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書評:西山賢一(編)『生命の知恵・ビジネスの知恵』,丸善ライブラリー

最終更新: August 18, 2005 (THU) 19:28 (書評掲示板より採録)

書誌情報

書評

本書は,“先端分野から新しいビジネスイメージを探る”をテーマに,大日本印刷株式会社ICC本部が主催する「メディアスケープ・フォーラム」の第2期「バイオパラダイム・セッション--生命体コミュニケーションから新しいビジネスイメージを探る」の前半の記録だということである。フォーラムの総合プロデューサである慶應大学総合政策学部の井関教授の意図は俗臭が強くて閉口するが,第2期をコーディネーションした埼玉大学西山賢一教授の構想は面白い。とくに農業に関する展開は面白そうだが,本書では扱われていないのが残念である。とはいえ,俗臭が強い本であるには違いない。店頭で見ても,なかなか手に取る気にはなれなかったのだが,開いて発表者の人選をみたら,これは読まずにはおれないな,という面子なのである。タイトルなどで大分損をしている本だと思う。

序章は,コーディネータの西山さんによる趣旨説明である。第一章「生命の時間・ビジネスの時間」は本川達雄さんによるもので,時間の流れる速さが生物によって違うことに目を向ければ,自分なりに時間をデザインすることが可能になるという趣旨であった。実は,2000年7月9日に長野県短大で行われた人類働態学会の特別講演(日記)の内容は,ほぼ完全にこの章とかぶっていた。沖縄に赴任して宴会の時刻設定の仕方が違うことに驚いた話やナマコを一日中観察した話から,代謝時間の話,ニュートン教の話など,あの講演はどうもすらすら慣れたように語られると思ったが,きっとこの同じ話を何度も繰り返してやっているのだろう。別にそれが悪いというわけではないが,何か手品の種明かしをされたときに感じるような拍子抜けを感じたのもまた事実である。

第二章「あの花はどこへいったの?」は,駒場の数理生態学者,嶋田正和さんによるもので,カワラノギクの個体数消長についての格子モデルによるシミュレーションである。モデルとシミュレーション結果自体は面白いが,考察として述べられている2つの点「価値観の転換」と「ビジネス・経済・社会現象とのアナロジー」が相矛盾することを考えると,きっと応用面はつけたしで,嶋田さんが本当に面白がっているのはカワラノギクの生活史とか個体数変動,その数理的性質といった科学的側面なのだろうと思われた。こうしたシンポジウムでは本意でないつけたしをするのも仕方ないのだろうけれど,つけたしだと悟られないようにうまくやるべきと思う。

第三章「知性の脳構造」は脳科学者の澤口俊之さんによるもので,知性について現在わかっていることや仮説をコンパクトにまとめている。多重フレームモデルやコラム重複説など,脳の機能,構造の進化にかかわる説明原理がわかりやすく書かれている。しかし,脳進化の要因について,社会構造などとの正のフィードバック作用をもってきたところでのヒトの社会構造についての説明は,やや厳密さに欠ける。マードックがデータを集めた社会の中で多妻型が約80%であるのはいいとして,集められた社会が全地球を均等にカバーしているわけではなく,かなりアフリカと南北アメリカ大陸に偏っていることはマードック自身認めているのだから,「あえていえば」と但し書きつきにしても「文化人類学では常識で」というのは言い過ぎと思う。果実食で森の中から果実を見分ける能力が生存に有利に働いたことと大脳新皮質の相対重量の関連については,最近のJournal of Experimental Biologyにも霊長類で三原色がきちんと見えることが森で食べ物を見分けるのに有利に働いたことを支持する論文が載っていた(http://www.biologists.org/JEB/203/13/jeb2605.html)こともあってなるほどと思っただけに,性淘汰を持ち出さなくても話は済みそうな気がした。p.130の「多妻型の方が一妻型よりも脳が発達している」なんてのは,データを出さずに言ってはいけないと思う。

第四章「身体の文化人類学」では,知の技法三部作で売れっ子になった船曳建夫さんが,自然と文化,肉体と身体のあり方(私たちのからだは,自然的肉体と文化的身体の間でゆれている,と指摘されているが,これはぼくが「価値観のゆらぎ」と題して書いた雑文 の趣旨と一致している)といった辺りから説き起こして,それらの入り混じった表象としてのダンスを論じている。黒川能とフラダンス,タヒチアンダンスがどのように演じられ,どのように教えられているのかといったことを通して,身体性の復権が主張されている。この辺りの話を面白いと思った方には,ニッポンニッキというメーリングリストに入ってみることをお薦めする(※2005年8月12日注記:既にこのメーリングリストは消滅してしまった)。

第五章「超文節表現論」は信州大学人文学部の譲原晶子さんによるものである。身体表現というものは,どこまでが生まれてくるもので,どこからが創り出すアートなのか,という問いかけから話が始まり,現代舞踊が国境や文化的背景を越えた普遍性をもつのは,白紙の身体が可能性に対して開かれていることを前提としていると論が進められる。そこから,表現に関しての知識は記述的なものから規範的なものに移行することによって未来の表現活動に利用できる,と指摘してから,その表現が動きによってなされていることに注目して,動きが文節によって意味付けられ,超文節によって時間的連続が生み出されると著者はいう。この論の実証として,リズムと形の関係をあげ,ヴァイツゼッカーの「円は描く速さにより形が変わる」「四足動物の移動形態は速さにより変わる」を例示し,著者が実践している手話の話へと進んで,目的論的な立場からの手話とダンスの表現としての違いが指摘される。

第六章「未分化として見る」では,福島真人さんが教育人類学のレビューをして,かつていわゆる未開社会に見られるとされ,その後「未開」自体がフィクションであるとして誰もまともに取り上げなくなった,広範な論理的融合を行う思考法を,人類学の方法論「方法論的即融主義」として見直すべきだと主張している。これもニッポンニッキ的なネタだと思うし,言うまでもないことではあるのだが,ビジネスマンにとっては新鮮だったかもしれない。果たしてどれだけ伝わったか謎だが。

最後の対談「バイオ・パラダイムと新しいビジネス・デザイン」はとくに井関教授の発言に曲解や牽強付会が多くて,かつフレームとして陳腐である。全体に共通して主張されていることは,生命の時間の不均質性でしかないのだが,そこから無理やり「新しいビジネス・デザイン」として手垢のついたreconnectionなんてものを持ち出すのはいただけない。reconnectionの重要な要素としてインターネットを持ち出すのは当然として,linuxを共同利用・共同開発しているから,完結していなくて,いつも作り変えられていくと言って,「こういうのが,これからの本当のソフトウェアだと思う」なんて発言は,バザール方式ソフト開発の一面しか見ていなくて底が浅いと思う。井関さんがこれからのプロダクトのあり方として上げているアダプティブ・プロダクトなんてのは,いわば半製品で,別段新しい考え方ではない。コンピュータなど,ハードとソフトが分離した段階で,そういうあり方しかないではないか。西山さんが農業にかかわっていこうとしているのは面白いのだが,井関さんがそれを受けて提出する農業ビジネススウィッチボード論は,大規模流通を前提としていて実に危ういものを孕んでいる。そういうわけで,最後の対談以外は,一読の価値はあると思う。如何だろうか?

【2000年7月24日記】


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