティがあった。ここのパーティは男尊女卑というか,通常は村の有力者(たいていは年寄り)の男性のみがまず車座になり,女たちは給仕をするだけで,宴会の輪には最初は加われず,お開きになってから,女と子供が余り物を食べるというスタイルなのだが,さすがに外国人女性は別扱いらしく,チームメンバーの女性たちも,最初から車座に加わることができた。米とサツマイモ,キャッサバ,コンビーフラーメンなど,これまでお馴染みのメニューのほか,カボチャの煮物が美味かった。飲み物が全部甘いのには閉口したが,トディというココナツの樹液を発酵させたものとココナツジュースと砂糖を混ぜたものを飲んだら甘酸っぱくて意外においしかった。

少女たちの踊り(Video CD形式動画)などの出し物があって,最後に昨日買ったバタフライランプの贈呈式があり,お礼の言葉をいいあってお開きになったのは12:30を過ぎていた。もの凄く荷物が多いので心配したが,調査道具や私物を全部載せ,9人のメンバーも全員1回で乗っていけたのは良かった。ボートとドライバーが優秀なのだろう。ボートはまずB氏の家に行って預けておいたサンプルを引き上げ(保冷剤をたくさん一緒に冷やしておいたので,移動中はそれでもつと思われた),ノロに引き返してノロマートで時間つぶしをしていたパラダイス村の村長代理P氏と校長H氏に発電機と燃料の余りを進呈し,病院に行って調査道具をセッティングし,漸くアグネスロッジに戻ってきたのは15:30近かった。すかさず熱いシャワーを浴びて生き返った。

晩飯のメニューを注文してから爪を切ったり髭をそったりし,コーヒーを飲みながら暫くコンピュータを触る。18:30頃から食堂へ行って20:30まで晩飯。前菜のマリネが出てからメインディッシュが出てくるまで1時間くらいかかったせいだと思う。その後部屋に戻ってデジカメファイルの整理をしたり(Y2にはまだQuick TimeをインストールしていなかったのでMOVの編集ができないのは誤算だったが),今日の尿検査結果のデータ入力をしたり。

ムンダ健診最終日(2004年9月24日)

目覚ましが鳴る前だったが5:00に起床。早起きの癖がついてしまっているらしい。ごそごそ着替えていたらR氏も起きてきて,暫くしたら目覚ましとともにチームリーダーも起きてきた。5:30にはメンバー全員が外に出て車を待ったが,これが例によって来ないのだ。仕方ないのでY君,K君と一緒にドライバーの家の方に歩いていったら,マラリアセクションで働いているという男が現れ,ドライバーH氏の家を教えてくれた。飛行場の建物のすぐ左側にあってわかりやすいのだが,まだ真っ暗であった。呆れながらも軽くドアをノックしてH氏の名前を呼ぶと,隅の部屋の電気がついて起き出す気配があり,暫く待っていたら眠そうな顔をして現れたので,皆待っているので急いで病院へ行ってくれるよう頼んだ。

病院に着いたのは6:00頃だったのだが,既に何人かの健診希望者が待っていたので,慌ててセッティングを始めた。P氏が受付をしている間に何とかセッティングを完了できてよかった。そんなわけで,さっきドライバーの家を教えてくれて車に便乗してきた男も含めて無事に健診は始まったのだが,この日はあまり受診希望者が来なくて,最終的に32人で受付を完了することになった。実施中に再びこの病院のドクターから健診場所使用について文句が出たことや,無理をしてやってもあまり増加は見込めないだろうということ,もし明日飛行機の臨時便が出れば早めにホニアラに出たいということ,そもそもムンダの対象人数をこれ以上増やす必要はないこと,等々考え合わせ,今回の調査はこれでおしまいということにした。まあまあうまくいった方だとは思うが,ちょっと尻すぼみな感じがしないでもない。もっとも,人数が少なかったおかげで,尿検査のデータ入力を会場で済ませることができた。1つ問題だったのは,対象者がまた60人から70人は来てしまうのではないかと考えて,弁当のケータリングを80食注文してしまっていたことである。大量に余ったので,カウンターパートのスタッフに何食分かずつお持ち帰りいただくことにしたのだが,どういうわけか朝の車への便乗者氏もちゃっかり複数の弁当を持っていた。余って困っているのは事実なので,他の対象者に比べて不公平ではあるが,そのまま持っていってもらうことにした。対象者がすべて引き上げた後,最後の遠心待ちの間に,ぼくらも残った弁当を食べたが,まだ余ったのでロッジに持ち帰った。

