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2002年ソロモン諸島往還記

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これは,2002年1月16日から2002年2月13日までのソロモン諸島調査についてのメモである。調査内容についてはプロジェクトの公式サイトや論文などを参照されたい。前年の往還記はこちら。

1月16日(水)

web日記に予定を書いた後の流れとしては,一時は出発に間に合わないのではないかと危ぶまれたほどであったが,すべてがまるで嘘のように調子よく物事が運んで,なんとか無事にブリスベンに向かう飛行機に乗っている。

まず朝は,郵便局からカフェテラス本郷に回ってモーニングセットを食べ,その足で富士銀行に向かった。カードで現金20万円を引き出してから2階に上がって,米ドルTCを1250ドル分買ったのだが,10:00前だったので前日のレートが適用されて,少し得をしたようだ。

ついで,詰め物が取れてしまった歯の応急処置をしてもらうために,本郷三丁目交差点近くの3階にある又野歯科に行ってみた。9年前のカルテが残っていたのにも驚いたが,予約なしで,しかも保険証ももっていないという最悪の条件だったにもかかわらず,今夜から海外出張という事情を説明したら快く保険診療で応急処置をしてくださり,薬の処方までしていただけたのは助かった。待ち時間に卒論生の原稿チェックもできたので,時間的にもちょうどよかった。ありがとうございます>又野先生

ただ,保険証の番号を確認しなくてはいけなかったので,コピーくらい持っておくべきだったなと後悔しつつ,医学部経理掛に電話で問い合わせたりする必要があり,13:00頃までかかってしまった。もっとも,調剤をしてもらいに行った薬局でついでにキンカンなども買えたのはよかった。

昼食後,御徒町から秋葉原方面に歩いて釣り具の上州屋でレインウェアと防水帽子を買い,アメ横のムラサキスポーツという店でサンダルを買い,本郷三丁目交差点近くのホームショップやすのという店で軍足も買えて,漸く調査に持っていくものが揃ったのは15:30近かった。それから2時間で荷造りを終えるのは至難の業だったが,なんとかなってよかった。

タクシーで京成上野までは660円で済んだ。イブニングライナーに乗れたので,空港第2ビルで降りたのはまだ19:00頃だった。JALのカウンターに行くと,どうもオーバーブッキングしていたらしく,エコノミーがいっぱいなのでビジネスクラスに移ることになったのはラッキーだった。いろいろと幸先いいぞ。

1月17日(木)

ビジネスクラスの豪華な夕食(ちょっとピンぼけ)

食べきれないほどの晩飯と朝食(ビジネスクラスへのアップグレードのおかげである)を経て,朝のブリスベンに着いた。関空を出発したI君はすでに着いていて,明朝の出発が3:30なので空港近くの宿にしようということになり,Ascot Budget INNという宿にY君が電話してみたら,3人でA$75という激安料金で済んだ。狭いことは狭いのだが,非常に気持ちのよい宿であった。

昼飯を食べようと町にでてみた。ここはAscotという名が示すように競馬場の町である。競馬場といえば,一昔前の日本では場末のうらぶれたおじさんたちが競馬新聞を片手に目を血走らせているという印象があったが,最近は日本でも若者のデートスポットになっているらしいし,ましてやここはオーストラリアであるから,英国に準じて考えるならば紳士淑女の社交場の一つであり,競馬場の入り口から南に向かっては,カフェが並ぶちょっとお洒落な通りが続いているのだった。

この繁華街の南端にColeというスーパーがあったので,ここでオレンジジュースとミネラルウォーターを買い,引き返す道の途中にあったタイ料理屋Talay Thaiという店で昼飯にした。春巻きとワンタンスープとエビチャーハンとカレー風味の麺を注文して3人でshareして食べたが,実に美味だった。晩飯はここまで歩いてくるのが面倒なので買っていこうということになり,隣にあったカフェでサンドイッチのTake awayを頼み,待つ間にカフェラテを飲んだが,これもなかなか美味だった。

宿に戻ってからは晩飯までひたすら眠った。食後シャワーを浴びてから出国カードを書き,出発時刻になるのを待っているところである。

1月18日(金)

タクシーに乗って国際空港に着くまでは順調だったが,チェックインカウンターでちょっと手間取った。ぼくのETASが2月14日で切れてしまうので,2月13日の帰りの航空券を見せなければならなかったとか,I君が6ヶ月入るのに着いてからビザの発給を受けるのはおかしいといって文句をつけられたり(パーミッションを見せて説明したら,結局は何とかなったが),荷物が重すぎるといわれたり,都合30分ほどかかったような気がして,すっかり萎えてしまった。その分かどうかしらないが,出国カウンターはあっさりクリアできて多少救われた。

2人ほど遅れた客がいたそうで出発が少し遅れたが,無事にエア・ヴァヌアツとの共同運行便はブリスベンを発ち,雲一つない青空が広がるヘンダーソン空港に着いたのは8:00頃だったと思う。

たまたまメンダナホテルのマイクロバスが迎えにきていたので(もしかしたら他の人を迎えにきていたのかもしれないと乗ってから気づいたが),3人で乗り込み,ホテルにチェックインした。ここでもちょっと手間取った。3人部屋にするのにエクストラベッドを入れてもらおうとしたのだが,最初にきたベッドはまるで子ども用かと思われるスカスカのスプリングが全然利かない代物で,交換してもらうのに時間がかかったのだ。

それが一段落してからソロモン航空の事務所に行ってムンダまで往復の国内線チケットを買い,銀行に行ってUSドルTCを全部ソロモンドルに換え,大使館でMさんと話をしてから,I君のビザの期間を延ばすためにImmigration Officeに向かった。ここでもいろいろな書類を要求されたのだが,昼休みになってしまったので,とりあえずメンダナで天ぷらそばとおにぎりを食べた。

食後I君はビザ手続きに奔走し,その間にY君とぼくはミネラルウォーターを買った。ぼくは日本で切る暇がなくて髪が伸びすぎていたので,キングソロモンというホテルにヘアカットサロンがあったのを幸い,髪を切ってもらった。SI$50というのは日本円でいうと1200円くらいだから,あれだけ丁寧にカットしてくれれば決して高くはないのだが,現地の人相手にはSI$20しか請求していなかったのでちょっと悔しかった。ホテルに戻ってうとうとしていたらI君が帰ってきて,ビザ期間の変更が時間切れで間に合わなかったという報告がなされた。必要な書類は時間内に揃ったのだが,お金をCASHERに支払わねばならず,そこが3時で閉まってしまったということであった。悔しいのだが,I君は6ヶ月滞在するのだから,来週までホニアラで過ごすことにして,Y君と2人で先にムンダに飛んでおき,向こうで再合流することにした。

晩飯はFortuneという中華料理屋で,Mさんと4人で食べた。Talay Thaiと似たようなメニューを頼んだのだが,ずっと薄味で上品だったのが物足りなく感じたのは,喉が痛いので昨夜からずっと抗生物質(ケフラール)を飲んでいるせいだろうか。メンダナに戻ってきてシャワーを浴び,モバギで今日の一日を記録しているところである。昼寝を結構したので,今はあまり眠くない。

1月19日(土)

雨の中をタクシーに乗って,9:20頃空港に着いた。最初SI$50と高値をふっかけられたが,I君がこれまで何度もきているがメンダナと空港の間は30か40だったと文句を言ったら40になった。出発まで約2時間前ということもあり,我々が一番でチェックインした。荷物が重かったので超過料金をとられるのではないかと不安だったが,乗客が少なかったせいか,それともチェックインカウンターのおっちゃんがヴァングヌ島はニニベ村出身の人でY君とI君をよく知っていたせいか,ともかく何の問題もなくチェックインできたのだった。同じ便に乗った人の中に,ユナイティッドチャーチのモデレータ(要するにソロモン諸島のUC関係者の中で一番偉い人)がいて,Y君とI君は去年の夏の調査でこの人とも知り合いだったので握手をしたりした。

カニのチリソース煮とチキンフリッター

出発時刻の11:10には雨も小降りになり,飛行機は予定通りヘンダーソン空港を飛び立った。予定通り1時間でムンダに着くと,薄曇りだったが雨は降っていなかったので,ゆっくり歩いてアグネスロッジにチェックインした。サンフラワーという店がうまいというので昼食をとりに行ったのだが,残念ながら営業していなかったので,アグネスロッジで昼食をとった。トイレットペーパーなどの買い物をしたが,若干揃わないものがあったので,明日ボートでパラダイスに行く途中でノロで降りて買い物をすることにした。必要な物は,バケツ,謝礼用のタバコ,糊(忘れたので),ペットボトル入りの飲み水,封筒なのだが,封筒はGoldie Collegeの校長に出しておくものなので,ノロでは間に合わない。だから,アグネスロッジのマスターであるデイヴィッドさんに言って貰うか買うかするか,あるいはこの近くのチャイニーズの店が開いていればそこで買うかしなくてはいけない。

その封筒に入れる手紙をvaioで打ってBJ M40でプリントアウトしたり,パラダイス村の人名リストをExcelで整理してモバイルギアに移したりという作業をしているうちに夕食の時間となり,カニのチリソース煮とチキンフリッターに舌鼓をうった。ビールも1杯飲んで,明日からの調査に備えて鋭気を養ったところである。

1月20日(日)

今日からいよいよパラダイス村に入る。

腕時計のアラームで7:00に目を覚まし,コーヒーなど飲んで8:00前くらいから行動を開始した。チャイニーズの店が開いていたのでバスタオルなど昨日買い忘れたものを買い,アグネスロッジに戻って朝食を食べ,すぐさまボートで出発した。

途中Goldie Collegeに寄って,たまたま残っていた科学の先生に校長への手紙を渡せたのはよかった。ついでラヴァキに寄って預けておいた石油コンテナを引き取り,ノロに行ってボート用の石油を20リットル買った。謝礼用のタバコも10箱買った。石油は1リットルあたりSI$4.5とまあまあのレートだったが,タバコは1箱SI$10と高価だった。ラヴァキにはたまたまボポのPさん一家も休暇で戻ってきていたのだが,来週ボポに帰ってしまうという。Y君がI君と来週測定にくると言ったらすれ違いかもしれないねと残念そうだった。

サツマイモの石蒸しと鰹缶詰入りラーメン

ノロでは缶コーラを1本SI$3で買って飲み,のどの渇きをいやした。なにせもの凄い晴天で,暑いったらないのだ。それから再びボートに乗ってパラダイスに着いたのは12:20頃だった。去年の暴風雨が嘘のようなベタ凪で,まったく濡れなかった。暑さを我慢してレインコートを着込んでいたのが馬鹿みたいだった。

着いて2,3人に挨拶はしたものの,今日は日曜日なので一日中村人は教会でお祈りをして賛美歌を歌っており,何もできないのでとりあえず定宿にしている国会議員Tさんの留守宅で休むことにした。

校長の家に食事の世話を頼んで,サツマイモとラーメンとコーヒーで晩飯にした。なかなか眠れず,0:00近くまでY君としゃべってから歯を磨いて就寝した。

1月21日(月)

パラダイス小学校の教室

7:00に腕時計のアラームで起床。ビスケットとぬるま湯(昨夜沸かしてもらったのを魔法瓶水筒に入れておいたもの)で朝食を済ませ,校長の家に行ったが,しばらく待機するように言われ,9:00まで待っていた。もうそろそろ動き出さないとまずいんじゃないかと思って外にでたら,ちょうど始業式が終わったところだった。ここは今日から新学期なのだ。後でわかったのだが,今週はずっと正規の半分の時間しか授業をやらないらしい。まだホリデイから戻ってきていない生徒もいるといのことだった。ともかく一番小さい子どもたちから身体計測を開始し,11:30までかかって58人を測ったところで,もう授業時間が終わっていたので,自動的に今日は終了となった。

サツマイモとコーヒーの昼食を食べてから,しばらくして夕方の測定のアレンジを頼むためにHさん(ホーリーファミリーの娘の一人で,かなり賢くてアシスタントを頼んでいる)に会いに行ったが,すでにコミュニティワークに出かけていて留守だった。しからば出生と死亡の記録を見せてもらおうとN氏(あとで知ったが,1960年以降のこの村の出生と死亡を出生月別に記録している偉大なインフォーマント)に会いに行ったら,これまで留守だった。しかたないので家に戻って体を休め,夕方水浴びを終えたところである。

1月22日(火)

7:00に腕時計のアラームで起床。サツマイモとコーヒー(昨夜沸かしてもらったのを魔法瓶水筒に入れておいたものを使用)で朝食を済ませた。コーヒーを飲んだらレナードがきて,しばらく話をした。8:00になったので測定を開始した。10:30までかかって50人あまりを測ったところで授業時間が終わって終了となった。

N氏の人口動態記録ノート(12月誕生の人の分)

