山口県立大学関連)| 看護学部 | 中澤 港

Sumba 2003

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2003. Last Update on September 29, 2003 (MON) 11:31 .

9月4日(木)

前夜から人類生態で記録用紙作成とJECHの査読完了・報告(webで),出発前に必要な数々のメール送信といった作業をしたので,睡眠時間は2時間しか取れなかった。が,前日まで長野で比較的ゆったりと過ごしていたので,元気は保たれている。

朝6:50頃夏原さんが来た。朝食をとる暇がないが,京成上野のアートコーヒーでパンでも買えばいいだろうと思い,その通りにした。大学から京成上野までは夏原さんの他に理学部人類の院生2人の合計4人でタクシーに乗っていったが,スムーズに進んだので初乗り料金しかかからなかった。スカイライナーに無事に全員乗り,日暮里から他の2人とも合流して,総勢6人が揃って成田空港第二ビルに着いた。前日送っておいた荷物を受け取り,チェックインである。かなり重い荷物が入っていたのでエクセスすれすれだったと思うが,なんとかなったようだ。ボーディングまで1時間以上あったので,2階の郵便局に行って現金を引き出したり(万が一デンパサールでATMが使えなかった場合に備えて),インドネシアのコンセント形状にあったアダプタが必要なので万能アダプタを買ったりして過ごした。我々が乗ったJALの飛行機の機体はB747だったので,エコノミーでも各座席に液晶ディスプレイがついていて,何種類もの映画が楽しめるのが良かった。PXC250を使うと周囲の雑音が気にならないレベルにまでカットされるので,「ザ・コア」には没入してしまった。「マトリックス・リローデッド」も見始めたのだが,睡魔に負けて途切れ途切れにしか記憶がないのが残念だ。もっとも,あの映画はきっちり全部見ても筋がわかるかどうか怪しいが。

Netcafe at Jakarta airport

ジャカルタでtransit(というか,機内清掃時間の待ち)の間に,空港内を見て回った。両替商で換金している人が多かったが,おそらくこれはうまくない。というのも,ここのレートが1円=68.5Rpと悪かったからである。経験からいうと,一般に空港内の両替商はレートが悪い。普通の銀行がいいのだが,今回のように銀行が開いていない時間しかいない場合は,ATMを使ってCITICARDで引き出すか,せめて銀行が近くにある市内の両替商を使う方がいいはずである。transitの待ちエリアには店がたくさんあって,喫茶店や免税店や土産物店が並んでいる。ネットカフェやSTARBUCKSまであった。こうやって待ち時間の間に観光客に金を使わせようという戦略なのだとしたら,なかなかうまい手だ。それにしても,これらの店ではRpでなくても米ドルも使えるようなので,何も無理に両替商を使わなくてもいいと思う。

ジャカルタ後は目が覚めたので,機内で人口学研究の査読完了。査読結果をテキストファイルとして打った。あとは,メールが使えるところに行き次第,これを添付してメールを送ればいい。ジャカルタからデンパサールまでは2時間弱のフライトで軽食も出るのだが,実に効率よく仕事ができた。

デンパサールの両替商は,ジャカルタの両替商よりもずっとレートがよかった。空港でも1円=70Rpだったし,ホテルの前の両替商に至っては1円=71Rpであった。ぼくはデンパサールの空港のATMでCITICARDで引き出したので為替相場そのままのはずだが。ちなみに空港のATMは通関前,Baggage Claimのところに4台並んでいて,どれでもCITICARDは使えるのだが,手前の3台は1回あたり60万Rpしか引き出せない。今回はいろいろ調査に必要なので15万円を換える必要があり,60万Rpずつでは18回も引出し作業をせねばならず,かなり面倒である。順番に機械を試していったら,一番奥のATMだけが選択肢も100万Rpまであったし,Othersを選んで入力したら200万Rpも1度で引き出せた。問題は,紙幣出口が狭いので200万Rpが5万Rp札で出てくると(インドネシアの紙幣には10万Rp札もあるらしいのだが,これらのATMは5万Rp札専用らしかった)詰まりそうになることだ。40枚は苦しい。危うく詰まらせるところだった。150万Rpなら大丈夫なので,たぶん,この機械で150万Rpずつ引き出していくのが,一番効率がいいだろうと思う。

デンパサールの入国審査は簡単に済み,通関も思ったより楽に済んで(大きな荷物の中身をチェックはされたが),無事にインドネシアの地に降り立つことができた。数日前にネットで予約したというホテル(Ramayana)の迎えの人はすぐに見つかり,送迎バスの後ろ半分を調査用の荷物で一杯にしながらも無事にホテルに着いた。皆ちょっと軽食だけでは空腹が満たされなかったので,ホテルのレストランでピザなどを食べた。ハワイアンピザのパイナップルが美味だった。ちょっとビールを飲んで眠くなったこともあり,また電話接続もベトナムみたいな簡単な方法はわからなかったので,X22をコンセントにつないで(成田で買ったばかりのプラグアダプタが早速役に立った)充電開始を見定めただけで,0:30頃シャワーを浴びて就寝した。パンツを洗って干したのだけれど,たぶん乾かないだろうなあ。

10157歩。

9月5日(金)

X22の時計が日本時間のままなのをすっかり忘れていて,6:10に起きるつもりだったのに5:10に起きてしまった。まあいいけど。今日も飛行機がかなり早い時刻にスンバ島へ飛ぶので,早めに朝食をとってホテルをチェックアウトしなくてはいけない。部屋にあった(信じがたいことに日本語の)説明書によれば,8:30から23:00までの間ならカウンターで申し込めばインターネット接続やFAX利用もできるらしいのだが,今回は時間があわないので,その恩恵に与ることができない。ともかく,6:30になったので,朝食をとることにしよう。

