山口県立大学関連)| 看護学部 | 中澤 港

2001年ソロモン諸島往還記

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2001-2003. Last Update on July 29, 2003 (TUE) 22:11 .

調査内容については,プロジェクトの公式サイトを参照されたい。前年の往還記はこちら。


ブリスベン経由ホニアラへ

2001年2月19日17:40,ミーティングをしているところに行って来ますと挨拶して出発。タクシーを拾って京成上野まで急いだのだが,タッチの差で17:56発のイブニングライナーには乗れなかったので,その次のイブニングライナー(去年乗ったのと同じ18:40発)まで待つのが鬱陶しくて,18:05発の成田行き急行に乗った。八千代台で特急東成田行きに乗り換え,成田で特急成田空港行きに乗り換えたが,してみると京成上野でこの特急成田空港行きを待っていれば良かったような気もする。19:34に空港第2ビルに着いたのでイブニングライナーより早く,しかも乗車券1000円だけで着いたので,悪い選択ではなかったと思うが,八千代台から佐倉まで座れなかったのは痛かった。

去年と同じく,冬のコートと白い分厚い毛糸のセーターを一時預かり所に預けた。3月14日受け取りで,6000円弱という値段が高いのか安いのかわからないが,折角長い間預けるのだから,ついでにクリーニングして置いてくれるようなサービスがあれば間違いなく使うのにと思うと残念だった。しかし,去年は3階まで受け取りに行く必要があったのに,今年は1階で受け取れるという具合に進歩はしているので,そのうちクリーニングサービスもやるようになる可能性はあると思う。期待しよう。

カンタス表示が出ているJALのカウンタでチェックインした。大きな荷物(中身は尿検査用の紙コップ1000個と衣類と寝袋のみ)を預け,ホニアラまでスルーにしてもらった。去年はできなかったスルーが何故できたかというと,ホニアラの治安悪化以来,夜間にヘンダーソン空港を使うのに問題があるということで,ブリスベン=ホニアラ便が昼間の早い時刻に変更されたおかげである。怪我の功名というべきか。今年の晩飯は,にぎりセットというものにしたが,うどんはともかく,肝心のにぎり寿司が,すべてのネタが(巻き物の海苔に至るまで)パサパサに乾いていて,お世辞にも美味とはいえなかった。二度と食うものか。

Air Cargo of Solomon Airlines

JAL761とQF360の共同運行便のエコノミークラスの座席は異様に狭く,電車の方が余程広いと思う程なので,夜行でブリスベンに行くのはかなり難航苦行である。ましてや,隣の席が酒好きの陽気な人たちだったりすると,なかなか安眠もできないのである。ブリスベンに着いたときはふらふらしていた。もっとも,約2時間待ち,カフェラテを飲んでホニアラ行きの小さな飛行機(右写真手前)に乗る頃にはすっかり元気を回復したから,たいした苦行ではなかったわけだが。

ところで,右写真はSX-560で撮ったものだ。去年は35 mmコンパクトカメラとしてOZ-1パノラマ(フィルムは24枚撮りリバーサルを10本),デジカメとしてDC-210 Zoom(記録メディアは32 MBのコンパクトフラッシュ)で記録しようとしたが,今年はそれぞれグレードアップして,μII-115VF(フィルムは36枚撮りネガを10本)とSX-560(記録メディアはIBM MicroDrive 1GBとレキサーメディア80 MBを2枚と32 MBのコンパクトフラッシュ)にした。デジカメは立ち上がりの早さと手軽さに力点をおいて選んだのだが,小さいこともあってワークベストのポケットからさっと取り出して撮影できる優れものである。美しい画像は35 mmフィルムで撮るつもりだが,μII-115VFは日常生活防水なので,雨季のソロモン諸島で使うには向いている機械だと思う。なお,去年に懲りてACコンセントのアダプタもちゃんと持ってきたので,vaioもAC接続で使えるし,NiMH電池の充電もできるし,単三アルカリ乾電池も8本持ってきたので,電源に不安はない。



ホニアラは今日も雨だった

Room 303 of the Mendana Hotel

ホニアラ到着が予定より30分以上遅れたのは,気流が強かったか荒れていたせいだろう。Immigrationは例によって係官が1人当たりにかける時間が長いのでなかなか自分の番が来なかったが,ぼくは短期滞在だからという事情もあると思うが,ビザの取得は簡単だった。調査許可がおりているという書類を見せ,帰りのチケットを見せてこれで間違いなく帰国すると言ったら,ものの3分くらいで済んだ。飛行機の到着自体が遅れたせいで,メンダナホテルの峯村さんを随分待たせてしまったようで申し訳なかったが,農産物検疫や税関も簡単に通れて,すぐに峯村さんが運転する車に乗れて一安心した。しかし,もちろんそんなに順調なまま行くはずがないのだった。途中で車がエンジンストップしてしまったのである。峯村さんの話によれば,去年のethnic tension以来,まともなメカニックが国外に出てしまったので,車の整備がろくにできないのだそうだ。結局エンジンを騙し騙しホテルに行き着けた(途中1度だけ,マーケット前のラウンドアバウトのところで車を押した)のは,15:00ちょうどだった。もう銀行には間に合わないので,今日は部屋(右写真のような立派な部屋である)でおとなしく過ごして疲れをとることにした。


ところが,水が出ないのだった。電気ポットやティーバッグが備え付けられていても,水が出ないのでは茶も飲めないし,シャワーも浴びられない。取りあえず汗だくの上着だけ着替えて,水を買いに行こうと思った(ちょっとだけソロモンドルも持参してきているので,銀行に行けなくても水を買うくらいはできるのだ)。ついでだから明日のMunda行き国内線のリコンファームもしようと思った。しかし,リコンファームができて外に出たら,いつの間にか空が灰色の雲で埋め尽くされていて,ポツポツと雨が降り始めていたので,買い物はメンダナホテルですることにした。水を買って部屋に戻ったら,ほどなく土砂降りとなった。ハタと気が付いて蛇口をひねったら,勢い良く水が出たのだった。徒労というべきか。

晩飯はホテルのレストランで,鶏の胸肉のガーリック風味の揚げ物野菜添えとガーリックトーストとスープとビールをとった。スープにもパンが付いていて,鶏の揚げ物にもライスが付いていたのは予想外だったが,ガーリックトーストに塗られていたバターの量といったら異常という他はなく,あまりに胃にもたれてきて,とうとうガーリックトーストは残してしまった。失敗である。その後部屋に戻ってシャワーを浴び,コーヒーや紅茶を飲みながらvaioを打っているわけだが,そろそろ0:00近いので眠ることにしよう。明日はANZ BankでオーストラリアドルのTCをソロモンドルの現金に換えてから,トイレットペーパーなど必需品を買い,時間があったら大使館とJICAオフィスに顔を出してから,ホテルに戻ってチェックアウトし,ホテルのレストランで昼をとってからタクシーか何かで空港へ向かえば,ちょうどいいタイミングだろう。リコンファームの時に聞いたところでは,13:00チェックイン,14:00離陸という話だった。それにしても,物凄い滝のような雨音がまだ続いているのだが,明日の朝には止んでいることを願うばかりである。飛行機が飛ばなかったら洒落にならないし,この悪天候の中をセスナが飛ぶというのも,それはそれで恐ろしい。



ウェスタン州へ……の筈だったが

目が覚めたら7:00だった。取りあえず雨音は聞こえないので,降っているにしても小雨だろうと思われ,一安心である。銀行が開くまではとくにすることはないので,電話帳を写したり,トイレに入ったり,湯を沸かしたりして過ごした。FMラジオをつけると,99.5 MHzや101.3 MHzなど,いくつかクリアに入る局がある。ふつうのPopsを中心にした音楽がメイン(今流れているのは懐かしいDream AcademyのLife in a Northern Townだ)だが,合間に入るローカルニュースが結構面白い。英語だったりピジンだったり。

8:30にラジオからNational Bank of Solomon Islands (NBS)がオープンする時刻だというアナウンスが流れたので8:40頃外出した。たしかにNBSは開いていたが,隣のANZ Bankは9:00オープンなのだった。NBSは手数料をとるという情報があり使いたくなかったし,数分間でも銀行の前で待っているのは危険そうで嫌だったので,道路を渡ってY. Satoのスーパー(といってもコンビニみたいなものだが)でトイレットペーパーと石鹸を買ってからANZ Bankに戻った。思ったよりもオーストラリアドルのレートは悪かったが,A$3000のTCを全部ソロモンドルに換金したらSI$7884.36になった。ちなみに日本円で189900円の現金を直接ソロモンドルに替えていたら,今日のレートではSI$7064.28にしかならないから,それよりは大分得だったが,日本円TCの189900円からだったらSI$8030.62になっていた筈だから,それよりはちょっと損だ。もっとも,CITIBANKでは日本円TCは作れないので他の銀行を使っていた筈で,手数料を考えるとトントンかもしれない。しかし,仮にCITIBANKでA$TCでなくUS$TCを買っていたら,日本での$1が116円だったとして計算すると,SI$で8096.29になっていたと思われるので,おそらく米ドルTCにするのが最も得だ。次からはそうしよう。