Hさんのところに行ったらマラリアだといって具合悪そうにしていたが,N氏から出生死亡記録簿を借りておいてくれたので,それを借りてきた。昼飯を待っていたら,実はHさんのところから焼きボニートが届いていると教えてもらったので,ボニートとサツマイモを食べて昼食にした。その後入力をしていたらI君が到着した。ビザがうまくいかなかったので(前回の入国時にエクステンションをしていたので,それから1年は入国できないという決まりがあったとのこと。政体が変わったため?)再びホニアラに行かねばならないというのは悪いニュースであった。とりあえずここの調査をがんばるしかあるまい。

Hさんが使えないのでとりあえず今日の午後の測定は諦めて,明日からきちんとできるようにキンダーの先生に頼んだ。夕方校長がガーデンの仕事を終えてやってきたので,校長にも頼んだ。校長は実にしっかりした人であり,頼もしい。しかし,今回は夕食をEducation Comittee掛りにしているので,食事が不規則にしかこないのが痛い。結局20:00近くなってHさんがもってきてくれたサツマイモを食べ,暫くしゃべって眠った。

1月23日(水)

今日も腕時計の目覚ましで7:00起床。雨。朝食がなかったのでビスケットを食べた。7:45頃熱湯だけもらえたのでコーヒーを飲んで生き返った。

雨のせいか8:00になっても学校が始まらないので,Y君とI君は教会の方に行って測定を開始した。ぼくは昨日からの入力を継続している。9:00近くなって生徒が大勢学校に行った。どうやら遅れて授業があるらしい。しばらくするとディーゼル入りのランプを貸してくれたりしているロン毛のにいちゃんが大きな魔法瓶をもってきてくれた。中に熱湯が入っているという。ありがとうといって受け取ったら,スモークはあるかと聞いてきた。聞き取りのお礼にあげるための分しかないので,ナオミーノーガレムと答えたら,素直に引き下がってくれたのでほっとした。

暫く7月のレコードの入力をしていたら,Hさんが芋をもってきてくれた。時計をみると9:15だった。米が欲しかったらストアに買いにくれば料理はしてあげるとY君にいってくれというので,わかったと答えておいたが,実はムンダで米は買ってきてあるので,どうすべきか難しいところだ。

また暫く仕事をしていたらボートの音がして外が騒がしくなった。スピリチュアル・オーソリティが来たのだ。速攻でY君とI君も戻ってきて彼に写真を渡し,また4人で記念写真を撮った。まるで嵐のようだった。I君がスピリチュアル・オーソリティにタバコを進呈したのをさっきのにいちゃんが見ていて,にこっと笑ってI君にタバコをねだり,2本せしめていた。なかなか抜け目がない。

入力をずっと続けていたら,12:10頃,学校の先生が子どもをつれてきた。痛みはないのだが食べ物を吐いてしまうので胃が悪いのではないかと思うからもし薬があったら欲しいとのこと。済まないが原因がはっきりしないから薬はやれないと答えたら,あなたはヘルスの専門家だろうにわからないのかというので,いやヘルスの専門家だけれどシックネスの専門家じゃないからわからないと答えた。ここでうっかり口を滑らせて,マラリアなら専門家だけどと言ったら,じゃあマイクロスコープをもってきてるのかと聞かれて,今回はbirth recordとdeath recordを調べるのが目的だから持ってきていなくて日本にあると言い訳したが苦しかった。健康科学と医学の違いをわかってもらうのは日本でも難しいのだけれど,ここでわかってもらうことが本当は必要なのだろう。

その後,Education系からも芋のココナツ煮が届けられ,12:50頃Y君とI君が戻ってきて,芋とコーヒーの昼食となった。食後14:30から測定再開ということで休んでいたら赤ん坊を抱いた女性がやってきて,もう教会に大勢集まっているから測定をやってくれというので,Y君が慌てて飛んでいった(というか,折悪しくI君がクリニックの方に行っていたので,戻ってくるのを待って出かけた)。その間ずっとぼくは入力を続け,15:00過ぎになってやっと1月のレコードの入力が終わった。昔の人で生年月日が不明な人たちがすべて1月に入っていたので,1月は184レコードもあって大変だったのだ。偶然かどうかしらないが,1月はかなり重要人物が入っていて,Hさんは1980年1月13日生まれだったし,ロン毛のにいちゃん(たぶん)が1984年1月31日生まれだということがわかった。彼の名前はやたらに長い立派なものであることがわかった。隣家のI氏が息子にかける期待のほどがうかがえるというものだ。

トイレに行ったついでに校長の家に行って米とラーメンとソロモンブルーを渡して調理を頼もうと思ったら,校長が眠っていたので躊躇っていたところ,子どもが寄っていって校長をたたき起こしてしまったので恐縮しつつ頼んでみたら快諾してくれた。よかったよかった。

9月のレコードを入力していて,またもや立派な名前だと思ったら,やっぱりI氏の子どもだった。もしかすると隣家のロン毛のにいちゃんは,1986年9月4日生まれかもしれない。ともかくI氏の子どもには長い名前が多い。落語の寿下無とか北杜夫のさびしい王様にはかなわないけど。

もうすぐ9月分が終わりそうだと思って入力中,さっき頼んだ米とラーメンとソロモンブルーを調理したものが,少年2人によって運ばれてきた。時計をみると17:00だった。それからさらに10分間入力して9月分が終わった。

Y君とI君はまだ帰ってこないので,先に水浴びをした。2月分に着手しようかとも思ったが,明るいうちに区切りのいいところまで進みそうになかったので諦めて暫く待っていたら,2人が帰ってきた。お湯が欲しかったのでヤカンを校長の家に持っていってもうちょっとくれるようお願いしたら,あっと言う間にお湯が届き,ラーメンライスの夕食となった。Y君が持ってきたふりかけでお茶漬けのようにして3杯目も食べてしまったので,ここまで順調に続いてきた減量計画は一時頓挫したのだった。

その後,23:00まで雑談をしてから就寝した。が,なかなか眠れなかった。

1月24日(木)

今日も腕時計の目覚ましで7:00起床。曇。昨夜Hさんがもってきてくれたサツマイモと,今朝校長の家から届いた熱湯で入れたコーヒーで朝食をとり,トイレに行って来てから入力を再開した。

8:30にHさんが新しいサツマイモをもってきてくれたので,残ったやつと食器を返して,明日の夜から聞き取りを手伝ってくれるように頼んだ(聞き取り項目は別ファイルに用意)。tomorrow eveningにミファラカムダウンといっていたからたぶん大丈夫だろう。問題は,それまでに入力をちゃんと終わらせて,プリントもしておくことだ。

モバギは結構使いやすくていいのだが,一昨日から困っている問題が一つ。ポケットエクセルで入力しているのだが,1964/12/30に洗礼を受けた人が何人もいて,その日付を入力すると勝手に12/31/64となってしまうのだ。なんらかのオートコレクト機能が働いているのだと思うが,まったく馬鹿馬鹿しい。仕方ないので,その日だけは先頭にアポストロフィを入れて文字扱いさせて逃げているが,ストレスがたまるのは確かである。

9:45に2月の入力が終わり,2月のノートに挟まれていたPinapitaiso Sunday 19.08.2001をX1として,その裏面のRane Podo/Lotu Koburu Sunday 19.08.2001をX2として入力することにした。これはあっという間に終わったので,10:05から11月のノートに取りかかった。

考えてみれば,N氏への聞き取りもしなくてはいかんな。このノートが1986年にどのように作られたのかということが大事だ。センサス絡みらしいが,きちんと聞いておかないと論文に書けない。聞き取り項目を後でリストアップしよう。

腹が減ったなあと思って時計を見たら12:00ちょうどだった。まだ6月の約半分のところである。6月のノートに取りかかったのが11:00だったから,だいたい2時間で1冊のペースである。この調子で行けば今日中にあと2冊半できる勘定になる。そこまでやっておけば,明日の午前中に2冊やってリスト完成ということになるので,明日の夕方までにソートと打ち出しを終える目処がたったといえるだろう。

12:40頃,Y君とI君が戻ってきて昼食。煮芋とコーヒーのみ。これで十分という感じはする。メンダナホテルの払いを精算し,今後の予定を話し合った。2月5日中にI君がパラダイスに戻ってこなければ,2月6日にぼくがボートをアレンジしてラヴァキに行くことになった。

食後,プレゼント用にもってきていたソーラー腕時計(なのだが,3年前に買ったので完全にバッテリーが切れてしまって光を当てても反応しない状態)を直そうとした。バッテリーに刺激を与えればいいと思い,時計の中から出して,太陽電池パネルから直接充電してみた。太陽電池パネルの電圧を変えたりして何度か試行錯誤するうちに,表示が戻ったので,やったー,直ったと思って,気を抜いて電池押さえの位置がおかしいままネジを締めたら,液晶が割れてしまった。徒労。

15:00前から6月のノートの入力の続きに戻った。15:50頃,Y君とI君が午後の測定に行った。17:30頃に米とラーメンの調理を校長に頼むのを忘れないようにしないと。ものすごい雨と強風が吹くのでこわかったが,17:15に10月分の入力を終えたのとほぼ同時に止んだ。通り雨だったようだ。次のノートにかかる前に,校長に調理を頼んでこようと思う。

恐ろしいことにバックアップバッテリの残量が足りないという表示が出た。メインバッテリが足りなくなったためと思うが,本当にバックアップバッテリの方が切れてしまうと問題である。あと一日でいいから保ってほしい。

調理を頼みに行ったら,校長のいとこだというおじさんがいた。ベテルチューイングをしていて,少々目つきがトロンとしていたが,話してみると普通だった。

18:45までかかって4月分を完了した。かなり暗いが,これから水浴びをしよう。

水浴び後に夕食。米と,野菜入りのラーメンと,コンビーフというメニューは,ここでは最高の贅沢である。コーヒーも飲んで,22:00過ぎまでしゃべってから就寝。

1月25日(金)

腕時計のアラームが鳴る直前に自然に目が覚めたから,体調は悪くないのだと思うが,背中が痛いし,体のあちこちが痒いのは困りものである。7:00なのに暗いなあと思っていたら,7:15にはかなりの雨になっていた。

トイレに行く前に8月のノートを終わらせてしまおうと思っていたが,9:10頃,我慢できなくなってトイレに行った。結局,8月が終わったのは9:40頃だった。最後の5月のノートの写真を撮っていたら,Hさんが来て,今日の夕方は何時頃来ればいいのかときくので,4時頃来てくれるように言った。食べ残した芋のプレートを返したら,校長の奥さんがカイカイの世話はしてくれるのねと言って寂しげに帰っていった。昨夜Y君とI君が校長の家に食事が重複しないように頼んできたのが伝わったのだろう。

5月のノートの裏表紙に,

PARADISE VILLAGE
KUSAGHE AREA
NORTH NEW GEORGIA
WESTERN PROVINCE

とアドレスが書かれていたから,NORTH NEW GEORGIAというのは固有名詞として通用するのだと思われた。やっぱりNorthでいいのだということがわかった。PCOの投稿論文を直さなくては。

11:10にN氏のノートの入力が終わった。あとはソートして整形してプリントすればよいのだが,最近の出生レコードが抜けているような気がするので,クリニックからY君が借りてきた出産記録簿も別ファイルに入力しようと思う。この記録は,最近のものにはApgar Scoreまで入っている。perineumが会陰で,intactが無傷,grazeが擦傷,episiotomyが会陰切開,tearが会陰裂傷だということはPDICCEで引かないとわからなかった。

どうもポケットエクセルの日付表示系は作りが甘いと思われる。1964年12月30日が入らないことを初めとして,表示形式の設定に異様に時間がかかったりする。ダメダメである。

入力を続けていたら13:00を過ぎたが,I君とY君はまだ戻ってこない。空腹なので昼飯にしたいところだが,食べ物もない。16:00になったらHさんも来てしまうので,それまでにプリントをしなくてはいけないし,悩ましいところである。

結局,米を500グラムほど校長の家に持っていって炊いてもらい,そこにY君のふりかけとソロモンブルー(スキップジャックツナ缶詰)を載せて醤油をかけて食べ終えたのが15:00過ぎだった。すかさず母親のアルファベット順のリストを印刷して,16:05頃きたHさんと一緒にN氏の家に行った。

N氏にノートを返してマグライトを進呈し,まずノートについてどうやって作ったのかを聞いた。1959年に学校を卒業してから人口増減がどうなっているのか知りたくなって,1960年からすべての人の出生と死亡を聞き取ってノートを作り,1986年に現在のように月別にしたということだった。何か特別な目的があったのかと聞いたが,ただ知りたかったのだということだった。それから,記録の不明な点をN氏に確認した。この人とこの人が同じ人かどうかというくらいのことは,ピジンでもわかるらしいので直接聞いていたら,Hさんが退屈そうにしていて,そのうちどこかへ遊びに行ってしまった。18:00過ぎにN氏への聞き取りが終わって帰るときに,暫くHさんを探してしまった。激しい雨の中をレインコートで帰ってきたら,足元がドロドロになった。水浴びをしてズボンや靴下を洗ったら,18:30を過ぎ,ほとんど暗闇である。

18:50頃疲れ果てて帰ってきたY君とI君とともに,芋(校長の家から届いた)とコーヒーで夕食にし,例によって雑談をしてから就寝した。

1月26日(土)