ロッジに帰り着いたのは昼頃であった。天気がよかったので,暫く休んでから,ロッジの船着場で釣りをしたら(餌は弁当の余りのパンを充てた),20 cmくらいのベラのような魚や,15 cmくらいの黒鯛のような魚が何匹か釣れた。手釣りなので,20 cmくらいあると,かなり引きが楽しめる。どれも珊瑚礁の魚なので日本のベラや黒鯛よりも色が鮮やかなのはともかくとして,出っ歯のような鋭い歯を持っていたのが不思議だった。

晩飯は金曜恒例のビュッフェで,食事の味はともかくとして,その後あったダンスショーは面白かった。最初はテープの調子が悪く,ミニコンポのスピーカ出力をPAに繋ごうとして,なかなかうまくいかないようなので見に行ってみた。すると,2本のケーブルの1本は接触不良,もう1本が端子の外側とショートしていることがわかったので,それらを直してあげた。でも,まだ音が出ない。そこで誰かが赤と黒のケーブルをスピーカ端子に逆に差し込んだら(ぼくはまさかケーブルの色が逆になっているなんて思わなかったので,接触不良とショートを直してもなぜ音が出ないんだろうと思って悩んでしまったのだが),ちゃんと音が出るようになって,無事にダンスショーが始まった。こういうハプニングもソロモン諸島の地方のロッジならではのことなので,そう思ってみれば楽しめる。さてショーの中身はといえば,全然伝統的な踊りではなく,アップテンポなダンスナンバーに乗って,にも拘らず伝統的な雰囲気をもたせるための腰巻き風の衣装で,子供や若い男女のダンサーが踊るというものだったのだが,ギデラのサクマ氏にそっくりの痩せた男の動きが切れがよく,実に見ごたえがあった。最後の曲では観客にも声が掛かって皆で踊るという趣向だったのだが,ぼくのところにも座長らしいやや太目の女性が誘いにきたので,思い切って踊ってしまった。チームメンバーは驚いていたようだけれども,なに,構うものか。というか,こういう場合に遠慮するのは失礼だと思う。メンダナホテルのダンスショーの方がショーとしての完成度は高いかもしれないが,楽しさではこっちが上だった。

その後,暫くコンピュータでパズルをするなど暇つぶしをして就寝。

ムンダの暇な土曜日(2004年9月25日)

今日は臨時飛行機が飛ばない限り,何も義務はない日である。本来ならば講義準備とか査読コメントを書くとか,すべきことはあるのだが,この蒸し暑さの中では,なかなかやる気になれないのが問題だ。ああ,クーラーは偉大な発明品だなあ。

早起きする必要はなかったのだが,もう習慣づいているので,6:00には目が覚めてしまった。外は物凄い土砂降りである。だから,実は,早起き習慣というよりも,土砂降りの音がうるさかったから目が覚めたのかもしれない。雨が上がらないとロッジの食堂に行く気にもなれないので,部屋でインスタントコーヒーを作り,暫く昨夜のパズルの続きをした。7:30頃チームリーダーも起きたので,小雨になるのを待ち,食堂へ行って朝食をオーダーした。ちょうどそこへナタリーとY君もやってきて,皆で朝食をとった。目玉焼きを挟んだトーストとバナナという,実にシンプルなメニューなのだが,これはこれでなかなか美味しい。問題は,これが日本の喫茶店のモーニングと同等の値段であることで,近所のパン屋でバンズを買えばその2割くらいの値段で済むことを考えると,どうも損をしているような気がしてならないのだけれども,こんなに朝早くから土曜日にやっている店はないので,まあサービス料と思えばいいのかもしれない。インスタントコーヒーはタダだし。

