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2013年9月のパプアニューギニア往還記

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2013. Last Update on 2013年9月23日 (月) at 14:02:50.

【第6日目】 ドロゴリ村に行ってくる(2013年9月17日)

6:30起床。エアニウギニの音がして機体が見えたので6:50にフロントに行ったが誰もいない。7:00になって漸く職員が出勤してきたが,ドライバーがいない。ドライバーが来るまでコーヒーでも飲んで待っていたら? と言われたので待つこと10分。漸くやってきた車に乗って飛行場に行くと,機体は着いていたが,まだ荷物を降ろしている途中だった。なるほどこういうことか。ドライバー氏は,荷物を受け取った頃また来ると言っていなくなってしまった。おおかた,朝食の途中だったのだろう。

自分の他にも日曜便で荷物が着かなかった人がたくさんいて,飛行場で待っていたので,その人たちと一緒に行動した。というか,ゲートから中に入れて貰って,荷物が出てきたのを見つけて係員に荷物番号札を見せて確認して貰って,引き取るだけだが。15分ほどで受け取れただろうか。しかしドライバーが戻ってきたのは,その10分後で,他の客はみんないなくなってしまった後だった。まあ,こういうものだよなあ。

宿に戻って朝食をとり,外に出てみるとLさんと息子たちが(なぜか3人の予定だったのが4人に増えていたが)待っていて,ドロゴリからの迎えが来たら一緒に行こうという。ダルーにいても若い男は暇だろうから,人が増えたのは暇つぶしなのだろう。Lさんは今日も仕事で,いま勤務しているのが産科病棟で,毎日出産があるので忙しいという話。それにしては夜はちゃんと家に帰っているようだが,まあ,彼女は看護師で,とりあげるのではないからだろう。

とりあえず部屋に戻って3日間着たきりだった下着とシャツを着替え,ここまでのメモを打ったところで9:00近くなった。

最終的に暇な若者によるエスコートは8人になった。まあチャーターだから移動にかかる金は変わらないが,時間的にも彼らへのお礼は昼飯をおごることになるので,散財は否めない。ほぼ予定通りにホテルを出発し,歩き始めたところでドロゴリ村の「チェアマン」と「コミッティーメンバー」という男に出会ったのでベストなタイミングだった。ちなみに後でいろいろ聞いたところによると,「チェアマン」は正式な役職ではなくてコミュニティ・ディンギーの管理者みたいなもので,「コミッティーメンバー」というのは5年任期の村長(カウンシラー)だった。選挙で4人の中から当選したばかりで,補佐役に当たるコミッティーメンバー2人をまだ選んでいないので(村長による任命制だそうだ),今のところ彼が唯一のコミッティーメンバーということだ。村の運営委員としては,この他にレコーダーという,いわゆる書記がいるのだけれども,これも村長による任命制とのこと。村で聞き取りをしていた間,村長は傍らにいた女性にフィールドノートのようなものにそのプロセスをメモさせていたが,彼女を書記にしようと考えていたのかもしれない。この女性は,夫がドロゴリ村出身だがポートモレスビーに住んでいる実業家で,日本にも何度か行ったというのだが,彼女自身は他の言語族出身で,とてもきれいな英語を話す人だった。きっと学歴も高いのだろう。

話を戻すと,8人の若者とともに船着き場に歩く途中,ATMで金を引き出そうとしたら,機械自体は動作したのだが,今回はTemporally Unavailableと表示が出てCITICARDを受け付けてくれなかった。次にダルーに戻ってきてから試すしかないな。たぶん,このままいくと,次にクキホテルに泊まる時の現金が足りなくなる。ともあれ,スーパーマーケットに入って若者たちの分と一緒に昼飯を買った。飲み物(ぼくはミネラルウォーターにしたが,若者たちもドロゴリの偉い人の分も缶コーラとか缶ファンタだった)とビスケットと缶詰であった。そういえばこっちの朝食や昼食は,町に近いところだとビスケットのことが多いのだった。

じゃあ船着き場に行こうと歩き始めたら,町の側からドロゴリの偉い人2人が歩いてきた。ベテルナッツか何かを買ってきたらしい。いよいよドロゴリに行ける。

しかしやっぱり一筋縄ではいかないのだった。ボートはどこかと聞いたら,まあ待て,まずは燃料を買わねばならないというのだ。ああ,チャーター代と燃料は別なんだな。たぶん近距離だからそんなに燃料は使わないはずだが,大勢乗るから燃料を食うとか何とか言ってタンクをフルにしろと言うのだろうな。ここは考えどころである。全部込みで200キナと言った昨日と話が違うじゃないかと言ってごねることもできるし,燃料屋に聞いて,往復に必要な最低限の燃料代だけ払うこともできる。そうした方が,後々こいつは侮れないと思ってくれるかもしれない。その反面,この2人の体面を多少は傷つけることになるので,気持ちよく仕事をしてもらうにはマイナスだろう。一瞬迷ったが,何も言わずに燃料代を払うことにした。まあフルではなく20リットルしか要求されなかったし(たぶんドロゴリは近いので10リットルで往復できると思うが),それがチャーター代のほぼ半額の108キナだったので,許容範囲か。