7:00起床。Hさんが9:00に来るはずなので,それまでに聞き取りの準備をする必要がある。それで,昨日N氏から聞き取った結果を元にしてエクセルファイルを訂正していたのだが,9:05にHさんが来てくれたときには,まだ全然終わっていなくて,ごめん,まだ終わっていないんで,午後またきてね,と言って帰ってもらった。ともかく聞き取りができるかたちにしなくてはいけない。

結局午前中でも終わらず,ラーメンと芋の昼食を食べてから,Hさんにまだ仕事が終わらないので夕方よろしくと言って戻ってきた。整理が1つ進むと1つ確認しなければならない項目が増えるのが困りものである。その後もずっと訂正を続け,15:45に漸く,N氏のリストを通しで見終わった。が,上述のごとく確認しなければいけない項目がたくさんできてしまったので,Hさんが来たらN氏のところに行ってくれるように頼もう。

根を詰めてデスクワークをしたのであまりに辛く,Hさんが来るまで一眠りしようと思って仮眠をとった。しかし,夢の中でまでレコードの矛盾を発見して目が覚めてしまったのは悲しかった。時計を見ると16:30近かった。まだHさんは来ていなかったので迎えに行って,N氏の家まで一緒に歩いていったが,今度はN氏がガーデンに行っていて不在だった。仕方ないので,明日のお祈りの後に聞きに来ると言い置いて帰ってきた。Hさんとは,13:00か14:00頃,ともかくお祈りが終わったら迎えに来てくれるという約束をした。家に戻ってきたら,ちょうどI君とY君が測定に出かけるところで,夕食の調理を校長の家に頼みに行く役を任されたので,水浴びの後で行くことにした。

水浴びをして校長の家に行って来るまでは天気が良かったのだが,戻ってきて,さてデスクワークを再開しようと思ったら,戸外は大雨になった。聞き取りをするには世帯単位のリストを作らねばならないので,ともかく頑張ろうと思う。ただ,昨日まではそうでもなかったのだが,今日は腕や足を何カ所も虫に刺されていて,痒くて集中力に欠ける。ぼくが未熟な証拠か。

18:10頃から暴風雨になった。家は揺れるし,窓越しに室内に雨が降り込んでくるので蚊帳を一時畳まなくてはいけないほどだ。Y君の部屋は風下側だからいいが,ぼくの部屋がもろに風上側で,I君の部屋もどちらかといえば風上なので大変である。落ち着いてデスクワークもできない。

米とコンビーフ入りラーメンとスキップジャックツナ+紅茶2杯という豪華な晩飯を食べ,22:00に就寝。

1月27日(日)

悪夢を見て6:50起床。あまりにもリアルでひどい悪夢で,暫く立ち直れなかった。帰国した日の家に帰る新幹線の中で,すべてのデータが入ったままモバイルギアとvaioが盗まれるという悪夢である。研究室によってデスクトップマシンにバックアップをとるとか,コンパクトフラッシュは抜いて胸ポケットに入れるかしようと堅く心に誓ったのだったが,ショックの大きさには参った。まったく阿呆な脳味噌である。

夢のディテールは起きてから作られるというけれど,妙に辻褄があっていたので,夢の中の駅長事務室の対応のおかしさに出会うまですっかり騙されてしまった。研究室で宴会が行われていて最終の新幹線にしか乗れなくなったとか,そうしたら混んでいて3人掛けの真ん中しか空いていなかったとか,窓側に大荷物を抱えた外国人観光客が乗っていて,軽井沢で降りるときに荷物をひきずるようにして大騒ぎをして降りていったのであのときが怪しいとか,vaioとモバイルギアを盗まれてもおかしくないようなシチュエーションがちゃんと設定されていたのだ。ショートストーリーが1本書けそうである。

天気も昨日に引き続いてあまりよくない。遠くで風の音も聞こえるので海も荒れているかもしれず,今日ラヴァキに向かうY君とI君にはつらいことになりそうである。

と思っていたら校長がやってきて,今はgood relibitだけれどもsea roughになりそうだから早く出発した方がいいというので,8:00出発ということになった。30分で荷造りをするのは大変そうだ。

何とか荷造りを終えて2人が出発したので,明日からの聞き取りに備えてHさんに見せておくための聞き取り項目の書式を作ってから,トイレついでにALL DELIERY ENTRIESを返しにクリニックに行った。途中で隣家のドレッド兄ちゃんが合流したので何かと思ったら,クリニックの前に人だかりがしていて,中央で両手にゴム手袋をしたナースのCさんが立っているのが目に入った。近づくと裸の男の子がうずくまっていた。頭にけがをしているようで,後頭部に当てたガーゼをCさんが押さえていた。ここでノートを返しても受け取っているような場合じゃないと思ったが,トイレに持ち込むわけにもいかないので,返すよと声をかけて,クリニックの机の上にノートを置いた。ドレッド兄ちゃんが周りの子どもたちにいいところを見せようとして,ガーゼを持ち上げて見せたら,頭から血が吹き出した。あんなに勢いよく吹き出すとは,動脈が切れているか,脳圧が高まっているかのどちらかと思われ,いずれにしろまずい状態と思われたが,ぼくにはどうしようもない。

トイレから出てきたら,Cさんが縫合をしていた。ここのナースは縫合までしてしまうのだ。驚きである。麻酔もなしで頭皮の縫合に耐える少年も大したものである。日本人だったら泣き叫んでいるか気絶しているだろう。縫ったところから血はでていないようだったが,中でも止まっているのかどうかはわからない。見ていても仕方がないので家に戻ろうとしたら,ドレッド兄ちゃんも一緒に来た。彼の説明によると,少年は木の上でビデオをのぞき見していて,足を滑らせて落ちて,下にあった石で頭が切れたということだ。脳に影響がなければいいが,あれだけ血が出ているのだから,相当な衝撃だったと思われ,もしかしたら危ないかもしれない。

家に戻って質問項目の清書をしようとポケットワードをタイプしていたら,校長の家からラーメンと芋の食事がやってきた。昨夜3人の一週間の滞在のお礼として払った70ドルが効いているのかもしれないが,ぼくは朝食はもう芋を食べてしまったので,11:30くらいに早めの昼食をとることにしよう。

昼食をとってから食器を返しに校長の家に行ったのだが礼拝中で誰もいなかったのでむなしく帰ってきて,Hさんを待った。14:30頃にHさんがやってきたので一緒にN氏の家に行き,再聞き取りをやった。しかしまだ不明な点が残った。帰ってきて入力していたらある人の二重レコードのどちらが正しいのか聞き損なったことが判明した。もっとも,二重レコードや出生間隔が短すぎるのはいずれにせよわからないので,親に確認するしかないのだが。帰り道にHさんに明日からの調査助手を正式に頼んで(ぼくが朝食後に迎えにいくという約束),聞き取り項目リストを打ち出したものを渡した。コンプリートしたら50ドル払うといっても別に動じなかった。彼女くらいになるとそれくらいの金は何でもないのかもしれない。その後,歩いている途中で,そういえばY君に貸していた枕をお母さんが返してというから返して欲しいんだけど,と言われた。いや,あれはI君がぼくと入れ替わりにここに戻ってきて使うのでキープしておきたいと答えたのだが,じゃあそれまでお母さんが使って,I君が来たらまた貸してあげるというので問題ないじゃない,というごくまっとうな反論を受けたので返すことになった。

モバギからBJ M40に印刷中の様子

データを直していたら,Y君とI君をつれていってくれたドライバーが帰ってきて,約束通り燃料をポリタンク(コンテナと言わないと通じない)に詰めてもってきてくれた。すばらしい。

直しが終わったデータを印刷するのに1時間ほどかかって,バッテリーもずいぶん消耗した。しかし全員のアルファベット順リストと転出・死亡者リストと母親のアルファベット順リストを出力できたので,仕事はしやすくなったと思う。18:00頃水浴びをしてぼーっとしていたら,19:00頃校長の家から晩飯が届いた。米とラーメン(ソロモンブルーとサヤインゲンみたいな野菜入り)である。美味であった。昨夜のケロシン代を払っていないので払おうとしたら,無料だからいいんだと言われてしまった。きっとお礼を寸志(喜捨か?)という形で払う以外にはお金は受け取らないのだろう。

ご飯の残りを返してからはすることもないので蚊帳の中に入った。ラジオをつけたら,ラジオ日本で原さんが出てサモアの話をしていた。空電がひどくて前半はあまり聞き取れなかったが,3月にまたサモア大学での短期講座みたいなものを企画しているらしい。きっとオセアニア学会ウェブサイトへの掲載依頼が届いていることであろう。その後中波を探っていたら,1035 MHzで英語混じりのピジンが入ってきた。ラジオ・ハッピーアイランドというソロモン諸島の公共放送SIBCがやっている放送局の番組であった。就寝前のお祈りみたいな話で,22:00には放送終了になってしまったので,ぼくも眠ることにした。短波でも放送されていると言っていたから,ラジオ・ハッピーアイランドを聞けば,日本でもソロモンピジンの聞き取りが上達するのではないかと思った。

1月28日(月)

あまり疲れていないせいか,2:30とか変な時間に何度か目が覚めたが,結局いつもと同じく7:00に腕時計のアラームで起床。外はしとしとと降る雨である。今日からいよいよ聞き取りを始めるので,気合いを入れなくてはいけない。頑張ろう。

7:30にトイレに行ったら,クリニックの前で草刈りをする人が何人かいて,しかも帰り道にも大勢の人とすれ違ったので,何だろうと思っていたが,8:00過ぎにHさんの家に行ったら,R氏(マニラ大学に留学していて,修士論文を書くために地元に帰ってきているマラリア研究者。他村出身だがホーリーファミリーと結婚している)が出てきて,今日はコミュニティワークでクリニックの草刈りでHもそっちに行ったよ,仕事はどうせ草刈りが終わってからじゃないとできないよ,と言われたので疑問が氷解した。しかし,そうならば草刈りの写真を撮っておくのだった。R氏の話を聞いてすぐにクリニックの方に行きかけたが,既に終わって大勢の人が帰ってくる途中だった。

8:25頃,Hさんも草刈りから戻ってきて,家の前から,ミナトは準備できているかと聞くのでOKと答えて聞き取りに出発した。結局,今朝は朝食を食べ損なってしまった。明日からは朝はビスケットにしようかと思う。 E1のHさんの家でいきなりお母さんがでかけてしまっているという不運だったが,E2から始めてE6まではその順番で順調に聞き取りができ,それぞれの家でファミリーフォトを撮ったらたいそう受けた。日本でカラープリントしてパウチするか,デジカメから写真を焼く機械で写真を作るかして,送る予定である。初経の聞き取りも盛り上がった。おばあちゃんが初経をもう覚えてないというのは仕方ないにしても,結婚時期まで忘れていたのには皆大受けであった。5軒を終わったのが10:30過ぎであり,約2時間かかったから,夕方の聞き取りは16:00から2時間くらいでやることにして,Hさんにアナウンスを頼んだ。

聞き取りをしている途中から晴れてすばらしい青空になったので,充電を試してみるべきだろう。昼のうちにやっておくべきことは,朝の聞き取り結果の整理と,昼飯を食べることと,水浴びである。

しかし,予想以上によくあることが,企画倒れである。結局,朝の聞き取り結果の整理と,その反省をふまえた夕方の聞き取り準備と,昼食(こちらから米は渡していないのに,なんとスキップジャックツナライスであった。買ってきたのだろうか? とはいえ,野菜なしなので,まるでPNGのサバ缶ライスのようだ)を食べただけで16:00になってしまったので,水浴びは聞き取りの後にすることにした。

しかし,待てど暮らせどこないのが,Hさんである。16:00に迎えに行ったらまだ帰ってないといわれ,帰ったらこっちの家までくるように言ってくれとHさんのお姉さんに伝言して帰ってきたのだが,恥ずかしそうに現れたのは16:30頃であった。でも,まだあんまりお母さんたちは畑から帰ってきてないよ,と小声でいいわけするところがまたHさんらしい。

かなり準備をしたつもりだったのだが,予想以上にリストにない子沢山の家が多くて,結局5軒を終えるのに2時間弱かかってしまった。ファミリーフォトをデジカメで撮ってみせると大盛り上がり大会になるので,これは企画としてよかったように思う。だんだんHさんも調子が出てきたのか,こちらの様子をうかがうように,ちょろっと日本語を入れてくる。T(去年ここに長期滞在した大学院生)に習ったのをまだ覚えているのだという。たくさんの紙をもらったのだけれど,紙はどこかへいってしまったのだそうだ。Hはクレバーだねとほめたけれど,あまり日本語をしゃべられるのはぞっとしないので,ぼくはやはり日本語はしゃべらないでおくことにする。

村にたくさん生えている美しいハイビスカスの花

じゃあ,また明日の朝続きをやるのでゴロネクストハウスエンタレムヘムとHさんに頼んで,家に戻ってきたのは18:30近くなっていて,慌てて水浴びをした。水浴びを終えてから薬をつけようと手足を見ると,明らかに左よりも右の方が治りがよい。きっと,無意識に右手で左側の虫さされを引っ掻いているのだろう。これでは皮膚炎で眠っているときに体を掻くのを我慢できない娘をしかれないと思って反省した。掻いちゃいけないということは,頭ではわかっていて,痒いときはキンカンをつけるようにしているつもりなんだが,無意識の動きまでは制御できないようだ。

