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書評:小川さやか『「その日暮らし」の人類学:もう一つの資本主義経済』光文社新書

更新:2016年8月29日

書誌情報

書評

物凄く面白い本だった。端を折ったページだらけになってしまったので,ちゃんと書評を書こうと思うと凄く長くなりそうだが(時間を見つけて,後日このページの下の方に追記する予定),国際保健や国際協力にかかわる人は必読と思う。

著者が冒頭書いている通り,Living for Todayは著者のフィールドであるタンザニアの都市住民特有の考え方ではなく,(現代日本の多くの人々は未来のために現在を生きていて,Living for Todayとは無縁であるかのような錯覚をしているが),ひとたび災害に遭えばわかるように,普段意識しなくても,人が生きる上でLiving for Todayが普遍的でしかも多様な適応戦略であるという見方は正しいと思う。

たとえば,ぼくが良く行くパプアニューギニアやソロモン諸島の都市部でも(場合によっては農村部でも),誰かが新しいあまり元手のかからない商売を始めると,似たような商売を始めるものが続出し,結局市場として成り立たなくなってしまう「殺到する経済」も良くあることだし(ただ,どうしてホニアラやダルーの路傍にはあんなにも多くの,ぱっと見では代わり映えのしないベテルナッツ売りが百軒以上も並んでいる状態が続いているのか――ということは,市場として成立しているということだろう――は,不思議でならないが),知り合いに「貸してくれ」とか「くれ」というのは平気なのに「(貸したものや金を)返してくれ」とは言いにくいというのも,メラネシアのワントク社会と共通している気がする。

もっとも,多くの子供はLiving for Todayだし,チンパンジー研究者が言っていたようにチンパンジーはLiving for just nowだし,ドーキンスが言っていたように,他の動物にない人の特性は大きな予測能力だということを思い出してみると,いくら実は未来が不確かだと言っても,Living for Todayに埋没してしまうことは,人類の進化の方向性を否定することになりかねない。だから,たぶん主流派の政治や経済がLiving for Todayに戻ることはないだろうと思う。

けれども,Living for Todayには,先のことを思い悩んでsocial gapから出口が見えずに苦しむ現代の日本人が,その悩みから解放されるための鍵が秘められているかもしれないし,インフォーマル経済の拡大がその可能性を広げるかもしれないという見方には一理あると思う。

先行研究を書誌情報込みで要領よくまとめてくださっているので(みすず書房のダニエル・L・エヴェレット『ピダハン:「言語本能」を超える文化と世界観』の紹介がうまくて,つい反射的にAmazonで買ってしまった),フィールドで著者が見聞きした事実の描写も面白いが,思想的背景や研究史上の位置づけまでわかって,大変良い本だった。

一つ気になったのは,illegalとillicitの違いについての記述である。p.128の*法的な違法性と道義的な合法性の節に詳しく説明されているので引用する。

(前略)彼らが下からのグローバル化を部分的にも擁護する根拠は、意外とシンプルなものだ。それは、従来のインフォーマルセクター研究でも頻繁に議論されてきた、「法的な違法性illegal」と「道義的な違法性illicit/合法性licit」との関係である。たとえばリベイロは、アブラハムとシェンデルの議論を引き、この二つの関係性を次のように説明する。

「(il)licitは、〈法的には禁止されているが、社会的には許容されている、あるいは保護されている〉活動を意味する(Abraham and Schendel 2005: 22)。この(il)licitが下からのグローバル化を特徴づけるものだ。これこそが、なぜ薬物は販売できないが、無認可のコピー商品は混雑した路上や市場において日中に堂々と販売されているのかという問いの答えである」(注1)。

(中略)ここには、インフォーマル経済の住人は、ささやかな生計を維持するうえで「不合理」だとみなす政策や条例を無視するが、けっして「何でもあり」なわけではないという理解が存在する。彼らは、金持ちに粗悪品を高値で販売したり、警官に賄賂を払ったりもするが、ふつうの生活者として当該社会の多くの人々が不公正であるとみなす一定の境界を越え出ない範囲で日々を生きぬいている。むしろこの経済は、主流派の経済では「違法」ではないが社会的に不公正だとみなす領域により規定されているのだ。(後略)

著者の議論はここからグローバルな交易におけるコピー商品や模造品の位置づけ,中国の山寨文化(本書によると,中国では,模造品,コピー商品,偽物を山寨[Shanzhai]製品と呼ぶそうだ)へと展開し,模倣自体にも文化的価値を認める土壌があるためにコピーは必ずしも悪ではないと考えられていることや,途上国の消費者も中国製のコピー商品をそうと知りながら購入しているので,一定の意味があるのだという話(タンザニアの人々の実際の語りを引用しながらなので説得力がある)に帰着する。こうした商品開発がソフトウェア開発におけるストールマンの伽藍とバザールでいえばバザール方式なので,「コピー」という形態とは逆説的に高い多様性が保たれているような気がして面白かった。

それはそれとして,著者の論旨によれば,adidasの紛い物であるadidosのスニーカーは,illegalだがlicitだから路上や市場で堂々と売られているということになる。著者はlicit/illicitを「道義的な合法性/道義的な違法性」と訳しているが,その意味の日本語としてもっと短く訳すなら「正道性/非道性」で良いかもしれない。ただ,この区分はどの学問分野でもそうなのかといえば,そうとは限らない。例えば,Galea S, Vlahov D [Eds.] Handbook of Urban Health: Populations, Methods, and Practice. Springer, 2005.所収の,Ompad D, Fuller CによるChapter 7. The urban environment, drug use, and health. (pp.120-147)には,冒頭,"Drug use incorporates a wide variety of drugs, including licit (i.e. tobacco and alcohol) and illicit drugs (e.g. marijuana, hallucinogens, cocaine, heroin, etc.) ..."とあるので,licit/illicitも,単に合法/違法という意味で使われることもある。でも,legal/illegalと対比させて,明文化されたルールではなくて社会的合意として許されるか許されないかという面を強調したいときにlicit/illicitという使い分けは,使えると便利だと思うので覚えておきたい。

他にもいろいろ考えが深まったり刺激になった記述が満載だった。冒頭にも書いたように,国際保健や国際協力にかかわる人は必読である。


【2016年8月29日,2016年8月23日の鵯記より採録】


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