朝食はプールサイドのレストランに行って,チェックインのときに貰ったチケットを出すと,部屋番号を書いてサインするように言われるので,それさえすれば,後はバイキング形式でとり放題,食べ放題であった。炒飯やおかゆが美味だったので,かなり満腹になるまで食べてしまった。部屋に戻って,ふとテレビをつけたら,「ゲゲゲの鬼太郎」をローカルテレビ局でやっていた。もちろんインドネシア語である。何を言っているのかさっぱりわからないのだが,なかなか面白い。さて,もうすぐ8:00なのでチェックアウトできるようにしてロビーに向かおう。

Island with cliff Sumba Island

というわけで,急いでチェックアウトしたのだが,まず問題だったのは,なかなか空港まで送ってくれる車が来なかったことだ。我々の荷物が多すぎて,マイクロバスでは大変なので,荷物専用の車が手配できるのを待っていたら20分くらいかかった。空港に着いてみたら,Rescheduleとかで,9:45発の予定だった飛行機が11:30発に変わっていて,妙に時間が空いてしまったが,仕方ないのでとりあえずチェックインした。ここでも荷物が重すぎて,33 kg分のexcessを払わねばならなかった。チェックインした後の待合室にもやたらと売店があるのにも驚いたが,ともかく2時間くらいの暇つぶしをした。各人がばらばらのインドネシア語の本をもってきていて,大部分のメンバーはそれを開いてインドネシア語の勉強をしていたと思う。途中,今回のカウンターパートとなる(本来はマラリア調査をするグループらしい)大先生たちのグループがジョグジャカルタから飛んできたが,transitで乗り継ぐ予定の彼らが来た時刻からするとWaingapuに行く飛行機が9:45発だったはずはないので,時刻を前もって彼らに聞いておけばよかったかもしれないと思った。ともかくも暇つぶしが終わって飛行機に乗り,一息ついた。窓からの眺めは美しく(写真左はバリ島のすぐ東にある断崖絶壁のロンボク島南岸,右は赤茶けた大地に深い谷が刻まれたスンバ島西側),しばしこれまでの問題を忘れた。

ほっとしたのもつかの間,Waingapuに着くと,これまでで最大の問題が待っていた。我々の重すぎる荷物の半分くらいは,ダンボールに詰めた遠心器やトランスなどの調査に必要な機器なのだが,それが全部デンパサールに残っているのだという。カウンターパートの荷物も同様であった。何でも,荷物の総重量が重すぎるので積まなかったから,明日別送するというのだが,そんな重要なことを勝手に判断しないで欲しい。Merpatiという航空会社は信用できないと思ったが,他の会社も似たりよったりなのだろう。

気を取り直してホテルへのチェックイン後,まず昼食をとりに外に出た。すぐ近くにRUMAH MAKAN JAWA(ジャワ風食堂,というのだろうか)があって,米にいろいろなトッピングをするスタイルの,おかずかけご飯を食べた。日本人6人,カウンターパート6人,その他運転手なども一緒の大勢で行ったのだが,全員が入れる店があってよかった。その後,発電機と冷凍庫はこちらに着いてから買う予定だったので(一時は冷凍庫は日本で買って予め船便で送っておくという案もあったのだができなかったのだろう),いろいろな店を回って発電機と冷凍庫を探した。目をつけていた店が昼休み中らしかったので,先に他の店を車で回った。発電機も冷凍庫も,なかなかちょうどいいのがなかったのだが,とりあえず2種類ずつ候補が選べた(実際に買うのは明日の予定)。その後,前に来たときには冷凍庫はもっと小型のがあったはずだという話の,さっき昼休み中だった店に戻ってみたが,改装されているとかで,小型の冷凍庫はなかった。念のために少し歩いたが,その並びの店に小型の冷蔵庫があったくらいで,冷凍庫はなかった。この店では,驚いたことに,"With Love"の日本語版が流れていた。田中美里がウェディングドレス姿で竹之内豊を見つめて,「ハタさん,あなただったんですね……」といって見つめあう,ちょうど盛り上がる場面であった。何ともいえないが,何にもならない。その隣の店にコピー機があるのを見て出発前に半徹夜で作った記録用紙のコピーも必要だったことを思い出した。600人分作るのはかなり大変だと思うが,質問紙も一緒にコピーしなければならないので,明日の仕事となるらしい。

その後暫く休憩し,晩飯をとるため町に出た。露店はRUMAH MAKANとは言わないらしく,何とかMAKANと書いてあったが,ともかくホテルの裏手にある露店で晩飯を食べた。2種類しかメニューがないらしいのだが,MIE AYAMというのがラーメンみたいなもので,美味だった。炒飯も強い火力で米がパラッと炒められ,油もちゃんと飛んでいて,やや辛かったが美味だった。これで炒飯が1人前3500 Rp,MIE AYAMが2500 Rpというのは安いと思う(2500 Rpといえば35円くらいだから)。

そんなわけで,前途多難を予感させる一日であったが,終わりは良かった。寝る前に今日の日記を打っておこうと,テレビをつけながらX22を開いた。ここWaingapuではテレビは1つのチャンネルしか映らないのだが,hormovitonとかいうドリンク剤らしきもののCFにはのけぞった。男性用精力増強剤らしいのだが,あまりに表現が直截的すぎて,こんなものを茶の間で見ていたら困ってしまうんじゃないかと思った。もっとも,スンバ島の一般家庭にはテレビはなさそうな気がするが。

3661歩。ただし飛行機にチェックインするときの金属探知機ゲートを通るときに外して,そのまま昼食後まで忘れていたので,実際はたぶん倍くらいだろう。

9月6日(土)

6:30起床。朝飯は8:00からの予定だったので,昨夜打った日記にいくらか補足し,デジカメ写真を取り込んでみた。多少写りが悪くても加工すれば見られるようになるのがデジカメ写真の強みだ。