晩飯は芋がいいなあと思っていたら,まるでこちらの気持ちを酌んだかのように,19:00に届けられたのは焼き芋であった。ここの焼き芋と来たら,スジが全然なくて,甘くてうまいのだ。これなら朝も食べられるし,調査に適している。後はこれを食べて歯を磨いて眠るだけである。

眠る前にさっきの調査のチェックだけはしておこうと思ってミスに気づいた。E7が留守で飛ばしたので,E11まででは4軒しかやっていないのだった。したがって,今日の成果は9軒だった。明日11軒やってキャッチアップしよう。

1月29日(火)

昨日以上に夜中に何度も目が覚めた。目が覚めても眠いので,眠りが浅くなっているのだろう。軽度の睡眠障害と思われる。結局,7:00にアラームで完全に目が覚めて,起きあがった。

昨夜のねらい通り,朝食は芋の残りとコーヒーである。芋の入った容器のふたが開いていて,ネズミの噛み痕らしきものがあったので,そこだけナイフで削って残した。が,これはちょっと過敏なのかもしれない。

今頃は卒論の提出直前かつ修論の発表直前で,教室は大騒ぎになっていることだろう。竹内君がいろいろヘルプに活躍していると思われる。こういうときに限ってコンピュータの調子が悪くなるのは,もはや定番と言っていいことなので,もしかすると東北方面にまでヘルプのメールが飛んでいるかもしれない。

ここで心配してもどうしようもないことだが。

8:30にHさんの家に行ったのだが,例によって不在なのだった。8:35まで待ってやってきた彼女がいうには,雨が降ったので薪が濡れないようにしていたのだということ。確かに朝は好天だったのに急に雨が降ってきたから,本当かもしれない。8:40から10:40までかかって5軒の聞き取りを終えた。

11:40頃昼食が届いたのだが,家に戻った直後からやっているデータ整理がまだ全然終わっていないので食べられない。が,12:00までやっても全然めどが立たないので,いったん中断して昼食をとることにした。

15:00頃,だいたい終わったなと思っていたら,隣の家のご令嬢がやってきて,話をしたいという。ニュージーランドに5年間留学してハイスクールを終わったという。ここで1998年から先生をしていたのだが,やはり勉強がしたくてホニアラのCollege (Kukumu Campus)で看護を学ぼうと思って先生をやめたらテンション(彼女はファイティングと言った)が起こってCollegeがクローズになってしまって困っているという。ニュージーランド時代の学友(女性)2人が迎えに来てくれたら,またニュージーランドに行って勉強したいのだそうだ。ニュージーランドの高校の学費は年間25000ドルもしたが,お父さんが払ってくれたのだそうだ。まさしくご令嬢である。日本人で広島出身のベストフレンドがいるのだが,彼は手紙を書いても返事をくれないといって嘆いていた。

ご令嬢はもっと話をしたそうだった(暇つぶしをしたいようだった)が,16:00になったので調査に行かないと,と言ってHさんの家に行って調査を始めた。Hさんも実はご令嬢なのだが,全然それらしくなくて,村のおばあちゃんやおじいちゃんとも仲がよいように見える。手を変え品を変えという感じで,おばあちゃんたちから聞き取りをしてくれるのはありがたい。18:00までかかったが,6軒やってイーストサイドを完了したのはよかった。明朝はサウスファーをやろうとHさんと約束して帰ってきた。

晩飯は昨日と同じく焼き芋。大きなのが3つきたので1つ半食べ,歯を磨いて小用を足して眠った。

1月30日(水)

夜中にもの凄い暴風雨で家が揺れるので1:30頃目が覚めてしまい,降り込む雨が気になってなかなか安眠できなかったが,途中から覚悟を決めて寝袋に潜り込んで眠った。6:40に目が覚めたら,別に寝袋も濡れていなくて,平穏無事な朝になっていた。もっとも,曇り空というか,まだ小雨が降っているが。

コーヒーを飲んで,昨日の残りの芋を食べて,調査に出ることにしたいが,雨がやんでくれるといいなあ。

整然と並ぶsleeping houses。本当は昼間は入ってはいけない

村を回っていると,印象がどんどん変わってくる。基本的にコミュニティワークの比重は高いものの,私有財産の違いはある。たとえば,ラジオをもっている家ともっていない家がある。畑作とコミュニティワークでは貧富の差は出にくい訳だが,どこで差が出るのかといえば,おそらく出稼ぎだろう。ロギングカンパニーに労働者として雇われる道もないではないが,これまで聞き取った限りでは,王道は教師と看護婦である。この2つには,比較的多くの村にあって人々に尊敬され,勉強ができれば誰でもなれる,現金収入まで得られる職業という点が共通している。たとえば,E12'として近代的な家を建築中のK氏はセカンダリースクールの先生であり,かつ大工でもある(テンションの影響や給料の遅配などでセカンダリーがずっと閉校だったため)。この家は製材された材だけで建てられているし,床にはプロパンガスのボンベまで転がっていた。他にも教師や看護婦として他村へ働きに行っている人が何人かいたし,その人たちのことに触れるとき親の顔が誇らしげだったように見えたのは気のせいだっただろうか? ラジオの所有と出稼ぎ人員の関係を調べたら有意な相関があるかもしれない。

8:30を過ぎ,雨も小降りになってきたのでHさんの家に寄って,サウスファーに向かった。聞き取りは順調にできて,10:30に完了した。N氏の家では,家族全員で種取りをしていた。材木用の植林に使うのだそうだ(コミュニティで使うのか個人用か聞けばよかったが,このときは聞き忘れた)。N氏がゴルディ・カレッジ卒であることもわかった。あの年齢にしては超高学歴といえよう。なお,F6の家は奥さんの産後ケアのために一家でクリニックにいるということで聞き取りができなかった。後でクリニックに行って聞いてみよう。

食後,芋の食べ過ぎと思われる腹部膨満感があったのでエクトールを飲んでトイレへ行った。帰りにクリニックによって聞き取りをした。F6の家の奥さんはちょうど今朝退院したということだったが,赤ちゃんの名前と性別が男の子であることは確認できた。ついでに家族計画の話と日曜日に頭に大けがをした少年の予後を聞いた。家族計画はやはりここのクリニックで(「30歳以上の女性を対象に」とCさんは言っていた)行われていて,Cさんが赴任した1999年からは記録が集計されていて壁に貼ってあった。彼女の赴任より前からずっと行われているということだったが,いつから行われているのかは不明である。ピルは飲み忘れるので注射が中心だということで,データから見てもそうだった。大怪我をした少年の予後は良好だそうで,今日ガーゼを新しく変えたそうである。やはり縫合手術ができるのはすごいことだ。クリニックは1960年代までは(少なくともN氏の娘でナースをしている人が生まれた1968年までは)いま学校がある場所に建っていて,1970年代に現在の新しい建物が作られたということだ。

今日の復習と午後調査の予習を終えて15:00過ぎに校長の家に昼飯にもらった煮魚の食べ滓をもっていき,ついでに米を半袋とスキップジャックツナ缶(スキップジャックとは鰹のことである。ボニートともいう。しかし,ここらでこの缶詰を指す言葉は圧倒的にタイヨーであり,たまにソロモンブルーと呼ばれるくらいで,スキップジャックツナなどと呼ばれることはほとんどない)を1つ持っていって,夕食に調理してくれるよう頼んできた。その後,15:10から15:30まで昼寝をして夕方の調査のために鋭気を養った。

夕方の調査は16:00過ぎからSouthグループをやる予定だが,また天気が崩れてきたので,何時に始めるかは微妙である。この数日と同様,16:30スタートにすべきだろうか。今日は朝が悪天候で動き出すのが遅かったので,まだ帰ってきていない家が多いんじゃないかという嫌な予感がする。

16:30に行ったら,Hさんが珍しく腕時計をして座って待っていた。どうしたの,遅かったじゃない,とでも言いたげな様子だったが,夕方の調査は帰ってきていない家が多いので,遅めの方がいいのだと昨日まで言い訳していたのはHさん自身ではなかったか。サウスグループに歩く途中,さっきのN氏の家での種取りで取れた種はコミュニティで植えるのかと聞いたら,N氏のトライブだけよ,という答えが返ってきた。実はトライブは機能しているんじゃないか。

悪い予感は当たって,S1の家がいきなり畑から帰ってきていなかったので出鼻をくじかれた。仕方がないから朝できなかったF6の奥さんへの聞き取りをやることにした。きっとあそこにいるから,といってS21(と思われる)家にHさんが行くのについていったら,確かにそこにいて,無事に聞き取りができた。S2から先も両親が畑から戻っていない家が多くて,めげた。S6でフルに聞き取りができたので,そこで2枚目の写真を撮り,S1からS5は明朝聞き取りをやってから写真を撮ることにした。明日の朝は8:00スタートにするとHさんに言っておいた。しかし,このままではあまりに進捗度が低くてまずいので,帰り道に飛ばしていたE7に寄ってみた。ちょっと探したら運良くE7の未亡人に会えたし,E4で聞き取り損ねていたおばあちゃんにも会えたので,聞き取りを追加した。E7では未亡人と孫娘の写真を撮った。

家に戻ってきたら18:00だったので水浴びをして,今朝のファー歩きで汚れたズボンと靴下も洗った。後は,さっき校長の家に置いてきた晩飯が料理されて出てくるのを待つだけである。

19:00頃晩飯が来たので食べて,残りを校長の家に置いてきた。いつものように食後はDITで暑いので,しばらく涼んでから歯を磨いて眠ろうと思う。ヘッドランプの電池が切れかけたので太陽電池で充電したものと毎日入れ替えながら使っているのだが,これは何とかなりそうである。あまり長時間はもたないが,確かに充電はできている。

1月31日

7:00起床。晴れ。太陽電池で2本を充電するときは6ボルトかけなくてはいけないと説明書に書いてあったので,ポジションを変えてみたが,成果や如何に? 夕方が楽しみだ。

朝食はぬるいコーヒーとクラッカー。やはりクラッカーよりは芋の方が100倍うまいと思う。人口分析の論文タイトルを思いついたので書いておく。"Growing Paradise"っていいんじゃないかと思うが,どうだろうか。

それにしてもここの生活は,天候や動植物の振る舞いなど日々違うとは言っても大きな変化はない。今朝はトイレに行く途中で豚がさかっているのに出くわしたが,視覚と聴覚に入力される情報という意味では都会に比べると単調と言っていいように思う。でも,実は都会の暮らしだって,メディアが発達しているから刺激が多いように感じるだけで,身の回りの暮らしという意味では十年一日のごとくなのかもしれない。

昨夜ラジオ日本を聞いていたら,石川直樹さんのインタビューと,社人研が新しい人口推計を発表したというニュースが耳に留まった。石川さんは7大陸最高峰登頂を史上最年少で成功させ,ミクロネシアで星の航海術を習って,カヌーなど当時の方法でオセアニアへの人類の拡散の跡を追おうとしている人である。たぶん,ラピタ人の跡を追おうとしているのだろう。しかし,分岐点がヒマラヤだとか,ポリネシアンアウトライヤーから南米にまで到達したと言い切ってしまうのはまずいのではないかと思った。メラネシアへの第一波はスンダランドとサフールが陸続きだった頃で,海の拡散よりはずっと前だということも無視していたし,もうちょっと勉強して欲しいという気もしないではなかったが,あまり勉強しすぎると実験航海みたいなことをしようという意欲がなくなりそうだから,彼みたいな人は今くらいの粗っぽさでいいのかもしれない。社人研の人口推計は岩澤さんたちがやっているはずだが,2006年から日本人口は減少し始め,2050年には現在より約2000万人少ない1億人あまりになるとしたそうである。詳しい情報はきっと社人研のサイトにあるだろうから,帰国したら見なくては。

今日は8:00から始めるとHさんと約束しているので,あと20分で出かけなくてはいけない。と思って準備していたら,校長の家の娘が7:55にケトルを取りに来てくれたので困ったなあ。

なんとか8:00にお湯の入ったケトルが届いたので,大急ぎで魔法瓶に移し,出発した。Hさんもスタンバイしていて,10:00をやや過ぎるまでの約2時間で,S1からS10までを完了することができた。すばらしい。夕方は早く行っても誰もいないので,17:00開始にしよう,とHさんに言ったら,オーケーとの返事だった。Hさんがちょっとやる気を出してくれているのがありがたい。

そういえば,謝礼用にノロでタバコを買ったのだが,自分がタバコを吸わないこともあるし,健康に良くないことがわかっているものをヘルスサイエンスのPh.D.をもっている人間が薦めるのもどうかと思うので,配っていない。全部I君に残していくことにする。代わりにファミリーフォトを撮っていて,日本で印刷して送ることにしている。デジカメで撮ってその場で再生してみせるとヘミナイシヤーという感じで非常に受けがよいので,ポラロイド並に使えていると思う。