現在,10:15である。NHKでオードリーをやっている。大使館やJICAのオフィスに行くには半端な時間だし,小雨も降っているので,11:00くらいまで部屋で論文でも読みながら過ごしてからチェックアウトしようと思う。

予定通りチェックアウトし,空港行きのタクシーの配車を頼んだ。11:45までランチはやっていないというので,コーヒーを飲みながら,教授から聞いてきた情報をフィールドノートに転記した。12:00直前にランチメニューがOKになったといわれて,今日のスペシャルランチとかいうやつを注文した。鶏肉と白身魚のフライとスパゲティにサラダ取り放題というありがちな組み合わせだったが,なかなかに美味だった。12:30に来たタクシーに乗って,空港に着くまでは良かった。SI$40を払って(去年は30だったがテンション後は燃料が高くなったので40になっているという)タクシーを降り,空港の建物内に入ると,どうも様子がおかしい。カウンターの外に制服を着たオフィサーが大勢屯している。何があったのだろうと思いながらカウンターに行くと,いきなり,今日は飛行機は飛ばないよと言われて愕然とした。理由を聞くと,タイヤがフラットになってしまい(パンクしたということか?),テモツで修理をするのだという。今日中に帰ってくることはまずないだろうというので,じゃあ,明日は飛ぶのか? 今日のフライトチケットは明日に変更できるのか? と聞いたら,ともかく16:00頃オフィスに行ってくれという返事だった。仕方ないので,乗ってきたタクシーでホテルに帰り(復路はディスカウントでSI$20になった,というか,たぶんタダでも良かったかもしれない),再びチェックインした。

ウェスタン州にいるFさんに電話をしてみたが,つながらなかったので,取りあえず買い物をするために外出した。ウェスタン州の地図を持ってくるのを忘れたので,Map Salesに行って地図を買い,大きな文房具店で糊を買い,大きなスーパーでコーヒーバッグと新聞を買ってから,ホテルに戻ったら,14:00だった。バッグ抽出によるかなり美味なコーヒーを飲みながら地図を必要なところだけ切り抜いて貼り合わせ,携帯に便利な形(といってもミウラ折りではないが)に折りながらラジオを聴いていたら,15:00になった。コピーしておくべきレポートフォームがあったことに気づいたので,コピー屋に寄ってからSolomon Airlines (IE)のオフィスに行けばちょうどいい時間だろうと思って,外出した。16:20に着いたIEのオフィスは閉まる寸前だったが,明日の13:00に故障したのとは別の機体がムンダに行くという情報を得られたので,まあ良かろう。

ホテルに戻って暫くすると,ウェスタン州にいるFさんから電話があった。こちらの情報を伝え,今日は飛行機が飛ばなくてウェスタン州に行けなかったので済みませんというと,早く来られるといいですねという暖かいお言葉をいただき,何となく心が温まった。これから夕食をとった後,さっきコピーをとった紙を切って,1人分ずつのシートを作るという作業をして時間をつぶそうと思っている。

メンダナホテルのレストランの水曜のディナーはバイキングなのだった。たしか日曜夜がバイキングだったと思っていたが,水曜だったのかもしれない。ここのバイキングはSI$120もするので,相当食べないと割に合わないのだが,そんなに食べられるものではない。しかし,夜間外出は危険である現状からすれば,外に食事に出るわけにもいかず,仕方なくジャガイモのフライとパスタとフィッシュフライと太巻きと天ぷらとフルーツを取って腹一杯食べた。考えてみればペスコベジタリアンフードになっているので,健康には良さそうだ。飲み物は,ビールを飲むとあまり食べられなくなるし,値段も高いので,日本茶にした。日本茶はポットでサーブされ,ティーバッグだがそれなりに美味いし,今日は無料だったので,一石二鳥だった。

21:05,昨日と同じような激しい暴風雨となった。室内のテレビの音が聞こえにくくなるほどで,天気まで敵に回っているような気がする。ああ,いかん。考えすぎだ。



今日こそはウェスタン州へ

目が覚めたら3:00だった。いつの間にかベッドの上で眠っていたようだ。結局,昨夜企画していたシート作りについては,運ぶときには切らないままの方が便利だと考え直しているうちに,何もせず眠っていた。ぼくは想像以上に図太くできているらしい。3:00から起きていても疲れが残ってはまずいので2度寝したら,次に目が覚めたのは7:00だった。取りあえずコーヒーを淹れようと思ったが,断水だった。いろいろ起こるものである。昨日沸かしてポットに入れておいた湯(既にぬるま湯)を沸かし直して作ったコーヒーを飲みながら何となくテレビを見ていたら,7:30頃水が出るようになった。今日最初の予定は,8:30くらいにSolomon Airlinesのオフィスに行くことである。

吹きすさぶ風雨の中を,傘を差してオフィスに行ったら,今日は大丈夫だ,1時に飛ぶから12時には飛行場でチェックインするようにと言われた。まだ何となく不安なのだが,取りあえず飛ぶというなら行くしかあるまい。8:45にホテルに戻ってキーを請求したら,東京から昨夜届いたらしいFAXを渡された。萩原君から,出発直前にメールサーバがおかしくなっていたのを復旧したという内容のもので,「サーバ管理はお任せください」と力強く結ばれていたので,これで一つ懸案がなくなった。と,急に空腹になったので,レストランに入ってコンチネンタルブレックファストというバイキング形式の朝食をとってみた。これも考えてみればラクトベジタリアンフードである。

9:30頃から,だいぶ空が明るくなってきた。このまま天気が回復してくれればいいのだが。ノロに電話を何度かかけようとしたが,一向につながらないので,まあなるようになるさと諦め,11:00にチェックアウトした時点では小雨だった。タクシーを呼んで空港に向かった。今日のドライバーは口数が少ない。ソロモン諸島のドライバーには珍しいタイプである。空港に着いて,カウンターに向かおうとすると,傍らで女性が大勢泣いていた。時折ママという声が入るので,きっと中央でひときわ大声で泣いている人のお母さんが亡くなったのだろうと思われた。チェックインしてマンゴージュースSI$3.50を飲んでから待ち合い室に入ると,外にトラックが停まっていて,棺桶が載っていた。暫くすると泣いている女性たちが花束を抱えて入ってきて,棺桶の周りを花で飾り始めた。飾り付けが終わると,お祈りが始まった。トラックの周りに立っている人たちが皆黙祷していたから,略式の葬儀だったのだろうか。お祈りが終わると,まだ号泣が止まらない女性とともに棺桶は小さな飛行機に運び込まれ,飛び立っていった。あの小ささは,きっとマライタ行きだろう。

Airplane in the rain at Henderson

その後所在なく待っていると,掃除婦が暇つぶしに話しかけてきた。早口のピジンなので良くは聞き取れないのだが,どこに行くの? くらいはわかるのでムンダと答えたら,私は5年間ノロの缶詰工場で働いていたの,あそこは良かったわ,と嬉しそうな顔をするのだった。私はアイリーンていうんだけど,あんたは何て名前? と聞くので,ミナトと答えたりして,ちょっとうち解けた感じになった。ムンダの次はどこへ行くの? と聞くので,パラダイスと答えたら,おお,パラダイス,ミナト,あそこならティキティキナンバワンねー,と妙なことをいうので,慌ててノー! と強く否定しておいた。ソロモンピジンでティキティキといえば性交のことを指すので,もしかすると,買春に来るアジア人がいるのかもしれない。それともパラダイスがそういう場所なのか? という疑念が頭をよぎったが,キリスト教の一宗派が拠点の一つにしている村だから,まさかそんなこともないだろうし,大方この人が,ノロで働いていた頃,そういうアジア人を何人か見ているということなのだろう。そういう輩と同一視されるとは情けないが。

12:30過ぎから土砂降りになってきた。13:00に発つはずが,雨がひどくてなかなか発てない(右上写真)。それでも,13:30頃,小降りになってきたのを見計らって出発できてほっとした。乳白色の雲の中を飛んでいくので周りが見えないのだが,よくこれで間違いなく運転できるものだと,パイロットの腕前に感心する。セゲに一旦着陸し,何人かを降ろしてから,再び飛び立った飛行機はムンダを目指した。無事に着いたのは,15:30を過ぎていた。

できればこのままパラダイスに直行したかったが,ノロのFさんが差し向けてくれたレクターさんという人が空港で待っていてくれて,ノロに寄ってからパラダイスに行くかと聞くので,Fさんと戦略を練りたかったこともあって,車に乗せて貰ってノロに向かった。途中,オセアニアにはありがちな悪路で,川の流れを車で渡らなければならないような場所もあり,ノロに着いたのは16:30頃だった。Fさんに相談すると,これからまた雨がひどくなるから,今日はノロロッジに泊まって,明日出発した方がいいと言われたので,そうしたところである。17:30くらいから無茶苦茶な土砂降りになっているので,確かにパラダイス行きは明日にして正解だったと思う。

