枕草子 (My Favorite Things)

【第328回】 衆議院議員選挙と週末探検(2000年6月24日〜26日)

土曜日も小雨。娘を保育園に連れていったあと,自宅でvaioを開き,書類作成。久々にマンデリンを丁寧にいれて飲みながらやっているのだが,やはり点滴注湯するとコクがでるなあ。

息子が持ち帰った読書感想文コンクールの案内を見ていたら,5・6年生の課題図書に,川端裕人「オランウータンに森を返す日」(旺文社)が入っていた。前に書いたように大人にもいろいろ考えさせる本だし,小学生がどのような感想を書くのか知りたいと痛切に思う。もっとも,コンクールに読書感想文を出す子どもではかなり分布の端の方にいると思うので,その感想をもって小学生の代表的感想と思うのは無理だろうけれど。

明日は衆院選だが,新聞やテレビが共同通信の調査結果を大々的に報道したのは,放っておいてはまずいという危機感を起こさせ投票率を上げるためというのは穿ちすぎだろうか? 投票は朝のうちに済ませて,午後は子どもたちと探検に行く予定(ここまで土曜日午前中記,以後は月曜往路のあさま502号内にて)。

日曜日,おにぎりを作って,冷たい麦茶をいつも使っている魔法瓶水筒に用意してから,まずは衆院選の投票へ。暑くもなく雨でもなく投票日和だったと思うのだが,後に知った投票率の低さに愕然とした。この状況で投票に行かない人の心理などわかりたくもないが,それにしても何も考えない人が有権者の約4割もいるとは思えないので,おそらく(1)投票はしたいが適当な候補がいないと思う人や,(2)住民票を現住地に移していないために投票権のある場所に投票にいけない人が,投票しなかった人の中に含まれるのだろう。何も考えてない人はともかく,これらの人をすくい上げないと,「代議士」という存在は有名無実になってしまうと思う。もっとも,世襲議員が何人もいたり,連続十何期も選ばれる「強い」議員がいる現状からすれば,投票した人のなかにも「代議士」がどういう存在なのかという本質については考えていない(あるいは曲解している)人が多いのだろう。

そもそも,直接民主主義では議論に収拾がつかなくなるから,意見を代表する人がその意見の支持者を代表して議論をするというのが,代議という制度の成立基盤だった筈だ。議論をすっとばして多数派意見が有無を言わせず通ってしまう「絶対安定多数」が成立するような制度は,違憲であろう。国会の本会議でも人数が多すぎるからという理由で,議論の中心が委員会に移っている現在において,「すべての委員会で与党が多数になることがわかっている人数=絶対安定多数」が決まっているのがおかしいのだ。せめて,委員会は,議員数に応じて配分するのではなく,そのテーマの議論に向いている人を,意見が異なるグループ毎に1人ずつだすようにしなくてはおかしい。以前書いた全党派一致を意志決定原則にするとか,国会で1からディベートするという抜本的改革だと,人間の合理性を前提にできない以上,時間がかかりすぎて現実的でないが,これくらいならできるはずだ。代議士には議会の場で議論を尽くすという本分をまっとうして貰いたいのである。この代案なら勝てないだろうか? 現状のままでは,小学校の先生も自信をもって三権分立とか教えられなくなってしまうと思うのだが。「一応,三権分立ということになっていますが,実際に司法が立法に対して歯止めをかけることは,ほとんどありません」「立法がなされる国会で多数派を占めた党,つまり与党が行政府である内閣を構成するという現状では,行政と立法は分立しません」バカな。

もう一つ,先に挙げた連続十何期も選ばれる「強い」議員は,当選回数が増えるほど発言権が強くなるという慣行があるためか,なぜかますます再任されやすくなる。このことが,大量の初期投資をし,地元に利権をひっぱってくるという形で議員になる人間を増やす元凶である。代議士を選ぶのは人を選ぶのではなくて政策を選ぶという議会制民主主義の原則に戻ってみれば,この解決は簡単である。任期を設ければいいのだ。10年以上やってはいけないとか,3期以上やってはいけないとか。しかし,選挙制度そのものが選挙で選ばれた国会議員によって決められている現状では,自らの既得権を破壊するであろうこの案が支持される可能性は皆無に近いから,これも違憲性をたてにとって最高裁に提訴するしか解決の道はないような気がする。たぶん,法の下の平等とは何なのかという解釈の問題になるだろうから,まともには勝てそうにないが。

