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人類生態学の視点からみた遺伝子組換え技術

Last updated on January 5, 2007 (FRI) 11:37 (リンク先を修正).

この文書は,2000年3月27日に名古屋で行われた学際シンポジウム「遺伝子組換え作物をめぐる諸問題と政治・経済・社会」での中澤 港の発表概要(というか,案だったもの。当日割愛したことも含む)である。他の方の発表内容については,[Bluesky: 1633]として感想付きでレポートしたので,併せて参照されたい。

2001年5月以降,基本的に内容は変更していないが,2003年に山口県立大学のサイトに移設したことに伴い,書式やリンク先を若干変更し,若干追記した。


イントロ

自己紹介。遺伝子組換え技術については素人に近いのだが,青空メーリングリストがきっかけで呼ばれたのだと思う,という話。

(注)青空MLには,用語と議論のまとめのページに,遺伝子組換えのまとめがあり,Namazuによる全文検索で「遺伝子組換え」を検索すると,2003年1月20日現在,72件ヒットする。参考になると思う。

問題設定
〜なぜ人類生態学の視点から見るのか〜

遺伝子組換え技術は,生産,流通,消費という商品経済の流れの中で,しかもその1つの局面についてのみ語られることが多い。代表的な遺伝子組換え作物の1つであるBtトウモロコシの利点は,生産段階で農薬消費量を減らすことができる点にあり,それに反対するのは,標的でない昆虫までも殺してしまうような危険な可能性があるものは食べたくないという消費段階での理由,あるいは組換え品種の遺伝子が交雑によって広まってしまうことによる生態影響への懸念という生産段階での理由が主である。フレイバーセイバートマトを推進する利点は主に流通段階にあり,ラウンドアップ耐性ダイズをラウンドアップとセットで使うことは生産地を拡大するのに役立つという生産段階での理由付けがなされる。ターミネータ技術への反対は,生態影響という生産段階での懸念に加え,巨大企業による種子の寡占と,それによる生産の支配に基づく,搾取的流通の構造化を懸念してのものが主である(安全性論議に限っても,組換え賛成派,反対派の双方で局面の違う点を論じていることがあり,それでは議論がすれ違いに終わるのは当然である。)

しかしちょっと待って欲しい。これらの事象は独立したものではない。生産者だってトウモロコシは食べるし,ラウンドアップを使われる農地の近くに住んでいる消費者もいる。これらは相互につながっているので,切り離して考えてはいけないのである。この学際シンポジウムに,遺伝子組換えにはほとんど素人も同然のぼくをシンポジストとしてお招きいただいた理由も,その辺りを論じることにあるのではないかと思う。

人類生態学は,ヒトの生存を,言語,社会組織,技術などを通した自然環境との相互作用を含めて,ヒト=生態系という視点で包括的に理解することを目指す学問である。ヒトが生きるときには,自然環境に働きかけ,そこから資源や食べ物を取り出して使い,使い残りを自然環境に排出するわけだが,言語を通して自然環境を認識し,言語を通して構築した社会組織により,言語によって集積されてきた技術を運用して,この働きかけは行われる。この視点で考えると,新しい技術の導入は,ヒトの生存の仕方全体に影響する。このことは,例えば,蒸気機関の導入が,第二次産業を進展させただけでなく,大規模な流通を可能にして商品経済が発展する素地を作ったことを考えれば明らかであろう。

本来は定量的なデータに基づいて推論や仮説検証をするのだが,遺伝子組換えというトピックについて,ぼくは定量的データを持ち合わせていないので,パースペクティヴの提示にとどめる。

地域生態系にとっての技術を考える
〜自給自足農業の特徴〜

人類生態学が対象とするヒト=生態系は,まずは地域生態系を考えるが,現代の国際物流や情報の流れを考えれば,地域生態系だけでなく,その相互のつながりも考慮する必要がある。もっとも,いわゆる途上国をみれば,商品経済から外れた自家消費のための,流通を伴わない生産,つまり自給自足をしている地域社会がかなりの部分を占める。さすがに完全な狩猟採集民や遊牧民は少ないが,自給自足農業を行う集団はまだ多い。そこでは主食となる作物はその地域の自然環境条件に適した,持続的に生産可能な形で栽培され,物流に載せるための商品作物が入ってきても,主食とはまったく別のものとして扱われる。

世界を見渡すと,多くの自給自足農業に共通してみられる現象が3つあげられる。第一に,主食となる作物の品種が多いということがある。これは,認知分類あるいは機能分類に基づく緩やかな人為選択によって,希な突然変異が保存されやすくなってきたということである。パプアニューギニアを例にとれば,高地では何十種類ものサツマイモがあるし,低地や島嶼部では何十種類ものヤムイモがある。アンデスでは百種類以上のジャガイモが存在する。メキシコのトマトもそうだし,北タイの陸稲,西アジアのナツメヤシなど,枚挙に暇がない。第二は,農耕の集約度が低いということである。このことによって,畑の畝の間や田圃の畦に,野生有用植物を維持する余裕があった。日本の田圃の畦に,かつては普通に見られたダイズなど,この範疇に入れてよいかもしれない。(商品経済の浸透によって,現金収入を得るためにモノカルチュアのプランテーションに移行してしまった場所では,伝統的に維持されてきたこれらの作物が消滅してしまった例もある。)第三に,作付けされている品種の創出が生産者自身の手になる,ということである。現代先進国では既に生産者と育種者は乖離しているが,伝統社会での従来型育種(突然変異の発見,交雑,隔離)によって主食の多様な品種を維持してきたのは,生産者自身である(例えば,重田眞義さんが報告するアリの人びとによるエンセーテの育種)。遺伝子組換え作物の場合,育種を生産者自身がするのは不可能である。認知選択にせよ実用選択にせよ,選択権が生産者にあるかどうかは大きい。