朝食は甘いトーストとコーヒー。昨日頼んでおいた通り,砂糖抜きになっている。ここのコーヒーは美味しい。昨夜,焙煎したて湯気が上がっている状態の豆を見て,自家焙煎だとわかっているから,多少はプラセボ効果もあるのかもしれないが。

making ikat

食後,買い物に出た。かなり値切る交渉をしたが,結局,610万Rp.で冷凍庫と発電機を買った。その後,水やトイレットペーパーなどを買ったり,昼食を食べてきたり(近所のRUMAH MAKAN "NATHAREH"という店で食べたが,なかなか美味だった),ガソリン(発電機用,PREMIUMというもの)のコンテナ2つを買ったり,そこにガソリンをフルに入れてもらったり(64リットルで12万Rpくらいだったと思う)しているうちに,またたく間に時間が経ち,13:30頃WAINGAPUを出て調査地PAUに向かった。2台の車で荷物はほぼ全部もち,日本人調査隊のうち4人が先行することになったのである。1時間半くらいで無事に到着した。PAUは昔からの王族が住んでいる村で,ikatという布織物が有名らしい。地球の歩き方にも載っていて,ときどき日本人観光客もくるとか。家ごとに布の模様が決まっていて,バスタオル大のものを織り上げるには3ヶ月くらいかかるそうだ。王族の家系の人にikatを織る作業を実演してもらった写真を右に示すが,かなりの重労働だと思う。

明後日からの健診場所となる小学校のチェックをしてから,車で5分ほどのところにあるMULOLOという町のロスメン(ゲストハウス)に行った。今夜から1週間はここに泊まるのである。いったん夕食に行ってから戻ってきたら,6つある部屋のうち,3つの電気がつかないことがわかった(ここは夜しか給電がないので,今までわからなかったのだ)。蛍光管を換えたり,白熱電球と取り替えてみたり,と管理人のお兄ちゃんがやってくれたが,どうしてもつかない。諦めかけたとき,管理人のお兄ちゃんがヒューズを取り替えてくれて,すべての部屋の電気がつくようになった。素晴らしい。とりあえず後は寝るだけなので,管理人のお兄ちゃんに頼んでコーヒーを持ってきてもらい,暫く来年の調査予定などを話した。後は水浴びをして歯磨きをして眠るだけである。

9296歩。

9月7日(日)

ロスメンの朝食は,砂糖無しコーヒー(Kopi TawarまたはKopi Tanpa Gulaという)が美味でパンは今一つ。

小学校に行って会場作りをしようと思ったが,会場が開いていなくて企画倒れ。バスに乗ってロスメンに帰り,暫く休んでから歩いて再び小学校に向かった。まず関山さんが泊まっている家で昼食をご馳走になって(ナスの唐辛子和えみたいな漬物みたいなものが素晴らしく美味),小学校に荷物を運び込んで会場設営をした。

校長先生から荷物番が必要だと言われたり,50メートル延長ケーブルでは足りなくて100メートルのを買ってきたり,発電機がうまく動かなかったり,といろいろな問題が起こったものの,最終的にはすべて解決してよかった。

ロスメンに戻って翌日使う分のチューブにマジックで番号を書き,眠りについたのは既に日付が変わった後だった。

14068歩。

9月8日(月)

測定開始。6:00に届くはずだった朝食は届かず。パンを買って済ます。でも車は時間通り来てくれて,6:30過ぎには小学校に着いた。

大先生の大演説のせいで,1人目が8:00過ぎから始まった。47人分の尿検査が終わったのは10:30過ぎくらいだったと思う(最後の1人がなければ10:00には尿検査は終わっていた)。その後代謝測定を手伝ったが,昼には終わった。終わらなかったのは血液処理で,血清分離用のチューブが長すぎたために遠心器が回らず,1度に4本しか回せない遠心器で処理せざるを得なくなったため,夕方までかかりそうだった。そこで,血液処理以外の人が先にロスメンに帰って水浴びとか洗濯とかしておくことにした。

企画は成功。ロスメンのオーナーがやっている店が村と反対方向にあって,冷たい飲み物とかも売られていることがわかった。仕事の後の1杯のビールはおいしい。夕食はいつもの店だが,今日はアジのような魚を焼いたものがでた。日々向上している気がする。

7237歩。

9月9日(火)

コーヒーを飲み,パンを食べて6:30に出発。今日はどうしても排尿を我慢できないという人がいたので,尿検査は7:00頃から。65人やったので,11:30頃終わったけれども非常に疲れた。その後は昨日と同じく代謝測定の手伝い。美味な昼食をとり,車が来るまで暫く時間つぶしをしてから宿に帰り着いたのは15:30頃だったか(車がパンクして修理したりしていたため)。水浴びをしたり洗濯をしたりし,暫く休んだ。皆でビールやコーラを飲んでいたら,いつの間にか見知らぬ少年が入り込んで瓶を集めていた。瓶は店に持っていくと金になるらしい。ある種の隙間産業だから,生態系でいえば屑食者のようなもので,存在してもいいと思うが,この少年にはちょっと問題があった。断っても入ってくるというのを別にしても,ガソリンが入ったペットボトルを口に当ててトリップしているのである。瓶を換金して食い扶持に当てているならいいのだが,ガソリンでトリップする金を提供するのはどう考えてもまずいので,厳しく断ることにした。実はこの少年はここらの有名人で,運転手やロスメンオーナーの店の人たちも皆知っていて,年中蹴飛ばされて追い払われているらしいことを後で知った。どうして自ら寿命を縮めるようなことをするのかわからないが,こういう人が存在できているということは,ここがそういう規模の町であることを物語っている。ロスメンも食堂も1軒ずつしかないらしいのだけれど。

18:00近くなったので夕食に出た。毎晩同じ店で食べているのだが,確実にメニューが進歩していて,今日はカニのスープが美味だった。明日も出すように頼んだのだが,出てくるだろうか?