Daruに残る掘っ立て小屋群

マーケットの近辺が去年に比べてきれいになっていたので尋ねてみると,警察がマーケット周辺に掘っ立て小屋を建てて住んでいる人たちを追い払って,掘っ立て小屋群を撤去したのだそうだ(上の写真は,ドロゴリから帰って来たときに,海側に少し残っている掘っ立て小屋群を離れたところから撮影したもの。去年まではマーケット周辺がこういう小屋だらけで,ちょっと危ない目をした若者がウロウロしていた)。近くに警察の出張所もできていて,多少治安は改善しつつあるのかもしれないと思われた。ディンギーに乗るところはコンクリートが少し突き出ていて,靴を脱がなくても乗ることができたが,非常に穏やかな海だというわりにはアップダウンが激しく,10分弱の航海を終えてドロゴリに着いた時には足が痺れていた。しかも,当然,村には船着き場などなくて,靴を脱いで海に入って歩くしかないのだった。ここは物凄い遠浅の海岸で,満潮に近い時刻なのですぐ村に入れたが,帰りはたぶん干潮になるから遠くまで歩かなくてはならないだろう(右下の写真は,思った通り長い砂浜が出現した帰りの景色)。やれやれである。Dorogori村と水平線

村に入ると稲岡さんのアシスタントだったG氏は昨日クニニという村に行ってしまったということで不在だったが,村長が仕切ってくれて,聞き取り調査をすることができた。本当は村を回って1軒ずつやろうと思っていたが,独立記念日のためウィピムなどに出かけている人が多く,村に残っているほぼ全員が集まったというので,グループインタビューに切り替えた。今回の調査は村で行われている伝統医療の方法を30年前と比べることが目的なので,グループインタビューでも事足りる。一つ観察項目があるのだが,これも村に残っている人が全部いるなら,人数だけまとめて調べてしまえばよい。村人が協力的だったこともあって,無事に伝統医療の調査ができた。30年前と違っているところも多かったが,意外に残っているものもあって興味深かった。重要と思われる薬用植物の写真も撮らせて貰った。あとは,村の世帯数と人口を知りたかったが,昔からの村の土地は狭いのだが,キャンプサイトなどに散らばっているので,この短時間では調べることができない。センサスブックに人口を記録しているレコーダーがいるはずなので,村長に尋ねてみたら,今日は出かけているというのだが,重ねて頼んだら,金曜か土曜までに人口と世帯数は調べておいてやると言ってくれた。素晴らしい。

同じような調査を内陸側の村でもできれば,ショートレポートくらいは書けそうだ。できれば30年前の論文で取り上げられている,ウォニエ村の人(今はもう長老になっていると思う)に聞ければベストだが,今回ウォニエ村に行く時間はないから,先発隊でかつ後に残る2人に頼んでみるかな。

13:00過ぎに聞き取りが無事に終わったので,雑談をしながら,持参した昼食を食べた。「エスコート」ということで着いてきた若者たちも適当に楽しんでいるようで良かった。14:00頃,ディンギーが帰って来たから(やっぱり余計な燃料消費をしていたようだ)出発するというので海に出た。今度は干潮の真っ最中で,村から遙か遠くまで干潟状態で,その先に芥子粒のようにディンギーが見えるのだった。心が折れそうだったが,仕方ないので靴を脱ぎ,深いところではスネくらいまで海に浸かりながら歩いた。近くでドロゴリの村人が網漁をしていて,偶々大きな魚が捕れたのでダルーのマーケットで売ってきてくれと言われたらしく,ぼくのチャーターのはずだが,とくに断りもなく魚を積んできた。まあいいけど。確かに大きな魚で,腹が膨れあがっていたのだが,産卵直前なのだそうだ。きっと高く売れるのだろう。ドロゴリ村の隣村のトタン屋根群

暫く沖側にディンギーを押してから出航。ドロゴリ村は昔ながらの家ばかりで,AusAIDで寄贈されたが既に壊れて使えないという水タンクを除けば,30年前から外見的にはほとんど変化がなかったが,すぐ東側にあるキワイ語族の村は,どういうわけかトタン屋根の立派な家ばかりだった(右写真)。ドロゴリの村人に尋ねたところでは,隣村にはインドネシアからナマコの買い付けに来るから豊かなのだというのだが,後で昔からの友人であるB氏に尋ねたところ,それだけではないとのことだった。オクテジ鉱山の会社が鉱毒の補償をパッケージという形で行っていて,パッケージに入ると莫大な補償金が入ってトタン屋根の家を作れるのだが,ドロゴリ村はパッケージに含まれたことがないということだった。本当にすぐ隣で,鉱毒被害に差があるとは考えられないので,この違いは交渉能力の差によるのだろうと思われた。というか,ドロゴリの普通の村人がそのことを知らないらしいのが不思議だった。それとも,知らないことにしているのだろうか。