これら3つにつけくわえるとすれば,長期にわたる共進化の結果として,ヒトの側でも適応が起こっている場合が多いことがあげられる。遺伝と文化の共進化(eg. 乳牛飼養とラクトース耐性,マラリア流行地でのG6PD欠損とフェイバ豆栽培,マラリア流行地での鎌型赤血球貧血とビターキャッサバ栽培……後2者については「ヒトとマラリア」=『マラリア』の第4章=に詳しく書いた)には長い時間が必要である。MDAや蚊帳配布や殺虫剤散布やワクチン(もし開発されれば)によるマラリアコントロールが急激になされれば特定遺伝子頻度がさがってゆくだろう。そうすると別の疾患が代償的に(感染症コントロール後に生活習慣病が増えるのと同じ意味で)主となる可能性がある。仮にマラリア原虫攻撃に効率の良いフェイバ豆やビターキャッサバを組換えで作ったらどうなるか? 麻疹ワクチンを組み込んだ作物というのと同じ問題として,コントロールした後はどうなるのか,ということも考えねばならない。マラリアがなければ(あるいは,かかっていないヒトには),イソウラミルやら青酸配糖体やら入っていない食べ物の方が好ましい。

自給自足農業にとって,実は,遺伝子組換え作物かどうかというのは本質的な問題ではないかもしれない。従来型の交配によってできたものでも,ハイブリッドココナッツ(ココヤシの交雑種)は,いかに丈が低く収穫が容易であっても,実生による継代が不可能なために,パプアニューギニアのココナツミルクを料理に日常的に使っている人たちはきわめて限られたところにしか植え付けない。ソロモン諸島でもスイカの種は買ってきて植え,食べた後の種を再利用することはほとんどしないが,主食であるサツマイモや,行事食として重要な意味をもつヤムイモの種芋は,自分たちで管理している。ただし商品経済が拡大すると,結果的に米やパンやラーメンを買って食べるようになってしまう場合もあり,そうすると主食生産地が縮小されていくことになる。そうなってから何らかの事情で流通が切れてしまうと,食料が足りなくなる可能性がある。ソロモン諸島では実際にそうなった地域があり,伝聞によれば住民はその土地を放棄したとのことである。イモを再び植えればいいではないかという考え方もあるが,植えてから収穫までのタイムラグの問題のみならず,米やパンやラーメンの味を一度覚えてしまった人びとは,それなしの食生活に戻ることには大きな困難を感じるのである。

都市住民にとっての組換え作物

都市住民は,基本的に食糧生産をしていない。大規模流通によって初めて生存が可能になっている。その点は,乱暴な言い方をすれば,難民と共通である。一方,飢餓の危険に曝されているとされる人びとへの国際援助(食糧,医療)は人口を増加させ,さらなる食糧需要を生んでもいるという一面もある(自己家畜化の外在化といえるかもしれない?)。

一方,組換え作物の安全性に疑問を感じる反対派の多くは,都市住民であるように思う。これには,技術不信という一面がある。現代の先進国の社会における技術への不信感には,経験知と先端技術の乖離,という理由もある。その意味では,生産の現場が生活から離れてしまったことも,組換え作物への漠然とした不安の一因である。ちなみに,トマトが中南米からヨーロッパにもちこまれてから,それを食べるようになったのは,生産が可能だったイタリアや南仏では早かったが,寒くて生産ができなかったイギリスや北フランスでは「毒がある」という風評が流れ,遅かったそうである(出典:橘みのり「トマトが野菜になった日」草思社1999)。また,放射性廃棄物や廃炉の完全な処理を達成する前に推進されてきた原子力や,難分解性であることの生態影響を考えずに広汎に利用されてしまったPCBなどという経験から,我々は,「新技術の実用化を焦るのは,技術者魂(〜先駆的好奇心)であると同時に,市場原理の要請であり,それは往々にして意図した用途を達成するという一面しか考えていない」ということを学んできた。これも技術不信の一因であろう。

LCA (Life Cycle Assessment)を無視した市場原理は,今後は許されなくなるだろうし,生物である作物のLCAといったら,人工物のそれに比べて,継代などという面倒なことを評価せねばならないし,タイムスパンが長いし,空間的広がりも大きいから,経験知によるブレーキには一理ある。単純化していってしまえば,副作用や用途を終えた後の廃棄物処理への配慮が甘いということである。