食後も雨なので,部屋で音楽を聴きながら休みつつ,ダラダラと過ごした。昼になって再び小降りになったので,外の食堂で食べようということになり,これまでケータリングを頼んできたレストランへ皆で出かけた。ナタリーのお勧めに従って,フィッシュカレー載せライスと炒飯を頼んで半分ずつ食べたら,ロッジの3分の1くらいの値段なのにロッジよりも美味なくらいだった。ここで失敗したのは飲み物で,マレーシアで製造されシンガポールの会社が輸出専用で販売しているアイスクリームジュースという缶飲料を買ってみたら,これが舌が曲がるんじゃないかというくらい衝撃的に不味かった。輸出専用というところからして,近隣諸国の住民の味覚を破壊しようという陰謀に違いない(まさか?)。不味い飲み物はドクターペッパーとかルートビアとかいろいろあるけれども,まるで水準が違う桁違いの不味さの飲み物であり,一度飲んだ人は,絶対に二度は手に取りさえしないだろうと思う。

昼食後も雨が降ったり止んだりしているので,部屋で,音楽を聴きながらこの記録を打ったりして,ダラダラと過ごしている。夕方,ロッジの男が知らせにきたところでは,今夜も食事はビュッフェ(ただしシーフード)だという。今日もダンスショーがあるのだろうか?

シーフードビュッフェは大量のロブスターとカニが出たのだが,味の方はそれほどでもなかった。いや,舌が肥えてしまっているのかもしれないが。ダンスショーはなかったが,食堂でチームメンバーと四方山話をしていたら23:00近くなってしまった。

リゾートアイランドツアー企画(2004年9月26日)

7:30起床。とてもこれ以上は眠れない。食堂へ行ってスクランブルエッグをトーストに載せた朝食。コーヒーと紅茶を飲む。部屋のコーヒーの方がネスカフェ43ブレンドを昨日貰ったので,食堂のパブロよりも美味なのだが,食堂にはフレッシュミルク(といったってどうせロングライフなんだが)があるので,やっぱり食堂でも飲んでしまう。紅茶は懐かしいPNGのNo.1 Teaであった。Kurumuruの方が美味しいのだが,さすがにここまでは来ていないようだ。

食後,今日は何をして過ごそうかという話になった。昨日O君とYさんが2人で行って来たという旧日本軍の遺留品をおじいさんが一人で集めて作っている私設博物館は,13:00まではオーナーが礼拝に行っていて開かないというので,午後にしか行けない。しかし,外には抜けるような青空が広がっているのに,午前中は部屋で燻っているというのもどうかと思われた。そこへ,ボートを借りてリゾートアイランドに行くという企画がナタリー方面からもちあがっていることが伝えられ,値段次第ではそれもいいのではないかという話になった。ここはロヴィアナラグーンの西端というかヴォナヴォナラグーンの東端というか,そういう場所なので,個人が所有するリゾートアイランドがいくつもあるのだ。聞くところによると,白い砂浜が広がっていたりして,それは美しい場所があるらしい。で,ボートのオフィスが開くまでは部屋で待機しているわけだが,さてどうなることやら。

暫くするとお呼びがかかったので,チームリーダーを除く全員で,白い砂浜のリゾートアイランドツアーに出かけた。着いた島にはHOPEI ISLANDという看板が立っていて,休憩所のようなものもあった。一泊くらいはできそうなロッジもあり,まさにリゾートという感じだった。1時間くらい遊んだのだが,ぼくは水着をもっていなかったので,ところどころ珊瑚があってウニや小魚が泳ぎまわっている岩場にザブザブ入っていって,魚を眺めながら釣りをしていた。一度強烈な引きがあったのだが,それ以外はまったくといっていいほど当たりがなかったので,釣りならここよりもアグネスロッジの桟橋の方が良さそうだ。ともかく眺めは美しかったし,楽しかったからいいことにしよう。往復料金は3000円くらいかかったが,7人で行ったので,頭割りすれば400円くらいだし。

戻ってきて昼食の前に桟橋で雪辱戦を挑んだら,一昨日と同じ,ベラのようなブダイのような魚が釣れた。一昨日のよりも型が良かったので,キッチンに持っていって調理できるか聞いてみたら,煮るかフライにするか訊かれたので,フライにして晩飯に出してくれるように頼んでみた。

