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2011年9月のソロモン諸島及びパプアニューギニア往還記

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2011. Last Update on 2012年1月26日 (木) at 11:18:40.


【第1日目】 眠れない旅(2011年9月18日日曜)

パプアニューギニアの男性用トイレのアイコンエアニウギニは,定刻より10分遅れ程度でポートモレスビーに到着した。機内食は夜食がBeef+RiceかFish+Pastaか尋ねられたのでBeefにして正解だったと思う。温野菜が美味であった。早朝の軽食はジュースとシナモンロールパン1個だけであった。水のペットボトルも貰えるのだが,着陸まで1時間もなかったので飲みきれなかった。空港はクーラーが効いていて寒いほどだったし,トランジット客も液体は捨てなくてはいけないので,水のペットボトルが勿体なかった。トランジット客はまずゴロカなどへ向かう国内線乗り継ぎと他国へ向かう国際線乗り継ぎに振り分けられ,国際線はさらに行き先に寄って振り分けられた。ブリスベンへの乗り継ぎが一番時間が短いので最優先で,次がケアンズ便,ホニアラ経由ナンディ行きは最後であった。しかし,外廊下で待っているうちに係員がやってきてチケットとパスポートを渡し,ホニアラ行きのボーディングパスを発行してもらえたので,それほど不安はなかった。成田からは日本人が大勢乗っていたので,こんなにたくさんの人がPNGやソロモンへ行くのかと訝ったわけだが,実は大半がブリスベンやケアンズに行く人なのだった。

トランジットの待ちは6時間近いのだが,売店はあるものの食べ物が売られていないのが辛いところだ。椅子は充分にあるけれども眠ってしまうわけにもいかないのでしかし待合室の片隅にインスタントのコーヒーの粉と紅茶のティーバッグと熱湯とお菓子が置いてあって,セルフサービスだが無料で飲食できたのは偉いと思った。お菓子では満腹にはならないが。ちなみに,この空港で一番面白かったのはトイレのアイコンであった。右写真の通り,男性用はフォルムはズボンだが,赤なので女性用と間違いやすいのだ。女性用も赤でフォルムがスカートなので,そちらを見て戻ってきて気付くのが普通だが,テレビドラマMr. Brainだったか,松岡圭祐の作品だったか,ソースは忘れたが,人間は形より色で直観的把握をするので,赤で男性のアイコンが描かれていると女性用だと思いこんでしまうという話は事実だった。

ホニアラ経由ナンディ行きのPX084は定刻より10分遅れくらいでボーディングが始まり,無事に離陸した。ビジネスクラスの客だけはすぐに飲み物と食事が出たのだが,エコノミーの客にはソロモン諸島の入国書類は配られたが,なかなか食事が来ないのが辛かった。でも,着陸1時間前くらいに配られたサブウェイのハーフインチサンドイッチのようなものが美味だったのでまあ許容範囲か。

ホニアラに着いたが,降りた客はかなり少なく,大半はそのままナンディまで行くようだった。預けた荷物は無事に出てきたし,入国審査も通関もたいした問題は起こらずに通れたので良かった。空港からホテルまで,5人だったので2台のタクシーに分乗して行ったのだが,1台当たり120ソロモンドルかかった。来るたびに値上がりしているが,現在は1キロメートル当たり10ソロモンドルという距離比例料金になっているそうで,空港からポイントクルーズ(メンダナホテルがある,ホニアラ市の中心部)までが12キロメートルなので120という計算になるそうだ。これまでは一々乗る前に交渉していたが,場所ごとの固定料金なら,ある意味明朗会計なのでお互い楽になったともいえる。ちなみにSICHEのパナティナキャンパスからポイントクルーズが7キロメートル,カジノホテルからポイントクルーズが5キロメートルらしい。

夜はメンダナホテルの和食レストラン白梅にて,息子の同級生のお父さんで北野建設にお勤めのYさんと日本人研究者グループとで会食。Yさんが獲れたてのカツオを捌いてくださり,大変美味だった。最近のソロモン諸島情勢とかいろいろ話をした。本当はJICAのAさんも出席予定だったのだが,残念ながら来られなかった。後で聞いたところでは体調を崩されたということで,残念だったが仕方が無い。部屋に戻ったらすぐに眠ってしまった。


【第2日目】 SICHEで健診(2011年9月19日月曜)

7:00にHot Bread Kitchenまで焼き立てのパンを買いに行った。朝食用としてチーズパン5個とクリームパン3個,昼食用としてスコンとフルーツバンズを8個ずつ購入した。朝食は5人分だが,昼食は外語大の石森さんと北大の院生SさんとJOCVのYさんが一緒なので8人分なのである。

