枕草子 (My Favorite Things)
【第445回】 酒と論争(2000年12月9日)
- 忘年会の会場は大テーブルだったので,声が届かないし,料理にも手が届かないし,使える机のスペースが狭くて困った。料理は塩味がきつかったものの,まあ美味だったから少人数で飲みに行くなら悪くない場所だと思うが,30人もの忘年会にはあまり向かない場所だったのでは? 幹事の大学院生はよく頑張っていたと思うので,こんなことは書かない方がいいのかもしれないが,まあ来年以降のために1つの意見として聞いておいて貰えればと思う>来年の幹事Tくん。
- 研究室に戻って二次会。徐々に人が減ってきて,日付が変わった頃から大きな声が飛び交うのはいつものことだが,ぼくの美意識からすると,心の箍が外れた状態での論争というのは格好悪いし生産性が低いと思う。生産性なんかどうでもいいという立場はありうるし,そこまで割り切るならいいかもしれないが,ぼくはそういう立場を取ることを快と感じないので意識が変わるほど飲むことはまずない。いい酒がうまいというのは理解できるが,酔うと何が嬉しいのかさっぱりわからない。所詮下戸には上戸の気持ちはわからんということなのかもしれないが。
- いや,かつては,酒を飲まなくても額に青筋を立てて論争していたことはあるのだけれど,聞く耳をもたない論争は不毛だと思う。立場を固守するための論争も不毛だが,酒に酔うと思考力が柔軟性を失うので,議論のための議論に陥りがちな気がする(逆に柔軟性が増す人なら問題ないが,少なくともぼくの身の回りにはあまりいないように思う)。売り言葉に買い言葉とか。何が大事なのかという点を伝えられなかったら,どんなに心を砕いてもコトバは意味を失ってしまう。極めて冷静かつ論理的に紛れのないコトバでストレートに論理のキャッチボールをするのでなければ,議論に生産的な決着は生まれない。とくに,議論したいわけではなくて,相手に伝えたいことがあるだけの場合は,ストレートに大事なことを伝えた方がいいと思う。論争の中から向上心を引き出そうとするやり方が成立するためには,いくつかの古典的約束事が守られなくてはいけないが,それが常に通用するとは限らない。
- 例えば,面白そうな研究課題Aをもっている学生がいるとしよう。かつて(そして今もかなり)学問の世界では,その学生がAを学問として通用するものにするためのやる気を引き出す方法として,Aの欠点を指摘するということが普通に行われていた。Aの欠点を指摘することは,Aに可能性を感じた場合に行われるのだが,これが通じなくて,学生がAを否定されたと受け取ってしまったら,まったく本意が伝わらずに逆効果だろう。欠点を解消するためにはどうしたら良いのかということを他人に尋ねるのではなく,自分で考えて解消していかないと学問のプロにはなれないという側面はあるのだが,否定されたと感じてしまったら,そもそも欠点を解消するという方向に頭を使おうと思わないかもしれない。学生自身が指摘された欠点を既に重々わかっていて,どうしたらいいのか悩んでいるような状況なら,重ねて同じ欠点を指摘されたら,否定されたと誤解してしまうのも無理はないかもしれない。また,酒によって低下した理解力が誤解に拍車をかける。ここで誤解しないためには,研究者としての無条件の信頼が必要だが,それが形成されるチャンスが足りないときに悲劇が生まれるのであろう。決定的破局に至らない限り時間が解決してくれることになるわけだが,ぼくにはこういうやり方は回り道に見えて,なんだか悲しいのである。悲しくても安直に介入できないのが,またジレンマになる。
- 学問が過去から累積された体系だということ,その体系に取り込まれるためには,その体系の約束事を守っているという保証がなくてはいけないということ,観察者の能力に依存するような尺度を使う場合は,観察者の能力が体系内から保証されなくてはならないが,多くの場合それは権威の継承であること,を前提として,Aを勝手にやるのでは学問として認められないと指摘されたならば,Aが学問として通用するという権威の言質を得るのは一つの手だ。科学とは全然関係ないが,学問とはそういうものだ。それを認めないと,その学問の体系が崩れてしまう。もちろん,違う学問で行くって手もあるが。
- というとストレート? ともかく,学生は,自分にとって何が本質的に大事なのかということだけを真剣に考えて,それを実現するように冷静かつ計画的に動けばいいのだ。そのためならプライドなんか捨ててもいいだろ(ぼくは元々プライドなんかないけど)。その他のことは気にするな。雑音も気にするな(これも雑音かもしれんが)。
- 宴会がお開きになり,幹事のうちの一人と一緒に片付けを終えたら2:30だった。疲れて眠った。後は野となれ山となれ。
- 昼間はシラバスを完成させ,郵便局前のポストに投函してから,死亡モデルの文章を書いたりNatureの投稿規定を調べたり。眠くなったので20:38発で帰宅の途についたのだが,満席のため佐久平まで座れなかったので,しかたなく最近文庫に入った貴志祐介「天使の囀り」を読み始め,読了。それなりに面白いのだが,設定の良さを生かし切っていないかも。1人称で書いて,地の文で主観的囀り描写をしたら怖いと思うのだがなあ。
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