ゴードン爺さんの私設戦争遺物館 森から集めた不発手榴弾

昼食はトマト&チーズの焼きサンド。炎天下で釣りをした後なので,よく冷えたブッシュライムジュースが実に美味に感じる。その後,森の中に散らばっている戦争遺留品を個人的に集めているという老人ゴードン氏の家に行くことになった。拝観料が一人あたり20ドルと言われたが,大人数で来ているのでディスカウントしてくれないかと頼んだらあっさり半額に負けてくれた。確かに旧日本軍のものと思われる水筒もあったけれども,大半は米軍のものとか,それ以外の何だかわからないものだった。要するに森の中に散らばっている人工物を,この20年くらい集めていて,自分の小屋に飾っているのである。中には明らかに新しそうな,森に捨てられたゴミに過ぎないのではないかと思われるものもあったが,パイナップル型の不発手榴弾が何十個も並んでいるのはなんとなく怖かった。

戦没者慰霊碑

ゴードン爺さんと記念写真を撮ってから別れをつげ,帰り道に,20年前に建てられた(日本人が建てた)戦没者慰霊碑に寄って黙祷してきた。全ソロモン群島の戦没者の慰霊のため,今後の世界平和を祈念して建てられたと書かれていた。某国首相は靖国神社よりも,こういう慰霊碑を訪れるべきだろう。

しこたま汗をかいたので,アグネスロッジに帰ってすぐに熱いシャワーを浴びた。これでクーラーがあると最高なんだが……なんて考えてしまう堕落しきった自分が情けないのだけれども,でも仕方ないよなあ。

晩飯はとても遅かった。20:00近くなったので腹が減っていたせいかもしれないが,チリクラブも美味だったし,フライのはずだった焼き魚もライムと醤油で食べたら,やや淡白だけれども十分に美味だった。満足満足。あえて文句をつけるとすれば米の炊き方で,今日はべちゃべちゃでしかも芯が残っていた。水加減の問題ではなくて,圧が足りないのだと思うが,どうしてできないのかなあ。普通に鍋で茹でて吹きこぼせばいいと思うのだが,もしかして蓋付きの鍋がないのか?

ホニアラへ(2004年9月27日)

6:40頃に目が覚め,7:30起床。荷造りを概ね終えてからチームリーダーと一緒に食堂に朝食を食べに行くと,既に皆起きて食事中だった。今日もスクランブルエッグ載せトーストを頼んだのだが,どういうわけか野菜がなくプレーンなスクランブルエッグだったのは残念だった。

食後8:50まで部屋で暇つぶしをし,その後ポータブル冷凍庫を病院に運ぶべく部屋から出した。9:00にロッジ前にはトラックは来ていなかったが,ロッジのすぐそばのマラリアセクションの事務所にドライバーH氏は出勤していたので,トラックでロッジまで来てくれるように頼み,すぐに来てくれたので,病院で今回採取したサンプルをポータブル冷凍庫に移すのは簡単にできた。同じトラックでポータブル冷凍庫は空港まで運んでもらい,空港の建物で電源を借りて動かし始めておき,1人が見張りに残って,2人がトラックに乗ってロッジまで行き,冷凍庫以外の荷物をトラックに載せた。そのまま空港にとんぼ返りして,とりあえず,いつ飛行機がきてもいいような態勢は整った。

さてしかし。我々が乗る予定の飛行機は,本当ならホニアラからここムンダに着いてギゾに飛び,再びムンダに戻ってきてからホニアラに帰る筈なので,12:30発ならば10:30頃にはホニアラを出ていなくてはおかしいのだが,どうも無線だか電話だかの様子ではホニアラを発っていないらしいのである。先週だったか,1台の飛行機が事故で壊れたせいで飛行機ダイヤがぐちゃぐちゃになっているのがまだ直らないのだ。いろいろ確認した末,16:30に飛行機が来るだろうという話になった。仕方ないので,まず交替で昼飯を食べに行き(健診のときにケータリングサービスを頼んだ食堂で炒飯を食べた),戻ってきてからチームメンバーのうち5人または6人で大貧民を始め,時間をつぶした。

