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2006年ソロモン諸島往還・冬の陣

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2006. Last Update on February 16, 2006 (THU) 14:37 JST .

これは,オリジナルの記録から個人情報保護のために匿名化などの操作を施したものです。

いつもの夜行便(2006年2月1日,水曜)

2006年2月1日夜。Nex41号の車内から記録を始める。

保土ヶ谷駅付近で線路に人が立ち入ったために,横須賀線と総武線快速が遅れていて,同じ線路を走っているNexも遅れたという理由で,今日のNex41号は東京駅を出るのが12分遅れだった。当然,成田空港に着くのも10分以上遅れている。余裕をもって成田空港に着く予定にしていたから大丈夫だが,ここもギリギリにしていたら危ないところだった。

ともあれ,いま気になっているのは,成田空港で足りない薬3種類(目薬など)とサンダル(大学を出て新前橋に向かうタクシーに乗ってすぐに,荷物に入れ忘れたことに気づいたが,取りに帰る時間はなかった)と乾電池と印刷用紙とカウンターパートや現地の人たちへのお土産を買わねばならないのだが,忘れそうで怖いということだ。あと,大きい方の荷物はホニアラまでスルーにしたいのでJALのカウンターで交渉しなくてはならないのと,結構激しく雨が降っているので無事に飛行機が飛ぶかどうかも心配だ。それにしても研究責任者として調査全体をアレンジすることがこんなに大変だとは。漸くここまでこぎつけたが,ソロモン諸島に着いてからも交渉が待っている。これまでぼくを海外に連れてきてくれたOさんは偉大なチームリーダーだったのだなあ,とつくづく思う。

雨のせいもあると思うが,成田に着いたのが予定より30分遅れであった。この分では,成田空港第2ビルに着くのが出発2時間前になってしまう。全然余裕がないのは困る。

成田空港第2ビルでもやはり30分遅れのままだった。JALのカウンターのところで東大人類生態の院生のO君と合流し,チェックインの手続きをしたが,わけのわからないことに,ブリスベンで日付が変わるからホニアラまでスルーはできないので,ブリスベンで一旦荷物はピックアップするようにと言われた。でも,荷札はホニアラ行きにしてくれるという。少し粘ったが上司に聞いてもそうだというので,変だなあと思いつつチェックインし,土産物を買ってから出国手続きをし,免税店で土産用の日本酒を買い,ボーディングゲート近くの売店でおにぎりとジュースを買って軽く食べておいた。離陸後2時間くらいで晩飯が出るのだが,それまで何も食べないのでは空腹に耐えられなそうだったためである。この選択は正解だったと思う。

離陸時にもゲームを手放さずにやり続けている韓国人らしい人が困り者だったが(アナウンスも説明も日本語と英語でしかないので,どちらもわからない人にはメッセージが伝わらなくても当然かもしれない,という一面に触れないのは手落ちであろうけれども,しかし,それくらいの常識無く飛行機に乗ろうというのも,なんだかなあと思うのである),料理はまあ普通だったし,若干ダイアモンド『文明崩壊』を読み進めたのを除けば,ほとんどずっと眠って過ごしてしまったので,機内についてはとくに書くことはない。もっとも,後で聞いたら,トイレで喫煙した人がいたらしく,注意がアナウンスされたそうだ。厳しい航空会社だったら引き返していたかもしれず,そうなったらこの短期間の調査日程は崩壊するところだったので,そうならなかったのは幸いだった。

怒涛のソロモン1日目(2006年2月2日,木曜)

とくに何事もなく日付が変わり,ほぼ予定通りの時刻にブリスベンに着いた。関空発のUさんとも無事に合流し,AUS$4のカプチーノを飲みながら作戦を立てて待ち時間を過ごした。ホニアラ行きの飛行機はAir Vanuatuの機体で,若干出発が遅れたことを除けば問題なく飛んでくれた。

Air Vanuatu to Honiara

ホニアラに着いたのは現地時刻で14:00を過ぎていて,例によってimmigrationが混んでいたこともあって,検疫と税関を通って(ノートパソコンだけSBD 500を超える価値をもつnon-commercial goodsとして申請したけれども,自分が使っているものだと言ったらすんなり通れた),1万円だけソロモンドルに換金したら(空港はレートが悪くてSBD 1が19円近かった),15:00近かった。当初の計画ではメンダナにチェックインしたらできるだけすばやく2手に分かれて,SIMTRIと銀行に行くつもりだったが,チェックインに手間取ったりして銀行は閉店時刻を過ぎてしまったので全員でSIMTRIに向かうことにした。ひどい大雨だったのでタクシーを呼んだ。SIMTRIまでSBD 15というのは少し高いかと思ったが,世界的な石油不足のご時世なのでガソリン代も高くなっているかもしれず,だとすると仕方ないか。

JICA方面からの情報によると所長が交代したという話があり,これまでずっと所長と交渉してきたので,恐る恐るSIMTRIの受付でB氏に取次ぎをお願いしたら,何事もなく所長室に通されたのでちょっと拍子抜けした。新しい所長だったら下手をすると一から説明しなくてはいけないところだった(A氏が昆虫媒介感染症部門のディレクターとして連絡をしてきたのをSIMTRIの所長になったと思われて噂になったのか?)。B氏と話してみると,昨年9月に提出したこちらの倫理審査申請書類は,委員長が口頭では大丈夫だと言っているけれども許可書類をくれないんだという話。何でも,委員長M博士は執務時間の90%は飛行機の上で,オフィスには10%しかいないほど忙しいので,忘れてしまう案件もある,とのこと。こちらとしては来週には調査できないと困るので,とりあえずできるだけ早く委員長とまた話してみるとか言うのだけれども,それでは困るので,委員長と話させてくれないか交渉してみた。返答としては,委員長のところに行くのはもちろんOKだけれども,ともかく今回の行動計画を日程表の形で出せというので,明日までに作ってくることにして,明朝9:00のアポを取った。退出前に,部屋が暗かったので,理由を聞いたら,蛍光管が切れているらしいが暇が無くてできないんだというので,大学院に入る前はエンジニアだったというO君に見てもらった。しかし切れていたのは蛍光管だけではなくて,グローランプが駄目になっていることがわかったので,明日買ってきて交換して差し上げることにした。まあ,とりあえず神戸大と自治医大から寄付された車(後でわかったが,寄付と言ってもFacility Fee代わりということらしい)は使っていいということで鍵を借りられるのは良かったが,ドライバーはこちらで探さなくてはいけないことがわかった。前途多難だ。