いつの間にか,眠っていたらしい。部屋の戸を叩く音で目が覚めると,18:40だった。ロッジのマネージャー兼コックでもあるらしい人(20代だと思う)が,ディナーができたと呼びに来てくれたのだ。ダイニングに行ってみたが,一つしか席がなく,どうやら宿泊客がぼく一人しかいないらしい。チキン料理を頼んでおいたら,タマネギとガーリックのきいた,美味なローストチキンが出てきた。ライスの炊き方がべちゃっとして今ひとつだったのが残念だが,ここまで来て多くは望むまい。飲み物はコークを頼んだ。去年のアウキロッジみたいにタカリが来たら嫌だなと思いながら食べていたのだが,もはやタイヨーが去った後のノロは寂れていて,タカリなどという人種が生き延びられるほどのリソースが残っていないのだろうか,タカリは現れなかった。暫く一人で食べていたら,マネージャーがやってきて,これからどこへ行くんだと聞かれた。パラダイスと答えたら,あのジャパニーズスチューデンツと同じグループかと聞かれたので,そうだと答えたら,彼は先月来た一行を覚えていて,教授はビールが好きで愉快な人だなと言った。そう,彼はビールを愛してるんだ,と答えたら,あんたは飲まないのか? と聞くので,ときどきね,でもnot reallyだと言ったら,なんとなく納得したようだった。こうして今日も,所在ない夜は更けてゆく。



パラダイスへ

7:30起床。時計を見て23日金曜日であることを確認する。日本を出たのが19日だったから,そろそろ調査地に辿り着きたいと思う。幸い,今のところ雨は降っていないようである。

8:30頃ロッジのコックが朝食の用意ができたと呼びに来た。肉と魚のフライとトーストと紅茶という豪華メニューであった。食べていたらFさんがやってきた。今後の相談をして,取りあえず今日パラダイスに行ってみることにした。Fさん宅のボートを借りて,燃料SI$225とドライバーの雇い料SI$50で行けるのは,ロッジなどで借りるより随分安い。ただ,出航当初はなかなか快適だったが,途中から土砂降りになり,屋根のない小さなボートなためにひどい濡れ鼠になったのは結構辛かった。

The entrance of Paradise village

2時間後にパラダイスについて,既に1ヶ月ここで暮らしている先発隊と打ち合わせをした。15:00から村(右写真)を一回りしてみた。ここはChristian Fellowship Churchというキリスト教の一派の総本山であり,その教義によって,V字型に整然と並んだSleeping Housesのエリアには昼間は入ることもほとんど許されず,村人はその周りに雑然と密集したキッチンを作って,そこで生活しているという場所である。開祖の一族がHoly Familyとして君臨していて,購入食品は食べ放題だし,教会には参列しないし(妙なことだが,庶民とは同席できないということなのだろう),居住場所も村に入る手前の別エリアになっている。現在の教祖は開祖の次男で,信者からはSpiritual Authorityとして絶大な権威として敬われている。彼がタマネケという場所を整備するから労働者を寄こせと一言いえば,この村から屈強な若者が30人さっと行くという,恐ろしくなるほどの命令系統をもっている。信者たる村人たちはほとんど現金を持たず,自給的な焼畑農耕と魚とりで日々の生活の糧を得る他は,州の半分くらいはコミュニティワークと称して植林をしたり建物を建てたりという奉仕活動をしている。コミュニティワークから得られる収入は,コミュニティの資産にもなるのだが,Holy Familyの生活費もそこから出ているらしい。こういう強烈な命令系統のある社会では,Holy Familyに話を通せば,生体計測や尿検査については抜群の参加率が得られるわけで,ある意味では調査しやすいのだが,それが良いことなのかといえば微妙だ。夕方からは調査準備をして,夕食を食べ,先発隊と話をして22:00就寝。



企画倒れ

24日は7:00起床。何の虫かしらないが,首の後ろ側一帯を食われていて,ぼこぼこになっていて,痒くてたまらない。相変わらず一日中雨降り。今回のぼくの仕事のメインは,すべての対象村落で尿検査をして健康状態のチェックをすることである。いろいろ相談した結果,この村では,今日のうちに村の成人男性全員に尿検査用の紙コップを配って,明日の朝から尿検査を開始し,明日の夕方に女性に紙コップを配って,明後日の朝女性の尿検査をするという計画になった。調査の手伝いに雇った男,レナード(教祖の一族と結婚してHoly Familyになった,マニラ大学修士課程に留学している,将来は大臣候補のスーパーエリートであり,WHOのファンドを貰ってここでマラリア研究をする予定という)から,男女は別々の日の方が良いといわれたためである。彼がいうには,我々が直接配るのでない方がいいということなので,紙コップを配って回るのも彼にお願いすることにした。

昼間のうちにクリニックに行って,ケロシン冷蔵庫をチェックした。ケロシン6リットルで24時間冷蔵くらいは行けそうだということで,採った尿サンプルの一部を保管するのに使うことにした。

夜になって,明日の朝の打ち合わせのためにレナードを待っていたが,いくら待っても来ない。配るのに時間がかかるにしても22:00を過ぎてまだということはないだろうと思って,彼の家へ行くと,彼は眠っていて,夕方から葬式に出ていたために何もできなかったということがわかって愕然とした。おい,頼むよ,大臣候補なんだろ? と思いながら,至急,計画の練り直しである。

明日尿コップを配って周りながらスポット尿の検査をするという方法も考えたが,歩き回りながら検査する場所を確保するのは大変なので,明日全部配るだけ配って,明後日の朝,男女とも一括検査することにした。何となく不安なまま眠ると,変な夢ばかり見てよくない。



村内をめぐって紙コップ配り

25日は7:00前に起きた。首の後ろ側の虫さされは昨日の倍くらいひどくなっているが,キンカンを塗って痒みをごまかし,紙コップ配りを開始した。11:15頃,もう教会のお祈りの時間だから午前中はここまでだと言って止められるまで,110人余りに紙コップを配ったが,成人全員にはまだ到底足りない。お祈りの間に朝昼兼用の食事をして,その後に続きをやらねばならない。

ふと気が付くとソロモン諸島に着いて初めての晴天になっていたので,寝袋を干すことにした。昼食を持ってきてくれた女性アシスタント,カシ(彼女もHoly Familyの一員で,かなり頭の切れがよい)に聞くと,女性については午後,教会に集めてくれるのでいっぺんに配ればよい,という段取りになったので,午後は多少楽そうである。

夕方,教会の賛美歌集会が終わってから,場所こそ教会から我々の家の裏に変わったものの,集まってきた女性に一度にカップを配れたので楽といえば楽だった。そうはいっても,100人を超える数の女性をidentifyしてカップを配るのはそれなりに疲れた。カシが先発隊から日本語を聞き覚えていて,絶妙のタイミングで「がんばれ!」と声をかけてくれるのに救われた。缶詰のチキンカレーをライスにかけたものという晩飯を食べてから,翌日に備えて早く眠った。



尿検査と分注の嵐の中で

26日は5:30に起きて待っていたが,最初の尿が到着したのは6:20頃だった。後は嵐のような尿検査と分注(先発隊の一人が後でナトリウム,カリウム,アミノ酸などを分析するために冷凍保存するのに,小さなバイアルに入れる必要があった)が昼過ぎまで続いた。サツマイモだけの昼飯を囓りながら結果を転記してここに残る人に託し,雨が降っていないのを見計らって14:00頃ボートに乗った。目指すは,ムンダのヘレナ・ゴルディ病院である。病院のディープフリーザーに分注した尿サンプルを預かって貰うのである。

ノロを過ぎた辺りから雨になり,病院に着いたときにはずぶ濡れだったが,何とか首尾良くサンプルを預かって貰うことに成功し,ほっとして宿泊予定のアグネスロッジに向かった。ところが,アグネスロッジは停電中で,水すら出ないのだった。夕方復旧したのでほっとしたが,一時はどうなることかと思った。ほっとして夕食に久々にビールを飲んだら酔いが回って,20:00頃から翌朝7:40頃までずっと眠ってしまった。



丘の上の家からロビアナラグーンの上に満天の星を眺めて

27日はムンダで買い物をして郵便局とテレコムへ行った。買い物は大抵できたが,レインコートが売られている店が見つからなかった(たぶんムンダには無い)ので,これからも船で移動するたびにずぶ濡れになるのは避けられないだろう。そう思いながらロッジに戻り,ボートに乗ってロビアナラグーンのオリヴェ村に向かった。海が比較的静かだったこともあるが,アグネスロッジのボートの出来がよくて,アップダウンが少なく,1時間余りの快適な船旅だった。