時間つぶし中に,恐ろしい話が持ち上がった。要は,総重量が100 kg分,飛行機の積載重量を超えているので荷物を全部運ぶのは無理だというのだ。エクセスも払ったのにそれはないだろうということで随分抗議したが,とりあえず一番大事なサンプルが入っている冷凍庫だけは載せて,後はできるだけ頑張って載せてみるということで話がついた。16:30に来た飛行機はギゾ行きで,20分で戻ってくるとか言っていたが,結局30分後に帰ってきて,最終的に2つだけ荷物が載らなかったので,明日の13:40にホニアラに着く便で送るということになった。まあ,その2つの荷物は,トランスと遠心器なので,着かなければ着かないで,後でメンダナホテルの人に引き取っておいて貰って,メンダナに保管しておいて貰えば,それでもあまり問題ないものなので,何とか救われた。暗闇迫る中,ホニアラの灯が見えたときの,ほっとした気持ちはなんとも言い表せない。本来は13:45頃には着くはずだった我々の迎えの車を2台メンダナホテルに頼んでおいたのが,何度も往復したか空港でずっと待っていてくれたのかはわからないが,ともかく迎えの車もちゃんと空港で待っていてくれて,無事にメンダナホテルについてチェックインを終えたのは19:15頃だった。

その後,香港宮殿に行って晩飯。たらふく食べたので満腹になったのに,ホテルに戻ってから,どうしようもなく本物のコーヒーが飲みたくなって飲んでしまい,ついでにチーズケーキも食べてしまったので,本当にちょっと食べすぎという感じになった。

さらばソロモンよ(2004年9月28日)

6:30起床。7:20頃にパンを買いに外出。エッグバーガー2個とトマト&チーズサンドイッチ1個,マンゴージュース2個を買った。ついでに,Westpac銀行とANZ銀行の前にATMがあってcirrusマークが付いていたので,Westpacの前の方でciticardで引き出せるのではないかと思って試してみたら,何の問題もなく100ソロモンドルを引き出すことができた。これが使えるなら,何時にホニアラに着いても金を引き出すのに困らないのは利点だと思った。部屋に戻って,さっき買ったパンをY君と食べてから,暫くテレビを見たり雑談をしたりコーヒーを飲んだり。9時過ぎにサンプルの仕分けをメンダナホテルの冷凍室の中でやるということでY君が出て行った。10分後に土産物を買うために外出するということだったので,トイレに行ってからロビーに出てみたのだが,O君一人しかいない。さらに10分ほど待ったのだが誰も戻ってこないので,冷凍室の方に行ってみたら,ぼくら以外の人たちは手を凍えさせながら仕分け作業を続けていて,やっと終わろうとしているところだった。ロビーで待っていないで手伝いに来れば良かったのだが,どうも我ながら気が利かない。

買い物は貝細工とかが見たいという人が多かったので,Y.SATOに寄って2台めの発電機に入っていた説明書を返却してから,マーケットに行った。貝細工とか木彫りの置物などを売っている人が何人も並んでいたのだが,どれもやや値段が高い気がした。ここで唐突に思い出したのが,ぼくは今回食品中のセレン濃度を測るためのサンプルも持ち帰らねばならないという事実である。ムンダでの暇な3日間にやっておけば良かったのだが,いまさら悔やんでも仕方がない。そこで,マーケットに並んでいる野菜類を買い漁って,ホテルに持ち帰ってサンプル採取をすることにした。いや,パラダイスでいくつかは採取済みなのだが,あれではやはり数が少ないだろう。しかし,野菜類を買い漁ってホテルに戻った時点で,昼食を食べに出かける予定の11:00になってしまい,買ってきたものが入っているビニール袋をホテルの部屋の冷蔵庫に突っ込んで,とりあえずロビーに行った。11:00なんていう時刻に昼食に出るのはなぜかといえば,キングソロモンホテルのピザが食べたかったからである。案の定というか,ピザが出来上がるのにはとても時間がかかり,12:30にやっと食べ終わって慌ててホテルに帰った。と,ロビーにいたナタリーがいうことには,ヴァヌアツ航空の便が2時間遅れるというのである。我々はもともと3人がサンプルを持って15:30発のエア・ナウルの便で発ち,30分後のヴァヌアツ航空で残りの5人がブリスベンに向かうことになっていたわけだが,こうも間が開いてしまっては同じ車で宿に向かおうという計画はパーである。とりあえず国内線で届く予定の荷物を引き取りに2人が先発隊と一緒に空港に行き,他の3人はホテルで15:30まで待機ということにした。