昼飯として,とても甘いサツマイモスープが届いたので,食べてから返しにいって,校長としばし雑談をした。ここではPrepに6歳から11歳までの子どもが混ざって行っている。出来が悪いと留年もある。STD1が7歳から10歳,STD2が8歳から11歳という感じだが,中心的な年齢は+7と考えれば良さそうである。つまりSTD6といえば,だいたい13歳か14歳である。本来は一学年が同じ年齢の方がいいのだが,学校に通い始めるのが遅かった子どもはずっと遅いし,理解の遅い子どもは留年するなど家庭学習の程度も違うので,3歳くらいの年齢幅が1つの学年に生じてしまうのだそうだ。

日本の大学の制度やサラリーや物価などを話したら,ソロモン諸島の学校の先生の給料の最低ランクは2週間でたったの120ドルだから,安くてやってられないという話がでた。食べていくだけはできるがそれだけだ,という。ズボンも買えない。同じ人間が教育という意味では同じような仕事をしているのに日本とソロモン諸島ではどうしてそんなに違うのか? と問われると,なかなか簡単には答えられない。いやに聖人君子然としていた校長だが,やはり金は欲しいようだ。安いことは安いけれど,生活必需品の物価が日本の10分の1なんだから,生きていけないことはない額である。問題は,生活必需品自体が大きく違うことである。つまり,Living Standardがなぜ違うのかということだから,全体的な工業化水準の違いもあれば,政府の違いもあれば,エスニックテンションの影響もあれば,もちろん自然環境の違いもある。総じて言えば,歴史の違いということになるだろうか。もちろん,歴史の違いだからといって南北問題をそのままにしておいていいということにはならないが,簡単に解決する問題でもない。

コミュニティワークで村内に張り巡らされた自然流下式水道

たとえば,ODAか何かで発電所を作りまくって電線を張り巡らして村々を電化したとしよう。高温多湿の熱帯の環境では,電線を保守するだけで大変である。化石燃料があるわけではないので,原発か風力か水力か太陽光かということになるだろうし,風力と太陽光の併用は資源としては好適な環境かもしれないが,保守が大変である。保守できるだけの知識と技能を備えた人を育てる教育体制を作るには時間がかかるだろう。メンテナンスフリーで太陽熱温水器と太陽電池を合わせたような電源ができれば,それを村々に設置するという形なら,まだ現実的かもしれないが,設置するまでにかかる費用が莫大である。電化すると確かにLiving Standardを先進国並みにするためのインフラはできるわけだが,今度は電気製品,たとえば洗濯機や冷蔵庫を買ってこなくてはならない。そういう物資まで自国生産できる体制をつくるにはそれなりの投資と時間が必要になってくる。数十年単位での将来計画が着実に進行しなくてはうまくいかないだろう。しかも,問題は,それが必ずしも人々を幸せにするかどうかわからないという点にある。環境問題を別にしても,便利さを求める気持ちには限界がないので,常に渇望感に苛まれているのが,工業化の最先端を担っている日本という国に住んでいる我々ではなかったか?

それにしても先生たちとしゃべっていると英語とピジンの混ざる割合が高いので,こちらもつい英語になってしまうのだが,まずいだろうか。14:00頃までしゃべって疲れたので切り上げて家に戻ってきて,これからちょっと昼寝をする予定である。

昼寝のあとで,17:00にスタートしたのだが,やはり不在の家が多くて,3軒で18:00になり,続けるのを断念した。明日は8:00スタートだけど7軒やろう,とHさんに言っておいた。不在以上に困ったことは,去年の世帯主リストから転居していた家がいくつもあったことだ。予習が意味をなさなくなってしまうので,これは困る。仕方ないのだが。右の前腕部の虫さされの1つが腫れてきてやばい気がするので,抗生物質を塗って内服もしようと思う。

2月1日(金)

7:00起床。今日も晴天である。コーヒーを飲み,昨夜の残りの芋を食べる予定。右腕の腫れは多少引いた気がする。が,左膝の裏側近くに同じような腫れが1つできた。これはもしかすると刺した虫の種類が違うのかもしれない。ノミとか南京虫とか。寝袋を干すべきかもしれない。

トイレに行って来たら,新しい芋とお湯が届いていた。すばらしい。しかし,朝はもう食べられそうにない。

8:00から10:00まで8軒の聞き取りを終えてきた。朝はだんだん聞き取りの効率が上がってきているように思う。夕方はどうせ早く行っても人がいないから17:30からにしようとHさんと決めた。問題は土日がどうなるかである。来週には聞き取りが終わりそうだと思うが,まだ油断はできない。

昼になったら,ネギ入りココナツスープ煮の芋が新たに届いた。こっちの方がうまいので2つ食べ,朝もらった芋は食べずに返してきた。ついでに米と鰹缶を持っていって,晩飯によろしくと頼んできた。娘しかいなかったが,まあ通じただろう。

それにしても暑い。暴風雨もいやだが,カラカラ天気もまた困る。カラカラ天気でぼくが困ることは,水道が枯れることと天水を溜めているタンクが空になってしまうことである。まず水道だが,これが枯れてしまうとトイレに不自由する。クリニックのトイレは,水道でバケツに水を汲んで流す方式の水洗トイレなので,水道が枯れると流せなくなってしまうのだ。水道といっても,遠くの川の水をパイプで引いてきているだけの自然流下式なので,川の水が減ってくると止まってしまうというわけである。天水タンクが空になってしまうと,水浴びができなくなってしまうのが困る。もっとも,カヌーでパドリングして湾を越えた対岸に行けば水浴び場があるらしいが。

データ整理をしていたら,やや陽が陰ってきた。これは雨になるかもしれない。

だるくて床に転がって眠っていたら,雨音で目が覚めた。といってもポツポツと小雨が降っていただけだが。時計を見ると14:00を過ぎていた。多少気力が低下していてやばい状況である。あと5日程度のことなので,何とか気力を奮い立たせなくてはいけない。

17:00過ぎまでデータ整理をして,これから夕方の調査に出ようとしているのだが,なんだか疲れている。頑張らねば。ここで家族を思い出して云々と書くとマリノフスキー日記なみの情けなさになって,かえって格好いいかもしれないのだが,そういう気力すらないのでダメダメである。

夕方の調査は4軒に終わった。17:30からにしても釣りから帰ってきていないという家が多かった。18:30になると暗くて字が書けないし,夕方を何時からやるかというのは難しいところである。明日は8:00からということにした。問題は日曜日である。Northをやってしまうつもりなのだが,どの程度Hさんに来てもらうかが難しい。先生やナースの家にHさんが来ても意味がないような気もするが,校長の奥さんはこの村出身だし,ホーリーファミリーについてはHさんの協力が必要だろう。

晩飯は鰹缶と野菜を混ぜて煮た(?)ものと米。やはり美味と思う。

2月2日(土)

7:00起床。6:40頃に目は覚めたのだが,蚊帳の中に起きあがってぼーっと由無し事等つらつら考えるうちにアラームが鳴った。今日も悲しいほどの晴天である。

トイレに行く途中,ナースのCさんの家に鍵がかかっているのが目に入った。どうも今日は留守のようである。彼女がいないと村人は困るのではないか? N氏の娘がいるからいいのか。

トイレから帰ってきたらすぐに校長の家の養女が熱湯を準備するからといってヤカンをとりにきてくれた。すばらしい。すばらしいのだが,ヤカンだけもってきてくれたということは,今朝はビスケットにするしかないということである。別の種類のビスケットも買ってくればよかったのだが,HARD NAVYという緑色のビスケットしか買わなかったので,ほとんど無味なこれを食べるのはちょっと辛いのである。

村の入り口にある巨大な木。Symbol Treeと呼ばれている

それは家の何十倍もある,天にも届こうかという大樹であった。子どもたちは大樹の傍らに作られた広場で日が暮れるまで遊んだ。来る日も来る日も,同じような暮らしがあった。大樹は誰も知らないうちにその枝を碧空へと伸ばし,やがて天を覆った。人々は根本に集まった。そこが一番安全だということを知っていたからである。寄らば大樹の陰……違うか。

その日の調査に出かける前は,変な妄想ばかりしてしまう。

8:00にスタートしたのだが,土曜日は日曜日に食べるものの準備で皆忙しいということで,女たちは大挙して貝拾いに行ってしまったし,男たちは釣りに行ったり畑に行ったりしていて,あまり聞き取りが進まなかった。夕方も忙しくてあまりいないはずだから明日大勢やった方がいい,とHさんが言うので,そうすることにした。その代わり,明日は7:00スタートである。6:30には起きなくてはいけない。帰りにHさんの家に寄って聞き取りをした。写真を撮ろうとしたら,当主であるHさんのお父さんが,今は髭を剃っていないので,明日にしてくれという。それで,まず7:00にHさんの家に行ってファミリー写真を撮ってから出発,ということになった。昨夜ケロシンが尽きたことを思い出したので,Hさんの家のストアでケロシンを買おうと思ったら,ボトル売りしかしていないというのだが,まあそれでいいことにして買った。しかしHさんのお姉さんがいないので値段がわからず,明日値段を聞いて支払うことになった。まあシュウェップスの300 mLボトル1本分だから,そんなに高いことはないと思うが。

さて,そういうわけで今日土曜日は暇になってしまったので,予習を完成させてから,これまでの聞き取りの整理をして,聞き漏らした情報の一覧表を作ることにした。どうせ必要なことなので,ちょうどよかった。

15:00現在,まだ聞き漏らし一覧には到達していない。予習と整理をして,疲れては時折仮眠をとっているので,効率が悪い。その後17:00頃予習が完成し,18:00を過ぎてから落ち穂拾いリストがピックアップできた。これからそれを入力する予定である。

入力と印刷が終わってから速攻で水浴びをし,暫く待っていたら晩飯の石焼き芋が届いた。甘くておいしい。

2月3日(日)

6:15起床。まだ薄暗いのでよくわからないが,晴れているらしい。6:30までに昨日の残りの芋とコーヒーで朝食を済ませ,トイレに行って来た。これでHさんとの約束の7:00には間に合いそうだが,しかし果たして7:00なんかにホーリーファミリーの当主が起きているのか?

やっぱり準備ができてなくて,先に聞き取りに行くことになった。ボーダーの終わりからペカの始めまで何軒か聞き取った(写真は9軒分撮った)あと,これまで聞き漏らした人をHさんが見つけて聞き出したので,昨日作った聞き漏らしリストを渡したら,すっかりそっちをやることになって,逆から始まってティケリの途中まで進んだ。が,E14で聞き取り中に,左足の親指が半分裂けた大けがをした男(後でHさんに聞いたところ,E11のJ氏)がやってきて,グラスカットの途中で怪我をしてしまったんだが日本の薬をつけてくれないか,という。そんなに裂けていては縫わなくちゃだめだからクリニックに行けと言ったのだが,今日はどうもCさんが休みらしいのと,金がかかるから嫌だとかいうので,とりあえず不十分だけど応急措置をするから明日クリニックに行けということで手を打った。Hさんの家まで歩いてきてもらって,ぼくが薬を持っていき,まずマキロンでびちゃびちゃに消毒して,ガーゼにキップパイロールを塗りまくって二重にして親指に巻き,ぐるぐるにテーピングして終わりにした。途中,Hさんのお母さんがやってきて,この男はベテルナッツを盗んだから当然の報いよ,てなことを言った。治療が終わると,それを見ていたじいさんが,自分も古傷がなかなか直らないのだといって,もうタコみたいになっている傷口に薬を塗ってくれというので,面倒だからマキロンを噴霧してから,指を出させて,そこにクロロマイセチン軟膏を絞ってあげて,自分で塗ってねと言って終わりにした。この手のメディシンマン仕事は,やりだすと際限ないし,今回はそんなに薬も持ってきてないし,何よりここにはいいクリニックがあるので,なるべくやらないつもりである。Hさんの家の写真は,当主がいなくなったので夕方撮ることになった。案の定というべきか。お姉さんがいたので,昨日買ったケロシンの値段を聞いて支払った。1ドル70セントであった。300ミリリットルで50円弱という値段が,ここの人々にとって安いのか高いのかはわからない。

今朝の調査に関していえば,7:00から10:00までで9軒+αだから,効率はそんなに悪くなかったが,石蒸し料理の調理準備で石を焼いている家が多くて,煙くて参った。目が痛くて涙が出た。Hさんも煙がっていたから,ぼくの目が弱いということではないと思う。午後の調査は,お祈りが終わったらHさんが迎えに来てくれることになっている。先週の経験からすると,13:30か14:00頃だろうと思われる。

メディシンマン仕事を終えて家に戻ってきたら,校長の家から米が届いていた。米のみである。これからおかずが来るのかどうかは定かでないが,最悪の場合は米に醤油をかけて食べることになるかもしれない。

朝が冷めた焼き芋1個だけだった空腹感に耐えられず,11:00にもならないのに昼食にしてしまった。醤油ご飯で一膳,塩胡椒ご飯で一膳,という甚だしく体に悪そうなメニューであるが,エネルギーの欲求にだけは答えられる。食後,モバギの電池のパワーが尽きたので,最後の未使用電池と交換した。もはや新しい電池はないので,デジカメもモバギも現在の電池であと3日,もたせなくてはならない。もしかすると太陽電池充電で延命できるかもしれないが,あまり期待はできない。モバギが予想以上に激しく電池を食うのが計算外だったが,世の中にモバギのポケットエクセルで1000行以上のワークシートを作って並べ替えだのプリントだのガシガシさせるような使い方をする人がそうそういるとは思われないので,普通よりも高消費電力型の使い方をしたということなのだろう。

雨だ。このところ,調査と調査の間に雨が降ってくれるのはありがたい。しかも,今みたいに風がないスコールだと最高である。

13:00過ぎに,校長の家に米の残りをおいてきて,ついでに米1キログラムの袋とラーメンとコンビーフをゲリンに渡して,晩御飯によろしくと言ってきた。さてどういう晩飯になるだろうか?

