この文章は,例によって6:43発あさま502号の2号車で打っている。土曜は息子の小学校の全校参観日に行って来たが,校長講話を1時間(その間,子どもたちは算数の授業),授業参観を1時間,学級懇談会が1時間(その間,子どもたちは体育館で全校集会。なお,ここで1時間というのは校時のことで,絶対時間でいえば各45分である)という構成には多少不満だ。校長講話をなくして,授業参観を2時間とって欲しいと思ったのは,ぼくだけではないと思う。国語だけでなく,算数の様子もみたかったし,たぶん2時間やれば,2時間目には,子どもたちも先生も緊張が多少ほぐれたのではなかろうかと思うのである。学校というところは,なんとなく不可侵のような気がしてしまって,当日の懇談会では意見をいうのは控えたのだが,今日の朝刊で安茂里小の7年1組の話を読んで,そうでもないのだなと目を開かされた。7年1組というのは,オヤジの会(?)が発展してできたものだそうだ。インターネット利用のデモをしたり,缶蹴り大会をしたりと,オヤジならではのさまざまなイベント企画をして小学校に関わっているそうだ。小学校における親の関わりの大事さというのは,頭ではわかっていたつもりだが,積極的に関わってもよいのだという意識が稀薄だったような気がする。我々は児童生徒ではないのだから,与えられるのを待っていてはいけないのではないか。校長先生が,校長室を気軽に訪ねてほしいとおっしゃったが,建前と思わずに,今度本当に参観日でなくとも学校に行ってみようと思った。
昨日は妻が山登りに行ってしまったので,家事をしながら子守り。といっても,息子は友達と遊びにいってしまったので,娘の相手をしながら洗濯と靴洗いをし,昼飯を食べさせただけである。15時ころから久しぶりに娘を市立図書館に連れていったら,紙芝居を3つも読まされて大変くたびれた。もっとも,紙芝居を読んでいると,子どもが大勢集まってきて真剣に聞いてくれるので,ある意味で快感ではある。
さて本題。最近よく思うのは,宣伝という行為が,文化の発展方向に決定的な発明だったということである。とくに,市場経済ベースでなされるそれは実によく考えられていて,脳内の理想像を肥大化させ欲望を作り出すために,もっとも効果的な刺激をしてくる。人間の欲望には限りがないなどというが,もし宣伝という発明がなかったなら,これほどに欲望が肥大することはなかっただろうと思うのだ。勝手な分類だが,大雑把にいえば欲望には2種類あると思う。生活上感じた不便を解消したいという欲望と,不便とは関係ないし役に立つかどうかもわからないが脳内の理想像に実情を近づけたい,理想と現実のギャップを埋めたい,という欲望である。前者は宣伝によって影響を受けないが,後者は,脳内の理想モデルが肥大するという意味で,大いに宣伝の影響を受ける。はっきりした用途がなくても好奇心によってできてしまったモノは,余剰のある世界では,宣伝によって市場を獲得することができる。余剰のない世界でも,宣伝すれば,市場を構成するための余剰への欲望が生じる。とすれば,宣伝こそが,文化の発展に正のフィードバック作用をもたらしてきた原動力であるという解釈も成り立つかもしれない。あまり根拠のない仮説だが,これを「宣伝=文化加速モデル」と名付けよう。
実例をあげれば,クルマである。先日聞いた話によれば,頻繁にモデルチェンジされることを消費者が歓迎するというのだが,新しくて,何だか良さそうというだけのニューモデルを追い求める消費者は,ニューモデルの宣伝によって脳内にできあがった理想像に引っぱられているのだ。実用上の不便を解消するためにニューモデルが必要なのではないはずだ。ガソリンも手に入らず,大量の物資の運搬など生活上不要な途上国で,ラジオや新聞を通した大量の宣伝によって,「なんとなく格好良い」ステイタスを獲得し,現金獲得の動因となっているクルマは,買ったからといってなんの役にも立たず,輸出国のメーカーや中間マージンを上げているディーラーに利益をもたらす搾取の構造を助長するだけである。現金を獲得するために主食の自給用の畑を縮小してプランテーションや商品作物に転換された焼畑は,多様性が低下したために気候変動や病虫害の影響を受けやすくなり,生活が不安定になるという副作用すらもっている(現金という形で保存可能な資源をもちうることは,生活を安定させる側面もあるわけだが,そもそもの動因が脳内の理想像に現実を近づけるための消費にあるのだから,彼らは決して不作に備えての貯金などしない)。しかも,市場経済は,更新速度が速いものが勝つという側面をもっているから,文化加速戦略をとったプレイヤーがのさばっていくことになる。少なくとも市場の伸びと同じペースで宣伝も加速される(電通の資料など見ると,GDPとほとんど同じペースで広告費が増加してきていることがわかる)。生活上の利便性をあげることとはほとんど無関係だから,この方向で文化が発展しても,生き物としてのヒトはちっとも幸せになれない(文化的存在としての人間は幸せになれる側面もあるが,人間とヒトは実存としては同一だから,このバランスを欠くことは全体として不幸につながるとしか思えない)。生活上の必要が充足されれば幸せになれるのは確かだから,欲望の充足が幸せであるという論理のすり替えが無意識に行われているわけだが,実はそうではないのだ。つまり,ぼくがいいたいのは,2種類の欲望をはっきりと区別して意識しよう,ということである(実は20年も前に中村桂子さんが「分を知ること」と書いているのと同じ論点かもしれないが,まだまだ区別していない人が多いように思う)。