しかし,これで救われるほど世の中は甘くないのだった。空港についてみると,ヴァヌアツ航空の遅れは2時間どころではなく,6時間だというのである。ブリスベンに着くのが真夜中になってしまうと,明朝早くの成田行きに乗り継ぐのは苦しいので,なんとかヴァヌアツ航空からエア・ナウルに便を変更できないか空席待ちを試してみることにした。そうなると慌てなくてはならない。まず国内線ターミナルに行って2つの荷物を引き取り,急いでメンダナホテルに引き返し,途中で買い物に出ていたチームメンバーをみつけて声をかけて車に同乗させ,5分で荷物をまとめたり,引き取ってきた荷物のうち,やたらに重いトランスをホテルのストックルームに預けたり,ともかく必要なことをすべて終わらせ,再び空港へ向かった。ホテルのレセプションでは同じ境遇らしいオーストラリア人の2人組が,やはり同じように空港に向かったらしかったので,ドライバーに急いでもらったりして,ともかくベストを尽くしたのだが,所詮は無理な望みだったようで,最終的には22:00発のヴァヌアツ航空でブリスベンに向かうことになり,先発隊の3人が出発ゲートに消えていくのを見送るしかなかった(実は2つだけ空席があったらしく,メンダナホテル支配人が大慌てで2人の日本人を連れてやってきて,直接出発ゲートの中に入っていったのを見送ったときは,ちょっと悲しかったけれど,我々は大所帯だし,まあ仕方なかろう)。

まあ,早く乗れなかったのは仕方ないので,気持ちを切り替えて,夜までホニアラで過ごすしかないかと思ったのだが,世の中は一難去ってまた一難というのが通例である。というか,これほどまでに祟られるのは何か呪われているのではないかと思うほどだ。エア・ナウルがそろそろ離陸するのではないかという頃になって,先に行ったはずのチームリーダーがチェックインカウンター脇から姿を現したときに,我々は一瞬自分の目を疑った。驚いたことに,サンプルを載せてもらえなかったというのだ。持ち出し許可というか,しかるべき人が内容を証明してくれた書類が必要と言われ,そのために空港の係員がついてくるというのだ。一瞬茫然自失した我々ではあったが,どんな不測の事態が生じても冷静に対処するのが真のフィールドワーカーというものである。この時点でそういう証明をすぐにしてくれそうなしかるべき人というと,SIMTRIの所長くらいしか思いつかなかったので,チームリーダーと神戸大のUさんとぼくが一緒にSIMTRIに向かった。すると,ほとんどの所員がチャイナタウンのオフィスでワークショップをしていて出払っていた。一瞬青ざめたのだが,チャイナタウンへ行ってみてはどうかと,受付の女性がアドヴァイスしてくれたので,そのアドヴァイスに従うことにした。

行ってみると,ちょうどワークショップが終わったところで,出会えたSIMTRI所長のB氏に話をすると,よしわかった,じゃあ書類を作るために事務所に行こうということになった。プリンタのインクが出ないとかいったトラブルはあったものの,暫くすると無事に書類はできたのだった。B氏が運転する車でメンダナホテルまで送ってもらったのだが,途中,雑談で,B氏が釣り好きだということがわかったので,次回来るときは釣り道具をお土産に持ってくると約束してしまった。ソロモン諸島の普通の店では手釣りの道具しか入手できないので,トローリング用の竿とリールとかを進呈したら喜ばれそうだ。メンダナに着いてああよかったと安心し,出発時刻まではカフェテリアでトランプをしたり,食事をしたりして過ごしたわけだが,これも無事というわけにはいかず,O君の出したオーダーだけが忘れ去られて,結局それが届く前に出発する羽目になるというハプニングに見舞われた。呪われているかも。

空港に着いたら,チームリーダーは既にエア・ナウルに乗ろうとした段階でイミグレも通った後なので別の入り口に連れて行かれ,冷凍庫2個もそっちに運ばれていった。残ったメンバーは普通に出国手続きを終え,無事に搭乗することができた。