13:55頃,お祈りが終わったらしく,子どもがたくさんやってきて,ミナト,ミナトと叫んでは去っていく。これを鬱陶しいと感じてはいけないんだが,でもやっぱり鬱陶しくて,手だけ降って帰している。そろそろHさんが来るだろうか?

15:30現在,まだHさんは来ない。まだ終わってないのか? 子どもはたくさん遊んでるんだが。

さっきから頭の中は,あと2日頑張ればムンダに出てアグネスロッジの21号室でクーラーをかけてvaioでデータ整理をするのだということばかりが渦巻いている。その後はホニアラに出てブリスベンに飛んで,と,もうダメダメである。

と,Hさんが迎えに来たので聞き取りに出て,5軒やったところで女性たちが水浴びにいく時間だからもう今日はおしまいと言われた。日曜日はいろいろと決まりがあるらしい。このペースだと火曜日に終わるかどうか微妙なところだ。明日は8:00か8:30にぼくが迎えに行ってスタートすることになったが,平日の方が計算できるのでよい。この分ならペカは明日中,悪くても火曜の朝で,何とか終わりそうな気がする。後の問題は,ホーリーと先生とナースである。それさえクリアできれば,水曜日には出発できそうだ。

さっき歩いているときに,マングローブクラムの殻とナマコを干しているところの写真を撮った。ナマコは干してから売るのだそうだが,ここらのは小さくて,マロヴォのが大きくていいのだそうだ。いい,というのはいい値段になるということかどうか定かではないが,確かに小さかった。

落ち穂拾いリストを更新し終わると同時に,校長の家の子がヤカンを取りに来てくれた。時計を見ると18:15であった。水浴びしなくては。

ヤカンと同時にご飯とコンビーフ入りラーメンが届いたのを受け取ってから手早く水浴びを済ませ,食べ終わって,さてご飯の残りを返しに行くかと思ったら,暴風雨が吹き荒れていて外に出られなくなった。雨はたいしたことないのだが,風がもの凄い。しかしここの天気の良いところは長続きしないことである。20分もしたら止んだので,無事にご飯を返してくることができた。

眠る前に最近恒例になっているラジオ日本のニュースを聞いていたら,自動車各社が中国でのマイカーの普及を睨んで,本格的に小型車を現地生産するという話があった。中国で本当にガソリン車がマイカーとして普及してしまったら,現在予測されているよりもずっと早く石油が枯渇してしまって,結局はガソリン車が稼働可能な期間を縮めてしまうということを考えていないのだろうか。世界の石油消費の伸びの多くが自動車によるもので,これまでの増加を単純に外挿するだけでも,たしか早ければ2038年には石油が枯渇してしまうはずだから,中国というファクターがなくても30年あまりしかガソリン車の寿命はないというのに,それをもっと縮めてどうしようというのか? それからは燃料電池車やソーラーカーに切り替えるというのなら,それまで30年しかもたないクズを大量に中国の人々に売りつけるというのは,あまりにも阿漕な商売ではなかろうか。ぼくはマイカー=自家用車という生活習慣自体が物流としての効率は悪いし健康にも良くないと思うのだが,個人ベースでの生活の利便性が上がるという魅力に抗えない人が多いであろうことは想像に難くないし,中国の人が豊かになってもマイカーを使わせないというのは南北問題の素因の一つかもしれないので,使うことを禁止するのは難しいかもしれない。それなら,百歩譲って,せめてガイアックスエンジン車にするとか,天然ガスタービンエンジン車にするとか,燃料電池車にするとかしたらどうだろうか。ガソリン車が普及する前だからたぶんガソリンスタンドもあまりないと思われる今の中国なら,まだ間に合うのではないか。ある程度普及してインフラができてしまってからでは遅いのである。自動車メーカー各社には是非ご一考をお願いしたいものだ。

2月4日(月)

トイレに行きたくて6:40起床。ちょっと下痢気味かもしれないので,朝食後にエクトールを飲んでおこう。こうして明るいところでモバイルギアに向かっていると,蠅がぶんぶんと飛び回っていて気が散って仕方がない。五月蠅いとはよく言ったものだ。熱帯の村では,五月に限らず一年中,至る所で蠅がぶんぶん飛び回っているが。

8:05にHさんのところに行ったら,家族写真をとるのに大騒ぎとなり,最後にもったいをつけてMお嬢様(Hさんのお姉さん)がお出ましになって,やっと写真が撮れたのは8:20を過ぎていた。それから出発したわけだが,今日はなかなか調子がよくて,途中でカメラの電池が切れて太陽電池で昨日充電したもの(カメラで情報を見ると半充電くらいだったが)と交換したりしたのだけれど,11:00過ぎまでかかって13軒の聞き取りを終えた。聞いてみないとわからないことが多いものである。夕方の調査は17:00くらいからやろう,とHさんに言って帰ってきたら,テーブルの上に,ご飯にコンビーフをかけたものが載っていた。校長の家から届いた昼食であろう。思うに,昨日全部使わないでとっておいたのだろう。ご飯が熱いので大丈夫だと思うことにして,すぐに昼食にした。11:30に食べ終わって,残りを校長の家に置いてきた。調査がたぶん明日で終わりだと思うと,今のうちに芋を食べておきたいとも思うのだが,果たして芋は出てくるだろうか?

昼寝をしていたら13:30頃から土砂降りになった。最初は風があったのだが,途中からほとんど雨だけになった。これで天水タンクの水は当分安泰だろう。なんだかどうしても我慢できなくなって,ロバートティムズのコーヒーをいれて飲んでいる。紛れもなくコーヒーの味がするのだが,良くも悪くもスティーピングの味である。ペーパードリップの切れ味が懐かしい……などど考えるとは,余裕が出てきた証拠かもしれない。

15:00現在,まだ土砂降りが続いている。長続きしないここの天気にしては,かなり長く降っているように思う。これくらい降ると,天水タンクはフルになるのではないか。

16:45現在,まだ雨が止まない。今日の夕方の調査は,久々に雨の中を行くことになるので,レインコートを活躍させなくてはならない。これまで,レインコートを着て出かけるとすぐに晴れて,ただ暑い思いをしただけ,ということが多かったが,今回はどうだろうか。

忘れるといけないので書いておく。今回買ったバスタオルは乾燥が早くて畳むと小さくなるので,調査用としてキープすることにする。帰国したら青いUVカットTシャツと軍足と一緒にコインランドリーで洗濯しよう。寝袋は久々にクリーニングに出すことにしよう。それらと蚊帳と帽子(この2点は研究室で手洗いする)と石鹸と凧糸とコップと歯ブラシセットと変圧器とハの字型コンセントアダプタを一緒にして調査用生活用品の箱を作って詰めておくことにすると,わかりやすくて良さそうだ。あと,今回アルミボックスが気にいったので,もう1回り大きめのアルミボックスを買って,研究室で使っている電気器具や工具を詰めることにする。

さて17:00から調査に出たのだが,Hさんがノースパートをやりたがったので,ウェストの残りは後回しになった。しかし,ノースパートでの最大世帯規模を誇るIan Willing家が不在だったので,今一つ不発だったといえよう。校長も息子の転校についてボートで行ってしまったとかで不在であり,校長夫人の再生産史こそHさんに聞いてもらったものの,他の先生とナースには直接ピジンで聞き取りできたので,意味が薄かったような気がする。それに,キンディの先生たちがいなかったような気がするが,彼女たちはどこにいるのか? これはやはり校長が帰ってきたら聞いてみなくてはなるまい。ともあれ,18:10までかかったが,概ねノースは押さえたことになるので,今日の成果としてはこれでいいことにしよう。しかし,校長が不在なのは問題だ。明日調査が終わったとして,明後日ムンダに出るボートをアレンジしてもらうにも,校長がいなくては困ってしまう。

カメラの電池の充電には成功したようである。今日は午後ずっと雨だったのだが,午前中4時間足らずの日射しだけでカメラのバッテリー表示がフルになった。昨日の方が天気は良かったような気がするのだが,昨日は半充電で今日はフルというのは,なんとなく納得がいかない。

2月5日(火)

6:40起床。昨夜は夜半過ぎまで雨が続いていたが,もうあがっていて,青空がのぞいていた。もっとも,黒い雲も残っているが。

今日の予定としては,まずパスタ一家の写真を撮って,午前中にHさんとの聞き取りを完了することが第一目標である。終わらなかったら夕方補完する。午後になったら,たぶん帰ってきているであろう校長に,これまでの調査で出てきた地名の位置をきき(地図にだいたいの位置を記入),明日のボートのアレンジを頼まねばならない。そういえば,校長一家の写真もまだ撮っていないのだった。校長が帰ってきていないと予定が狂うのだが,息子の転校に付き添っているらしいので仕方がない。最悪の場合は,地名は他の先生に聞いて,ボートのアレンジはレナードに頼むという手もないではないが,できるだけ避けたい。

予定より早めにホニアラに出ておいた方が,飛行機ダイヤの不確実性を考えれば安全かもしれない。そうすればメンダナホテルでズボンのクリーニングも頼めるし,一石二鳥である。穴が空いている方は捨てることにしてクリーニング中履いていればいい。ホテルの部屋なら短パンでもいいし。

8:10から10:40までかかって,落ち穂拾いを交えながら概ね調査が終わった。後は,夕方に残り3軒の家族写真を撮って,聞き漏らしをいくつかチェックすれば完了となる。キンディの先生は村の中の人であることがHさんに聞いてわかった。あんなの子守りなんだから,村の若い女はみんなやりたがってると思う,とのことだ。今キンディの先生をしている2人はフォーム3しかもっていないと,さも馬鹿にしたようにいう。もっとも,Hさん自身は大勢の子どもの子守りをするなんてまっぴらごめんだそうだが。

しばらくひもじい思いをしたが,12:00過ぎに校長の家から昼食が届いた。校長の家の養女に後光が差して見えた,というのは大げさだが,朝が芋1個だと空腹になるのも早いのである。メニューは白米と鰹のココナツミルク煮であり,ちょっと醤油をかけたらきわめて美味であった。思わずご飯を2杯食べてしまった。

死因の聞き取りもしたのだが,too oldだから死んだという話が何件かあった。よく聞いてみると,年をとって動けなくなってそのままにしているから褥瘡ができて,そのまま身体が腐っていって死んでしまうらしい。ここでは,体を動かせなくなった老人の体を拭いてやるとか姿勢を変えてあげるなんてことは普通は行われないし,ちょっと腐り始めたら細菌や昆虫がたかってきてあっという間に腐敗が進行して死に至ってしまう。ここではそれが自然の姿なのだ。老人に対する褥瘡ケアというのは延命医療なのだな。終末期のQOLが上がるのは間違いないが,体が動かせないほど老いが進んでしまっても褥瘡ができないようにケアをするかどうかは,ケア提供者にとって無理のない範囲に留められていいのではないかと思う。この辺り,ターミナルケア看護学をやっている人たちはどう考えるのだろう?