健診2011年9月さくっと食べてタクシーに乗り,SICHEに着いたのは8:45頃だった。しかし部屋の鍵が開いていないとか校長に話が通っていないとか,例によってさまざまなトラブルがあり,校長先生と学校クリニックのナースのN氏にご挨拶した上で2月のワークショップの報告書と若干のお土産を進呈し,無事に許可が下りて健診を開始したのは9:30頃だったと思う。今回の健診はこれまでのエクステンションと来年の予備調査なので生体計測が主で血液は調べないが,ともかく太った人が多いのに驚いた。81人までやって終了。

夜はカジノホテルの近くのFUN RESTAURANTというマレー系中国人がやっている中華料理店で,Yさんを含むJOCV3人とシニアボランティアのAさんと会食した。研究者側からは北大の山内さんと北大の院生Sさんと外語大の石森さんと自分が参加した。ソロモン事情についてなどいろいろ話し,楽しい会食であった。Aさんはblogを書かれていて,そこでも言及されているムクドリとの戦いの話など面白かった。料理もなかなか美味であり,かつ8人で590ソロモンドルと安かった。

メンダナホテルにタクシーで戻ってからデータ入力を始め,2:00頃終わって,写真の下にデータが印字されるようにして印刷を開始し,夜明け近くなって完了した。


【第3日目】 SICHEで健診2日目(2011年9月20日火曜)

午前中は前日の続きで健診を行いつつ,結果を返却。返しきれなかった分は学校クリニックのナースN氏に託すことにしてあるが,この日の結果も含めて返すので,翌朝Yさんに頼んでN氏に渡してもらうしかない。N氏への手紙をつければ,渡してもらうだけで大丈夫だろう。

昼はTown Groundの近くで日本人女性がやっているカレー屋があるというので,そこに食べに行った。4人で172ソロモンドルと安く,かつ美味だったのだが,なんでも某T教会の信者でソロモン人と合同結婚式で結ばれ,ここでカレー屋をしているという事情らしい。ソロモン人は大抵そうだが,旦那はあまり働かないようだ。人生それぞれとはいえ,微妙な感じ。

ホテルに戻ってからエアニウギニのリコンファームをしてもらい,その後データ入力したが,印刷までは終わらなかった。晩飯はソロモン調査打ち上げの慣例で上海という中華料理屋で会食。9人で712ソロモンドルだった。

ホテルに帰ってからN氏への手紙を打ちながら写真とデータの印刷。メンダナホテルには浴槽があるので,お湯を張って浸かったら疲れがとれた気がする。

夜明け近くなってからN氏への手紙を印刷した。


【第4日目】 PNGへ移動(2011年9月21日水曜)

朝は7:00にHot Bread Kitchenまで行かずに途中のKai barでチキン野菜煮込みライスを買ってきた。かなり量が多く,かつ美味であり,容器代2ソロモンドルを含めて37ソロモンドルは安いと思った。

ホニアラからポートモレスビーへ飛ぶAir Niuginiの飛行機食後荷造りをしてチェックアウトし,タクシーで空港へ向かい,途中でSICHEに寄ってYさんに健診結果とN氏への手紙を託した。空港でのチェックインやボーディングは何の問題もなく(ボーディングパスは手書きだが,まあいつものことだ),ほぼ予定通りの時刻にポートモレスビーに到着した。空港のATMでCITIBANKのSaving Accountのカードで500キナ引き出した。たぶん入国ゲートを通った後で出口近くにあるBSPの窓口で日本円から直接キナに換金する方が若干レートはいいはずだが,窓口がやたらに混んでいたのでATMを使った。

