今朝大学に来るとき,見上げると大きな月が冴え冴えと光っていた。仄白いアスファルトの地面は,なぜだか豆腐を連想させた。うーん,我ながら変なやつ。
それはともあれ,フェロモンである。フェロモンというと,高校の生物学で習うものとしては,アリの道標フェロモンとかゴキブリの集合フェロモンとかミツバチの女王物質が有名である。要は,動物の個体が体内で生産し,体外に少量分泌して離れたところの同種他個体に生理学的あるいは行動上の影響を与える物質,ということである。フェロモンという名前は,ギリシア語のpherein(運ぶもの)とhorman(刺激するもの)から,カールゾンらが1959年に提唱したものだ。アリの道標フェロモンだったら,あるアリが出した道標フェロモンの後を伝って他のアリがついてくるわけだ。
一方,世間一般で有名なのは性フェロモンである。フェロモンの中でも配偶行動など雌雄の交尾行動に関与しているものをいうわけだが,カイコガの処女雌から分離されている「ボンビコール」は化学構造までわかっていて(trans-10, cis-12-hexadecadien-1-ol),雄を誘引する能力をもつことで有名である。逆に,マダラチョウの1種Lycorea ceres ceresの雄は,ヘアペンシルという器官から2,3-dihydro-7-methyl-1H-pyrrilizin-1-oneを出すことによって雌を誘引する。雄が出す物質の方が近距離で作用するものが多く,催淫物質とも呼ばれる。ジャコウジカの雄が出すジャコウ(ムスコン)もその一種…と思うが,あれ? 生物学辞典第4版にははっきり書いてないな(大脳経由でコミュニケーション手段として使われるとすると,代謝を変化させたり行動に影響を与えたりするとは言い難いからだろうか)。
実は,昨日の教室ミーティングで文献紹介の担当だったので,今年3月のNatureに掲載された,ヒトのフェロモンの存在を示す論文を取り上げたのだ。ミーティングだけでは勿体ないのでWEBでも公開しようというわけである。
どんな研究かを簡単に紹介しよう。著者の一人McClintockが,寄宿舎生活をしていて同じ部屋に住んでいる人たちの月経周期が同期してくることに気づき,4〜6ヶ月も一緒に住んでいると月経開始日が2日以内に近づくことを発見して,「女性は月経周期を同期させるフェロモンを出している」という筋の論文を1971年のNatureに発表したのが,問題の発端である。彼女は,それ以後もずっと「他個体の月経周期を左右するフェロモン」というアイディアにこだわり続けてきた。この説は支持者も多かったが反論も多く,例えば去年のCurrent Anthropologyに載ったBeverly I. Strassmannの論文ではコテンパンにやっつけられている。Strassmannの批判は,基本的には,自分が調査したマリ共和国のDogonと呼ばれる人々の月経開始日の分布が,ランダムに起こると仮定した分布から有意にずれていないという検定結果に基づいていて,「同期している」ことを直接否定したものではない。つまり,「偶然の結果でないとはいえない」ことを示したのみであり,「フェロモンの存在」は否定できていない。これは統計の初歩だが,「偶然によらない」を帰無仮説にして棄却検定することは,原則としてきわめて難しいのだ。
そこでMcClintockは手口を変えた。彼女としては「月経周期の同期」よりも「他人の月経周期に影響を与えるフェロモンの存在」を示すことが先決なので,動物実験でやったように(彼女はかつてラットを使っている),個体の分泌物を他個体に嗅がせて,月経周期に影響するかどうか見ればよいのだった。当然の帰結として,人体実験が行われたのである。
ある一つの大学の,20歳から35歳までの学生とスタッフから29人のボランティアを募り,9人を分泌物ドナー兼キャリアコントロール(分泌物の臭いを大脳で判断されて影響が出ると困るので,臭い消しの意味もあって70%イソプロピルアルコールをキャリアとして分泌物に添加してから被験者に嗅がせているため,キャリア自体の効果を調べる必要があってドナーにキャリアを嗅がせてみたのだ)とし,残り20人を被験者とした。
実験デザインの説明をする前に説明が必要だと思うので書いておくと,ラットの実験結果から,仮想「フェロモン」は2つあると予想されていた。女性の月経周期は,経血から濾胞が成長する濾胞期を経て,黄体化ホルモンの大量放出と同時に排卵に至り,排卵後は黄体が成長する黄体期となり,妊娠が起こらなかった場合は再び経血に戻るわけだが,McClintock説では,濾胞期には他の女性の月経周期を短くするフェロモンが出て,排卵時には他の女性の月経周期を長くするフェロモンが出て,この2つの相互作用によって結果的に全個体の月経周期が同期してくる場合があるということである(詳しい考察は1992年のJournal of Theoretical Biologyにコンピュータシミュレーションの論文を出してやっているとのこと)。
実験デザインの説明に移ろう。ドナーには毎日香料を使わずに入浴してもらって,その後少なくとも8時間,腋窩(いわゆる脇の下の窪みのところ)にコットンパッドをあててもらい,イソプロピルアルコールを4滴垂らして凍結保存する。濾胞期と排卵期別々にラベルする。便宜上これらを「濾胞期フェロモン」,「排卵期フェロモン」と呼ぶことにする。フェロモンの効果にもベースラインの月経周期にも個人差が大きいことが予想されるため,デザインはクロスオーバー法が用いられた。つまり,被験者20人を2群にわけ,群Aにはベースラインの1月経周期の後,2月経周期の間「濾胞期フェロモン」を与え,続く2月経周期の間「排卵期フェロモン」を与える。一方,群Bにはベースラインの1月経周期の後,2月経周期の間「排卵期フェロモン」を与え,続く2月経周期の間「濾胞期フェロモン」を与える。ドナーにはサンプル採取の1月経周期の後,2月経周期の間,イソプロピルアルコールを与え続ける。見るべきデータは月経周期の長さである。
結果は非常にクリアで,濾胞期フェロモンを与えると月経周期は2日弱短縮し,排卵期フェロモンを与えると月経周期は2日弱延長していて,これらの差は統計的に有意だった。キャリアのみでは月経周期の長さには何の影響もなかった。周期の中身を細かく見ると,濾胞期の長さが変化していた。つまり,排卵が早くなったり遅くなったりしていた,という結果であった。
従って,ある意味ではヒトにフェロモンが存在することは証明されたことになる(化学物質として同定単離されたわけではないけれど)。世界でも初めての,ヒトのフェロモンの存在を確証する結果である。あまりに大きな結果なので評価には追試を待ちたいところだが,これが本当だとすると小集団の出生力研究にとっては大変なことだ。月経周期が短い方が,確率的にいえば当然,受胎能力は高くなるからだ(シミュレーションも面倒くさくなるし…)。ボランティアには月経中の嗅覚の変化を調べる実験だと偽ったというところ,倫理的に問題があるかもしれないが,McClintockの執念というべきであろうか,凄い実験をしたものである。
Kathleen Stern and Martha K. McClintock (1998) Regulation of ovulation by human pheromones. Nature, 392: 177-179.