雨の中をバスに乗ってポイントクルーズに戻り,JICAの事務所に行こうとしたのだが,紛争前に事務所があった場所には無かったので,とりあえず大使館に行った。もう17:00を過ぎていたのだが運良く一等書記官のFさんが残っていらしたので,少し話をしてから新しいJICA事務所の場所を聞いてメンダナに引き上げた。日程表を作って(A4の紙が無かったのでB5のレポート用紙に縮小印刷して)からメンダナの支配人Yさんのところに挨拶に行こうとしたら,既に食堂の6番テーブルで宴会が始まっていて何となく流れで加わることになった。この宴会というのは,PNGの医務官の方がソロモンに健診に来ていて,明日にはPNGからルーマニアに異動となるとのことで,送別会を兼ねて催されていたものだ。他にいらしたのは元ソロモンタイヨーのキーマンだったNさんとか,先程お会いした大使館のFさんとか,PNGとソロモンで林業をやっていらっしゃる方とか,紛争で壊れた道路を直している工事中の方とかで,持込みのうまい酒とNさん提供のマグロの刺身とかが振舞われ,食堂が閉まった後にもMEMBER'S BARに場所を移して宴会は続いた。何度もメンダナには来ているが,このBARに入ったのは始めてである。ここでも美酒が振舞われたが,翌朝のSIMTRI所長との約束もあるので,23:50頃引き上げた。すっかり酔っていて何もせずに眠るしかなかった。夜中に物凄い雨が降ったようで,音で何度か目が覚めかけたが,結局朝まで眠り続けた。

ペーパーワークと交渉の一日(2006年2月3日,金曜)

6:00に起きて日程表を仕上げ,7:00にUさん,O君とエントランスに集合して,パンを買いに外に出た。以前のイメージだと7:00ともなればファストフード屋が何軒もエッグバーガーなどを並べていたものだが,どこの店も開いていなくて,唯一開いていたのがBread Kitchenであった。雨だったので動き出すのが遅いのか? とも思ったが,路上の新聞売り子は普通にいるので,以前より店の開店が遅くなったということなのかもしれない。

Uさんは一晩だけホテル側の都合でスイートルーム(409号室)に普通の部屋の料金で泊まっていたので,皆でそこでパンを食べた。普通の部屋の3倍くらいの広さがあって,ダイニングテーブルもあって,簡単なキッチンまで付いている凄い部屋だった。今日はPNGの外務大臣がここに泊まるということで,Uさんは部屋を替わらなくてはいけないので気の毒なのだが,それでも一晩だけでもスイートというのはラッキーだったかもしれん。

完成版の日程表を打ち出し,8:30過ぎにエントランスに集まって,バスでSIMTRIを目指した。乗るときにSIMTRIの近くまで行くことは確認したのだが,とても遠回り(丘の上を通る)だったので,約束の9:00に若干遅れてしまったのは失敗だった。とりあえずB氏と会って日程表を渡したら,驚いたことに,今頃になって,以前に出したApplicationにはガイドラインに照らしていろいろ不足があるから,そこを補足する文書を作ってくれと言ってきた。9月にapplyして,何度か催促するたびにOKOKと言っていたのだが,もしかすると,これまで真剣に読んでいなかったのかもしれない。B氏とは2004年の9月からこの計画の相談はしているのに,今になってこれでは困ると思ったが,仕方が無いので,夕方までにその文書は作ってくるからそれをもって委員長にかけあってくれるように頼んだ。

16:00にアポをとったので,昼の間にUさんとO君に銀行の換金とかJICAへの顔出しとかを頼んで,ひたすら文書作成を続けた。SIMTRIから車を借りたのでO君が運転することで機動力は格段に上がった。文書作成が意外に大変で,昼も買って来てもらったピザで済ませたのだけれども,漸く文書が完成したのが15:30で,署名してから,慌ててSIMTRIに向かった。約束の時刻には少し間があったのでトイレに行っていたら,いつの間にかUさんとO君が招きいれられていた。偶然A氏もいて,噂の真相が判明したのはこのときである。B氏がA氏と一緒に階上に行ってしまったので,その間にO君がグローランプを首尾よく交換して蛍光灯が復活した。B氏は戻ってきて暫くは蛍光灯復活に気付かなかったが,気付いてから上機嫌になった。渡した追加文書は月曜に委員長に渡してくれるそうで,それは良かったのだが,まだ問題があって,委員会の開催はいつも遅くなるので,水曜から本格的な調査をするなら,間に合わない可能性がある。今朝来たときに,とりあえずSIMTRIと我々の間でMOUを取り交わしておいて,あとはSIMTRIが責任をもって委員会と交渉するのはどうか? とB氏から提案があって,16:00までにB氏がdraftを作っておいてくれるはずだったのだけれども,忙しかったとかでまだできていなくて,その合意契約も月曜にすることになった。まだまだ前途多難。

晩飯は香港パレスで,Uさん,O君と,UさんのJOCV時代からの知り合いであるFさんと。ドライバーの紹介をお願いできたのはよかった。部屋に帰りついたのは,0:00頃だったように思う。

タシンボコを目指して(2006年2月4日,土曜)

昨日と同じく7:00にエントランスに集合してBread Kitchenにパンを買いに行き,戻ってきて食べてから9:00過ぎにタシンボコを目指して車で出発した。昨夜Fさんに頼んでアレンジしてもらったドライバーはウェスタン州出身の人だったが,運転がうまくて,ひどい悪路を何とかこなしていくのは凄かった。しかしそれでも,Mberande川に沿って北上したところで道がドロドロになっていて渡渉は不可能だった(右下の写真で車の向こう側が川のようになっているが,水浸しでドロドロになった道路である)。ここから目的の村まで歩くと2時間かかるというので,仕方なく引き返すことにした。もはやこれはボートで行くしかないかと思っていたら,車がもっといい車(煙突が付いているランドクルーザー)で,晴天が続けば,もしかしたら河口近くでMberande川を渡れるかもしれない。いずれにせよこの車では無理だし。