7393歩。

9月10日(水)

目が覚めたら6:10だった。寝坊である。慌てて外に出てパンを食べ,コーヒーを飲みおわったら6:25だった。もう迎えの車が来る頃なので慌ててトイレに入り,荷物を準備しおわったら6:30を回っていて,他の人は皆,車に乗り込んだ後で気まずかった。

昨日と同じ頃に会場に着いたのだが,今日は排尿を我慢できない人は一人もいなくて,しかも受付でのペース設定がうまくいって,適度な間隔をおいて被験者が来たので,作業が快調だった。しかも34人しか来なかったので,9:00過ぎくらいには尿検査は終わってしまった。代謝測定の手伝いが終わったのも10:00過ぎくらいで,かなり余裕があった。

water buffalo and puddy field

11:30頃,煮干のような魚とインゲン豆のようなものの唐辛子和えらしいものを白米にかけた昼食をとってから,宿に帰ることになったが,昨日も一昨日も1万歩に達しなくて運動不足気味なので,歩いて帰ることにした。途中,水牛や耕作機械が置いてある水田のそばを通ったが,その景色が何とも言えず風情があった。

ロスメンに戻ってから暫く休んで水浴びをして,18:00近くなってから夕食に行った。昨日のお願いが通じたらしく,ちゃんとカニのスープが出てきたし,ヤギのスープも美味だった。と,そこにバイクの音がして,血相を変えた関山さんがやってきた。調査に借りている電圧安定器を返してあったのだが,それが焦げて壊れたというのだ。見ると確かにプラグが焦げていて,ソケットに挿すところが片方しかない。どこで壊れたのか(発電機は無事なのか)も気になったが,誰が壊したとかどうして壊れたとかはさておき,これがないと彼らはテレビが見られないし,明日の調査にも支障をきたす。コーヒーをまだ飲んでいなかったが,とりあえず店に行ってみようということで,夕食代を払ってみんなで店を出て,ロスメンの隣のロスメンオーナーがやっている店に行った。店にはプラグがあって,オーナーが「大丈夫大丈夫,これなら直せるよ」という感じで,焦げたプラグがつながっているコードを鋏で切って,手際よく新しいプラグをつないでくれたまでは良い感じだった。オーナーは,次にニコニコしながら,それをコンセントにつないでくれようとしたのだが,次の瞬間,突然安定器から手を離して床に落とした。びりっときたとか言っている。本来はここでぼくもオーナーの失敗に気がつくべきだったが,気が付かず,そのまま安定器をコンセントにつなぎ直して,「電気が通らないねえ」とか,ヒューズを換えてみて,「うーん,これでもダメだねえ」とか,検電ドライバーを安定器のソケットに入れてみて,「両方に電気がきているからダメだねえ」とか身振りで示してくれるので(本当はここで気づいても良かった),さては中でショートしたのかと思ってネジを外してみて,山ほど溜まった埃を掃除してもらったり,と1時間以上の試行錯誤の挙句,これはダメかと諦めかけた。そこへオーナーが呼んだ,電気器具の修理人という,やせ気味の男が,タバコをくゆらせながら登場した。彼はオーナーから症状を聞くと,すっとドライバーを取り上げて,一秒の迷いもなくプラグのネジを外しにかかった。何をするのだろうと見ていたら,ケーブルを切って,3本目の細いケーブルを取り出したのである。ここに至ってやっとダメな原因が理解できた。それまでプラグのソケットに挿すところが2本しかないので,てっきりケーブルは2本なのかと思っていたが,安定器のケーブルは,導電系が2本とアースが1本の3本からなっていて,ソケットに挿すところには導電系2本だけつないでは当然ダメで,導電系の1本とアースをつながなくてはいけないのだった。要するにオーナーがタコだったのである。タバコをくゆらせた流離いの修理人氏は手先があまり器用ではないらしく,失敗してはケーブルを切り直しながら作業して,最終的にソケットに挿すところの長さが違う仕上がりになったのが気になったが,きちんと機能したので,彼は我々の尊敬を集めたのであった。しかも,お礼を払おうとしたら,タバコがあればそれをくれればいいよ,とあくまで渋く決めてくれるのである。オーナーには替えプラグ代を支払ったので,それより多い額になればいいなあ,と思いつつ修理人氏にタバコを3箱進呈したところ,替えプラグが12000Rp.でタバコ3箱が18000Rp.だったので,めでたしめでたしとなった。

後は発電機の無事を確認せねばならない。ちょうどそこに我々が借り上げている車に乗ったドライバーが通りかかったので,小学校まで行ってもらうことにした。着いてみると,発電機には傷一つついていなくて,そこにいた若者たちに聞いてみると,プラグが焦げたのは家でのことだという。16:00頃焦げていたという話なので,てっきり発電機で遊んでショートさせたのかと思っていたが,家での事故なら17:00過ぎのはずである。ともかく,安定器オーナーにとってはテレビが見られるかどうかが問題のはずなので,家まで行って状況を見てみたら,4ソケットの分配器の1つのソケットが焦げていただけで,他はまったく無事だった。焦げたソケットは2度と使わないように言って,他のソケットにつないだら,無事にすべてが復旧した。とりあえず終わりよければすべてよしということにしよう。いろいろあったおかげで10626歩だったし。

9月11日(木)

5:45起床。昨日身体を動かした甲斐があったようで,安眠できた。朝食はいつもと同じ,マーガリンを塗ったパンとコーヒーと黄身が偏ったゆで卵であった。トイレに行って出てきたら,ちょうど車が来たので,今日はちょうどいいタイミングだったといえよう。

小学校に着いて,昨日までと同じように準備を始めたのだが,どうも対象者の集まりが悪い。遠くの集落からやってくるからという話だったが,実はそれだけでなくて,市場(pasar)が開かれるのが明日だけでなく今日もだから,そっちに行ってしまう人がいるということがわかった。仕方ないので来てくれた人だけでも調査して,残りは土曜日に頑張ろうということになった。最終的に23人だったので,昼食をはさんで,血液処理まで含めた全部の作業が13:30頃には終わってしまった。

cow and a girl

市場が開かれる様子を見てみたかったので,歩いて市場に行ってみようと思ったが,夕方にならないと開かないというので,暫く休むことにした。が,ふと気が付いたら16:30を過ぎていたので,慌てて水浴びをしてロスメンを出た。市場の正確な場所がわからないので,ともかく調査地と反対方向だということで歩いていったら,銀行があったり,タイル張りの格好いい店があったりして,実はこのMULOLOという町は結構な町なのだということがわかった。しかし,25分ほど歩くと,唐突に何もない,見渡す限りの野原と田んぼが広がる場所に出てしまった。牛を引いた少女が道端をのんびり歩いていたりするのが何ともいえぬ情緒に溢れていて,暫く見とれてしまった。