もちろん,例としてあげられるのは,クルマだけではない。コンピュータの速度上昇もそうだ。1 GHzのAthlonとかPentium IIIなんていうものが必要な使い方をする人が,果たして何人いるだろうか。必要でなくても,高いスペックの新しいものが欲しくなる,という気持ちがある人は少なくないと思う。時間を効率よく使いたいとか,待ちたくないというだけではない。なぜ我々は速いマシンが欲しくなるのだろうか? このことを理解するには,SETI@homeでユニット数競争が起こったりする(不正までする人がいる)ことを考えると,わかりやすいと思う。つまり,「速いマシンをもっている自分」という社会的ステイタスである。好奇心の強いヒトという生き物にとっては,新奇性はそれだけで強烈な欲望の動因になると思うが,新奇性がステイタスになるような社会のあり方は,脳内の理想モデルに共通性が見込まれることが前提となるから,宣伝という行為なくしてはありえなかったことだと思う。
言い換えると,「脳内の理想モデル」も2種類に分けて考えることができるということだ。1つはモノ自体の理想像であり,もう1つはそれを所有している自分の社会的状態である。前者で自己満足できる限りにおいてはそれなりに幸せかもしれないが,肥大した後者を充足させることは,不確定要素が増える分,予想通りにできなくて,不幸につながる場合が多い。そして,宣伝がどちらをより強く拡大するかといえば,いうまでもなく後者であろう。たとえば,子どものモードとしての物品収集は,多くの場合後者に促されてブームとなる。昔でいえばライダーカードとか,今でいえば遊戯王カードとか? いったものは,所有して社会的ステイタスを得た自分の状態を思い描いて欲しくなるという側面が強いように思われるのだ。カードそのものの美しさに惹かれて眺めつづけているという子どもは数少なくて,多くの子どもはせっせと知識を仕入れ,珍しいカードや強いカードを集めて仲間に自慢することで,ささやかな社会的ステイタスの充足を感じるのだ(しかも,このステイタスは「持つ者」として「持たざる者」に対する差別意識だから,冷静に考えてみると,非常に卑しくて子どもっぽい)。この欲望には金銭以外に制限要因がないことが,いつまでも充足感が得られないインフレゲームを構成しつづける鍵となっている。スキルが必要なステイタスは身体性に制限されているから限度がはっきりしているし,儲からないから宣伝はなされない。ところが,所有によるステイタスには限度がないから,メーカーやディーラー側としては,新奇性や希少性にステイタスがある限り子どもから搾取を続けることができるわけで,安直かつ確実な儲けを維持するために宣伝に投資することは合理的である。このインフレゲームから脱却するには,この構造を見抜くメタレベルの目をもつか,モノ自体への愛着に理想像を転換するか(価値観の内部化)すればよいのだが,往々にそれができなくて,親に止められて我慢して辛かったという経験をもつことになる。子どもの頃の不幸な記憶というのは,振り返ってみるとくだらないのだが,外部から作られている脳内の理想モデルの力によって,当時はなかなか深刻なのである。
ところで,価値観を内部化するという幸せは,いいかえればそれを趣味とするということであり,オタクとかマニアとか呼ばれる世界に結実したわけである。とすれば,生産性がないからといってそれを責めるのは,マスのインフレゲームへの再組み込みを狙った搾取戦略ということになる。社会的評価を気にしないでいた趣味の世界が,WEBとかMLという形で社会的評価を容易に受けられるようになったことは,期待通りの評価が得られないことで不幸になる例を増やしてもいる。つまり,社会的評価を受ける機会を増やすことが,社会的自己の理想像を肥大化する可能性をもたらし,現実とのギャップが大きくなる不幸をもたらしたのだ。社会的自己を拡大する機会が増えますよ,というのがインターネットの利便性を謳った宣伝だと考えれば,WEBやMLがインフレゲームになるのは論理的帰結として必然である。この場合の唯一の解は,そのことに自覚的であることだろう。
なんてことをWEB日記に書いても説得力はないか?