Sunset in the Roviana Lagoon

オリヴェは丘の下に集落とクリニックがあり,丘の上に小学校があってその先生たちが住んでいるのだった。先発隊は丘の上に住んでいたので,そちらに向かうと,折悪しく先発隊のF君は,今朝エレロというところでセカンダリスクールの落成式があるというのに行ってしまったので,留守だったのだ。仕方ないので村人の何人かとなんとなく話をしていたら,ぼくらの目的は何かという話になったので,今回はヘルスチェックが仕事だという話をして,できたら明日から調査を始めたいと言ったら,リーダーたちと話をして村中に広めてやると言われた。これでうまく行けば明日から調査が始められそうだ。夕方,外を歩いてみたが,ロビアナラグーンに夕焼けが映えて素晴らしく美しい(右写真)。ここもChristian Fellowship Churchの村なのだが,総本山のパラダイスと違って,それほど教会の色は強くないように感じた。リーダーシップコミッティのようなものがあるらしく,Spiritual Authorityから指令が来てもそのまま従うわけではなくて,リーダーシップコミッティがそれを受けて話し合いをして,村としての意思決定がなされるようだ。なかなか面白い。

夜になって村人からもらったイモを食べていたら,先発隊のF君が帰ってきて,明日からの仕事の打ち合わせができた。23:00過ぎに眠る前,外にでてみたら満天の星空であった。これで予定通り行けば,もう言うことはない。そう思いながらMP3ファイルの「海が泣いている」をBGMにして,この記録を打ち終えた今,日付が変わった。明日はどんな一日になるだろうか?



生体計測とカップ配り

Clinic at Olive village

28日は8:00起床。8:40頃クリニックへとドロドロの坂道を降りて行って(右写真)生体計測とカップ配りを開始した。15:30頃までかかったが,ほぼ予定通りの人数をカバーすることができた。激しい雨の中を来てくれた大勢の村人には感謝の念に絶えないが,これも先発隊が気持ちよく受け入れられている証拠である。助手が優秀だというのも大きな要素かもしれないが。

午後は水浴びをしてから晩飯を食べ,いろいろ語って22:00頃就寝。夜中にハイになった助手君がかけるラジカセの爆音で何度か目が覚めたのは痛かった。



久々の青空が広がった日に

Eco-planting of eucalyptus tree

6:30頃,助手君が,昨日カップを貰い損ねた人が欲しがっているといって起こしに来てくれた。彼は徹夜だったのだろうか? ともかくクリニックを開けて貰うことにして,坂道を降りていった。7:00頃になると外が明るくなってきて,久々に青空が広がってきたので,なんとも嬉しくなって,尿検査も捗るのだった。9:00頃には概ね尿検査も終わって朝食のビスケットも食べたので,10:00頃から続けて女性の生体計測に入った。15:00頃終了したが,80歳の腰の曲がったおばあさんまで来てくれて感激であった。

青空のおかげで道がドロドロでなくなってきたので,植林と焼畑農耕をしているところへ連れていってもらうことにした。坂道を昇っていくと,素晴らしい眺望が開けてきて,何ともいい感じだ。かなり大規模にユーカリの植林(右写真)をしていたが,これからどうなっていくのだろうか。村に戻ってからは水浴びに行って,石焼き芋の晩飯を食べた。明日も早いので眠ろうとしている今は22:00である。明日も晴れればいいなあ。



日頃の行いがいいのだろうか

朝方,大雨の音を聞きながら,今日はダメかなあと思っていた。しかし,6:00に起きて外を見ると,雨は小降りになっていて,昨日リクルートした女性助手2人がクリニックの方へ坂を下りていくところだった。慌てて着替えて坂を下りていくと,既にクリニックは開いていて,尿の入ったカップが10個以上溜まっていた。素晴らしいコンプライアンスである。

7:30頃からすっかり雨もあがって青空が見え始めた。日頃の行いがいいのかもしれない。途中ビスケットなど食べながら,9:45までかかって,68人にカップを渡して67人も戻ってくるという素晴らしい回収率で,無事に調査が終わった。

すぐにボートを仕立ててもらい,11:30出航して13:20頃ムンダに着いて,熱いシャワー(アグネスロッジでは2人でSI$300の部屋なら温水シャワーが使えるのだ)を浴びてほっと一息というところである。

英国人の母とノルウェー人の父の間にムンダで生まれ,ヤワタさんという日本人ビジネスマンと結婚しているアンジェリナという女性がフィッシュアンドチップスの店をやっているというので,そこに行ったら,小麦粉が切れていて何も作れないという予想外の事態で,うまいチップスを食べることはできなかったのだが,暫く話をした。出自からして凄いけれども,世界中を渡り歩いた凄い人であった。日本では料理の修業をして,オータニやオークラで働いたり,プリンスホテルで見習いをしたりしたらしい。現在は英語教師の資格をとるためにオーストラリア資本の私立の施設で英語を教えているのだが,3週間前に,旦那さんがお母さんの看病のために日本に帰ってしまったので寂しいといっていた。世の中,いろいろな人がいるものだ。

トイレットペーパーなどの買い物をした後,宿に戻ってきてハンバーガーとスウィートポテトフライの昼食をとってから暫く横になって疲れを取った。

晩飯はカニを煮たものとビーフカレーという豪華なメニューであった。部屋に戻って暫く論文を書いてから就寝。



マロヴォ・ラグーンの瀟洒なロッジにて

今これをタイプしているのは,マロヴォ・ラグーンの端の方に位置するTIBARA LODGEという瀟洒なロッジのコテージである。海に突き出たテラスの机で,翳りかけた夕日を横から浴びながらvaioを叩いていると,ほとんどヘミングウェイの世界である。詳しくは後述する事情で偶然泊まることになった宿だが,実にいい感じだ。日が暮れるに連れて蚊が煩くなってきたという欠点はあるものの,1泊1人SI$45は安いのではないだろうか。昨年のエスニックテンション以前は世界各地から大勢の客があったけれども,それ以後ばったり客足が途絶えたといって閑散としているのだが,天水を貯めたタンクからの水でシャワーも浴びられるし,トイレもちゃんとあるし,部屋には蚊帳付きのベッドがあるなど,施設が一応維持されているのは凄いと思う。さすがに電気はないようだが,昨夜アグネスロッジでフル充電したので,まず問題はない。それにしても,ここがリゾートとして機能しているうちに客足は戻るのだろうか? とやや心配である。これだけの施設を朽ちさせるのは勿体ないと思う。ちなみに,ニュージーランド政府からの援助を受けて建てられたということだから,ニュージーランド政府が宣伝すれば,何とかならないこともないと思うのだが。

今日は朝6:30に起きて荷造りをし,7:00からポーチドエッグとソーセージとジャムバタートーストとコーヒーの朝食をとり,チェックアウトして空港へ向かった。8:45に空港で荷物を預けたのだが,飛行機が着く予定の9:15になっても音すら聞こえないので,空港の係員に聞いてみると,チョイスル島に寄ってくるために1時間遅れで着くという。仕方ないのでアグネスロッジに戻り,日本に電話をかけた。久々に聞く子どもの声は,なかなかぐっとくるものがあったが,4月から非常勤講師をする科目のシラバスの校正が来ていて,帰国以前に校正しなくてはいけないことがわかって,偶然ながら電話をかけられてよかった。怪我の功名というやつか。

10:30頃漸く飛行機が着き,さらに20分ほど待ってからセゲに向けて出発した。20分ほどの小飛行で着いたセゲは閑散とした場所だったが,偶々空港にいた男3人組に,ここからビチェへ行きたいんだけど,ボートをアレンジしてくれるところを知らないかと聞いたら,今日は外洋が荒れているから1泊して明日の朝ビチェへ行けと薦められて,取りあえずセゲラグーンエッジロッジというところへ行った。ロッジ管理人のピーター氏から薦められるままにそのまま1泊するかという感じだったのだが,そこまで連れていってくれたジョーという男が,2時に着く飛行機で来るフィリピン人を連れてマロヴォ・ラグーンを通ってMERUSUというところまで行くから,その途中まで同乗してラグーンのロッジに泊まれば,ここよりビチェに近いから明朝すぐにビチェに行けていいんじゃないかという,大変貴重なサジェスチョンをくれたので,急遽予定を変えて,このTIBARA LODGEへ来ることになったわけだ。ここで降りたときに荷物が1つ残っているのに気づかずに,ボートが行ってしまったので,同行している山内君は,今それを追いかけてMERUSUに行っているところである。何ともいろいろとハプニングはあるものだ。そういえば,セゲからロッジまでのボートは,最初はピーター氏のもちもののような話で,燃料代を我々が出してドライバー代をフィリピン人が出すというような話で,すぐに出発するためと言われるままにピーター氏に燃料代を払ったのだが,このロッジで降りるときにフィリピン人に聞いてみたら,実はMERUSUの林業会社シルベニアの持ち物で,我々が同乗させて貰っていたのだったことがわかった(ある意味では呉越同舟という状況)。つまり,我々はピーター氏に燃料代を騙し取られたわけだ。口利き料だと思えばそれほど腹も立たない額だが,やり方が気に食わない。このときから我々はピーター氏をあまり信用できなくなった。

