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書評:川端裕人『星と半月の海』(講談社)

最終更新: December 7, 2006 (THU) 13:59

書誌情報

書評

前作,『てのひらの中の宇宙』が自然そのもののsense-of-wonderを描いていたのに対して,本書は,「動物小説集」(著者あとがき)でありながら,動物そのもののsense-of-wonderだけがターゲットではなく,むしろ,動物と向き合う人間側の反応(感じ方・考え方)を描き出そうとしているかにみえる。もちろん,コアには生き物への畏敬と驚きがあるのだけれども。

体裁としては短編集である。雑誌『小説現代』に既発表の(ただし加筆修正されている)「みっともないけど本物のペンギン」,「星と半月の海」,「ティラノサウルスの名前」,「パンダが街にやってくる」,「墓の中に生きている」に加え,「世界樹の上から」という書き下ろし作品が含まれている。収録順序は発表順ではないし,他の作品世界をつなぐ「世界樹の上から」が巻末でなくて途中に入っているのは,何か意図があるのかもしれない。このうち,「星と半月の海」と「墓の中に生きている」は雑誌発表時に読んでいたが,こうしてまとめて読んでみると,川端裕人の「動物小説」が一種独特のスタンスで描かれていることが強く意識される。

普通,動物小説といえば,『シートン動物記』とか『ウォーターシップダウンのうさぎたち』みたいな,主人公が擬人化された動物であるか,あるいは,少なくとも動物の内面に入り込んだ描写がなされると思う。本書にも出てくる『野生のエルザ』や『ドリトル先生』シリーズのように。しかし,川端作品にはそれが無い。あくまで人間からみた他者としての動物であり自然なのである。科学の目といってもいいかもしれない。実際,「星と半月の海」に出てくる獣医リョウコは,「イルカやアザラシの言葉に耳を傾けた」ことで,彼らの体調管理を簡単にこなすことができるけれども,妙に共感したりしないし,ジンベイザメについて「彼らは閉じている。あの大きな体の中に,魚なりにあるはずの意識を,精神を,すべて,閉じ込めている」と悔しがる。この,わかったと錯覚してしまわないことこそが,野生の一部としての動物と接するためのルールなのだというメッセージを感じる。

もう一つの特徴は,登場するそれぞれの生き物についての科学的な記述がリアルだという点にある。ここは『動物園にできること』の著者としての面目躍如たるところだろうが,そのディテールがとても面白い。巻末の「謝辞など」を読むと,登場人物のそれぞれのモデルとなった専門家たちが想像できて楽しい。「みっともないけど本物のペンギン」で登場し,「墓の中に生きている」でマダガスカルで古い骨と戯れる比較解剖学者蝦根のモデルは,たぶん京大霊長研の遠藤秀紀さんだろうし,「星と半月の海」でジンベイザメとも娘とも理解できない他者として対峙し,自らの内なる壁に気づいて娘の留学を許すに至るリョウコのモデルはかごしま水族館の大塚美加さんなのだろうし,「ティラノサウルスの名前」で研究にも展示にも息子との対話にも情熱をもってあたるんだけれども「恐竜マニア」風の言動をする院生にいらついたりと,熱心なだけに自分を縛ってしまっていて,ティラノサウルスの骨の下に寝転がってそのことに気づき,最後は「タイムマシンはぼくたちの手の中にある」と胸を高鳴らせる博物館員の野火止は,たぶん科博の真鍋真さんをモデルにした造形であろう。もちろんプライベートはフィクションだろうけれども。

なお,「みっともないけど本物のペンギン」と「パンダが街にやってくる」の語り手である「ぼく」だけは,設定上は蝦根と高校の生物部での同級生としてあるものの,動物園の飼育員の総称的なものか,あるいはもしかすると,著者である川端君自身の投影なのか? プライベートは描かれないのだけれども,その分,ストレートに動物への思いを出しているように思う(関心をもたれた方は,是非『動物園にできること』を読まれたい)。「世界樹の上から」は,野火止親子とリョウコの娘ミツキ,リョウコの共同研究者エルマが,オーストラリアの樹高90メートル級のユーカリ属の樹の上で出会ってマダガスカルの話をするというストーリーなのだが,一つ一つの描写がキラキラして,実に美しい。爆発的なイメージの奔流に襲われる。懐妊しているエルマが胎児の動きを感じて「ここは海で,私も海だ」というラストなど,一気にカンブリア大爆発まで時空間が拡大するような余韻を残して味があった。ぼくが編集者だったら,これを最終話にもってきたかったところだ。

総体として,決して派手ではないが,味わい深い佳作である。

【以上,2006年12月7日記】


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