その先を歩いて,ともかく家が固まってみえるところまで歩こうと思ったのだが,途中で牛の大群に道をふさがれて,どうにも進めなくなってしまった。ちょうど牛の群れの向こうからバスがやってきたし,時刻も夕食時近かったので,これ幸いとバスに乗って帰ってきてしまった。歩くと35分かかった道も,バスだと(遠回りしたのに)10分もかからなかった。

夕食はいつもの店でいつものように。今日は頼んでいた小魚もロブスターのスープもなかったのだが,代わりにバナナが出た。ロスメンに戻ってからX22を開いてデータ入力を終え,日記を打ち終わったのは21:30を過ぎていた。今日は10426歩だった。

9月12日(金)

6:15起床。今日は休みなので,朝食後もゆっくりしている。8:30近いので,そろそろ村に向けて歩き出そうかと思っているところである。が,結局,先に市場までバスで行ってから,後で村に行って発電機に給油をして戻ってくることになった。

Mulolo Pasar

9:00過ぎにロスメンの前に出ると,ちょうど市場に行くというバスがやってきたので,皆で乗り込んだ。市場への道は,実は銀行を過ぎてすぐ右に曲がって丘を登っていかねばならないのだったが,距離はたいしたことはなかった。道を間違えなければ昨日も行けた筈だった。

市場には100軒くらいの出店があって,干し魚やコーヒーの生豆,バナナ揚げ,ナッツ,パン,あるいは衣類や帽子や財布などまで,いろいろなものが売られていた。1時間半くらい見て回って,ナッツと財布を買った。調査対象地の村からも,もちろん何人かが農産物を売りに来ていた。もちろん,特産品のikatという布織物も売りに来ていたはずだが,あまり目立たなかった。あれはたぶん町のホテル前や村で,観光客を相手に売るとか,まとめてバリ島まで売りに行くのが普通なのだろう。村に行く道は歩こうということになったが,MULOLOの町で昼近くなったので,食堂で昼食を先に済ませることにした。菓子パンを2つ食べたが,うち1つのモカ味の方にはキュウリとタマネギとニンジンらしきものを小さく切って唐辛子と酢で和えたものと,モヤシみたいな感じになっている発芽緑豆? と葉野菜の煮物を挟んで食べたら,意外に美味だった。

Pau dam King's Tomb at Pau

村まではバスで行く組と歩く組に分かれた。気温は高いのだが,風が心地よいので歩くのは快適だ。村に着いて,王族の家でお土産にするikatを何枚か買ってから,関山さんに村の中を案内してもらった。王家の墓の巨石に施された繊細な彫刻が目を引いたほか,村内の水路へ水を供給するためのダムがあって,オセアニアとは違うなあと思った。そうこうしているうちに14:00を過ぎたので,発電機への給油のために小学校に向かったが,既に給油してくれてあった。15:00過ぎに帰ろうとしたら,王族の車で送ってくれるというので,皆で車に乗ってロスメンに帰った。適度に歩いて疲れていたし,やるべきことはやったし,というわけで,当然のごとく夕方からビールを飲むことになった。

ビールを飲みながら,どういうわけか,光瀬龍「吹雪の虹」(徳間文庫)が回し読みされた。光瀬は1999年7月に亡くなっている,たぶん1960年代か70年代に多くのSF作品を書いていた作家だと思うが,これは青春恋愛小説らしい。基本的にキャラクタ造形が極端なのはさておき,台詞がほとんど冗談としか思えないセンスで書かれていて,もしかすると青春恋愛小説のパロディかとも思われるのだが,あとがきを読むと本気で書いていたらしい。「タリホー」(*)がごく一部で流行語になりそうな気がする。もっとも,若者の恋愛話などというものは大人になってみるとバカとしか思えない場合が多いわけで,例えばBig Wednesdayなどという映画も中学だか高校の頃にテレビで初めてみたときは物凄く感動した記憶があるのだが,いま見ると(ちょっと前にBS2でやっていたので懐かしくて録画したのを偶然X22に入れてあった),こんなバカ映画だったのかと呆れる。いや,もちろんベトナム戦争という背景や後半の展開,とくに青春への訣別の描き方の美しさは,やはり名作映画であって,「吹雪の虹」なんかと同列に論じたら失礼だと思うけれど,かつては髪型まで真似したマット・ジョンソン(ジャン・マイケル・ヴィンセント)も,少なくとも前半は,ただの視野の狭いモラトリアム青年にしか見えない。きっと青春なんてそんなものなのだろう。あるいは,自分が年をとっただけともいえるが。

(*) 調査地で騒いでいたときは知らなかったのだが,調べてみたら,「タリホー」はれっきとした英語なのだった。英辞郎によれば,tallyhoと綴り,「《間投》タリホー!,ホーホー!,《名》四頭立て大型馬車,《自動》タリホーと叫ぶ,ホーホーとかけ声をかける,《他動》タリホーと叫んでけしかける」という意味があるのだった。googleで検索したら,ハンティング用語で「獲物発見」の意味から転じて,戦争中「敵機発見」の意味で使われたと書かれているサイトもあった。なるほどねぇ。東北新幹線ができている時代の若者が使う言葉か? という疑念は感じるが,出鱈目ではなかったのだな。

よく歩いたので18442歩。

9月13日(土)

6:20起床。昨日は飲みすぎだった。

最終日のせいか,対象者が続々とやってきた。最終的に,この1日だけで73サンプルを処理した。昨日の不摂生のせいか,余計に疲れた。昼飯はサンマとサヨリの中間くらいの形をした魚を焼いたものが美味だった。インドネシアチームから借りている遠心器が壊れたこともあり(分解してみたらモーターがいかれていて途方にくれたのだが,よく調べてみたら日本から持参した遠心器のローターの深さに2種類あって,深い方ならこれまでインドネシア遠心器で回していたチューブも入ることがわかって問題解決した),会場の片づけを含めて,ここでやる作業が終了したのは17:00頃だったと思う。