しかし,こうして日が暮れてみると,このロッジの最大の問題は蚊だと思う。比較的涼しいので,長袖長ズボンでも耐えられるのが救いだが,そうでなければ蚊にやられてぼこぼこになってしまいそうだ。何匹か叩きつぶしてみたら,恐ろしいことにハマダラカであった。ここで無防備にしていたら,簡単にマラリアに罹ってしまいそうだ。山内君が無事にバッグを見つけて帰ってきた後はすぐに食事にして,食後は早々に蚊帳の中に退散して眠った。



地の果ての楽園へ

6:40頃明るくなったので起きたが,まだ多少蚊は飛んでいた。コーヒーでも飲もうと思ってお湯を沸かして貰うために薬缶をもって歩いていくと,向こうから初老の小太りの男がやってきた。このロッジのオーナーで,昨日我々の接客をしてくれた男たちの父親で,かつMBILI村のチーフでもあるLUTEN氏であった(ロッジはMBILI村から離れて彼のファミリーだけで運営している)。第二次世界大戦中に生まれたという。1994年にニュージーランドからの援助を得てこのロッジを開き,昨年まではそこそこ繁盛していたが,その後我々は8ヶ月ぶりの客だそうだ。下にも置かない歓待ぶりも道理である。

Vegetation in the Cape of Gatokae Island

9:00前にボートに乗って,ビチェ村へと出航した。強烈な太陽の光を浴びながら比較的穏やかな波の上を進んでいくのは,なかなか気分がいい。ガトカエ島の東端をずっと南下したのだが,岬のところが険しい崖になっていて,暗礁に波が砕けるところからマングローブ,ココヤシ,もっと高い木々と垂直に広がる植生のグラデーションが美しい(右写真)。岬を超えると,ビチェ村は目と鼻の先であった。10:00前に上陸した。

30戸にも満たない家からなる小さな村だが,海からは豊富に魚が獲れ,畑からはイモがとれるので,食べるには困らない。もともと焼畑農耕をしているのだが,昔から焼畑をしてきた土地は痩せてきて休耕期間も長くとれないらしく,林業会社に新しい土地を伐採させて,その分を焼畑として使うようになったということだ。見方を変えれば,焼畑にする分だけの土地を伐採させるので,無闇に伐採面積が広がることはなく,持続的になっているのかもしれない。

ガトカエ島は急峻な火山島なので,水源が豊富である。ビチェ村の裏手にもきれいな川が流れていて,水浴びをするのも冷たい水で気持ちがいい。海を眺めれば遙か水平線が広がる雄大な景色に,地の果ての楽園とでも言いたくなる。ここも先発隊の受け入れが非常に良く,明日からばっちり調査ができそうである。昨日のロッジと同じくニュージーランドの援助で作られたきれいなロッジがあり,我々はそこで泊まることが期待されていた(久々の客なので)ため,先発隊とは別に泊まることになったが,まあ調査に支障はないと思われる。



個人主義の文化

Tabu place near the Mbiche village

5日月曜日は7:00に起き,8:00から朝食をとって,8:30頃学校へと出発した。午前中は学校で男性の生体計測をしたが,大人から子どもまで併せて20人足らずしか集まらなかった。どうもうまく調査内容がいきわたっていなかったようで,多くの人がPenjukuのクリニックに出かけたり,ガーデンの仕事をしに行ってしまったりしていて,村内に残った人が少なかったらしい。個人の意思決定を尊重するということなのだろう。昼食後はロッジで計測することにした。14:30過ぎまで測ったが客足が途絶えて,村内に測っていない人は残っていないという状態になったので,出かけることにした。古い畑を見てきてからタンブー・プレイス(右写真:中央付近にある白いものは古い頭蓋骨である)を見てロッジに戻り,水浴びをしてから,19:00過ぎまでぽつぽつと現れる人に合わせて測定をした結果,遠出をしている人以外はほぼ男性全員の計測ができた。

計測の途中で,セゲから無線連絡が入った。実はピーター氏からリコンファームしておいてやるから航空券を寄こせと言われるままに航空券を預けていたのだが,12日の飛行機がフルなので他の日を指定しろという。11日か13日と答えたが,ムンダの空港では12日に変更できたと言われたのだから,どうにも納得がいかない。しかも航空券がQANTASのだから無効だとか何とか変なことを言っている。ここのレティナロッジの管理人であるフェロール氏はマロヴォラグーンのエコツーリズム関係のロッジの組合みたいなものの有力者なのだが,彼がピーターなど知らない奴だという点からみても,どうもセゲラグーンエッジロッジのピーター氏は怪しいのではないかという疑惑が濃厚になってきた。ここにいてはどうにもならないのだが,無事航空券が取り返せるのかどうか,やや不安である。



調査は順調,充電もできたが……

6日は5:30に起きて待っていたら,6:00過ぎからカップが集まりだし,7:00頃にはほぼ9割の回収率を達成した。検査結果も非常に良く,ほぼ全員が健康だった。魚をとって食べ,畑で労働もするというライフスタイルが健康の秘訣だろうか。山内君が風邪気味で具合が悪そうなのだが,今日の女性の生体計測は無事にできるだろうか?

朝食のときにフェロール氏がいうには,近くのSombiro村に住むオーストラリア人Barry氏の強力なボートを借りてセゲに出るには90リットルの燃料が必要なので450SI$かかるということだ。かなり燃費が悪いボートではあるが,その分時間はかからないわけだから仕方あるまい。

10:30過ぎから女性の生体計測を開始し,昼食を挟んで14:30頃,その時点で村にいた女性は全員測り終えたので,畑に行ってしまった女性が夕方帰ってくるまでの間を利用して,カヌーで海に出て手釣りをしてみた。擬餌針の先をサゴヤシの葉で石を結んで作った錘に引っかけて糸を繰り出し,底がとれたら勢い良く引いて擬餌針をフリーにして,アクセントを付けながら引き上げる間に魚がかかってくるのを待つというシンプルな釣りである。ほんの1時間足らずだったが,底が10メートルから30メートルくらいあるので,不安定なカヌーの上で何度も糸を引き上げる作業には結構疲れた。1匹かかったらしいのだが,途中でばれてしまったのが残念である。まあ,村での語り草になるならいいか。

16:00にロッジに戻ったが,未測定の人たちはまだ畑から帰ってこないようなので,大急ぎで水浴びに行って来た。それでもまだ畑から帰ってこない人が数人いて,17:00から17:20までに2人,その後SDAの教会でのお祈りを挟んで,18:30過ぎから19:10までに3人を測定し,測れる人はほぼ全員測り終えた。後は尿の回収率だが,この分なら高い回収率が見込めそうだ。

教会でのお祈りのためにジェネレータを動かして蛍光灯をつけるというので,便乗してvaioの充電を試してみた。専用の小屋に鎮座しているここのジェネレータは結構大きく,240ボルトで23アンペアなので,蛍光灯を何本かとバッテリー充電くらいの電力消費には楽勝で対応できるのだ。これを使いまくれば,ポータブルの冷凍冷蔵庫なんかも使えるかもしれない。6:00頃から9:00頃まで充電したら,9%しか残っていなかった長時間バッテリーが91%まで回復した。vaioを回収に行ったときに,写真や動画を見せてくれと頼まれたので,日本のいろいろな写真のjpeg画像を見せ,テレビからキャプチャしてvaioに入れてある(新幹線で子どもを連れていくときに役に立つのだ)「だんご三兄弟」などのムービー画像を見せたら,フェロール氏の娘の一人が大変な興奮をみせ,踊り出した。刺激が強すぎてやばかったかもしれないような気もするが,まあいいか。22:00就寝。



マイナーサブシステンスを求めて

Collected urine cups at Mbiche

7日,女性は朝早いというので,5:00に起きて尿の回収を待ちながらvaioを打っているのだが,早くも5:15に2人,5:20に2人やってきて,高い回収率を予感させる。順調である。

8:00以前にはほぼ9割の女性の尿の測定が完了し(右写真),朝食にした。出足の良さの割には,その後の回収率は上がらなかった。10:00過ぎに諦めて店じまいすることにし,昼まで竹竿を使って餌釣りにトライしてみた。べつに昨日の雪辱を期したというわけではなく,この村で行われている生業活動のうち,主な現金収入源でも主食でも決してないのだが村人の何人かによって時折行われ,上手な人がそれなりの尊敬を受けるような活動として定義される「マイナーサブシステンス」としての釣りを押さえておく必要があったためである。結局,1匹だけ小さなベラのような魚が釣れたが,後は餌のヤドカリや巻き貝のむき身を小魚に取られ放題だったので,それ以上やると真剣にはまりそうになったことを自覚した時点で止めた。昼食後は,この村の特産である石壺(石壺作りもまた重要なマイナーサブシステンスといえる)の材料が転がっている海岸(右下写真)まで歩いてみることにした。途中激しい雨に降られ,海岸に張り出した大きな木の下で雨宿りをする羽目になったが,途中聞いた蛇男の伝説も面白かったし,石ころ海岸の眺めは何とも凄かった。その裏手には昔の村があって,スカルハウスがあったし,文化人類学者なら涎を流しそうな場所だなあと思っていたら,既にノルウェーのEdward Hvidingが話を集めて,非売品の本として出版しているのだった。主にマロヴォで仕事をした筈なのだが,地の果てガトカエまで押さえられているとは,何とも凄い研究者だと恐れ入った。