10分ほどの船旅で,凪に近い海だったのだが,久しぶりだったのでディンギーが波の上を跳ねるように進んでいくアップダウンはきつかった。当然のようにダルー側も干潮の真っ最中で,船着き場の辺りはすべて干潟になっていた。しかし流石にここは町だけあって,やや大きめのボートからの艀が着けるような場所があり,そこでディンギーを降りた。といっても,もちろん水の中に降りるので,裸足である。砂だらけの足を歩いて乾かしつつ堤防の上に出てやっと一息ついたが,予想以上に疲れていた。陸側を見ると,撤去されたはずの掘っ立て小屋群が若干残っていた。靴を履いてからドロゴリの人々がマーケットに出店しているところまで一緒に歩き,ちょうどクニニから戻ってきたG氏と挨拶し,ディンギーのオペレータにチャーター代の200キナを払ってから,8人の若者とクキホテルに向かった。さすがに若者は元気で,これから中央広場で行われているスポーツ(ラグビー,サッカー,ネットボール,バレーボール)を見るらしいが,ぼくにはそんな元気は残っておらず,記念撮影をして別れた。

部屋に帰ってきたら,身体が滅茶苦茶に疲れていた。潮風と日光に当たりすぎたこともあるが,運動不足だ。ともかく水シャワーを浴び,天井の扇風機を回してベッドに横になったら,2時間ほど眠ってしまったようで,もう夕方近かった。明日から行く村には電気が無いのだから,エアコンなしに身体を慣らしておかなくてはダメだ。年をとるとともに環境変化に適応できなくなってきた。昔は前日までクーラーの効いたホテルで過ごしていても,次の日から炎天下で活動できたものだが。バラマンディーとポテトのとても美味い晩飯

晩飯はレストランが掃除できていないからという,よくわからない理由でルームサービスになった。けれども,バラマンディーのトマトソース煮とポポとキュウリとチップスという料理が絶品で,オレンジ&マンゴージュースが良く合った。完璧な晩飯であった。いつの間にかクキホテルは客室でテレビが見られるようになっていた。もっとも,映るのはEM TVという1チャンネルだけだが(EM TVはピジン語で,英語に直すとIt's TVという意味),今夜のプログラムはたぶんポートモレスビーで行われていると思われる独立記念日のダンスショーのハイライトと,日本のラーメン(RAMEN)の紹介であった。後者は,屋台や行列を作ってまで食べているラーメン専門店の映像から始まって,如何にラーメンが日本で好まれている食べものであるかを示した後,麺の作り方からスープの取り方,それが地方によって違うことを紹介し,最後は横浜のラーメン博物館で締めるという,本格的な番組だった。EM TV,侮れん。

食べ終わった皿を持ってフロントに行こうとしたら,廊下に男性職員がいて,ここの台に置いておけばいいよ,と言ってくれた。なかなかサービスがいい。これで事あるごとにタバコをくれとかタバコ代の2キナ(1本か2本だろう)をくれとかダメ元で言ってこなければ,もっといいんだが。こちらの人にとっては挨拶みたいなものなんだろうな。タバコは身体に悪いから自分は吸わないしタバコ代もあげないと言ったら,身体に悪いことはわかっていて,だからいつも吸うわけじゃ無いんだ,時々だと言い訳していたが。

それにしても落ち着いて所持金を数えてみたら,明日からカパール村に行って金曜日にダルーに帰ってくるのにギリギリしか残っていない。ダルーでホテルに払う金がないので,ATM必須だな。今日上手く引き出せていれば問題なかったのだが。ちなみに携帯電話の通話料金は,*120#に電話を掛けるとショートメールで帰ってくるので確認したら,まだ100キナ以上残っていた。時間的にはかなりネットにつないでいるのだが,回線が遅くて流量が少ないから減らないのだろう。夜,ホテルにいると電気が使えるので,つい「あまちゃん」の情報を検索してしまい,今日が潮騒のメモリーズ復活の日だったことを知った。「潮騒のメモリーズ現象」てのは最もイカ天バンドらしいアマチュアバンドとして原宿のホコ天を沸かせていたremoteが自称していた「remote現象」へのオマージュだろうか。確か,最初はファンの熱気をremote syndromeと呼んでいて,その後,盛り上がり全体をremote現象と呼んでくださいと言っていた気がする。それともイカ天の名アシスタントだった相原勇が名付けたのだったか? リードボーカルの池田貴族氏が若くして亡くなってしまったのが惜しまれる。実はvaio-saにはイカ天バンドのお祭りだったアマバン博(あ,何と「あま」つながりだ)をVHSで録画してキャプチャしたmpgファイルをいくつか入れてあって,remoteの「NEVER BE」も入っているので(他に入っているのは,THE NEWSの「POPS」とか,寿の「金網の向こうはなんだろうな」とか,GENの「バラ色の人生」とか,ジッタリン・ジンの「エヴリデイ」といった,演奏は荒削りなんだけれども躍動感と熱意が溢れている名曲の数々),池田氏を偲びつつ聴き直してみよう。あれ? そういえば,岩手こっちゃこいテレビのプロデューサーの役名って池田じゃなかったっけ? そう考えてみると,クドカンは意外に本気でremoteへのオマージュをしているのかも。

