書評:齋藤智裕『KAGEROU』

最終更新:January 17, 2011 (MON) 15:00(追記)

書誌情報

書評……といえるかどうかわからないが,本書に関するメモ

発売日に高崎駅の「くまざわ書店」で平積みになっていたので買ってみた,話題の小説である。両毛線の中で読み始めた。字が大きいので,このサイズと厚さからすると,中編といえようか。起承転結の起に当たる部分だけ読んだ感じだと,「世にも奇妙な物語」みたいな導入だが,ここからどう展開するのだろう,と興味を掻き立てる。少なくともケータイ小説などに比べたら,ずっとちゃんとした小説になっていると感じた。短いので,たぶん昼食時に読了しそうだ。

……と思いつつ読み進め,約1時間で読了した後の感想は,以下の通り。

途中までは悪くなかったんだが,「生」について語る展開を作りだすためとはいえ,ご都合主義が過ぎて,夢落ちにするのかと思ってしまったほどだった。もっと納得のいく展開にしても,同じシチュエーションと語りにつなげることはできたと思う。ラノベだったらご都合主義も許せるのだが,ラノベではない体裁をとっているので,もう少し辻褄を合わせてくれないと(もっとも,ラノベだったら別の意味で読者サービスが必要だから,この作品はラノベにも成り得ないが)。あと,最後の章(Reportの1つ前)は,本作品を台無しにしているので削除すべきだったと思う。

「生」とか「個」について語る作品としては,これを読むくらいなら,瀬名秀明『パラサイト・イブ』か箒木蓬生『臓器農場』か篠田節子「子羊」(『ゆがんだ闇』所収)でも読んだ方がいい。『パラサイト・イブ』も最後はスラップスティック風にストーリーが壊れてしまうが,ここまでひどくはなかったし,構想も展開も理系的な迫真感あるラボ描写も,ホラー大賞を受賞したデビュー作として納得がいくレベルの画期的な作品だった。残念ながら,『KAGEROU』には,そういうプラスワンを感じなかった。

文章は悪くないので,著者が本気でプロの作家として生きていくつもりなら頑張ってもらいたいが,正直,この著者でなかったなら大賞受賞作にはならなかったんじゃなかろうか。


普通に素直に読めば,たぶんこういう感想になる人が多いだろう。しかし,本の読み方は読み手の数だけあると言っても過言ではない。それに,良い本ほど多様な読み方ができるものだ。他の人はどう読んだのだろうと思って,Googleで検索したところ,大森望の最速(?)レビューが引っ掛かり,言われてみるとそういう読み筋もありだな,と思った。

大森さんは,本作を「脱力系ドタバタコメディ」と評していた。ポプラ社の社長だったかのコメントも,帯の惹句も,シリアスな命の物語という雰囲気を強調していたので,狙いがコメディだという読み方はまったく念頭になかったが,言われてみれば,確かにコメディとしてならこの展開も「あり」かもしれない。帯はミスリーディングの仕掛けだったのかもしれない。そう考えると,(さきほどの素直な読み筋では削除すべきと書いた)最後の章も必然性があるのかもしれない。

しかし,それにしては笑えなかった。もしかすると舞台か映画でなら,演じ方次第では笑えるのかもしれないし,笑える部分で水準を超えれば,「生」についてのテーマ設定が生きてくるので,チャップリン映画が,おもろそうてやがてかなしき気こそすれ(注:これは芭蕉の鵜飼いの句の捩りで,どこかで使われていた表現を借りたが出典は忘れた),という意味で傑作であるように,傑作になりうるかもしれないのだが。もしコメディであるならば,主人公のキャラが立っていないのが弱点なのだと思う。映像ならば俳優の力でキャラを立てることができるから,この弱点が解消されるかもしれない。どっちつかずの難解さを乗り越えるためには,モダンタイムスの頃のチャップリンが主人公を演じてくれたらいいのかもしれない。

大森さん以外のレビューとして,発売当日から目に付いたのは,Amazonの読者レビューであった。ともかく,数もそうだが(レビュー数の新記録ではなかろうか),内容がとんでもないことになっていた。要するに,2chが引っ越してきたような,縦読み斜め読みで遊んでいるものも多く,いわゆる「祭り」状態になっていた。「レビュー」になっているものは数えるほどしかなかったので,あまり本書の読解の役には立たないが,社会現象として興味深いことであった。


