ザリガニはすべて死んでしまった。気の毒なことをした。長男4歳は,「水を替えてあげれば良かったんだよ」などとしたり顔で言っているが,おおかた妻の受け売りであろう。まだ死というものがよくわかっていないのかもしれない。考えてみれば,いつから死というものを意識したのかなんて,ぼく自身覚えていないのだが。4歳のときはどうだったかなぁ。もっとも,個体の死は体細胞の死であって子孫さえ残していれば生殖細胞を通して生命は存続している,と極論すれば,「死」なんてどうってことないのだ。それでも死にこだわってしまうのが個々の人間であろうか。
久しぶりにJournal of Nutritionのサイトに行ってみたら,8月号に北朝鮮で子どもの栄養調査をしたという論文があったので読んでいるのだが(このサイトではPDF形式で全文がリプリント状態でダウンロードできる状態が1998年内は継続するとのこと),驚いたのは,政府が選んだ7歳未満の子どもを養育する40施設での調査結果であるにもかかわらず,最悪の場合で32.7%の子どもにwasting(比較的短期的な栄養不良のために「痩せている」ことをいう)が見られた施設があったことである。もちろん,1995年のWHOの推奨する方法によるWeight for HeightのZスコアによる分類なので,標準集団としてアメリカのデータを使っているだろうから過大評価になっている可能性はあるが(ここの理由について詳しくはそのうち別のページで触れたい),大きな割合である。wastingの子どもがまったくいない施設もあったそうだから,施設間に差があるということだ。
あらゆるところに社会格差があるのかもしれない。分集団を作って競争させることは為政者にとって便利な処方箋である。分集団間で差別化が行われ,為政者の利益となる行為をした分集団がその利益のおこぼれに与る。しかし,世の中の不幸は,概ねここに根ざしていると思う。絶対的な為政者がいなくても,富あるところ(経済的な富に限らず),その分配を巡って競争が必ず起こる。独り占めできるような個人の力というのは滅多にないものなので,いろいろな理屈付けをして,ある共通する自己認識を(無意識に)もった”利益に与る資格のある”分集団が生まれ,他人がそうでないからその利益に与る資格はないということを声高に主張する。主張しないと等分配になると思っているからである。しかし,実際には人は一人一人違うので,分集団毎の分配は,必然的に不公平である(少なくともそういう意識がもたらされる)。個別性を相互に正確に認識していて,かつそれが自己意識と一致するならば,ファジイな分配が行われ,世の中の不幸の大半はなくなるだろう,と思う。分集団を作って他との差別化を図ることは,裏を返せば自己認識がきちんとできていないところに動因がある場合が多いのではなかろうか。分集団が棲み分けできていればまだいいが,生態的地位が競合する場合は不幸である。生物学的な分集団なら自然に棲み分けする可能性もあるが,社会文化的な分集団の場合はなお不幸である。もっとも,極論すれば,生物学的な分集団すら思考のための便宜,言い方を変えれば幻想に過ぎず,いくつもの側面での個体の分布があるだけという見方もできる(たとえば,片野修さんの「個性の生態学」(京都大学学術出版会,1991)を参照)。性別なんてものも実はそうなのだというのは,もはや常識であろう(ジェンダーだけでなくセックスも)。生態学的に考えれば,ある生態系を構成する個体の多様性が大きいほど,環境変動に対する耐性が大きいから,多様な個体が存在する意味を互いに認め合いたいものである。
北朝鮮の子どもの栄養状態の施設間差から思いついて,珍しく形而上的な話になってしまった。消化できたらもう少しわかりやすく具体的に書きたいものであるが,ご意見やご批判賜れれば幸いである。