15:15に校長が帰ってきた。疲れているだろうと思って15:30頃まで待って行ってみたら,ベテルナッツをやりすぎて目がいってしまっていた。校長先生でもこんなになってしまうんだ,というほどの乱れ方であった。道中,Y君とI君の乗ったボートとすれ違ったという。きっと彼らはゴルディカレッジに行ったか,ムンダに戻るところだったかどちらかであろう。ムンダで会う約束なんだ,と言っておいたが,彼らは校長に気づいただろうか。いずれにせよ,ボートのアレンジを頼んでみたら,校長が乗ってきたボートのオーナーは今日帰ってきたばかりで疲れているから駄目だというのだが,周りにいた人が,ちょうど明日ノロまでいくボートがあるから同乗したら? と言ってくれた。で,ペトロールはあるのか,というので,20リットル持っていると言ったら,オーケーだ,でもそれではムンダまでは行けないよ,というので,ノロで買い足すと答えたら,オーケーということになった。校長の家のファミリー写真も撮りたかったのだが,さすがに今の自分は醜態だという自覚があるのか,今帰ってきたばかりで疲れているので明日の出発前にしてくれ,というので,明朝撮ることになった。

16:10頃Hさんの家に行って最後の聞き取りをスタートした。これまで畑や釣りに行っていて不在続きだったE氏を漸く捕まえることができて,結婚の年を聞いたら,同時に結婚したという2組にこれまで聞き取っていた年と3年もずれているのでどちらを信じるべきか迷ったが,いろいろと周辺状況を聞き取っていくと,どうもE氏の方が正しくて,他の老人2人の方が間違っていたようである。聞き取り調査はこういうことがあるから恐ろしい。本当はこんな短期間でやるべきことじゃないのだろうと思う。もっとも,1957年から1960年の間ということは間違いなくいえる(周辺状況からも)ので,そういうデータとして扱えば問題ないわけだが,できればもっと推定幅を狭めたい。あと2軒,家族写真を撮るべき家が残っていたのだが,どちらも誰かが帰ってきていなくて,撮れなかった。近いので,18:30頃再訪することにした。

ともかく,これでHさんをアシスタントにした調査は終わったので,約束通りお礼を進呈した。約束は全部で50ドルということだったのだが,毎日4時間以上も非常によくやってくれたので,ボーナスを20ドルつけて,さらにそれを防水のケースに入れて,日本製の飴を2つおまけにつけたら,飴が非常に受けて良かった。

校長が立ち直ってくれたら,校長の家にも食事の世話のお礼を差し上げなくてはいけないのだが,さっきの様子では明日の朝にするしかあるまい。

校長の家以外は写真も撮りおえた。地名を聞くのがまだだが,併せて明朝する事にしよう。

2月6日(水)

気が高ぶって眠れず,何度も夜中に目が覚めてしまう。結局6:30に明るくなるのを待って起床し,手早く荷物の梱包を始めた。梱包の途中で昨夜の残りの芋と白湯で朝食を済ませ,トイレに行ったのだが,なぜか突然気分が悪くなって,さっき食べた芋を吐いてしまった。

家に戻る途中,偶然会った教育委員会のE・P氏が準備は出来ているかと聞くので,だいたいね,と答えながら,さて急がなくてはいけないぞ,と気が焦るのだった。芋が入っていた皿を抱え,食事の世話になったお礼の50ドルが入った青いブリーフケースを持って校長の家に行き,皿を返して家族写真を撮ってから始業前で忙しい校長に地名をちょっとだけと言って聞いてしまい,首尾よくお礼も渡せてほっとした。

これまでずっとケトルやご飯を運んでくれた(もしかすると調理もやってくれていた)校長の家の養女は,校長の姪なのだが,写真を撮った後,彼女が恥ずかしげに草で編んできれいに彩色した籠をくれようとしたのには感激した。しかし,今回はオーストラリアに一泊するので,たぶん植物検疫で取り上げられてしまうから持って帰れない,と説明して返してしまった。世話になりっぱなしで申し訳ない気がするが,もはや何もプレゼントは持っていないので,次回くるときに彼女へのお土産を忘れないようにしようと思う。その後,朝食も持ってきてくれたのだが,今日は朝が早いと思ってもう食べてしまった,と言って返さねばならなかったのも,どうにも間が悪いというべきか。

ちょうど写真を撮り終わったところへE・P氏がやってきて,ペトロールを船に積むから貸してくれというので,一緒に家まで来てもらって渡した。それから大急ぎで荷造りを完了し,Hさんの家から借りていた枕を返し,隣の家に,借りているオレンジ色のバケツとテモス(Thermos,つまり魔法瓶のこと)とケロシンランプはそのまま借りていていいかと聞きにいったのだが,ちょうど小学生の娘しか起きていなくて(この家は毎晩夜中遅くまで大騒ぎをしているので朝が遅いのだ。前日も11時近くに聞き取りに行ったとき朝食中だった),話が通じなかったのかもしれないが,一旦全部返すことになった。結局これで,借りていたものは全部返したことになるわけだ。それからI君の荷物などが入った部屋に鍵をかけ,自分の荷物をもって船着場に向かった。暫く待っているとE・P氏とドライバー(E・P氏の息子の1人)が乗ったボートがやってきて,校長の奥さんとさよならの挨拶をして出発した。ノロまでは先生たちも2人同乗してきたのだが,E・Pさんと3人でそこで降りてしまい(しかし2人も先生がいなくなって学校は大丈夫なんだろうか? 校長が前日までいなかったから交替ということなのかもしれない),ノロからムンダまではドライバーと2人になった。アグネスロッジの直前でペトロールを買ったら,今回の帰りの分と,I君が使うためのデポジットの,合わせて40リットルで,180ドルだった。

アグネスロッジに着くと,Y君とI君は昨夜泊まったのだが,今朝ゴルディ・カレッジに行ってしまったということだった。どうもすれ違いだったようだ。しかし,アグネスに泊まれば電源があるので,vaioでデータ整理ができ(整理したものをI君に渡していけば,たぶん彼の調査の役に立つ),うまくすると論文も書けるという計画になっていたので,彼らがいてもいなくても,どのみちここに宿泊するしかないのだ。ドライバーと一緒にVIMTOという炭酸飲料を飲んでから,なんとなく彼が何か言いたげにしているので聞いてみると,タバコはないかという。ぼくは吸わないからないんだけど,ここまで連れてきてくれたお礼にタバコくらいあげてもいいだろうと思われ,アグネスロッジで1箱買って渡して,じゃあまた,と言って別れた。

さて21号室に入ろうと思ったら,先客があるのだった。仕方がない,他のクーラー付きの部屋はどうか,と聞いてみたら,それも全部予約が入っているのだった。しかも日本人である。ソルタイの客人らしい。ソルタイの客人ならさっさとノロへ行けよなあと思いつつ,仕方がないので空いている14号室に入った。最初カウンターにいた男が鍵を見つけられなくて,後でもってくるといって全然もってこないので困ったが,昼飯を食べたくなって階下に降りたらマネージャーのデイヴィッド氏に偶然遭えて,鍵を貰うことができた。14号室はクーラーがないのと蟻が多いのが問題だが,電源はたくさんあるし,証明もちゃんとしているし,髭を剃ってさっぱりし,温水シャワーを浴びて生き返れば,もう何も怖いものはない。後は食事時間以外はvaioを使い倒すだけである。

昼飯は今日のスペシャルのサラダ付きカレー。外のチャイニーズの店でスプライトとオレンジジュースを買ってきたので,準備万端整った,と思ったら,トイレットペーパーがなかった。カウンターに言えば貰えるだろうか?

面倒なのでカウンターには行かず,再びチャイニーズの店に行って薄荷膏という名のメンソールジェルと一緒にトイレットペーパーを1巻買ってきた。one onlyと言ってしまったが,ソロモンピジンではone nomoreと言わないと通じないのだった。トイレットペーパーは1巻40円くらいするので,日本とあまり差がない,というか日本より高いくらいである。農水産物の物価はだいたい日本の10分の1くらいなので,教師の給料も日本の10分の1くらいで回っていると思われるが,工業製品には物価10分の1法則は通じないようだ。もっとも,トイレットペーパーなど,ココヤシの実の繊維などで代用可能,というかこちらではそれが普通だから,買うのは外国人だけで,高くて当たり前なのかもしれないが。

聞き取ったデータの整理はものすごくパワーがいる仕事であることが,やっていてわかった。これはvaioでないと無理だ。もってきた甲斐があった。今回,もってきたものが何も無駄になっていないのが素晴らしい。仕事中,ギルバート系と思われる従業員の女性が夕食メニューを聞きにきた。蟹があったら蟹,なければ鶏肉で,サイズは小ということで頼んだ。18:30に準備ができたというので降りていったら,蟹のチリソース煮がどーんと出てきた。芋中心の食生活で小さくなっている胃腸にはサイズは小で十分だと思う。それにしてもほのかな甘味以外の味がこんなに強烈にうまいと感じるのは,今だけなのだろうな。

22:00過ぎまでデータ整理をしたら眠くなったので,トイレに行ってからベッドに入った。部屋にトイレがあるというのは,なんて幸せなことなんだろう!

2月7日(木)

6:30に腕時計のアラームで起床。昨日買って冷蔵庫に入れておいたスプライトを飲みながら,データ整理を始めた。9:00までやって空腹に耐えかね,食堂へ降りた。朝食には目玉焼きトースト,コーヒー,紅茶というメニューを頼んだ。コーヒーと紅茶はセルフサービスだが飲み放題のようである。これで14ドル,つまり約400円だから,例えばカフェテラス本郷のモーニングセットと内容も値段もあまり変わらない。食べ物が日本並みの値段とうことは,町の店に比べて10倍の値段ということだから,やはり割高なのだろう。しかし,今はデータ整理を最優先するため,あまり店探しなどに時間を使う気になれない。

部屋に戻ってきて教室宛てのファックス文書をプリントしたが,昼食のときに頼むことにして,ともかくデータ整理を続けている。多少腹具合が悪いのは,冷たい飲み物の飲みすぎと思われる。今度から炭酸飲料はやめてミネラルウォータにするか,沸かし湯を冷蔵庫で冷やすかしよう。ニッケル水素電池の充電が終わるまでは,電源ケーブルを流用しているためにポットが使えないのがネックだが。ちなみに,NEXCELLの充電器で満充電したGP製のニッケル水素電池をモバイルギアR330に入れると,残量が80%と表示される。モバイルギアのバッテリ残量表示は何を意味しているのだろうか。

データ整理に集中していたら13:30になってしまったので昼飯を食べに食堂に行った。オムレツとパンを頼んだのだが,このオムレツは美味であった。パンがトーストだったらもっと良かったのだが。食後,さっきプリントしたファックスの送信を頼み,外のチャイニーズの店に行ってミネラルウォーターを買ってきた。

午後もずっとデータ整理を続けている。夕食メニューはチキンにした。今日は,何時に食べたいか,と聞きにきたので,19:00からにしてもらった。それにしても,このデータ整理は大変だ。ここで苦労しておけば,すぐに分析に取り掛かれるから無駄にはならないのだが,明日までに終わらせようと思ったら,今日は徹夜になるかもしれない。

チキンフリッターは,鶏肉の質は上等だったが,Sサイズにしたのに量が多すぎた。全部食べて,VIMTOを飲んだら,ちょっと苦しかった。部屋に戻ってデータ整理を再開したら,外が暴風雨になったので,窓を閉めようとしたが,なかなか閉まらない窓があって,ちょっと苦労した。シャワーを浴びてすっきりしてからデータ整理を再開したが,21:40現在,まだ3冊のノートの1冊目の半分も行っていない。この分では,徹夜をしても明日までには終わらないかもしれない。何か次善の策を考えなくては。

2月8日(金)

昨夜は眠気に耐えられず,22:00過ぎにベッドに横になって仮眠をとろうとしたら,そのまま眠ってしまった。もはや朝までに仕上げるのは不可能であるが,3:30に目が覚めたのでデータ整理を続けている。

朝食も食堂に行ってスクランブルエッグ付きトーストを食べ,昼食も食堂で野菜と鰹缶入りのホットサンドとフライドスウィートポテトを食べ,コークを飲んだが,それ以外の時間はずっとデータ整理を続けた。

昼食のときに,そういえば今日から21号室をY君が予約済みだったと思い出して,カウンターの兄ちゃんに聞いてみたら,オーケー,いつでも移れるよ,というので,今日の昼までに14号室でかかった料金をとりあえず精算してもらったら540.90ドルになった。2泊3食付きとはいえ,これまでの一週間で50ドルという世界に比べたら無茶苦茶高いのだが,これだけvaioノートを使って仕事ができているのだから,仕方があるまい。

21号室に移ってエクストラベッドを入れてもらい,いつY君とI君が着いてもいい状況になったと思ったが,なんとクーラーの延長コードがないのだ。これではクーラーが使えないので,さっきのカウンターの兄ちゃんに言って延長コードを持ってきてもらった。バスタオルも2枚しかなかったので1枚追加してもらった。

さてこれで仕事の続きができる,という状況になったわけだが,クーラーのフィルターが埃だらけだったのを見てしまったので,これを掃除もせずに使うということは衛生上だけでなく,エネルギーの無駄を防ぐという意味でもしてはならないという思いがふつふつとこみ上げてきたので,ついフィルターを洗ってしまった。

さてデータ整理の続きだ,と思ったら,vaioの電源が怪しい挙動をみせて困った。コネクタの差し込み方の加減を余程上手くやらないとACパワーの供給を認識してくれず,バッテリー駆動になってしまうのだ。バッテリー駆動では1時間しかもたないことは身にしみてわかっており,仕事にならないので,コネクタの差し込み方を試行錯誤してうまく認識させるまで10分も無駄にしてしまった。14:30からデータ整理再開である。

Y君とI君が到着したがデータ整理を続け,夜も食事(バーベキューのようだった)を部屋に持ってきてもらって,ずっとデータ整理をしたが終わらなかった。

2月9日(土)