Muddy road near the Mberande river

ボートで行くなら,SIMTRIにだって陸路で行けない場所のPCDのためにボートがあるはずで,facility feeを(相当ディスカウントだけれども)支払うのだから,ボートを出してもらってもいいのじゃないかと思われ,月曜にB氏に交渉してみるつもりだが,さてどうなることか。とりあえず明日,ポイントクルーズでボートを雇ってバンバラまで行ってみないと,そもそも村側での受け入れが可能かどうかもわからない(3年前に来たときに話はしておいたが,いつファンドが貰えるかわからなかったし,今年来るということは村には連絡不能だった)ので,それ以前に解決しなければならない問題も山積みなのだが。

今日は晩飯をおとなしく,Uさん,O君と3人だけでメンダナのレストランで食べ,その後,月曜に日本を発つはずのO先生への返事FAX文書を作った。こちらの時刻で22:45(日本時間では20:45)に出来上がったので,送信してもらおうとフロントに行ったのだが,ずっとお話し中でリダイヤルが続いているから明朝再トライしてくれと言われてしまった。ついていない。部屋に戻ってから自宅へ国際電話をしてみたら,息子が出て今日の野球部のボーリング大会で4位だった話とかをしたが,妻と娘は担任の先生の送別会ということでまだ帰宅していなかったので,これも明日だな。しかたないので部屋に戻ってきて,この記録を打ち続け,やっと現在時点においついたのは2:00を過ぎていた(ほぼ3日分を4時間で打ったことになる)。

再びタシンボコを目指そうとしたが挫折した日曜(2006年2月5日,日曜)

7:00集合の予定だったが寝過ごして,Uさんがフロントからかけてくれた電話で目覚めたのは7:10であった。すぐに着替えて出て行き,パンを買って帰ってきてUさんの部屋でドリップコーヒーを飲みつつ食べた。ここまでは昨日と同じ(いや,昨日は寝坊していないが)。今日も晴れているし。

予定としては,まずFishing Village前のタシンボコのSDAの人たちが来ているという場所に行って情報を収集し,その後,もし何らかの陸路があれば陸路で,なければ予定通りPt. Cruzに行ってボートを雇ってタシンボコへ行くつもりである。着けば何とかなると思うんだが。

しかしほどなくsea roughになってしまって,ボートは無理そうな雰囲気になってきた。金曜の夜にお会いしたFさんが家族連れで10:30頃に迎えにきて,Fishing Villageの前に車で連れて行ってくださった。タシンボコのSDAの人はTauの人で,親族がFさんの生徒だったとかでとても対応が親切だった。Tauからここまでは川を渡ったところからピックアップトラックが出ていて,夕方戻るので便乗させてもらえないことはないらしかったのだけれども,ここで乗ってしまうとタシンボコ泊まりになるので,明朝のSIMTRIでのアポイントに間に合わない可能性が高い。仕方ないので,ともかく,乗っていく代わりに村の人への手紙(昨日Mberande川の近くで会った人にも言われたが,このTauの人からも,これまでの滞在で随分お世話になったFS氏が昨年亡くなったことが確認できたので,息子のJ氏宛て)を託すことにした。Fさんが念のためPt. Cruzのボートが屯しているところまで連れて行ってくれたのだけれども,ボートは引き上げられていたし,船主はいないし,交渉のしようもなく諦めた。

ホテルに戻ってFさんと話をしながら昼飯としてサンドイッチとフィッシュアンドチップスを食べ,ブッシュライムを飲みつつ手紙の内容を練った。13:30過ぎに概ねまとまったので部屋に戻り,15:00までかかって打ち込み,プリントしてサインをして封筒に入れ,O君の運転でUさんと3人でFishing Villageへ行き,無事に託すことができた。今夜Tauに戻るので,明朝,Mbambalaに渡しに行ってくれるという。御礼に日本で買ったお土産の1つを進呈した。

明日がどうなるかわからないので,今日中に買えるものは買っておこうということで,帰りにChina Townに寄って,米とかラーメンとか缶詰とかビスケットとかトイレットペーパーを買い込んだ。4人で2日も泊まるとなれば,それなりに食糧を用意しておかねばならないと思われたためである。さらに帰り道に別のChineseの店に入って,ズックを買った。前橋を出るときに間違っていつも履いている通勤用の靴を履いてきてしまったのだが,今回たぶんタシンボコは激しくmuddyなので,丸洗いできる靴が必須なのだ。サイズがEUR42(つまり日本でいう26cm)以下のサイズはどこでも売っているのだが,EUR43(つまりUS8+1/2とかJPN26.5)がなかなか無かったのだが,何とか買えて良かった。もちろん通勤用の靴はメンダナに預かってもらうのだ。靴を買っている間に強い雨が降ってきた。まずいなあ。タシンボコが既にmuddyなのがますますmuddyになってしまうし,天気が良くないとボートも動いてくれないし。明日は晴れて風も収まってくれることを祈るばかりだ。晴れ乞いのオマジナイでもあれば,藁にもすがる思いで唱えてしまうかもしれないくらい,追い詰められている。

ホテルに戻ってきたら17:00近かった。MTVを流しながら,10年前に作った資料のデジカメ写真を撮った。本当はスキャンしてから来たかったのだが,暇が無かったので仕方が無い。1時間ほどで完了したが,食後にでも編集しようと思う。MTVで流れていたStand up for loveという曲がなかなか良い。天命眞女(Destiny's Child)の曲。今日は19:00頃から食事にしようと言っているので,あと30分くらい一休みするか。

食事は野菜炒め定食にした。その後部屋に戻ってきて,さっき撮った写真をコンピュータにコピーし,「功名が辻」を見ながら若干編集した。その後日本に電話をしようとしたら,何度か混線したようで間違い電話になってしまったので,IP電話の番号にかけたら無事につながった。ほとんどタイムラグ無く良好な音質で話せるのだが,この混線だけは困りものだ。

協定締結(2006年2月6日,月曜)