その後も時々Googleで深読みしているものを探していたら,脱力系コメディであるという大森望さんとたぶん同じオヤジギャグ小説だというアライユキコさんの読み筋(だとすると作者の狙いはチャップリンのモダンタイムス的なバカバカしさを超えたところにある悲しさと儚さの描写にあり,その視点からするとイントロが長すぎ,かつ狂言回しの描写が薄すぎるのが残念)と決死の覚悟をもって書いた私小説であるという中森明夫さんの読み筋(不可能ではないが,それなら完全にファンタジーとして描くべきだったろう)が見つかった。さらに,張り巡らされた伏線が見事に回収されるミステリであるというtaipeimonochromeさんの読み筋も一理あると思った(そういう意味では,最終章で見かけの人物名がシールとして中身の人物名の上に貼られているのも,仕掛けとしての読者サービスに違いない。増刷でもその仕掛けがされていたら間違いなくそうだし,増刷ではシールがなかったとしても初刷り読者限定のサービスとしての仕掛けである可能性も否定できない。シールが無くても普通はわかると思うが……なお,事の真相についてポプラ社から「仕掛けである」と明かすようなネタばらしがされるはずはないので,真相は永遠に闇の中だ)。

しかしもちろん,命やアイデンティティをテーマにしたミステリであるならば,脱力系コメディやファンタジーよりは,リアリティを維持したストーリーにした方が首尾一貫した話にできたと思うし,ギャグとご都合主義を排除したとしても,最後の皮肉な仕掛けそのものによってチャップリン映画的なテーマは表現できたと思うので,リアリティ路線で行くべきだったと思う(そのためには想像力だけでは無理で,篠田節子並みの取材力と構成力と,医師である海堂尊レベルの医学知識が必要になると思うが)。もし,作者の狙いがこの3つのすべてにあったとするならば,欲張り過ぎた狙いに筆力が追いつかずに中途半端になってしまったのかと思う。ただし,こうした多層的な読み方ができるということは,もしかすると傑作なのかもしれない。いや,やっぱり,惜しいところで傑作になり損ねた作品というべきか。

さらにその後で見つけた,sayseiさんという方の読み筋にもかなり共感した。透明感というよりも,ぼくは達観を感じたが。作者はたぶんいろいろな悩みを通り越して悟りを開いたような境地にあるに違いない。人生なんてその程度のものだ,ということもテーマの一部だろう。残念ながら十分には描けていないが。でも,最初に書いたように,演じ方と撮り方次第では,映像は傑作になるかもしれない。


2011年1月17日追記。自分が12月15日に読み終わった後,かなりの読書量がある高校生の息子がとくに読みたくないというので,普段はラノベばかり読んでいる中学生の娘に貸してみたら,2日後には読み終わっていて,わりと面白かったと評価していた。中学生女子の間では人気らしく,友達に貸したらしい。しかし,最後のオチの意味についてはわかっていなかったそうだ。じゃあどこが面白かった? まさかダジャレではないよね? と尋ねてみたら,人工心臓を手回しするところという返事であった。なるほど。確かにシュールな描写で印象に残るし,秘密基地のようなところで病弱な美少女とアバンチュールを満喫させずに儚さを感じさせるための小道具としてはうまい配置だし,ぼくが初読の時にチャップリン映画を想起したのも,この小道具なのだが,リアリティを決定的に破壊する部分でもあり,作品の一体感を重視するなら使えない両刃の剣だと思う。しかし娘がそこが面白かったというからには,この作品を届けたい層には届いたと言えるのかもしれない。

更新ついでに,ドラゴンズファンで1964年生まれということだけでも親近感を抱かずにはいられない書評家・大矢博子さんの日記のKAGEROU騒ぎというエントリを,『予防接種は「効く」のか』の著者である岩田健太郎さんのブログ記事他者の言葉をどう受け止めるかへのコメントで知ったのでリンクしておく。一理ある。


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