A beach composed of numerous rocks for making special jar

フェロールさんがいうには,スカルハウスや石ころ海岸は格好のエコツーリズムのサイトになると思うのだが,日帰りのゲストが歩いて来るには遠すぎるので誰も来てくれないのだそうだ。そのため彼らはより近いところに新しいロッジを建設しようとしているのだが,そうなったらそうなったでそれらの場所が荒れてしまいそうな気がするので,新しいロッジというのはあまり得策でないようにも思う。エコツー目的で来る客なら1時間くらいは歩くと思うので,むしろどこかに広告を出してエコツー目的の客をロッジまで引っ張ってくる方が効果的ではないだろうか?



快速ボートに乗って

The boat of Barry, 75 horse power!

8日,昨日測定し損ねた女性の尿を3検体とチーフの尿を測定してから,朝食をとり,Barryの75馬力の到着を待った。9:00頃Barryが来たというので村の前の海岸に出てみると,何とも素晴らしいボートが停泊していた(右写真はマティクリロッジというセゲ近辺で一番とされるロッジに停泊したときのもの)。映画にでも出てきそうな格好良さで,ここらではまずお目にかかれないような代物である。当然,石ころの岸辺には着けられないので,カヌーでちょっとずつ荷物と人を運ぶために出航準備に長い時間がかかったが,出航してしまうとその巡航速度は物凄かった。乗り心地も快適で,あっという間にガトカエ島を離れヴァングヌ島の下半分を回ってボポ村に着いてしまった。

ここで先発隊を拾ってセゲに向かい,ピーター氏から航空券を受け取って飛行場へ向かった。QANTASだから無効とか何とかいうのは,ムンダ=ホニアラの方がセゲ=ホニアラより高いので差額がリファンドされるべきなのだが,ムンダ=ホニアラのチケットがQANTASが発行したものだったために,直接差額を返すことができないという意味だったことがわかった。ピーター氏も思ったほど悪人ではなかったというわけだ。新たに11日の航空券を買って,ホニアラのQANTASのオフィスでもともと持っていた13日の航空券をリファンドするというのは,やや面倒だが仕方あるまい。11日の便は恐ろしいことにセゲを7:55に発つ予定なので,ボポを6:30頃出なくてはならない。10日にセゲに泊まった方が安全なのだが,どうも燃料代を騙し取られたし,ラグーンエッジロッジにはビール瓶が散乱していたので泊まりたくなくて,早朝にボポを出るという作戦で行くことにした。

快速ボートに再び乗って,途中マティクリロッジに寄ってからボポに着くと,これまで先発隊が泊まっていたパトリック氏の家に通された。彼は広島県の病院の臨床検査部に1年間留学していたことがあり,ホニアラのプライベートラボで長く働いていたが,去年のエスニックテンションで村に帰ってきたというスーパーエリートである。奥さんもホニアラのANZ Bankで働いていた人で,この家は大金持ちなのである。他の村人もそのことを知っていて,いろいろたかってくるという。いうなれば,個人の影響で暮らしに大きな影響が出ている村なのだ。これはプロジェクト的には調査に向いていないなあと思ったら,人口も50人しかいないし,実は歴史も新しい村で,かつカスタムなどについては前述のEdward Hvidingが詳しい聞き取りを終えていることがわかって,先発隊も調査地変更を検討中だった。もっとも,人口が少ないこともあって,家系図も完成していたし,生活時間調査も終えていたので,とりあえず今はこのまま生体計測と尿検査を完了することに決め,いろいろ打ち合わせをしてから眠った。



蚊の襲来に悩まされ

9日は6:30に起きた。11日の早朝にここを発つと考えると,10日の朝に尿検査をしなくてはならないので,是が非でも9日のうちに生体計測と血圧測定を終える必要があるのだった。教会でも重要な役割を果たしているパトリック氏に頼んで,7:00からの礼拝の後に,村人全部に測定のアナウンスをして貰った。これまでの村と違って,世帯を巡回して測定したので大変疲れたが,ほぼ全員の測定をすることができて良かった。

昨夜も結構蚊が多いなあと思っていたが,昼過ぎに排便のために海に行ったとき(この村にはトイレがなく,村外れの海に向かって排便するのだ),やたらに足首を蚊に食われたので,マラリアになりやしないかと心配になった。測定後に夕食をとった後がまたひどくて,足が痒くて安眠できないほどだった。どこかの町で買ってきたらしい1時間毎に時報がなってしまうアホな時計といい,生活環境としてはかなり厳しい家なのだった。



測定はいいけれど

10日は6:00に起きたのだけれど,6:30までは暗くて世帯巡回をすることができず,10:00までかかって,時には催促をしながら何度も村を回って尿を検査した。その甲斐あって9割程度の回収率を上げられたのでよかった。ところが,いいことばかりは続かないのが常である。後はバタフライファームでも見に行こうと思っていたのだが,俄に一天かき曇り,雨が轟々と音を立てながら降り始めたので家に籠もる羽目になった。

午後になり夕方になっても雨が降ったり止んだりなので,小降りの時を狙って結果の返却をするくらいしかできなかった。先発隊も結局明日一緒に村を出ることになったので,別れの挨拶をして回っていたら,村長がお別れパーティをしてくれるということになった。

ところが,別れの挨拶をした時刻が遅かったので,パーティの準備ができたのが20:30になってしまった。我々は腹は減っているし,明日のために早く眠りたいし,と罰当たりなことを考えていたが,貝やウナギやスズキのような魚の煮込みなどごちそうが並ぶパーティで送辞が語られるのを聞くと,感動せずにはいられなかった。こちらも拙い答辞を返したが,どう考えても負けていた。

最大の問題は,パーティが行われたのが,夜のオープンキッチンだったことである。当然のことながら多くの蚊に刺され,痒みを堪えるのが辛かった。22:00頃お開きとなり,眠った。



別れの余韻を残しながらホニアラへ

Airscape of Seghe

11日,4:00に目が覚めてしまったが,6:00まではボーっとしていた。空が明るくなってきてから大急ぎで荷造りを終え,ボートに乗り込んだ。7:10頃セゲ(右写真はセゲ空港を上空から見たもの)に着いたのだが,飛行機の到着が1時間以上遅れて,結局9:00頃離陸した。そうとわかっていれば,あんなに急ぐことはなかったのだが,事前にはわからないことだからしかたあるまい。

10:00過ぎにホニアラに飛行機は到着し,タクシーに乗ってメンダナホテルにチェックインした。ほぼ満室だそうだ。警官が拳銃を持って,犯罪者には断固として臨むようになったので平和が戻ったとタクシーの運ちゃんが言っていたが,そのせいだろうか。日曜なので何もすることはなく,昼はトーストステーキサンド,夜は天ざるそばを食べた他は,ずっとこの記録を打っていた。0:00を過ぎたので,そろそろ眠ろうかと思っている。



多忙な一日

4:30に目が覚めてしまったので,この原稿にデジカメ写真を散りばめてみた。テレビでは大相撲をやっている。今日は8:00前にドアの前にランドリーバッグを出してから,近所のカイバー(現地の人が入る立ち食い食堂のようなもの)で朝食をとって,いろいろ動く予定である。

帰ってきたのは15:00過ぎだった。大変に疲れたが,下記の通り概ね予定はこなせたのでいいか。

まずメンダナのフロントで支配人の山縣さんと話したいと言ってオフィスに入り,ウェスタンの話をちょっとしてから,学生が集めている尿サンプルを7月に日本へ持ち帰るときに,冷凍庫にちょっと入れて貰えるかどうか聞いてみたところ,快くOKしていただけた。その時のためにドライアイスを買える場所はあるかどうか聞いてみたら,人が亡くなったときに詰めるので使っているのを見たことがあり,Ranadiのアイスブロック店で扱っているのではないかという話で,意を強くして外に出た。まず行ったところは薬局である。虫さされの薬を買おうと思って,Mosquito bitesにつける軟膏をくれと言ったら,SOOVという名前の,殺菌消毒剤と痛みを止める成分が混ざったクリームを薦められ,買ってみた。取りあえず痒みは弱まるようである。

