往路あさま2号。ナップスター敗訴についてのコメントの中で,坂本龍一が,インターネットによる音楽の自由な流通は印税収入を下げるから職業音楽家の存在を危うくする面もある,というような意味のことを語っていたが,印税に頼らなくても生活できるように,職業音楽家を社会組織に組み込んでしまえばいいのではないだろうか,とふと思った。印税とかのロイヤリティがもし存在しなければ,流通の自由度が高くなるだろうから,ネットワークの複雑化が加速するのはまず間違いなさそうで,そこから何か新しいものが生まれてくるかもしれないと思う。
社会組織に組み込むとはどういうことかといえば,具体的には研究者か教師にしてしまうのが一案だ。例えば,科学や文学という先例がある。生存を成り立たせた上での社会の余剰を使って行われる活動という意味で,科学も文学も音楽も絵画も舞踏も映画も演劇も,およそ文化という範疇に括られるものはすべて社会にとっては同等である。科学は真理の探究(あるいは反証可能性の高い仮説の構築と検証とポパー流に言っても本質は同じである)を目的とするが,それがなぜ社会によって許されるのかといえば,人生を豊かにするからだと思う。芸術も然り。科学に対して,「役に立つ」,すなわち同時代の人々に支持されることだけを求めるのは,数ある価値観の中でも最も近視眼的なものの一つである市場原理に合わせよということだ。普遍性が高い,長持ちするアウトプットを吐き出させるには,市場原理で取捨選択するのではなく,社会組織の中に制度として組み込む方が有望だと思う。少なくとも選択肢の一つには違いない。
小説については文学部という形で既に制度化されているしノーベル文学賞みたいな権威も多々あるが,この辺りに無自覚なまま制度が維持されているために,ファンタジーとかSFとかミステリとか探偵小説とか歴史小説みたいな大衆支持率の高いものを制度化するのが遅れていて,日本や英国やフランスなんかの古典文学の研究者ばかりが無闇にシェアが大きいような気がする。音楽も,クラシックだけはかなりうまく制度化されているが,ポップスやロックについてはあまりなさそうだ。
表現物を公開することでこそ,社会へのアカウンタビリティは果たせると思うので,フリーで流通することに文句をつけ,複製マージンを要求する印税という考え方は,芸術がまだ制度化されていないためと,市場原理が優占文化になっているために維持されている必要悪だろう。もちろん,生演奏とか絵そのもののように,現在の技術では複製レベルが低すぎるものについては(その意味で,VRの発展は世界を変える可能性がある),フリーで世に公開することはできないが,十分なレベルの複製ができるものなら,学術論文と同じ扱いでいいのではないか? もっとも,学術論文すら学会や出版社が版権をもち自由に公開させてくれるところは少ないのが現状だが,文化であるという鳥瞰的視野に立てば,広まってこそ多くの人々の人生を豊かにすることに貢献できるので,フリーにすることは発表者にとっても有益だろう。
市場原理との共存も不可能ではない。いい例が,Linuxとか,完全に公開されてから書籍の売れ行きが伸びていったという藤原博文さんの「Cプログラミング診断室」である。同時代の人々が支持すれば,それなりの利益を得ること「も」できる。如何なものだろうか?
今,判定会議が終わったところである。優/良/可/不可という評価の仕方は粗過ぎてつけにくい。publishされて当然というレベルから,何とか卒論の形になっているかなというレベルまであるものを,たった3段階に分けるというのは無理がある。例えば10段階評価の2はつけやすいけれども,不可をつけるのは勇気がいるというのは事実だから,たぶん,個々の教官がつける素点の段階では10段階の絶対評価にすれば,不可になる学生は出現すると思う。
月曜にソロモン諸島調査に出発するための残務処理が終わるかどうかを危ぶみつつも,今日で定期が切れるので終電で帰ることにした。できるだけ持ち帰って自宅でもこなそうと思っている。金曜日の終電が混んでいるのはいつものことで,高崎まで座れなかった。