枕草子 (My Favorite Things)

【第22回】 書評という行為(1998年4月19日)

昨日は,高校の同級会があり,久々に酒を飲んだ。50人のクラスで,30人以上の出席があったのは,卒業後15年という節目だったからか,それとも年をとったということだろうか。みんな(外見は変わった奴もいたけれど)基本的に変わっていないのに驚いた。誰かが言ったことだが,「我々の人格は18の時点で既にほぼ完成していた」ということか。高校の正門のまん前にある中華料理屋で行われたのだが,最後に出てきた担々麺(漢字で書こうとしてどういう字だったか覚えていないことに思い至り,検索してしまったが,坦々麺という誤変換が多くて面白かった。でも何で担々麺というのだろう?)が昔と同じ味だったことに妙な感慨を覚えたりした。

さて本題の書評である。ぼくは高校生の頃から「読書ノート」というのを作っていて,何行かでも読んだ本すべての感想を書いていた。もちろん当初は素朴な読書感想文レベルだったわけだが,途中からある内部基準にしたがって評価をするようになったので,これは書評といってよかろうと思うわけである。大学院進学頃までは毎月10〜15冊の本を読み,そのすべての書評をつけていたので,分厚いノート5冊くらいになっていたのだが,その後忙しくなり読書量が減るのとともに記録の習慣がなくなり,結婚後にとうとう紛失してしまった。しかし,書いたことによってその記憶は強化されるわけで,結構いろいろな本の中身を覚えていたりする。昨日の同級会の座上でも,瀬名英明の「ブレイン・ヴァレー」はまずいが鈴木光司の「ループ」は小説としてうまいなどという意見を開陳したりしたわけだが,なぜぼくの「ブレイン・ヴァレー」への評価が低いのかというと,あれならフレームが小松左京の「果てしなき流れの果てに」と大差なく,かつ出来は及ぶべくもないと思うからで…ということは,いうまでもなく,書評というのは,評者の個人的な読書経験に大きく依存するということである。だからこそ,いろいろな評者がいろいろな書評をしてくれると面白いのである。「ダ・ヴィンチ」であった百人書評という企画がよかったのはこの点を突いたからだったのだが,あの企画に欠けていたのは,評者の読書経験データである。つまり,どのような本を読んできた人の評価かがわからないと,その評価は解釈不能だということである。

で,唐突に思いついた企画なのだが,近日中にsv2の方のぼくのページに書評専門のWEB掲示板を設けたいと思う。その際,何らかのメカニズムで評者の読書経験データも得ることを試みたい。これは良いアイデアだ。うんうん。たとえば,類書との比較を義務付けるとか,どうだろう。

最近読んだ小説で悲しかったのは栗本薫の「仮面舞踏会:伊集院大介の帰還」である。解説者はパソコン通信を舞台にした小説でこれ以上のものはない最高傑作とか書いていたが,もっとずっと前に書かれた鳥井加南子氏の「オンラインの微笑」(新潮文庫)に比べたら小説としてもミステリとしても通信の取り入れ方にしてもうまくない(とはいっても最後まで読ませるんだから面白くはあるんだけど)。唯一優れているのは「仮面の世界」としてのネットコミュニティの扱いなのだが,その点で比較すると柾悟郎氏の「ヴィーナス・シティ」(ハヤカワ文庫)に敵わないし(念のために言っておくと,これが自分の偏見に過ぎないことはよくわかっています。栗本薫ファンの人が気を悪くされたらごめんなさい)。


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