次に向かったのはQANTASのオフィスである。ここで予定に狂いが生じた。リファンドは受け付けられないというのだ。日本で発行されたので,日本のオフィスでしかリファンドできないそうだ。仕方ないので明日の国内線のキャンセルと国際線のリコンファームだけした。今回の教訓は,ソロモン諸島の国内線は,ソロモン諸島に着いてからSolomon Airlineのオフィスで購入すべきだということだ。なお,ここでは驚いたことに,以前メンダナで結構な値段を払って購入した記憶があるホニアラ市内の案内図が無料で配布されていた。メンダナ恐るべしである。

次にANZ Bankに行ったのだが,日本円のキャッシュのレートはSI$1が27円を超えるという悪さだったし,考えてみればQANTASのチケットがリファンドできなかったのだから,メンダナの支払いをキャッシュでするには2万円程度を両替しなくてはならず,馬鹿馬鹿しいのでやめた。メンダナの支払いをクレジットカードにすれば問題なかろう。次いでカイバーに入ってエッグバーガーとホットドッグを買い,メンダナの1/4の値段の朝食をとってから,Westpac銀行の建物の3階にある日本大使館に,学生の在留邦人届を出しに行った。宮本さんがいらしたのでウェスタンの事情を多少話してから,お世話になりますといって辞去した。平田大使に代わる新しい大使が赴任してきていて,現在チョイスルに出張しているけれど,今週末に送迎パーティがメンダナで行われるらしい。JICA事務所にあったと思われるパンフレットや本が大使館の方に移ってきていて,中に日本鯨類研究所のパンフレットがいくつもあったのが面白かった。

Ranadiまでは結構遠いのだが,天気も暑くもなく雨でもないので,運動不足解消のために歩くことにした。途中SIMTRI (Solomon Islands Medical Training and Research Institute)に寄ってみたら,かつて何本か共著論文を書いたDr. Judson Leafasiaがオーストラリア留学からPh.D.のための研究で帰ってきていたのだが,ちょうどそのための研究でマライタ島に行ってしまったということで会えなかった。今週末には帰ってくるというので,もう少しで会えたのだが,惜しかった。それでもChief Antimalaria Officerに会えて,いろいろ話ができたので良かった。彼は1月に日本に来て神戸大やら名古屋大やら自治医大やらを訪ねたばかりで,先月末から自治医大の石井先生のグループ(ぼくも1995年に参加してガダルカナルで一緒にマラリア研究をした)がホニアラに来たのをいろいろ世話したらしい。パラダイス村のレナードのことも知っていたので,雑談がはずんだ。ここでも冷凍庫が使えるかどうかとドライアイスの情報を聞いてみたら,SIMTRIの冷凍庫は小さくてサンプルを入れる余地がないし,普通の冷凍庫だというのでがっかりしたが,病院のMedical Laboratoryにはディープフリーザーがあるという有益な情報をくれた。ドライアイスはSIMTRIにも以前はガスから作る機械があったのだが,去年からの騒動でどこかに行ってしまって見つからないと言った後,TOMのアイス屋とか病院に電話で聞いてみてくれたが,全滅だった。ただ,Bernard氏が言うことには,ブリスベンまでは病院のディープフリーザーで保冷剤と一緒に凍らせておけば保つだろうということで,言われてみればそんな気がするので,ドライアイスはむしろブリスベンでの問題と思われた。

SIMTRIを辞去したら昼が近かったので急いでRanadiまで足を伸ばした。HRACという冷凍庫やクーラーを扱っている会社で,アイスキューブも売っているところがあったので,たぶん山縣さんが言っていたのはここのことだろうと思って聞いてみたら,確かに以前はドライアイスも売っていたが,ガスが尽きてから補充していないので今は売っていないし,近いうちには補充する予定もないということだった。需要が冷え込んでいるのだろう。仕方ないのでホニアラでドライアイスは諦めることにした。帰りは足が痛くなってきたのでバスに乗ることにした。NahaとRoveの間ならどこでも50セントで行けるというのは便利だ。東行きがNaha行きかKing George VI行きで,西行きがRove行きかWhite River行きで,どちらにせよ一本道なので,パプアニューギニアの迷路のようなPMV網に比べると極めて単純で利用しやすい。病院のところで降りて歩道橋を渡り,外来の左の入り口から入って20メートルほど進むと左側にMedical Laboratoryという部屋が見えた。やっていることをみると,臨床検査部のようなところだった。確かにこれならディープフリーザーがあっても不思議はない。中にいた人にDirectorの所在を尋ねたら,ちょうど昼時なので外出したのだろうと言われたので,じゃあ後でまた来るよと言って辞去した。

統計局にも行きたかったので訪ねてみると,香港宮殿(Hong Kong Palace)というレストランの右隣にあるPrinting Officeに移転中だと言われ,そちらに行ってみたら昼時のためかやはり誰もいなかった。本当はメンダナの肉うどんとおにぎりを食べたかったのだが,ぼくも香港宮殿で昼飯をとることにした。待ち時間が長かったのだが,その間に病院のMedical LaboratoryのDirector宛の,7月頃ディープフリーザーを使わせて欲しいという趣旨の手紙も書けたので,ちょうど良かった。チャーハンとコークだけでSI$34というのはそこらのカイバーに比べると決して安くはないが,メンダナに比べれば半額なのでなかなか良い。13:30に再び新しい統計局を訪ねたが,まだ誰もいなかったので,再びバスに乗って病院に行った。今度もDirectorは不在だったのだが,No.2にあたるChief Laboratory Officerがいたので,手紙を渡して頼んでみた。すると,「たぶん大丈夫だろう。ボスに伝えておくよ」という心強い返事とともに,ディープフリーザーを見せてくれた。なんとマイナス86度まで行く強烈な冷凍庫だった。これが使えるなら,ホニアラではドライアイスがなくても大丈夫だ。お礼を言って辞去後,歩いて三度統計局を訪ねた。今度は女性が一人いるのを見つけたので用件を話して頼んでみると,Deputy Government Statisticianという人を紹介してくれた。彼は去年SIAPの会議で幕張メッセに来たことがあるという人で,以前の村落単位のセンサスブックを100ドルで売ってくれた後,新しいセンサス結果なら明日くればコピーさせてあげると言ってくれたので,じゃあ明日9:00に人口学の論文を持ってくるよと言って辞去した。

こうしてメンダナに戻ってきたのだが,もうすっかり疲れ切っていて,暫く昼寝をしてしまった。その後この記録を打ち,これから夕食に行こうと思っているところだ。

夕食が出てくるのを待つ間,日本茶を飲みながら,ムンダのアグネスロッジに宛ててFAX原稿を書いた。今日手を打ったことを知らせておくためである。実に密度が濃くて我ながら満足な過ごし方といえる。夕食はどうせ米がついてくるだろうと思ってチキンとクレイフィッシュ(ビチェ村で食い損なって以来の執念,というわけでもないのだが)のクリーム煮を頼んだら,温野菜とジャガイモの付け合わせはあったのだが米がなく,少々足りなかった。まあ結局今年の調査でも体重が減らなかったので,足りないくらいでちょうど良いかもしれない。これから教授へのレポートを打つ予定。



ブリスベンに着くのが遅れて

今日も何故か4:00に目が覚めてしまった。日本時間で言えばまだ2:00である。ぼーっとしていても仕方ないので,とったデータを入力している。今日の予定としては8:30くらいにFAX送信を頼んでからここを出て,エッグバーガーか何かで朝食を済ませ,Statisticsに行ってデータを貰って戻ってきて11:00頃まで再び仕事をすれば,後はチェックアウトしてタクシーで空港に行き,国際線に乗るばかりである。

エッグバーガーとハムチーズサンドイッチとスプライトでSI$9.50だった。空き瓶集めで小銭を稼いでいるらしい老人と少年が近くで待っていて,スプライトを飲み終えた瞬間,老人が電光石火の早業で空き瓶を持っていった。専用の袋を首から下げているところからみて,商売として成立しているらしい。Statisticsではほぼ時間通りに昨日の人がやってきて,この夏出版予定の集計済みデータをいろいろコピーさせてくれた。Printing Officeに付属のコピー屋は1枚50セントと高いのだが,機械がオートフィードだし実に高速で秀逸だった。全部で28ドルだったので,56枚コピーしたということになる。これで,ホニアラでの仕事は終わりだ。