今日の目標は来年のリサーチビザ取得に向けて必要な情報を集めることと,ダルーの情報を少しでも得ることだ。前者はNational Research Institute (NRI) に行けば可能なことはわかっていたが,後者が問題であった。ゲートウェイホテルにチェックインしたところ,ラッキーなことにカウンターの前に今回のPNG国内旅行をアレンジしてもらったPNGジャパンというトラベルエージェンシーのPNG支配人の上岡さんがいらした。話を聞いてみると,やはりダルーの方は危険だということで,飛行機も遅れたり欠航したりするのは普通なので,帰りの便についてはよくよく飛行場で念を押しておくべきだということであった。カウンターでタクシーを呼んでもらい,まずはJICAの事務所に向かった。ソロモン諸島で石森さんがメールを受けた岩本さんという方が日本大使館にいるという話だったのだが,上岡さんの話ではJICAに移ったということだったので,JICAに行くことにしたのだ。ノーアポなので空振りだったらそれまでだが,何か情報が得られれば儲けものだ。しかしJICAが入っているのはTownのANZ Bankが入っているビルなのだが,タクシーの運ちゃんBEN氏がANZをANGと間違えて違うビルの前で我々を降ろしたので,そのビルの守衛と話がかみ合わなかった。すぐにビルが間違っていることに気づいて,ANZの場所を聞いたら歩いて行けるくらい近かったので良かったが,危ういところだった。JICAに行ってみると岩本さんはいらして,ノーアポにもかかわらず親切に我々の相手をしてくれたので助かった。しかしやはりウェスタンは危ないという話だった。会う人会う人皆がウェスタン州は危ないというので心配が募るが,あまり気にしても仕方が無い。

National Research Institute, Papua New Guinea再びさっきのタクシーを呼んで(この時点ではまだPNGローカルの携帯電話を入手していなかったので,萩原さんがソフトバンクの携帯でローミングで掛けた。電話番号が+81xxxxxxxxxと表示されるので,日本経由の国際電話になっているような気がする),NRIに行ってもらった。ここもノーアポだったが,受付で事情を説明すると,Consultancy Project OfficeのHeadのオーストラリアの方が対応してくださった。リサーチビザを申請するために必要な書類について丁寧に説明していただけて助かった。メールアドレスもいただけて,彼宛に書類を添付で送ればアドバイスをいただけるとのこと。プロポーザルは要点を押さえてあればA4で4枚〜6枚くらいでいいとのこと。やたら長いプロポーザルが必要な国もあるのでほっとした。実はNRIにはロッジがあり,かなり前から予約しなくては使えないが,一泊200キナなのだそうだ。これはゲートウェイホテルのルームシェアに比べて半分以下の値段だ。また,ラマナホテルというホテルならTwinをルームシェアして一泊700キナなので一人当たり350キナであり大学から出る宿泊費の範囲に収まることもわかった。オーストラリア人はゲートウェイよりも良く利用しているそうだ。彼の話の中で出てきた調査ビザ取得条件のうち,たぶん一番大事でかつ大変なのはローカルオーソリティのOKをとることだと思われた。この10年ほど行っていないダルー地域は,ここまでにいろいろな人から聞いた話では,州都だったけれども無政府状態になってしまったので州知事は別の町に退避してしまったとか,犯罪者が一般市民と一緒に歩いているとか,凄い話ばかりなのだ。誰がローカルオーソリティに当たるのかというよりも,そもそもそういう人がいるのかすら危ぶまれた。しかし恐れていても仕方が無いし,ホテルも営業しているわけだから,注意していけば大丈夫だろう。しかし,岩本さん情報で,ダルーでもDigicelという会社の携帯はたぶん使えるし,PCにUSB接続するカードでインターネット接続もできるという明るいニュースもあった。ここからTownに戻ってDigicelの店でUSBカードかWiFiルータを買ってからホテルに戻るという手もあったわけだが,飛行場にもDigicelの店はあるということなので,疲れ切っていたしホテルに直帰した。本当はここで帰国するときのエアニウギニのチケットのリコンファームをやっておくべきだったのだが,すっかり忘れていたのが後で響くとは,このときは思いもしなかった。

Nasi GorenPNGの食事は安全上の都合から全部ホテルにするしかないのだが,この夜はナシゴレンを食べた。インドネシアで食べるナシゴレンに比べると全然辛くなく,盛り付けも上品で別の料理のようだったが,そこそこ美味だった。

やっとデータ入力しなくてもいい夜が来たので,久々にPCをインターネットにつないでみた。さすがに高級ホテルで,部屋から無線LAN接続ができた。接続してブラウザを起動すると,20キナで30メガバイト分使えるという説明とログインができるようになっているスタート画面が出るけれども,部屋にある説明文書にはプリペイドのカードを買えと書かれていたのでカウンターに行ったのが失敗だった。そこでは150キナで300メガバイト分というカードしか売られていないのだった。責任者がいないので今は売れないが,責任者が来たら売るというのでよろしくと言って部屋に戻ったのも第二の失敗だった。部屋で試してみたらオンラインサインアップ(クレジットカード払い)できてしまったのだ。たぶん30メガバイトあればポートモレスビーでのメール送受信くらいは十分できるだろうと思われた。しかしカウンターに行ってみると,既に売ったことになっているからキャンセルはできないというのだ。しかもここでオンラインサインアップできたことを喋ったのがまずかったのか,以後オンラインサインアップもできなくなってしまった。まあ,カードのアカウントの有効期限は使い始めてから半年だから,使い始めなければいいのだ(と,このときは思った)。