ロスメンに戻って20分で荷造りを済ませ,小学校に戻って冷凍庫を含むすべての荷物を積み込み,3台の車を連ねてWAINGAPUに向かった。車の窓から日本とはやや違う星空が見え,暫くは天の川に見とれていたのだが(山口でも見えるけれど,ここの方が10倍くらいの星が見えるような気がした),途中で疲れて眠ってしまった。漸くSANDLEWOOD HOTEL(電話番号0386-21887。スンバ島は元々は白檀[sandalwood]で覆われた島として知られ,20世紀に乱伐したせいで今のようなに赤茶けた台地になってしまったらしいので,たぶんホテル名は白檀を示していると思うのだが,ホテルの入り口にかかっているスペルはこのようになっていた)に辿り着いたのは20:00頃だった。素早く荷物を部屋に入れ,近所の露店ラーメン屋(WARUNG MAKANというらしい)で晩飯を食べた。ビールもうまかったがラーメンもうまかった。

あまり歩いた気はしないのだが,9141歩。

9月14日(日)

6:30起床。昨日は酔って眠ってしまってデータ入力が途中だったため,7:30までかかって終わらせ,それから朝食をとった。ここの朝食は,相変わらず甘いホットサンドとコーヒーである。今日は14:00頃出発して,明日からの調査会場に機器をセッティングする予定だが,それまではとくにすることもないので,X22で仕事をしようと思う。

いつの間にか眠り込んでしまったため,結局あまり仕事はできないままに昼食の時間になった。先週行ったRUMAH MAKAN JAWAで,先週と同じようなおかずをかけたご飯を食べた。しかしさすがにビールは避けて,オレンジジュースのようなものを飲んだのは正解だった。食後まもなく調査会場に向かう車に乗ったのだが,25分あまりくねくねと曲がりくねった,しかもアップダウンの激しい道を通ったので,たぶんビールを飲んでいたら気分が悪くなっていたに違いない。セッティングは予定通りできて,16:30くらいにはWAINGAPUに帰り着いた。30分ほど休んでマーケットに行き,ピーナッツとコーヒー豆を買って,WARTELという電話局に行った。今回の調査で使った遠心器とトランスは来年まで使わないので,調査が終わってからソロモン諸島に船便で送っておきたいということで,メンダナホテルの人に受け取ってくれるようにお願いしたのである。WARTELからの国際電話は001に続けて国番号から打つだけなので,メンダナホテルへは00167720071とボタンを押せばつながって簡単だった。支配人が快諾してくれたので,3分20秒話して18200ルピア使った甲斐は十分にあったといえよう。宿に戻って,いったんは21:00頃ピーナッツを煎ってくれと頼んだのだが,17:00頃酒盛りになってしまったので,頼みなおした。煎りたてのピーナッツは美味だった。

Coffee beansCoffee cup

そういえば,MULOLOでもそうだったが,こちらの市場(Pasar)では,コーヒーの生豆が普通に売られていて,どの家でも,それを買ってきて自宅焙煎しているらしい。もちろんスンバ島で栽培されているのだが,主に西スンバでしか作られていなくて,東スンバの人たちは市場で買うのが普通らしい。生豆の値段は小さめのホーローびきのボウルまたはガラスの深皿1杯,たぶん300グラムくらいで3000 Rp,1 kgで8000 Rpというのが相場のようだ。8000 Rpというと,だいたい115円くらいだから,日本の感覚からしたら相当に安い。村では薪を燃やしてフライパンのようなものを載せて炒る家が多いように感じたが,WAINGAPUのホテルではガソリンストーブで炒っていて(焙煎後の冷却は笊に広げて室温放置なのだが,このときに立ち上る香りがすばらしかった),買ってきた生豆を炒ってくれるように頼んだら,燃料代として5000 Rpを要求された。生豆のまま日本に持ち帰ろうかという気もしないでもなかったが,植物検疫を通ることを考えると面倒だったので炒ってもらった。密閉する容器も必要だったので近くの雑貨店で比較的大きなものを買ったら15000 Rpしたので,合計すると1 kgで28000 Rpの豆になってしまった(400円と考えれば安いんだが)。こちらの人は,自宅焙煎した豆を搗いたり挽いたりして極限まで細かい粉状にし,それを砂糖と一緒に厚手のガラスのコップ(とかいうとテイスティングカップが思い出されるが,あれは実際こういうものなのだろうか?)に入れて,上から熱湯を注ぎ,スプーンでかき混ぜて暫く待ってから上澄みを飲む(Kopi susuのときは飲む前に缶詰の練乳も入れる)のだが,実に美味いし,香りも素晴らしい。日本に帰ってから中挽きにしてペーパードリップして飲むのが楽しみだ。ちなみに,砂糖無しのコーヒーは,Kopi tanpa gulaとか,Kopi tawarとかいうのだが,tanpa gulaはgulaが砂糖,tanpaが〜無しでという意味でわかりやすいのだが,tawarは,イラストを指して意思疎通をはかることを意図して作られたらしいインドネシア語の本によると,「まずい」という意味もあって,あまり使わない方がいいとのこと。最初それに気づかずにtawar,tawarと言っていて,ちょっと後悔したのだが,別に現地の人たちも悪くは思っていなかったようだから,たぶんKopi tawarという言い方も普通にあるのだろう。絶望的に暑い中で仕事をした後に飲むコーヒーは,たしかに砂糖入りの方が美味いような気がしたから,砂糖無しがtawarというのは納得がいく。

晩飯は昨日の露店のラーメン屋は閉まっていたので,別の(デンパサールからWAINGAPUに着いた日に行った)露店ラーメン屋に行ったが,まあそれなりに美味だった。帰りにインドネシア語と英語の双方向辞書を3万Rp.で買った。文法の解説などもあって,なかなか使えると思う。7268歩。