次に,もう少し,宣伝の中身について考えてみよう。宣伝は,ターゲットの脳内に,「なんだか良さそうなモノ」を構築できたときに,欲望を生み出すという効果を発揮する。したがって,ターゲットが,何を「なんだか良さそう」と感じるかによって,効率のよい宣伝の仕方は変わってくる。イメージで売れる携帯電話やクルマのニューモデル,スペックで売れるコンピュータ。似たようなものかもしれないが,ターゲットとなる人の嗜好は異なっている。もちろんスペックで売れるクルマもあれば,イメージで売れるコンピュータもあるが,現代日本での市場の大きさを考えると,スペック=機能を理想モデルとして描くことよりも,イメージを理想モデルとして描くことの方が容易な人がマスを構成しているように思う。機能を考えることは論理で考えることだから,脳内の理想モデルが過剰に肥大している状態に気づく可能性があるが,イメージは論理を要さないのでこれに気づきにくい。
制度化されてしまった伝統を無意味に踏襲していて,何の効果ももたらさなくなった宣伝もある。そう,選挙カーである。今度の日曜の衆議院議員選挙に向けて日夜うるさく政党名と候補者名だけを連呼する選挙カーが町中を走り回っている昨今だが,投票に行けば政党名と候補者名は併記してあるのだから,宣伝としての意味をなさないと思う。たんに,候補者名が耳になじむというだけの意味しかない。各政党の支持者は宣伝なんかしなくても支持するだろうから,選挙カーの最大のターゲットは無党派層のはずだ。無党派層にも,政治に関心はあるけれども既成政党のどれにも満足しない人と,政治に関心が薄い人の2種類あると思うが,圧倒的に後者が多いだろう。この人たち相手なら,たしかに候補者名が耳になじむだけでも一定の効果はあるかもしれないが,もし本気でターゲットとして脳内に「なんだか良さそうだ」というイメージを作りたいなら,自分が当選したときのばら色の未来像を総花的にあげればよい。テレビの広告などみると,何の意味もないのに青空を白い雲が流れていくイメージ画像とともに実にうまく「良さそうな」雰囲気を宣伝していたり,現実的な予測なくばら色の未来を謳ったり,党首が出てきて「身近な」イメージを醸し出したりする政党があるが,どの政党も選挙カーの使い方は甘いように思う。もっとも,言葉だけで「良さそうな」イメージを構成することは難しいので,まだ開発されていないのかもしれない(ぼくは,「良さそうな」イメージで投票するという行動自体が作られた欲望の奴隷になることを意味すると思うので,そういう社会が実現することは決して望まないが)。逆に少数の前者をターゲットにしたいなら,選挙カーを使ってもきちんと予測された政策を訴えることが効果的と思うが,仮にそうしたとして,選挙は総数だけで結果が決まるという現状では,実効がないから,その戦略が優占することはありえないだろう(投票に支持理由を併記して,その数で投票数に重み付けをするとかいった重み付けが可能ならば,選挙は相当変わると思うが)。山形浩生さんが言っているように,票を売買できるようにするのも一案とは思うが,それでは市場原理を超えた民主主義が成立する余地がないので,支持理由の付記による重み付けを提案したい。自由な個人という存在を建前でなくするためにも。
以上,雑な議論ではあるが,選挙カーの騒音を聞きながら,つらつらと考えてみた。これくらいのことは広告代理店なんかは絶対にわかっていると思うし,もっと体系的に研究していると思うが,ぼくは寡聞にして明示された文献をしらない。参考になるものがあれば,読者諸賢のご教示を願うものである。
今日は雑用をこなしつつモデル解析に若干の進歩があったので嬉しい。このところ人類生態学MLへのミーティング報告が遅れがちだったのだが,今日は当日中にできたのも,調子が良いことの現れかと思う。Journal of Nutritional and Environmental Medicineに載った論文の別刷りも来たし(業績リストも更新した),今日は良いことずくめであった。こういう時間経過なら終電でも満足だなあ。