これですっかり安心して機内の人になったのだが,ブリスベンに着いてから,今回最大の落とし穴が待っていた。他の荷物がすっかり出てきても,例の冷凍庫2台が出てこないのである。問い合わせた結果,わかったことは,カーゴとして届いてしまったので,国内線ターミナルのそばの別のカーゴ会社の倉庫に入ってしまい,明朝8:30にならないとそれ以降の手続きが一切できないという,最悪の事態であった。その時刻では明朝の成田行きの飛行機に間に合わないのである。その時刻を早められないか随分交渉してもらったのだが,荷物引取り所の係官にはカーゴをどうこうする権限があるはずもなく,直接カーゴ会社の電話番号を教えてもらって交渉しても,ほとんど門前払い状態で,結局諦めて2人がブリスベンに残ることになった。とりあえず冷凍庫をカーゴ会社の冷凍室においてもらうことだけは交渉して約束してもらえたけれども,せっかく手配したドライアイスも,この調子では入れられるかどうかわからない。

もっとも,尿サンプルについては,先発した2人が無事に検疫に預けておいてくれたし,ぼくがもっていた野菜のサンプルもそこにくっつけて貰えたので,明朝引き取ってチェックインのときに預け荷物に入れれば問題ないことがわかって,そこは一安心だった。1:00近くに漸く宿に着いたけれども,これからどうなるか,先が見えない。とりあえずK君とナタリーが残ってくれることだけは決まったが。

最後は救われるか? 後ろ髪を引かれる思いを残しながら日本へ(2004年9月28日)

5:30起床。シャワーを浴びて着替えて出発。カーゴ会社に電話したのだけれども,やはり門前払いで,諦めることになり,2人分のチケットを変更した。後は,もはやナタリーとK君の頑張りに期待するしかない。

検疫に預けた方は,簡単に引き取れたが,チェックインしてそれを預けるところまで係官が同行して確認するというのには驚いた。考えてみれば当たり前なのかもしれないが,チェックインカウンターが長蛇の列だったので30分も待たせることになって申し訳なかった。

いろいろ手続きに時間が掛かったのと,出国手続きのカウンタが長蛇の列だったので,お土産を買う時間がほとんどなかったのが誤算だったが,選ばずに3分で買い物を済ませてボーディングゲートへ走り,何事もなく機内に入ることができた。とりあえず一安心である。

機内上映では,まず「酔いどれ天使」をみたのだが,あまりに悲しすぎる話だった。往路と同じMAGICが付いている機体だったので,「ハリーポッターとアズカバンの囚人」をもう一度みることもできるわけだが,「酔いどれ天使」の方が見ごたえがあった。1948年製作の東映ヤクザ映画であったが,主人公の医師が,最近の俳優で言うと香川照之のような感じで,なかなかよかった。続けて「キャシャーン」にしてみた。あまりにもとんでもない話ではあり,どこかでみたような映像が多かったが,それでも面白いといえば面白かった。次に「砦なき者」をみている。妻夫木は凄いと思った。ストーリーもちょっと無理があるけれども,かなりひねりが利いていて最後まで面白かった。で,今回の調査旅行の最初の方で読んだ「破線のマリス」と似た話だなあと思っていたら,原作者が同じ,故・野沢尚氏だった。なるほどね。しかし,この映像化は,妻夫木なしではできなかっただろうなあと思う。

昨日からここまで,あまりにハプニングが多かったので,映画を見ながらこの記録を打つだけでも時間がかかり,もはや着陸直前になってしまったので,ここでY2を閉じることにする。食事を2回して映画を3本見ると,9時間近く掛かるのだな。

台風の影響か,成田空港が混んでいたので30分ほど上空で待ったために,着陸は16:50頃だった。ほとんど先頭に近い位置で入国審査ゲートまで行ったので,10人待ち程度でそこを通過することができた。ところが,いつまで待っても預け荷物が出てこないので,結局,通関は17:50頃となってしまい,さらに東大に送る荷物を別送する手続きにも時間がかかり,チケット売り場も混んでいたので,Nexの18:17にも乗れず,18:48発で東京駅に着いたら,もはや20:28発あさま563号にしか乗れないのだった。当然,群馬大学に寄るのは諦めざるを得ないし,自宅に着くのは22:30頃になりそうだ。

後は日常のメモへ戻るけれども,一番大事な今回の調査旅行の結果につながるはずの,血液サンプルが無事に着くのかどうか,これまでの通例どおり,最後は救われると信じたいが,こればかりはまだ油断できない状況である。

追記:ブリスベンに残ったナタリーとK君の活躍により,無事にドライアイスも詰めた状態で,翌日,血液サンプルも日本へ着いた。「最後は救われる」という,人類生態フィールドワークの伝統は生きているようだ)


Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.

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