7:00にUさんの部屋に集まってビスケットで朝食にした後,2手に分かれ,ぼくはコピー屋に行って記録用紙などのコピーを頼み,UさんとO君はコーヒーなどの買い物をした。その後SIMTRIへ。もうサインするだけかと思ったら,所長がなぜか急に不機嫌になっていて,facility feeの算出根拠がかかれていないのは怪しからん,日本人は嘘つきだ,これでは委員会で説明できないし,我々はドアを閉ざすだけだといって怒るので,どういうわけかわからないが,ともかく算出根拠をきちんと説明した文書を追加して,かつ来年度増額すればOKとなった。いまこれ以上揉めている暇は無いし,どうも最先端にしか関心がないらしいので今回のような観察疫学研究からは得るところがないという判断になったようなので,直接的な貢献としてかくかくしかじかの算出根拠でいくらのfacility feeを出します,という一筆を入れるしかなくなった。負けた,というべきか。科研では原則として車は買えないのだが,ともかく車を買うよりは安いということで納得するしかないのだろう。

一旦宿に帰って算出根拠を文書化した。その間にUさんはFさんとともに教育省へ行って来週の調査の交渉など。O君に朝方コピーを頼んだ店に行ってできあがったコピーを受け取って貰ってきてから,プリントした文書をもって再びSIMTRIに向かうと,今度はなぜか所長殿は上機嫌で,OKOK,あとは協定書を明日の朝までにタイプしておくから,それを読んでもらって両者がサインするという形ができれば,委員長には責任をもって話してサインを貰っておくよ,という。これが彼の手だったのかもしれない。協定書は今朝にはできているはずだったが,忙しいといって未完成だったのだけれども,明日の朝というのは不安だなあと思って,今日の夕方にはできないかと聞いてみたが,昼間は来客が多くて忙しいから夕方から夜になって打つ予定だという。

お金はいつ払えばいいのかと聞いたら,いつでもいいよ,アカウントオフィスに行ってくれという。けれども,行ってみたら,係官が昼食に出てしまっていたので,夕方戻ってくることになった。

ホテルに戻って昼食後,JICAのオフィスに行って,TさんとAさんにタシンボコ行きの話をしたら,Tさんはちょっと前に車と徒歩でタシンボコに行ったけれども,大変な泥道でもう二度と行きたくないという。ボートを薦められたのだけれども,海が荒れたらボートを出せないので,そんな危ない橋は渡れない。泥道は疲れるだろうし気持ち悪いかもしれないが(膝まで泥の中に沈むところもあるらしい。そうなってくるとドロドロというよりもズブズブだな),行けないということにはならないはずだ。だから,我々の行程は,やっぱり車と徒歩にするしかない。アドヴァイスはありがたかったが。

その後SIMTRIに行ってお金を払って領収証を貰ったら,所長が,協定書の原稿はできたから一緒に見よう,という。で,ちょっと確認して,一箇所直してもらってから,2通の書類に2人でサインをし,一通ずつ保管することになった。所長がもっている方の書類に,後日,委員長のサインが入るので,O君が帰りがけに寄ってそのコピーを受け取ってくるという手筈を整えた。これで協定締結となった。後は行くだけだ。

ホテルに帰ってからは,チーム全員分の日程表を作ってKさんに渡したり,マネージャーYさんから長靴を借りたりしてから,晩飯を食べ,このメモを打ったり,後発隊への書き置き用の文書を作って印刷したりしてから就寝した。0:00近かった。

調査開始(2006年2月7日,火曜)

6:00起床。6:30にUさんの部屋に集合してビスケットとコーヒーの朝食を食べ,7:30にはチェックアウトして(歩かなくてはならないので,荷物の一部はホテルに預かってもらえる約束になっている。コンピュータも預けていくので,金曜までは紙にメモを作らねばならない),SIMTRIに向かう予定である。

8:00にSIMTRIに着くと,まだ所長は来ていないのだった。車を整備している人がいて,T氏がいるというので,ガダルカナル州保健局のSIMTRI支所となっている部屋に行ってT氏と話した。すると,まだボスが来ていないので暫く待てという。ボスってB氏か? それなら話はついているけど,と言うと,いや,ガダルカナル州の方のボスだという。あれ,B氏が話を通してくれてるんじゃないのか,と思ったが,とりあえず待つことにした。5分ほどすると,漸く件の「ボス」が登場した。挨拶をして自己紹介して少し話してみると,どうやらB氏は何も言っていなかったようだ。「ボス」は具合が悪くて家で休んでいたとかで,車を借りる話は昨夜T氏から聞いたけれども,詳しい話は全然なので説明してくれというのだ。説明をしたらわかってくれて,今週ずっとガダルカナル州のランクルをドライバー付きで貸してくれることになったが,もし「ボス」が意地悪な人だったら大変なことになるところだった。

ドライバーのAS氏はタシンボコの人である。車自体はタダで借りられるが,燃料費を3日でSBD 150払わねばならない(ガソリンスタンドで,その分のガソリンを入れて代金を払えばよい)。ドライバーの日当はSBD 30だが,彼はマラリアテクニシャンでもあるので,運転以外にも荷物運びをしてもらってもいいし,マラリア検査の手伝いをしてもらってもいいそうなので,わりとコストパフォーマンスは良い(泊まりになるときは日当を増額する必要があるが,今回はその必要はない)。ほどなくSIMTRIを出発してそのままタシンボコに向かうのかと思ったら,もう1人のワーカーをピックアップするということで,まったく逆に向かい,ポイントクルーズも過ぎて丘を登って,MS氏を乗せた。今日はマラリア検査をしないのでSBD 60も払うのは勿体無いかと思ったが,実は川を徒歩で渡って水と食糧を村まで運んだりするのに大変助かったので,AS氏の判断は妥当だったといえよう。

やっと東へ向かったと思ったら,ヘンダーソン空港近くのガソリンスタンドに入った。ところが,ここが異様に混んでいて,給油に20分近くかかったのは誤算だった。ほとんど燃料タンクの目盛りはフルの状態だったのだが,そこからでもSBD 77も入った。後は明日SBD 73を追加するという話だ。