便利になりそうだというイメージを醸し出すためのお題目にしか使われない「IT革命」だが,まともに使えば職業的代議士を無用の存在にすることができる可能性を秘めている。そもそも,ある人のすべての考え方を支持できるなんてことはありそうになく,議案毎に異なる人を支持できて当然なのに,それができない現状が間違っている。公共事業などは地方分権をすすめた方がきめ細かい対応ができるに違いないから,地方へ権限を委譲することにして,国会での案件を減らした上でなら,抜本的な改革が可能になるだろう。たとえば,議案を提出した人が代議士になれる,パートタイム代議士制度とか。国会議員をアルバイトにしてしまうのだ。

すべての有権者が,電子メール風の文字情報を受けられて,1人1票しかない電子投票権をもつという携帯電話風の端末をもつことにすれば(全国民に携帯端末を配布するとか言っていた党もあったが,この辺りの可能性まで視野に入れての発言だろうか?),提案された議題は即座に全有権者に配布され,それに反対意見をもつ人は対案を立てて立候補することができる,というシステムが作れるはずだ。その上で,議論が成立するための会議の適正規模の上限が100人だとすれば(この人数は会議の進め方の洗練度に依存して変わるだろう),投票者数の1/100以上の支持を集めたら,その議案に関する議会の代議士となれる,とする。議会の様子は完全に公開されるものとし(ここは見たくない人は見なくてもよい。そのための代議制だから),議論が出尽くしたところで意見が収束しなかったら,全国民による投票で決議することにする。未来ネタのSFくらいにはなりそうだな。いったん成立してしまえば,うまく機能しそうな気はするのだが。


閑話休題。投票後,子ども2人を乗せた自転車を押して,久々の週末探検に出かけた。地図で見つけた夏目ヶ原親水公園をとりあえずの目的地にした。裾花川を渡らねばならないので,市内をつっきってずっと西に行ったのだが,長野商業の裏側辺りは切り立った崖で,橋もなく,渡る場所がないのだった。増水していて,川遊びもできないので,仕方なく川沿いに下流に降りていくと,百景苑という結婚式場のようなものがあり,その裏手が開けていた。濁流が渦巻く裾花川の向こう側に左右に広がる真っ白な崖の上は深い森になっている。手前は畑と空き地になっている。都市の中とは思えない絶景である。この景色を右側に見ながらさらに下流に降りて,相生橋を渡った。眼下に見える裾花川は,やはり激しく増水していて,いつもなら降りられる河原が泥水に隠れてしまっていた。しばらく進むと行く手が三方に分岐していて,地図が貼られていた。目的地に行くには,右手にみえる急な坂を登らねばならないのだった。見上げると木が覆っていて日射しは来ないような薄暗い道で,舗装はされていたのだが,途中から45度はあろうかという物凄い坂になった。ふうふう言いながら子ども2人を乗せた自転車を押していくと,急に視界が開けて夏目ヶ原親水公園に出た。入り口のところに水が湧き出している大理石風の石で作られた池があって,子どもでも脛くらいまでしか浸からない浅さなので,折から照りだした暖かな陽光の元,水遊びを堪能した子どもたちであった。飽きた頃を見計らって公園の中へ誘って歩いてみた。「あんずの森」というのが案内図に載っていて期待したのだが,あんずは結構実っていたものの,森とは名ばかりの疎林だった。子どもたちは薄暗い森をイメージしていたようで,やや拍子抜けしたようだった。その分,観賞ゾーンというところに,シロツメクサやアカツメクサやスズメノカタビラやオオバコが一面に生えている草原があって,自由に遊べるのが良かった。3人で寝転んで上を見上げると,何も遮るもののない360度の空が目に飛び込んでくる。空の周りに見えるのは,青々とした山である。微かに草の香りを含んだ,涼しい風が顔の上を吹き抜けてゆく。時折,雲間から強烈な日射しが照り付けてくるのがまぶしい。うーん,生きてる,という実感。ここの公園作りは成功していると思う。

帰り道は急なくだり坂なので怖くもあるのだが,往路に比べるとずっと楽だった。しかし,気づかないうちにかなり日焼けしていて,風呂に入ったら肌がヒリヒリと痛むのは誤算だった。高原は陽射しが強いのだということを再認識した。月曜の朝は5:00に目が覚めた。腕は痛むが,意外にも,脚はほとんど痛まない。毎日自転車通勤をしているおかげだろうか? 今日はミーティング後,研究室に泊まって論文を進める予定。

ミーティング後,人類生態学MLへの報告に手間取った。論文はこれから再開しよう,と思っている今は0:23である。


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