6:30頃起きてデータ整理を再開した。朝食はY君とI君がおいしいパンを買ってきてくれて,コーヒーを飲みながら食べ,昼食はサンフラワーという店へ行ってみたら,実は既に店じまいしてしまっていたことが判明し,ロッジの食堂で焼きサンドを食べた。15:30頃までデータ整理を続けて疲れたので,近くのドゥンデという村に行ってきた。もしかすると今後調査をするかもしれないという場所なのだが,電気が通っているし,家は立派だし,これまでの調査とは随分様相が違ってくるだろうと思われた。

データ整理の途中で,時折vaioの電源がおかしくなるという事態に見舞われていたのだが,バッテリーを外したら問題は解消した。しかも,シャットダウンした状態でなら充電はできるようだ。不思議である。

1時間ほどで帰ってきてからデータ整理を再開し,ロブスターとチキンとオムレツを3人でシェアする晩飯を挟んで23:00過ぎにやっと一旦データ整理が終わった。しかし見逃しが多そうなので,日本に帰ってから再チェックをする必要がありそうだ。

その後,明日から再びパラダイス村に入るI君とブリーフィングをして,1:30に就寝。

2月10日(日)

6:00前に顔を蚊に刺されて目が覚めた。ついでにトイレに行ったら,窓が開いていたので,そこから侵入したらしい蚊が2匹ほど飛んでいた。叩き潰そうとしたが失敗し,めげた。しかも下痢気味である。これは食べ過ぎと冷たいものの飲みすぎであろう。

7:00に起床し,vaioをみると,シャットダウン後につないだバッテリーの充電は完了していた。しかしスイッチを入れると,ACが使われずに,バッテリーが優先的に使われてしまう。その状態でバッテリーを外すと,当然のことながら,落ちる。どうもAC入力とバッテリーの切り替え部分が壊れたようである。仕方がないので,バッテリーを外して使い,シャットダウンしてからバッテリーを挿して充電する,という使い方をすることで対策することにした。

おいしいパン屋で1個1ドル50セントのスコーンを買ってきて,インスタントコーヒーとともに朝食にした後,暫くしゃべってから,I君がパラダイス村に向けて出発した。自分が村にいて町に行くボートを見送るよりも,自分が町にいて村へ行くボートを見送る方が物悲しい気分になるのは何故だろうか。

今日は16:15に飛行機に乗るまで,とりあえずやることはない。日曜日だし,骨休めをしながら昼食までだらだらと過ごした。昼食はロッジの食堂で焼きサンドとオムレツを頼み,Y君とシェアした。しかし,今日のオムレツは一昨日や昨日より出来が悪かった。コックが違うのだろうか? それとも我々の舌が肥えてきたのだろうか? 相変わらず下痢が治らないのでエクトールを飲み,これから15:00まで,また骨休めをしようかと思う。ともかく昨日までのデータ整理が大変だったので,ちょっと虚脱状態なのだ。

15:00になったのでホテルをチェックアウトしたら,3人で2泊分で623.50ドルだった。思ったよりも安い。空港に行ってカウンターでチェックインして待っていると,16:15発の予定だったのに15:45頃飛行機が着いて,16:00前に離陸になってしまった。こういうときがあるから早めに空港に行かなくてはいけない,ということか。セゲで一旦着陸して,ホニアラに着いたのは17:00過ぎだった。タクシーの運転手がたくさんいるのだが,メンダナまでいくらだ? と聞くと,最初の運転手は50と言ったので却下し,他の運転手に聞いて,40と答えた男のタクシーに乗り込んだ。このタクシーは記録的な半壊状態の車体で,低速で揺れながらメンダナホテルまで進むので,途中で止まるんじゃないかと気が気でなかった。

夜はSEA KINGレストランに食べに行こうとして,フロントでSEA KINGは開いているかと聞いたら開いているというのでタクシーに乗って行ったら,閉店だった。仕方がないので香港宮殿という中華料理屋に行って,焼きソバと野菜炒めとスープを食べたが,焼きソバが物凄く美味だった。怪我の功名といえよう。

ホテルに戻って雑談をして日本の雑誌を読んで風呂に入って24:00近くに就寝した。

2月11日(月)

6:50起床。今日は,この一日をもっとも有効に使うために,1996年1月以来となるバンバラ村に行ってみる予定である。果たして行き着けるだろうか?

まずエイミーズキッチンで卵入りコッペパンとフライドフィッシュ入りコッペパンとリンゴを買ってきて朝食とした後,メンダナホテルのカウンターで陸路でバンバラ(といってもわからないので,その近くのクルという学校のあるところ)まで行ってくれるタクシーを探してもらったのだが,まだテンションの後遺症が残っていてうまくいかなかった。そもそもマライタ出身のドライバーは怖がって拒否するので,1人しかいないガダルカナル島生まれのドライバーに交渉したのだが,道路が途中でスワンプ状になっていて普通の車では通れないのでハイラックスが必要だとか,ハイラックスでも途中までしか行けないので,そこからカヌーに乗り継がなくてはいけないとかいうので,それならいっそ最初からボートで行った方がいいのでは,ということになった。カウンターの女性従業員に相談したら,ガダルカナル州警察の人に助けてもらおう,ということになった。しばらく待っていたら2人の男がやってきて,かくかくしかじかと相談したら,オーケー,じゃあボートを探してやろう,ということになった。最初,片道500ドルかかるとかいうので,それは高すぎる,片道200,せいぜい250までしか出せない,と言ったら,ちゃんと往復500ドルで話をまとめてきてくれた。

メンダナホテルの隣のヨットクラブのさらに隣の海岸に屯しているボートの1つのそばに連れて行かれて,まずペトロールを買うから金が必要だ,10ガロン必要で1ガロンが16ドルだ,というので,じゃあ燃料代160ドルを先に支払って,後は帰ってから差額の340ドルを払うことでいいんだな,と確認してから燃料代を払った。

ボートの旅は鏡のような水面で快適だったのだが,陽射しがきつくて,知らないうちに顔が激しく日焼けしていたのは誤算だった。1時間強でクルスクールのそばのツンボサ村に着いて,出てきた屈強な若者と一緒にクルスクールに向かい,校長に挨拶した。そこから歩いて約10分で懐かしのバンバラ村に着き,チーフのF氏との再会を果たすことができた。今回は時間がないのですぐ帰らなくてはいけないんだ,と言うのも心苦しかったけれど,多くの村人と懐かしく握手を交わすことができてよかった。チーフの長男も村にいて,ちょっと具合が悪そうだったが,久々に話すことができてよかった。昨年暮れの選挙で国会議員に立候補して次点で落選したのかどうかは確認しそびれたが,テンションで彼が働いていたドド・クリークの農業試験場は壊されてしまったし,マイクロバスも壊れてしまったので村にいるんだ,と言って寂しそうだった。20分ほど話したところでボートが帰る時間になってしまったので,可能だったら8月にまた来るよ,と言って帰途に着いた。

ホニアラに着いたのは14:00をやや過ぎていた。ボートから降りるところで足が海水で濡れてサンダルに砂が着いたので,シャワーの水で流してからメンダナホテル内のララタナテラスというコーヒーショップに行ってパスタを頼んだら,結構待たされて,昼飯にありついたのは15:00過ぎであった。しかも,麺がうどんだったのがちょっと悲しかった。食後,部屋に戻ってからは,疲れたので19:00近くまで昼寝をしてしまった。時間があったら買い物とか博物館に行くとか計画もあったのだが,明日にしよう。

晩飯はメンダナホテルの食堂でうどんとおにぎりにしようと思ったのだが,麺類は品切れだということなので焼肉定食にした。ついでにビールを1杯飲んだら,すっかり酔ってしまった。一眠りしたら午前零時を過ぎていたので,風呂に入って眠った。

2月12日(火)

7:00起床。NHKをつけたら中村征夫が出ていて,ついインタビューに聞き入ってしまった。

パンを買ってきて朝食を済ませ,これから博物館に行こうと思っているところである。

博物館からインターネットカフェをチェックして(アンソニー・サル・ビルディングの1階にあり,20分5ドルがミニマムチャージで,それ以降は1分当り25セント,月から金の8:00から17:00と土曜の8:00から15:00に営業している),大使館へ行った後,土産物屋を冷やかして,再びアンソニー・サル・ビルディングに入って4階の財務省Inland Revenue(内国税庁)にいるラヴァキ出身の人のオフィスを訪問してから病院の向かいのUSPの本屋に行って前よりさらに本が少なくなっているのを確認して落胆し,そばの保健省の栄養関係のオフィスに行って話してから,シーキングレストランで食事をして(春巻き4本10ドルをY君と二人で分け,さらに海鮮麺35ドルを食べた。麺がスパゲティの麺だったのがちょっと引っかかったけれどスープスパと考えれば安くて美味である),メンダナに戻ってきたところである。

これから1時間で荷造りをして,チェックアウトして,空港に行かねばならない。シーキングで飲んだソルブルーのおかげでやや酔っているのが我ながらまずいと思うが,まあ何とかなるだろう。

大雨でやや飛行機の出発が遅れたこともあり,ブリスベーン空港に着いた時には日も暮れかけていたし,ややめげていた。Y君が空港の無料電話でExplorer's Innにかけて値段を聞いたらツインで86ドルだというので,それで手を打つことにして,タクシーに乗った。料金は24.50ドルだった。チェックインしてシャワーを浴びてから外出し,まずは街角のATMを使ってCITICARDで200ドル引き出して,さて晩飯でも,と思ったのだが,ソロモン航空の機内食が重すぎたのであまり食欲がなく,土産物と一緒にサンドイッチやフルーツ盛り合わせやヨーグルトや果汁100%ジュースをColeで買って,それを宿に持ち帰って晩飯にした。食後は,翌朝が早いのでただ眠った。今回のように,ホニアラからブリスベンが夕方便で,ブリスベンから成田が朝便だと,ブリスベンでの買い物がほとんどできないのは,ちょっと悲しい。無駄遣いをしないと考えれば,いいことかもしれないが。

2月13日(水)

6:15に目が覚めた。昨夜Coleで買ったフルーツの残りを食べ,コーヒーを飲んでから荷造りをしてチェックアウトした。Explorer's Innでは,現金での支払いの場合,前払いなので,昨夜払っておいた86ドルで済み,ただカードキーを渡しただけなので簡単だ。電話を使う場合は前もってカウンターで言っておいて20ドルのデポジットをしてチェックアウト時にリファンドするという仕組みなのだが,今回は電話もしなかったので簡単だった。

カウンターの脇にある無料の電話でBlack and Whiteタクシーを呼んで5分ほど待つとタクシーが来て,空港まで10分ほどだっただろうか,シティセンターから空港まではコーチでも9.50ドルだったはずだから,2人で23.50ドルというのは高くない。3人だったら絶対にタクシーの方が安上がりになる。空港の出発ラウンジには大型バスが何台も停まっていて,日本人ツアー客の大集団が降りてきていて,チェックインカウンターの前も既に長蛇の列だった。この光景をみただけでうんざりしていたのだが,カウンターでも往路のような僥倖はなくて,エコノミーチケットはやはりエコノミーのままなのだった。もっとも,38Dというシートは,大型スクリーンの直後で,わりと前が広いので,エコノミーの中ではましな方であり,その意味では今回の調査中ずっと続いている交通運の良さは失われていないといえる。

出発して1時間ほどで食事となったが,白身魚はともかくとして,米がベチャベチャでまずいことこの上なかった。期待してはいけないとわかっているが,そばもまずかった。これならホニアラのメンダナホテルのそばの方がずっとましである。ヘッドホンで音楽を聴いているのだが,J-POPクラシックスというのがなかなかよい。陽水の氷の世界とか,猫の雪が泣かせる。惜しむらくは,せっかく尾崎亜美を入れてくれるのだったら,春の予感が良かったとか,大瀧だったらさらばシベリア鉄道じゃなくて4 Times Funが良かったとかいったことであるが,これはたぶんに趣味なので無理な願いかもしれない。

J-POPも一通り聴いてしまったので暇になり,モバギで今日の日記を打っているのだが,やはり席が狭いと思う。新幹線よりも打ちにくいのは何とかして欲しい。その後,映画を2本見て軽食を食べ終わったところでブリスベン時刻17:00である。たぶん,成田まで後1時間くらいのはずだが,まだアナウンスはない。映画は2本ともハッピーエンドのバカ話であった。セレンディピティという話は冷静と情熱のあいだ風味の入ったWith Loveというか,どうして米国の映画は結婚式をドタキャンするパタンが多いのだろう? そこにロマンを感じる人がよほど多いのだろうと思われる。コーキー・ロマーノもありがちというか辻褄のあわなさには目をつぶってコーキーのお茶目さを楽しむしかないというバカ映画である。もっとも,何も考えずに見ていればそれなりに楽しめるから,機内上映向きの映画かもしれない。機内上映があまりに名作だと着いてからも余韻が冷めずに困ることがあるので,たぶんこれくらいがちょうどいいのだろう。

ブリスベン時で17:02にアナウンスが入って,あと約50分で成田に着くそうなので,そろそろモバギをしまおうと思う。いよいよ日本での日常が再開するわけである。たぶん数千通のメールや郵便物がたまっていると思うので,それを片づけるだけで今週は終わってしまいそうなのが気が重いが,頑張るしかあるまい。



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