9月15日(月)

6:00出発のため5:30起床。が,トイレに入ったり,コンピュータを片付けたりしているうちに5:55となってしまい,慌ててパンだけ貰って出発。大きめの車なのだが,9人乗りだと結構きつい。6:30頃会場に着いて,7:00過ぎに測定開始したのだが,20人来たところでパタッと参加者の出足が止まってしまった。そのまま9:00を過ぎたので尿試験紙リーダーの清掃を済ませ,代謝測定の手伝いに回った。暫くして,7人着いたので追加するという話になり,再び尿試験紙リーダーを起動して測定を再開した。ここでの初日のせいもあると思うが,こういう風に間欠泉のような来方をされると,やや効率が悪い。それでも,血液処理も含めてすべての作業が12:00過ぎには終わってしまったから,やはり27人は少なかったと思う。明日からは増えるだろうか。

昼食は保健センターのようなところで,焼きそばと野菜炒めとバナナと赤飯。赤飯というのは本当に赤飯で,米と小豆を炊いたものが出た。この辺りでは食べるのだそうだ。そういえば市場にも小豆が売られていたが,こうやって食べるのか。

宿に戻ってからは,今日こそはネット接続を試したいと思っていたのだが,15:00くらいまでは疲れて昼寝をしてしまい,その後市場を冷やかしに出て,帰ってきてからX22でオセアニア学会の書類作成をしたので,18:20現在,まだできていない。もっとも,ここの電話料金には夜間割引があるそうなので,ネット接続するなら夜の方がよさそうだから,晩飯を食べた後で挑戦したいと思う。

さて,そういうわけで晩飯を"NATHAREH"で食べた後にネット接続に挑戦したのだが,インドネシア中共通で通話料に使用料が含まれた形で使える,登録不要の番号(080-989-999,市外局番を080にして,番号を989999にする。userはtelkomnet@instan,passwordはtelkomである。実は「地球の歩き方」にも載っていた)には,SANDLEWOOD HOTELのロビーからはかからなかった。トーンでいいらしいのだが,念のためパルスでもやってみたがダメだった。明日の夜もう一度試してみて,それでもダメならWARTELでも聞いてみようと思う。

後は今日の分のデータ入力をしてから眠る予定。今日は7747歩だった。

9月16日(火)

5:20起床。トイレに入って水浴びをしてから,いつものホットサンドとコーヒーを食べて出発。参加者が多かったこともあるが,最初の方で来る順番がバラバラだった(尿検査は受付の次なのだが,受付を済ませて採尿コップを貰ってから出ないので出るまで待ってくれとかいう人が大勢いてそういう事態になった)ため,よけいに疲れた。しかし,62人の参加者に対して,10:00前に尿検査はすべて終わった。その後,代謝測定の手伝いや,サンプル容器へのナンバリングなどをしているうちに12:00になった。昼食をとりにいったら,主食は昨日と同じ赤飯だったが,おかずはすべて昨日と違っていた。凄いサービスだ。ここの食事は保健センターのようなところで保健師のような仕事をしている人が作ってくれるのだが(この人の親戚も何人も動員して,調査参加者へのお礼としての食事も作ってもらっているが,我々への昼食メニューは参加者へのお礼の食事とはまた違うのだ),ここまでサービスしてもらってしまうのは気が引ける。……などといいながら,今日のおかずに出てきた鶏スープは3杯もおかわりしてしまったのだけれど。

丘の上からのWAINGAPUの眺め

食後も,血液処理が完了する14:30過ぎまでは明日の準備も兼ねて記録の転記やナンバリングなどの作業。その後,明日の対象者が住んでいる山の上の村まで行ってみるグループと,車で宿に帰るグループと2手に分かれることになったので,山の上に行ってみた。往復約13000歩は大した距離ではないのだが,崖のようなところをサンダルで降りるのはちょっと緊張した。それでも,山の上から海を臨む眺望はすばらしく,疲れが吹き飛んだ。山の上の集落は電気も通っていないところなのだが,明日の朝はここの人たちが調査に参加してくれるために降りてきてくれることになっている。ありがたいことだ。もっとも,小学校に通うために海沿いにまで毎日往復してきた人たちだから,我々が感じるほどは,彼らは距離感を感じていないかもしれない。保健センターのようなところまで歩いて戻り,そこから車で宿に戻って飲んだBIR BINTANGは美味かった。晩飯は土曜にも行ったWARUNG MAKANでラーメンを食べたが,これも美味かった。2杯も食べてしまった。

宿に戻ったのは20:00頃だったか? 昨夜に続いてメールに挑戦したら,どういうわけか今夜は一発でつながった。50 kbpsも出ていたのは,なかなかのものだ。しかし山口県立大のメインサーバが応答してくれない。個人サーバにはつながるので,そこからpingをかけたら生きていることはわかったが,ファイアウォールの設定が厳しくなったのか,POP3接続がどうしてもできない。ウェブメールもサーバに入れない。インドネシアに来る前に,メインサーバに来たメールは個人サーバにも自動転送されるように設定しておいたので,仕方ないので個人サーバのメールを受けてみることにしたら,1685通も溜まっていて,300通余り受信したところで30分もかかっていたので,このままでは2時間半も電話を占領することになると予想されたので受信を中断した。メインサーバから送信したいメールが2通あるのだが,この調子では日本に帰ってからやるしかないだろうな。18041歩。

9月17日(水)

今日は10時まで尿検査をしてから飛行場に向かう予定である。バリ島に飛んで,数時間待ってから日本に向かうのである。本当は調査途中なのだが,ぼくは20日に山口で外せない仕事があるので早く帰国しなくてはならないのだ。残念だがしかたがない。