さていよいよタシンボコに向かう。途中,NguviaのCommunity Highschoolに寄り,JOCVの理科の先生と校長先生とお会いして,Uさんが来週の聞き取り調査の打ち合わせをしてから,土曜日と同じ道を進む。やはり道としては正しかったのだな。川縁に出てからさらに南に泥道を進むと,川原に出た。水量が少なければ,ランクルで川を渡れるのだが,AS氏とMS氏が調べてくれたところ,どうやらまだ駄目のようだ。仕方ないので渡渉した。けっこう流れが速くて,下手をすると足をとられそうになるが,深さはそれほどでもない。何とか全員無事に渡りきることができた。

渡ってすぐのところに7株の孟宗竹みたいな太い竹の枯れかけたやつが固まっていて,村人はSEVEN BAMBOOと呼んでいる(ベタだな)ポイントで目印になっているのだが,それを超えるとカカオの樹下の細い道で,どこへ向かっているのかさっぱりわからない状態になってしまう。ともかくひたすらMS氏の後ろをついて歩くと,20分ほどでTau schoolに出た。非常にmuddyでひどい道だという事前情報で恐れていたほどはひどくなくて(要はドロドロではあったがズブズブではなかったので),拍子抜けしたほどである。TauからはMbembe,Kepi,Kaio,Mbambalaと順調にいい道を歩けて,やはり20分ほどで無事に到着した。MbembeにはSDAの大きな教会があって人が集まっていたが,他のところはほとんど村内がもぬけの殻であった。実は,日曜の夜にMbambalaでEさんという老婦人(10年前にはいなかった方で,その後転入してきたらしいが,村人の話によると100歳を超えていたという)が亡くなったために,周辺の村の人は皆Mbambalaに弔問に来ていて,夜通し故人を偲んで語り合って過ごすのだそうだ。うわっ,これはまずいタイミングで来てしまったなあ,と思ったが,Mbambalaで出迎えてくれたJ氏は,大丈夫,問題ない,という。ただ,村が人で一杯なので,日本からの調査隊をここに泊めることはできないそうだ。ちょうどいいところが空くから,15分くらい歩いてそっちに泊まって通ってくれという。

Photo with Dr. D in front of his house

村の中の方へ入っていくと,4月に行われる国会議員選挙に出馬するために教育省のPermanent Secretary(日本で言えば事務次官にあたる)を辞めたばかりの,D博士が来ていた。彼は選挙の遊説のため,この近隣の村々を回るので,Ngalithabeliにある彼の家が,金曜まで空くのだという。きっと凄い家なんだろうなあと思いつつ行ってみると,確かに2階建ての凄い家だった。しかも,網戸があまり破れてない。コンクリで基礎を作って,きちんと製材された柱と板を使って組み上げられた家なんてものが珍しいのだが,その中でも網戸の破れが少ない状態が維持されている家は稀有である。こんな家に住んでしまってはO君のfirst fieldworkのためにならない……というか,ここではあまりにMbambalaから離れていて調査に不都合なので,Eさんの喪が明けたらMbambalaの誰かの家に住まわせてもらわねばなるまいが,とりあえずMbambalaが弔問者で満員の間は,ここのお世話になるしかない(右は家の持ち主であるD博士と,その家の前で撮った記念写真)。

この家の隣にはCさんというソロモン航空の元フライトアテンダントにしてKulu schoolの1年から3年までの英語の先生をしている人とD博士の妹Rさんの夫婦と,その息子M君(6歳)が住んでいて,困ったことやわからないことがあれば,彼らに何でも聞いてくれという。お湯を沸かすとかもお願いできるそうだし,トイレもあって,自然流下式と思われる水道が引かれていてwater supplyも完璧だし,至れり尽くせりであった。D博士の弟R氏も教育省で働いていて,小学校教育を統括するような立場にいるらしいのだが,彼も弔問のためにMbambalaに来ていた。実は,D博士の家の中でぼくが泊めてもらったのはR氏の部屋なのだが,弔問者はこんなに近くても通いでは駄目らしい。いや,実は調査だって普通なら近くても通いじゃ駄目なのだが,今回は仕方なかろう。UさんとO君もD博士の家の2階の部屋を間借りしたが,1階にはD博士のご両親が住んでいて,今日はMbambala泊まりだけれども木曜からこっちに戻ってくるという。お父さんのJ氏は話好きなんだけれども,ちょっと口が回らなくなっていて,ピジンが聞き取りにくくて困った。

D博士が選挙に出るだけじゃなくて,国の保健省のPermanent SecretaryだったL博士も職を辞して選挙に出るので,いま,ソロモン諸島の政府の事務系の仕事をするキーパーソンは少なくなっていて,たぶんそれも調査許可の手続きに手間取った原因の一つではないかと思われる。L博士は10年前にぼくがMbambalaに住んでいたときにSIMTRIの所長で,UQLDに博士論文を出そうとしていたのだが,その後出身地のマライタ島で調査をした結果を無事に博士論文として出せたようで,順調に出世してきたわけだが,そんなに国会議員になりたいかね。っていうか,たぶん大臣を狙っているのだろう。ソロモン諸島でも選挙となると何とか地域の名士を当選させたいと思うらしく,話を聞くと社会資本を引っ張ってくることができるからということらしいので,日本と同じ土建政治だなあと思った。D博士も,当選したら,自分の家の近くにしか今は来ていない水道を,East Tasimboko津々浦々に張り巡らせるとぶち上げている。ただ,確かにこの地区で水道があると生活の利便性は格段に向上するので,費用対効果を考えれば,悪くない政策だと思う。雨水の貯水タンクだとボウフラが繁殖する可能性があるけれども,水道ならそれはないし。ただ,現状だと水源は地下水を太陽電池ポンプで汲み上げているものなので,そのままでは水道を張り巡らせたときに圧が足りないだろうから,水源確保をどうするのかも問題だろう。たぶんそれくらい考えているのだろうが。そういう話をしていたら,J氏が,まだ日本の総理大臣は小泉なのかと聞いてきた。ああ,そうだ,と答えると,去年の選挙でも勝ち残ったんだな,という。電気もなく川を渡渉しないとホニアラに出られないようなところに住んでいながら詳しいな,と驚いたが,ラジオを聴いているのだという。さすがUPNG卒のインテリである。元々,ホニアラとここの中間くらいにある,Dodo Creekという場所にあった農業試験場で研究職に就いていたのだが,試験場そのものが民族紛争で破壊されて消滅してしまい,再建の目処が立っていないので村にいるのだ。彼のような専門知識のある人を,このまま村に置いておくのは,ソロモン諸島政府として大きな損失ではないかと思うが,まだ農業試験場を再建するだけの余裕がないのか。と思いを巡らせていると,J氏が,前から疑問に思っていたんだが……という。何が? と訊くと,小泉首相はどうしてロングヘアーなんだ? と真顔で言う。J氏はとてもjokingが好きな人なので,これもjokeかもしれないなあ,と思いつつ,ああ,あれはね,彼の趣味なんだよ。彼の支持者である主婦層が,あれが格好いいと思うらしいんだな。知ってるかい,彼は離婚していて,今は独身なんだぜ。と答えて曖昧に笑うと,J氏も何だか曖昧に頷くので,結局jokeだったのか本気だったのかはわからない。まあどうでもいい話だが。