「金網の向こうはなんだろうな」で思い出したが,イカ天が始まったのは平成元年だったはずだから,25年前に寿が歌ったテーマは,未だに解決していない。彼らが逆説的に「アメリカはどこなのか? 少年は彷徨う。アメリカはどこなのか? 金網の向こうは誰の国だろうか?」と歌っていたときから,今に至るまで,沖縄の基地の中はアメリカのやりたい放題だ。だからこそ民主党への政権交替のときは期待したんだがな。理想だけ語っていても,結局は(いろいろな意味での)力がないと現実を変えることはできないということだ。今日の聞き取りで,病気の原因についてどう考えているのかという話を聞いていたら,多くの人がオクテジ鉱山の汚染水で死んだ貝が黒くなっていて,それを食べると腹痛になると言っていた。政府もそれを認めていて,死んだ貝は食べるなという通達が出ているそうだ(もっとも,死んだ貝は食べないのが普通だから,どこまで汚染のせいにしていいのか不明だが)。けれども,オクテジ鉱山は大きな収入源だから,政府として採掘を規制する気はまったくない。下流の人々にアラートを出したり補償金を出す方が差し引きで考えると得だからだ。村人たちもオクテジ鉱山を閉山して欲しいとは思っていない。パプアニューギニアは地下資源が豊富なので,それを目当てに殺到している海外資本のビジネスマンたちのせいで,首都のホテルは安いところで1泊3万円,地方都市のホテルが1泊1万円弱,物価は日本とあまり変わらず(果物とか魚とか地元産のものは安いが),地方出身でも滅茶苦茶金持ちなビジネスマンがいるかと思えば(まあ,大勢のワントークがぶら下がっているので,そんなに豪勢な暮らしはしていないが),狩猟採集と焼畑農耕で生計を立てながら電気も水道もない田舎で暮らし,2日掛けないと病院にも行けないような人々が普通にいる。村中から援助を集めないとハイスクールに進学する学費もままならないので,ハイスクール以上への進学率は低いままだ。携帯電話の普及で変わりつつある気もするが,年収1万円いかないくらいの村の人たちが,1泊3万円のホテルに泊まれるようになるとは到底思えない。かなり社会格差が大きく,歪んだ姿になっていると思う。それが仕事のない地方の若者たちによって組織された強盗団(ラスカル)という形で現れているのだろう。ラスカルがいるのと滞在費が高く付くせいで観光開発もうまくいかないし,かといって,地下資源開発前の状態に戻ることは,たぶんもうできない。携帯電話網に必要なインフラは,ビジネスが成り立たないと維持されないだろうし,村人は携帯電話を使って家族や知り合いと連絡が取れることの便利さを知ってしまったから,地下資源ビジネス排斥には向かわないだろう。この国の出口はどこにあるのだろう? せっかく国際協力研究科も兼任しているので,開発経済とか政治の人たちとも,この問題をディスカッションする機会をもってみたい。

とりあえず今日聞き取ってきたデータはチェック完了。予定通り金曜にダルーに戻ってこられたら,論文を書き始めてしまうのがいいかもしれない。

唐突に思った希望カバー曲。潮騒のメモリーズ2人では「潮騒のメモリー」を歌うのだろうけれども,ソロもつけてくれないだろうか。ユイちゃんには森高千里「私がオバさんになっても」を,アキちゃんにはジューシィ・フルーツ「ジェニーはご機嫌ななめ」を歌って欲しい。とくに「ジェニー……」は,イリアさんのギターソロを完コピしてくれたら絶対に「カッケエ」と思う。それにしても頭がかなり「あまちゃん」に浸食されていてやばい。明日から3日間は特定の場所でしかネット接続できないし電力も無駄遣いできない村暮らしだから,「あまちゃん」情報を見ることもできない。禁断症状を起こさないだろうか。あれ? 考えてみたら明日は8:00から空港で待つことになっているから,7:00には朝食にせねばならないな。6:30起きするためにはそろそろ眠らないとまずいな。

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