今日は73人という多数の参加者のため,ペース配分は適度だったけれど,大変に疲れた。測定が終わった時点で10:10になっていた。今日ジャワ島に戻るという最後に残ったカウンタパートの女性もほとんど同じ時刻の飛行機(但しあちらはMerpatiでなく新しい会社のジェット機だという)に乗るので,一緒に急いで車に乗り,ホテルに戻って荷物をとってチェックアウトし,再び車に乗って空港に向かった。が,急ぎすぎたおかげで空港に着いたのが11:00前で,まだMerpatiの係員がいなかった。しかたないのでCoffee Creamという名前の,ミルクコーヒーソーダの缶を買って飲んだ。カウンタパートの女性と車の運転手と一緒にだらーっとして暇つぶしをしていたら,11:10頃Merpatiの係員が来たのでチェックイン手続きをしたら,ボーディングパスの番号が1番だった。国内線の空港使用料は6000Rp.であり,別のカウンターでそれも払った。このWaingapuからDenpasarへのMerpatiのボーディングパスは,妙なことにプラスティック製で,ボーディングのときに係員に渡してしまうので,半券がない。席はセスナ並みに自由席であった。来るときのことがあったので,荷物を全部機内持ち込みにしたら,さすがに登山用のザックの方は頭上のトランクに入らず,機内後部の収納に入れてもらうことになった。おかげで(と思うことにしよう)無事にデンパサールまで荷物を運べた。

デンパサールに着いてからは,教えてもらった通り,ゲートを出て左側のタクシー券販売所でKuta Centerまでのチケットを買った。25000ルピアだった。無事にCenterに着いたのだが,あまりウィンドーショッピングしようという気はなかったので,とりあえず頼まれていた料理の本とコーヒー豆が買えればいいかと思っていた。ザックを背負ったままで歩いていると,「タクシー?」とか「安いホテルあるよ!」(嫌なことに日本語で)とかいう声をかけてくる人が山ほどいるのが鬱陶しい。時々「どこいくの?」とか「東京から?」とか言いながら(もちろんこれも日本語で),こちらが「No!」とか「Tidak!」と言って手振りでも追い払うのを物ともせずにずっとくっついてくる強者がいるのは,さすがバリ島である。店に入ると振り払えるので,機内食が少ししかでなかったこともあって,Pizza Hatに入った。パイナップルジュースと鶏肉のピザ1個を頼んだら,どちらも美味しかったのだが,パイナップルジュースの方にラベルの断片かと思われるプラスティックの破片がいくつか入っていて閉口した。一瞬,文句を言って替えてもらおうかとも思ったが,面倒なのでそのまま破片をよりわけて飲んだ。Pizza Hatみたいな店でも精算は店員を呼んでBillを貰い,出口で払うことになっているようだ。支払いは2万Rp.もしなかった。

とりあえずピザのおかげで元気が出てきたので,Matahariデパートまで行って,4階の本屋で料理の本を買い(ついでにコーヒーの本も買い),1階のスーパーでコーヒー豆とチョコレートを買った。とりあえずこれですべての用は済んだので,Blue Bird Groupのタクシーをつかまえようと思ったが,こういうときに限ってなかなか来ないので,またぞろ客引き兄ちゃんがたかってくるのである。振り切るためにケンタッキーフライドチキンの隣のオープンタイプのカフェに入ってアイスコーヒー(es kopi susu tanpa gula)を頼んだら,6000 Rp.でなかなかおいしかった。風があるのでクーラーなどいらないし。他に客がいなかったので,カフェの中で暇そうにしていた,ケンタッキーで日本人を案内する仕事を12年しているという兄ちゃんと暫く喋った。こちらが片言のインドネシア語で喋り,あちらが片言の日本語で喋るのだが,わからなくなると英語で意思疎通をするという,なかなか面白いコミュニケーションであった。このカフェはケンタッキーと同じ企業グループに属していて併設されているのだが,経営は別だそうである。デンパサール近辺だけでもケンタッキーは何軒もあるので,この兄ちゃんはそれらの店で仕事をするために,日本語学校にも3ヶ月通ったとのことだった。それでペイするほど,日本人観光客が多いということだろう。

ちょうどコーヒーを飲み終わったときに,Blue Bird Groupのタクシーが何台も通っていったので,兄ちゃんに別れを告げて店を出た。タクシーに乗ろうとしたのだが,エアポートなら5000 Rp.で行ってやるよ,あまった金で酒でも飲んだらどうだい,というバイク便の客引きが引き止めるので弱った。最終的に振り切ったのだが,とても物悲しそうな顔をするので,何か悪いことをしたような気分がした。タクシーで空港までは,メーターは12500 Rp.だった。空港内に入るのに1500 Rp.かかるというので,2万Rp.出したら,5000 Rp.しかお釣りをくれなかった。面倒なのでそれでいいことにしたが,本当は粘った方がいいのかもしれない。

その後は空港の建物に入って,コーヒーを飲んだり,昨日と今日の分のデータ入力をしたり(ついでに今日までの分の尿検査データをざっと分析してみたのだが,WatuhadaとKutaの間に統計的な差はなかった。また,他では見られないような特徴がいろいろあって,Sumbaの地域性とつながれば人類生態学的には興味深い研究になるかもしれないと思った。調査で得られた他のデータ,とくに食事調査結果とくっつけて分析すべきだろう),この文章を打ったりして暇をつぶした。ふと気が付いてみたら9万Rp.しか残っていなかったのだが,空港使用料がInternationalでは10万Rp.かかるので,両替所で2000円両替した(ここではレートが1円=70Rp.なので14万Rp.になった。Kutaの町では1円=72Rp.のところが多かったので,あっちで替えるか,またはATMを使うべきだったかもしれない。国際線の乗り場の近くにはCITICARDが使えるATMは見つからなかった。Arrivalの方も建物内にはあるのだが,外には2つしかなくて,どちらもCITICARDは跳ねられてしまった)。そうこうしているうちに20:00を過ぎ,JALのチェックイン手続きが始まったようなので,この記録を終えたいと思う。忙しかったが,なかなか面白い調査旅行だった。

最終日は11658歩。


Correspondence to: minato@ypu.jp.

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