明日の朝はMbambalaから8:00にJ氏が迎えに来てくれるので,その前に朝飯を済ませておくということになった。ドライバーAS氏の話では,ホニアラからPCDチームが来るのはたぶん9:30頃になるので,8:30頃から場所をセッティングすればいいのではないかということになった。本当は,10年前にやったように,前夜に24時間思い出しの食事調査をして尿カップを配って,翌朝早朝尿を持ってきてもらおうと思っていたのだが,今回の状況では,いろいろな意味でそれは不可能なので,スポット尿で検査することにした。

水浴びやトイレをどうするか説明を受けたり,荷物を広げて蚊帳をセッティングしたり,こちらの人たちと話をしたりして,一休みしたらもう夕方である。本当は日が暮れたらJ氏がもう一度来てくれて,一緒にMbambalaに行くことになっていたのだが,かなり遅い時刻になってJ氏がやってきて,自分がMbambalaにいる人たちには知らせたし,今夜は皆で故人を偲んで語り明かすからもう来ない方がいいというので,行くのを断念した。D博士の妹Rさんが作ってくれた米とツナ缶とクマラ(サツマイモ)とバナナ(Uさんが歩いている途中,Mbembe村で貰ったもの)の晩飯を食べつつJ氏と調査計画の話をした。J氏は,コーヒーを飲みながら,この研究が3年続くなら一つ提案があるという。いま思いついたので現実性があるかどうかはわからないが,マラリア対策としては,やはり現場ですぐに検査できる体制が必要だろうから,村から若者を選んでSIMTRIに送り込んで検査のトレーニングをしてもらい,同時に太陽電池と顕微鏡を村にセッティングしてくれればいいんじゃないか,というのだ。確かに一理あるので,考えてみると答えた。でも,おそらく,村の代表でトレーニングしても,よほど偉い人(人間的に,という意味)でないと,村に残るという選択はしないんじゃなかろうか。普通だったら,ドライバーAS氏みたいにSIMTRIとか州政府で職を見つけて上を目指すだろう。村に残れる人をどうやって選ぶか,それが村側の最大の問題だろう。設備としては太陽電池は安いから寄付できないこともないが,顕微鏡は新品だったら安くても数十万円するし,下手をしたら100万円いってしまうので難しい。どこかで中古を手に入れることができないか探してみるしかないな。倉庫に眠っているような顕微鏡はいろいろなところにありそうな気がするが,マラリア原虫の検鏡だと,かなりレンズ性能が良くないと駄目だから難しいかもしれない。動いてみなくては始まらないが。SIMTRIのトレーニングはいくらかかるのかも問題だが,こちらで全部持つような筋ではないと思うので,折半かな。いずれにせよ研究費では出せないので,ぼくの私費でやるしかないのだが,地域社会へのインパクトが少なからずあることだから,研究期間が終わってから動き出すようにやるか,あるいはインパクトも含めて研究計画に織り込まなくてはいけないだろう。もっとも,そういうニーズがあることがわかっただけでも収穫ではあるが。

集中調査初日(2006年2月8日,水曜)

6:00に激しい鶏の鳴き声で目が覚めた。今日から後発隊がやってくるはずである。D博士の妹Rさんがお湯を沸かしてくれてパイナップルを切ってくれたので,ビスケットとパイナップルとコーヒーという朝食を30分で済ませ,J氏の到着を待つ。やや遅れてJ氏が着いたのは,朝4:30まで追悼で故人を偲んで語っていたからだという。それなら仕方ないか,というよりも,そんなときに調査をさせてもらうのは本当に心苦しいのだけれども,こちらも日程に余裕が無くて,この3日間にやるしかないので許してもらおう。

夕べは小川を渡渉したところがあって,朝から足が濡れると嫌だなあと思っていたのだが,J氏がB氏(D博士の親族)に言って長い板を運んでくれて簡単な橋代わりにしてくれたので,足を濡らさずに済んだ。

Mbambalaに着いてみると机と椅子をセッティングされていた。なるほど,J氏はここまでやってから来てくれたんだな。受付と尿検査用の机を左端にして,次にマラリアPCD,最後に生体計測と血圧,と回るように考えたが,これでうまく回ってくれるかどうかは,やってみないとわからない。ぼくがやることになっていることが多すぎるかもしれない。とりあえず尿カップを箱から取り出してフタをして番号を書いて並べる作業をしながら,ホニアラチームの到着を待つ。

ホニアラチームの到着は,10:20頃だったろうか。K先生とは初対面だったが,実に溌剌とした元気な方で,川を渡渉したり泥道を歩いたりを全然苦にされていないようであった。すばらしい。O先生とY君も無事に着いて,早速健診準備に取り掛かった。Y君が生体計測をするのに,体重計を置く平らな場所が必要だということはわかり切っていた筈なのに準備していなかったのは申し訳なかった。J氏も何度も,他に必要なものはないか,と尋ねてくれたのに。交渉と文書作成のしすぎで,頭が回ってないらしい……と言い訳してみる。