しかし,一般には,スーパーなどで安売り食品が売れることを考えればわかるように,安いものが多量に売れるという現実がある。つまり,生産コストと流通コスト,補助金などを含めて安くできるなら一般には売れる。いったんできたシステムには慣性があるので,一時的に損をしても長期的に見た収益で動く企業はありうる。一方では,エコ産業,差別化による付加価値という可能性もある。隙間産業の存在する余地は,市場経済の元であれば,ヒトの欲求が多様である以上,必ず存在する。これが結果的に国内生産地を拡大するなら物流依存性が低くなるので,エネルギー的には無駄は減るが,市場経済原理が市民の行動決定原理になっていて,現在のような安価大容量の流通システムが維持されている限り,そうはならないだろうと思われる。つまり流通は大きな鍵である。

(注)ただし,59円ハンバーガーの売れ行きが,当初マクドナルド社が期待したほど伸びず,かなりの店舗を減らさざるをえなかったことからも見られるように,既に「安ければ売れる」という状況は,減りつつあると思われる。その意味で,BSE問題は一つのターニングポイントだったかもしれない(このことは,エリック・シュローサー「ファストフードと狂牛病」草思社でも指摘されている)。

都市への食糧供給者(商品作物生産者)にとっての組換え技術

一番わかりにくいところである。選択肢の幅が広いため。市場経済であれば,生産は「儲かればよい」のだろうが,流通への依存度が高まることが安定な戦略とは限らない。EMボカシが流行るような現象は,論理のみではない証拠。農協や政治やバイオ企業など,プレイヤーが多いので複雑になる。しかし,それだけに決定的な鍵を握っているかもしれない。

(注)今後トレーサビリティシステムが一般化すると,生産と消費の距離が(少なくとも情報としては)近くなると考えられる。その場合,生産者と消費者をひっくるめた状況が,自給自足農民に近づく可能性もあると思う。

技術開発者(バイオ企業)にとっての遺伝子組換え技術

遺伝子組換え技術そのものは,狙った遺伝子を確実に発現させることができるという意味では,従来の育種よりも確実に,有用な形質をもった家畜や作物を得ることを可能にした。このことは開発そのもののコストを下げる以上に,開発速度を上げることに寄与する点が重要である。市場原理の下では,他社よりも速く開発することが利潤を生む。

しかし,狙っていない遺伝子にまで影響がでるかどうかについては,十分な検討がなされないままに実用化されてしまった(昭和電工トリプトファン事件とか,BTトウモロコシをオオカバマダラが食べても死んでしまうとか。たぶんゲノムシーケンスを調べて予想外のエクソンができないかということ,あるいは新しい物質がその生物の代謝系に入り込んだことの副作用をチェックする必要があり,これはゲノム科学の進歩によってクリアされるかもしれないが,現状で本気でこれをやろうと思ったら,HPLCなどで予想外の物質ができていないかを確かめねばならず,いわゆる環境ホルモンという現象やプリオンの存在がわかったことによって極微量の存在確認が要求され,それには天文学的な時間と手間がかかるため,適当にしかやられていない。もっとも,その点は従来型の育種でも同じなのだが,予想外の物質ができてしまう確率は,メカニズムから考えるに,従来型の育種の方が低いように思う。また,何が入っているかわからないという意味では自然の食べ物も同じなのだが,自然の食べ物の場合はヒトを使った長期間の実験で検証されているともいえるし,ヒトの側が適応してきた側面もあるので同列には扱えない)。生態系との相互作用についてもほとんど検討されないままに実用化されている(Btトウモロコシ(開発したのはノバルティス社)がBT毒素を長期間産生するために,細菌としてのBtが産生する(細菌としてのBtは有機農法でも使われている)よりも多量のBtが環境中にでていき,害虫の側でもBtに曝露する機会が増えて耐性種が出現しやすいとか,近縁種との自然交配による遺伝子汚染とか,組換え生物が優占種となることによる土着種の絶滅とか。もともとその種がもっていた遺伝子の組み合わせを変えたり,突然変異で生じた有用な形質を人為選択するという従来型の育種に比べ,ベクターに必要な遺伝子(とちょっとしたゴミ)を運ばせる組換え技術は,進化速度を速める可能性があり,生態系全体としての遷移が追いつけずにバランスを崩す可能性がある。たとえ農地生態系であったとしても。こちらの評価はずっと難しいし,時間もかかる)。

役に立つからといって,副作用や副産物をどうするかといった点を十分考えずに実用してしまうのは,原子力発電などと同じく,人類の文明にはよくあることである。ドーキンスが人間にだけ予測能力があるといったが,なんとも不十分な予測能力といえよう。しかし,それではまずいということが徐々に認知されるようになってきたので,LCAとかシミュレーション予測とかいったことが要求されるのが今後の社会である。

しかし,新しい技術を開発するのは脳化による人間の本性であるところの知的好奇心の発露なので,技術開発そのものが止まるわけはない。

言いたいことは,ここで説明したようなさまざまな立場の集団をすべてひっくるめて,現在の世界が構成されているということである。一つの立場だけで何かを主張して受け入れられようというのは甘くて,多様な立場でのメリット・デメリット論を摺り合わせる必要があるのだと思う。


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