Cafe Mumu in the Henderson Airport

11:00になったのでチェックアウトした。マスターカードで精算したのだが,ほぼSI$800だろうという読み通りだった。すぐにタクシーが来てしまったので空港に行ったのだが,まだチェックインカウンターも無人という状態であった。いつの間にかCafe Mumuという店(右写真)ができていたので,そこでやや早めの昼食をとって時間をつぶした。ただ,後になって考えてみると,ここで昼食をとってしまったのは失敗だった。機内食が食べきれないくらい大量に出たのだ。ここは多少空腹なくらいで耐えるのが正解だろう。11:40頃になって,やっとカウンターに人が出てきたのでチェックインできた。日本で取っておいたETASは,ここで見せねばならない。それからまた長い待ち時間があって,12:50頃になって出国税を払うカウンターがやっと開いたので1番に手続きを終えた。それから出国手続きをするゲートが開くまでの時間がまた長かった。14:20出発予定だというのに,13:50まで開かなかった。暇つぶしに乗客を眺めていたら,砂やら石やらたくさんの荷物をもった大集団がいて,チェックインの手続きに手間取っているようだった。どうやらボポ村でその1人に出くわした,ドイツ人の地質学者のグループらしい。彼らは昨年の丸山茂徳先生のプロジェクトにも絡んでいるとか言っていたが,今年は彼らだけでやっているのだろうか? セゲラグーンエッジロッジのピーター氏が言っていた,英語すらあまり話せないドイツ人の学生グループとかいうのは,彼らのことだと思われる。見た目の年齢からすると,2人くらい教官も混じっているようだ。

いま漸く出国手続きが終わって,搭乗待合室でBOARDING GATEが開くのを待っているところである。搭乗待合室の免税店は昨年よりずっと寂れていて,ほとんど品物がないように見えるのだが,偶々今日だけないのか,それともテンション以後,免税品をたくさん買うような観光客はまだ来ていないということなのだろうか。

暫く待ってやっと搭乗になったのだが,件のドイツ人たち(既にすっかりドイツ人だと決めつけているが,確証があるわけではない)がなかなか乗ってこない。また何かトラブルが起きたのだろうか。いい加減にして欲しいと思いつつ,せっかく取ってきたサンプルの大事さはわかるので,仕方ないかなとも思う。しかし,そのせいで出発が30分近く遅れたのにはまいった。ブリスベンで入国手続きを終えたのが17:00を過ぎていて,市の中心へ向かうコーチが次に出るのは17:45だとかいう。AUS$9(本当はAUS$9.50の筈だが,どういうわけか50セントディスカウントになった?)を払ってチケットを買い,Brisbane Transit Centre (BNC)に着いたのは,既に18:10となっていて,病院に向かうには遅すぎた。病院へは日本からもコンタクトすることができるから,取りあえずドライアイスを探すことにした。しかし,もちろんその前に宿を探さねばならないし,さらにその前にCITICARDで金を引き出さねばならない。BNCの2階にあったATMにはcirrusのマークがあったので試してみたら,何の問題もなくAUS$300を引き出すことができた。やはり空港のTravelexの機械だけがCITIBANKのsavings accountからの引き出しをサポートしていないということなのだろう(空港にはTravelexのATMしかないのは,何かの陰謀だと思われる)。これで勢いを得て,BNCから市の中心部の方へ歩いていくと,まず目に付いたのがExplorers Innという宿であった。1泊1部屋AUS$75からと書いてあるし,雰囲気もなかなか良さそうだった。しかし,もっと安くて良い宿があるかもしれないと欲をかいてうろつき回ったのは失敗だった。市の中心部にもいくつかきれいな宿はあったのだが,すべてAUS$75より高いのである。シェラトンとかヒルトンとかは端から問題外だが,名の知られていない宿でも,大抵はAUS$95とか100なのだ。Tourist Guest Houseとかいう病院の近くの宿は,BTCからフリーピックアップがあって,エアコン付きのシングルルームで1泊AUS$50という安さなのだが,スーパーなどに行くにもあまりに遠い。こんなことなら初めからExplorers Innに決めてしまえば良かったと思いながら戻ってチェックインしたのは19:00近かった。この宿では,現金精算の場合は先払いで,かつ電話をかける場合にはデポジットがAUS$20必要なので,都合AUS$95を先払いする必要があった(チェックアウトの時に,使わなかった分はリファンドされるということだ)。ゼロ発信で部屋から国際電話ができるのはありがたい。早速家に電話をした。1分で約AUS$2ということなので,3分くらい喋ったからAUS$6引かれるのだろうが,安いものだ。回線品質もきわめて良かった。

テレビがあってエアコン付きで冷蔵庫も熱いシャワーもトイレも湯沸かしポットもあって,机があってコンセントも使えるので,設備としては十分である。電話機が普通のモジュラージャックなので(壁のソケットはオーストラリアの形だが,そこからアダプタで普通のRJ45に変換されて電話機につながっている),その気になればvaioにつないで直接インターネット接続もできるし,FAXだって送れてしまうのだ(どうせ明日帰るからやらないが,このホテルにFAXを送るという裏技を使えばプリンタ代わりにさえなる筈)。なかなか優れている。ホテルのレセプションで,駄目元でドライアイスの入手可能性について聞いてみたのだが,もしかしたらスーパーに売っているかもしれないけど,たぶん売っていなくて,Novelty Shopにあるかもしれないとかいう曖昧な答えしか貰えなかった。まあ明日空港の公衆電話のところにある電話帳でIce関係で引いてみよう。もしかしたらWEBで検索する方が早いかもしれないが。

ふと気が付くと20:30近かったので,食事をするために外に出た。この宿にもレストランはあるのだが,夕食は20:00までしかやっていないのだ。スーパーも21:00で閉まってしまうので,明日の朝食を買うべく,慌ててMyer CentreのところのCole Expressに向かった。ベーグルと濃縮ジュース(実はただの500 mL容量のジュースを買ったつもりだったが,宿に帰ってよく見たら水で薄めて飲む奴だった)とハムと杏ジャムとフルーツサラダを買ったのはいいとして勢いでコンピュータ雑誌まで買ってしまったのは失敗だった。オーストラリアは情報が古いというのをすっかり忘れていた。日本を出る前に週刊アスキーで読んでいた内容の方がずっと新しい。晩飯はCole Expressのもう1つ下のフロアにあるマレーシア人らしいおじさんがやっている店で,鶏肉ラーメンを頼んだ。トマトジュースと合わせてもAUS$8.60という安さである。ここまでケチることもないのだが,勢いという奴である。宿に戻ってシャワーを浴びてここまで記録を打ち終えたら,23:00を過ぎたので,そろそろ眠ろうかと思っているところである。明日は7:00にチェックアウトしてタクシーで空港へ向かう予定なので,早起きしなくてはならない。いよいよ日本である。



帰国の日

6:00前に自然に目が覚めた。やはり興奮しているのだろうか。紅茶を作ってからベーグルにジャムを塗ろうと思ったら,買ってきた杏ジャムの小瓶の蓋が固くて開かないのは誤算だった。何か特別な開け方があるのでもない限り,この固さでは普通開けられなくて困ると思うぞ,と思いながら,仕方ないので,ハムをベーグルに挟んで食べた。濃縮ジュースのは結構飲んだのだが,とても消費しきれないので,水で薄めたものを魔法瓶水筒に詰めてもっていくことにした。うん,なかなかいい考えだ。

チェックアウトしたらAUS$13がリファンドされた。ほぼ昨夜の読み通りだった。読んで貰ったタクシーの運ちゃんはいかにもオージー然とした人で,例によってビューティフルダイ! (Beautiful dayなのがBeautiful dieにしか聞こえないというのは有名な話だ)とか叫びながらトランクに荷物を入れ,国際空港へ向かった。途中左側の道路脇にナイトスポットがあったらしく,へっへ,兄ちゃんあそこはいいところだぜ,オーストラリアガールは試してみたかい? とか手振り付きで聞くので,そんなとんでもない,ぼくは結婚していると答えたら,へい,そうかい,じゃあ帰ったら奥さんと頑張りなとかいうのだ。手振りなんかせんで運転に集中して欲しいものだと思った。

チェックイン等々無事に済んで,8:10には待合いロビーに着いた。ここにはコーヒーショップが2つあるのだが,81番ゲートの向かいの店の方が空いていて,しかも安いのでお薦めである。同じカフェラテが,ロビー中央の混んでいる店ではAUS$3.90なのに,こちらではAUS$3.30である。日航のフライトアテンダントさんたちもこちらで買い物をしていたから,通はこちらを使うのだと思われる。8:30頃,ゲートのそばでミーティングをしていたフライトアテンダントさんたちがゲートを通って乗機し,いよいよ帰りが近いという気分になってきた。後は土産物を買うだけである。

結構土産物を買うのに時間がかかってしまい,9:10にボーディングゲートを通って席に着いたのは,客の中でもかなり後の方だったように思う。相変わらず新幹線より狭いJALのエコノミーは,vaioを開くのもやっとである。実は飛行機の中でvaioを使うのは初めてなのだが,狭さを別にすればたいした問題はない。揺れはあさま号と同程度だと思う。さっきからCh9で久々のJapanese Popsを聞いているのだが,川本真琴がニューアルバムを出していることを初めて知った。買ってしまいそうだ。さっき機内食が出たのだが,なぜどこの会社のどこの路線でもブラウニーはあんなに甘くてくどいのだろう。ブラウニーだけでもあんなに甘いのに,チョコレートソースまでかけることはないじゃないか。

とにもかくにも,無事に日本へ帰れて良かった。


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