10:40頃開始。人は続々とやってくる。凄い人気だ。自分でも説明したがJ氏に補足してもらってインフォームドコンセントを得るのはわりとスムーズにいった。しかし,すぐに当初の計画が無理なことが露呈した。ぼくが血圧まで測るのでは受付に人が溜まりすぎてしまって,PCD以降の効率が落ちるし,尿検査ができなくなってしまうのだ。そこで,SIMTRIワーカーの一人に血圧測定を説明してやってもらうことにして,順路を組みなおし,健診を継続した。これなら何とかなる。13:00過ぎに少し休憩を取ったが,16:00まで殆ど休みなしで80人受け付けた。J氏が凄く頑張ってくれてありがたかった。MbambalaよりもTauとかMbembeとかGorapaliaとかTumbosaといった周辺の村の人が多いのが問題だが,明日はMbambala中心でやるとJ氏が言っているから大丈夫だろう。

尿検査をすべて終え,Ngalithabeliに辿りついたのは17:30頃だったか。水浴びとかデータの転記とか夕食とかUさんとO君とY君と明日以降の作戦会議とかやって,23:30頃眠ったように思う。

2日目(2006年2月9日,木曜)

昨日と同じく鶏の声で6:00起床。朝食も昨日と同じ。

J氏が来ないので歩き始めたら途中で出会った。昨日の橋のところは,そこで偶々洗濯をしていた女性に頼んだら,昨日のとは別のやや短い板を渡してくれたのだが,これがやや撓る板で,ぼくが乗ったら真ん中が低く水没して,少し足が濡れてしまった。J氏がもう少し早く来てくれれば濡れずに済んだのだが,まあ仕方ないことだ。靴が壊れていなければ,これくらい濡れても中には入ってこないのだけれども,完全に底がはがれてしまっているので,少しでも濡れたら中まで水浸しなのだ。NIKEと大きく書いてある靴を日本円にして約2000円で買ったのだが,やっぱりフェイク商品だったんだろうなあ。別にフェイクでもなんでもいいのだけれども,水に濡れただけで底がはがれてしまうというボロさ(つまり洗えないということ)は,あまりにひどい欠陥商品なんではなかろうか。

今日はホニアラチームが早く到着するはずだったのだが,なかなか来ない。データの双方向転記(対象者に返す紙と,データ入力に使う記録原簿としてのノートの内容が一致するようにする)も終わり,昨日と同じように,尿カップを組み立てて番号を書いたりして待つのだけれども,10:30を過ぎてもまだ着かない。何かあったのだろうか。

やはり問題があったとのことで,ホニアラチームが着いたのは10:40頃だった。何でも,SIMTRIには早めに着いたのだけれども,ガダルカナル州政府の保健局のトップ(SIMTRI支所のではなく,もっと上)のDO博士という方が待ち構えていて,ガダルカナルでコミュニティヘルスのチェックをするというのに,どうして自分を通さないのだ? と詰問されたという。正論と言えば正論なのだけれども,もしそれが手続き的に必要ならSIMTRIの所長が話を通しておいて欲しかった。まあ,こちらの気が利かないといえば気が利かないとも言えるのだけれども,あまり勝手に動いてもSIMTRI所長の顔をつぶしてしまうかもしれず,そこが難しいところだ。結局,O先生がうまく応対してくださったのだけれども,この騒動で1時間つぶれてしまったというわけだ。なお,土曜の9:00にDO博士がメンダナホテルに出向いてくるので,そこで詳しい説明が聞きたいという話だ。ソロモンの人にしては異様に仕事熱心で凄いのだけれど,それまでに中間報告ってのはちょっときついなあ。

11:00頃,81番から受付を開始した。昨日よりJ氏が慣れてきたこともあり,快調に進む。13:00過ぎに15分休憩を取っただけで,16:00近くまでやって,157人で打ち止め。結局,ホニアラチームが帰っていったのは,昨日と同じくらいの時刻だった。

Ngalithabeliに戻ってからも昨日と似たような感じ。22:30頃眠ったように思うが定かではない。

集中調査終了(2006年2月10日,金曜)

やはり鶏の鳴き声で6:00起床。朝食はパイナップルが無くなった他は昨日までと同じ。

今日は早めに行って,ホニアラチームの到着は待たずに始めておくという話になっていたのだけれども,J氏も張り切っていて8:00前に迎えに来た。ちょっと待っていてもらって,Mbambalaに着いたのは8:40頃だったか。

早速158番から開始。インフォームドコンセントや基本的な聞き取りの受付部分が律速段階なので,先にやっておこうという,J氏の提案に従ったのである。これは正解で,既に3日目となるSIMTRIスタッフが少しやる気を失っていて(週末だからということもあるが),11:00近くまで来なかったのだ。もっとも,200人まで行かないうちにインフォームドコンセントの紙が足りなくなってしまい,紙自体は後でコピーして月曜に届けることにして,とりあえず説明して結果記録用紙の方にサインをしてもらったし,200人までで記録用紙も尽き,尿検査のカップも無くなったので(というか,今年は3日しかないし,元々Maxでも200人という予定だったので)終わりにしたかったのだが,マラリア検査を希望する人が後から後からやってくる。SIMTRIのスタッフと相談したところ,時間が許す限りやろうということになったので,我々の調査は終わりだがマラリア検査だけ継続し,最終的に217番まで行った。しかし今回はいろいろと問題があって,ターゲット外の人も多く,尿検査もスポット尿だったし,食事調査もできなかったので,やはり夏にでももう一度来るしかないだろうと思われた。それこそ10年前にやったように,夜のうちに村を回って,選んで同意を貰ったターゲットについて食事調査をして尿カップを配っておくのが良かろう。周辺の村の人ばかりたくさんきても,母集団が把握できなくては,コミュニティヘルスサーベイにならない。早朝に尿を持ってきてもらい,生体計測とモーター加圧式の血圧計での血圧測定をした後で残っていてもらって,SIMTRIチームが来次第PCD,という手筈でいけばよかろう。今回の問題は,葬式とお通夜(?)のために,周辺の村の人やMbambalaから外に移住した人も含めて,非常に多くの人がMbambalaに集まっていたことで,ともかく異常事態だったのだ。教育省事務次官をやめて選挙の遊説にきている人までいたし,村全体がお祭り騒ぎだったといえる。それこそ盆と正月がいっぺんに来たような。

13:00過ぎに検査が終わり,後片付けをしながら,SIMTRIの人がトリートメントをするのを待つ。といっても,初日にスライドを作って陽性だった人に対して,年齢を元にして適量の薬を数え,飲み方を説明して配るだけだが。結局すべてが終わったのは15:00近かった。再びすべての荷物を担いでMbelande川まで40分ほど歩いた。来たときよりも随分水量が減ったような気がする。このまま乾いてくれれば,ランドクルーザーに乗ったまま川を渡れるようになるらしいのだが。O先生とSIMTRIのチームは,土曜にK先生が検鏡を完了するため,月曜にまた来なくてはならないので,月曜まで晴れが続くことを願うのみである。

夜,打ち上げというか,SIMTRIとの今後3年間の共同研究の成功を祈って,メンダナ近くのシーフードレストランで会食。もちろん会計はこちらの,というか,ぼくの自腹である。チームリーダーをやるのも楽ではない。もっとも,宿泊費と日当の方が村での滞在費よりも高いので,その差額でまかなえるくらいの出費だったが。炒飯と焼きそばが今ひとつふたつみっつくらいの味だったのだが,魚を揚げたものの甘酢あんかけみたいなやつと辛い麻婆豆腐が美味だったからいいか。

メンダナホテルに戻って,ラウンジでコーヒーを飲んで少し休んでから,部屋に戻ってデータ入力。ともかく,出発までに,PCDで行われる治療のために対象者のリストを作ってSIMTRIに出さなくてはいけないし,中間報告をガダルカナル州のヘルスのトップのDO博士に出していかなくてはいけないので大変だ。

会議とデータ入力と書類作り後に出国(2006年2月11日,土曜)

2:30から5:30だけ眠ったが,あとはデータ入力。7:00にパンを買いにBread Kitchenへ行ってきて,食べながらデータ入力を再開したが,終わらない。133人のところで中断してフロント前に行き,9:00に来て会議をすることになっているDO博士を待ったのだが,これがなかなか来ない。一旦部屋に戻り,ノートパソコンを持ってきてデータ入力をしながら待っていたら,1時間近く遅れてやってきた。

これまでの研究の経緯と今回の研究計画を説明し,中間報告をO先生に託していくことと,今後も連絡を取り合っていきましょうということで話がついた。自分から言っておいて遅れて来るというのはアレだけれども,ソロモン諸島の人が土曜日に仕事をしにくるというだけでも凄いことだ。今後も連絡を取り合っていけるといいと思う。SIMTRIよりも,この人をカウンタパートにした方がうまくいくかも? いや,これまでの関係からいって,そういうわけにもいかないか。

カウンタに行ってレイト・チェックアウトの交渉をし,15:30のチェックアウトにしてもらってから,また部屋に戻って昼までデータ入力。まだ終わらない。和食が休みだったのでラウンジ(ララタナ・テラス)で本日のランチをオーダーして食べ,K先生がマーケットで買ってきて切ってもらったポポもいただいたが,いずれもなかなか美味であった。その後もデータ入力と暫定報告を作るため部屋で缶詰が続いた。漸く終わったのは15:15であった。手が痺れてきて困ったが,とりあえずこれで一安心である。

チェックアウトも無事に済み,打ち出した書類をO先生に託してから,Y君とK先生と3人,メンダナホテルのバンで飛行場に行き(これが1人当たり45ドル取られるので,タクシーの方がずっと得なんだが,今回に限ってはこの選択が正解だったことを後で知ることになった),荷物チェックをしてもらって預け,チェックインを終えた。

そのまま暫く待っていたら,メンダナホテルのドライバーがやってきて,2時間遅れだから,このままここで待っているよりも,無料で送迎するから一旦ホテルに戻ってコーヒーでも飲んだらどうかというので,そうすることにした。まだ少し早かったが,かといって機内食まで何も食べないのも辛いと判断し,さきほど別れたO先生を呼び出して,メンダナホテルのレストランで晩飯にした。19:15に再びバンに乗って空港に行ったら出国手続きが始まっていて,40ドル払って出国カードを書いてimmigrationカウンターで判子を押してもらって,と順調に流れて,20:40頃には搭乗することができた。機体はカンタスので,何となく安心感があるのがよかった。

ブリスベンに着いて入国手続きを終えたのは23:00近かったと思う。ゲートを出たところにあるフリーコールでY君が宿と交渉してくれた。最初狙っていたExplorer's Innは既にテープ応答になっていて駄目だったんだけれども,Kingsford Riverside Innという宿でシングル一部屋とダブル一部屋が取れた。シングルが65ドル,ダブルが80ドルだった。コーチでも1人当たり7ドルかかるので,約20ドルだというタクシーに3人で乗り,宿へ向かった(結局,22ドル50セントだった)。K先生にはシングルにお泊りいただいて,ぼくとY君がダブルの部屋をシェアした。Ascott Budget Innと似たような雰囲気の宿で,シャワーもトイレも共同だけれども,なかなか感じが良かった。眠かったんだけれども,シャワーを浴びたり荷物整理をしたりしていたので,眠ったのは1:00頃だったと思う。

ブリスベン発成田行き(2006年2月12日,日曜)

6:00に自然に目が覚めた。6:15に食堂に行くと,パンとかシリアルとかいったものが用意されていた。通常は6:30からのところ,チェックイン時に約束したとおり,ちゃんと15分早く準備してくれたのだ。たいしたおっちゃんだ。食後6:45,これもほぼ時間通りに来てくれたタクシーに乗って国際空港へ向かった。チェックインも無事に済み,土産を買った。ボーディングが予定より少し遅れたが,無事に離陸できた。機内食を食べた後,思い出しながら2月7日以降のメモを打っているんだけれども,なかなか思い出せない。

ふと気がつくと機内映画が上映されていたので見てしまった。いかにもアメリカンな予定調和的なオカルトラブストーリー。こういうのは水戸黄門みたいなものだな。それが終わったと思ったら「レジェンド・オブ・ゾロ」が始まった。へぇ,2本やるんだ。これも予定調和的なアメリカ映画。それなりに工夫はしてあるし,仕掛けはあるんだが,それだけ。時間の無駄だったかも。

2度目の機内食というか軽食を食べ,暫くこのメモを打ち続けているうちに成田が近づいてきたので,ここで一旦打ち止めることにする。火曜から金曜までの分が打てていないんだが,後でやろうと思う。


Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.

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