【第5日目】 ダルーへ移動(2011年9月22日木曜)

8:00にホテルのレストランで朝食。普通はバイキング形式の方に行くものだと思うが,我々はトーストとコーヒーで済ませた。PNGジャパンの事務所で土産物を買ってしまい,ゲートウェイホテルに荷物を預けてから(翌日再び泊まるので無料で預かってくれた)チェックアウトした。早めに国内線ターミナルに行き,Digicelの店でプリペイドの携帯電話のうち2番目に安いもの(でも一応Nokia製C1-01)を買い,Airlines PNGのカウンターでチェックインした。翌日の便でポートモレスビーに帰れないと日曜の成田行きに乗り継げないから,絶対翌日の便を飛ばしてくれるように,何度も念押しした。

ダルーへ向かうプロペラ機待合室で3時間ほど待ったが,無事にダルー行きの飛行機はほぼ定刻にボーディングとなり離陸した。通路の左右に2つずつのシートがある形のプロペラ機でCAも一人しかいなかったが,このSARAHというCAさんが非常に優秀で,ダルーまで約1時間,快適な旅であった。ジュースも2杯貰えた。

ダルーの空港はゲートなど有って無きが如しで,するっと外に出ることができた。送迎ありとのことだったので,Kuki Hotel行きのバスを探してみると,窓が割れてベニヤ板で塞がれたようなボロボロのバスが目の前に停まっていた。少し離れた所には割と新しいNew Century Hotelのバスがあったので悲しい思いをしたが,まあボロボロだろうと何だろうと無事に着ければよいのだ。ボロい方が襲われなくていいかもしれない。

Kuki Hotelに着いてみると,質素だがシャワーも出るし(水だが)エアコンも付いている部屋だったのでほっとした。2人でシェアして1人当たり5000円くらいだったと思うが,まあ値段からすれば上等だろう。時間が無いので荷物を置き,晩飯のメニューをオーダーしてから,すぐに病院に向かった。ぼくが以前住んでいた村のチーフだったIさんの長女であるLさんがナースをしているはずだからだ。最後に訪れてから10年以上経っているからわからないが,さしあたりそれが村人に会える可能性の中で最も確実と思われる手がかりだった。それに加えて,health関係の調査をするなら,病院からの許可も取れた方がいいだろうと思われたという理由もある。ダルー病院までホテルからは目と鼻の先で,2人しかいない医師の住居もその近くにあった。この辺りで唯一の病院なので,たぶん5万人くらいがこの病院によってカバーされるはずだが,そこで医師が2人しかいないというのは,日本では考えられない状況だ。

コレラ予防啓発看板入口のそばにいた人にノーアポだけれども病院のAdministratorに会いたいというと,親切に案内してくれて,秘書に用向きを伝え,医師の1人に面会することができた。論文の別刷りを渡して,この近くの村でのpopulation studyを1970年頃からやってきたこと,今年から4年間の調査を始めたいことを説明し,口頭でだが一応の了解を得ることができたのはラッキーだった。いよいよLさんがまだ働いているか尋ねてみたら,ちゃんと働いていて,どこかの病棟の看護師長みたいな地位にいるような返事だった。素晴らしい。ただ,いま会えるか尋ねてみたところ,もう帰ってしまったという。しかし,この医師が親切な人で,車を出して現在のダルー島を一通り案内してくれて(途中,墓地があって,数年前にコレラが流行して100人以上の方が亡くなったという話を聞いた。右写真に示すように病院にコレラ予防啓発看板が立っていたのだが,そのせいかと納得した),Lさんの家にも連れて行ってくれた。果たして,感動の再会となったばかりでなく,彼女の弟でKiungaで働いているG氏にも電話で連絡が取れた。彼とはメールでも連絡がとれそうだ。ツキがありすぎて怖いくらいだ。チーフであった彼らの父,I氏が3年前に亡くなっていたのは残念だったし悲しいが,LさんとG氏が15年前と同じ職種で地位が上がっているのは素晴らしい。Lさんの家に居候しているらしい若者たちの記念写真を撮ってからホテルに帰った。暫くすると若者の1人が尋ねて来て,いろいろな話をしたついでに,昔ぼくの調査アシスタントをしてくれたB氏がいまどうしているか聞いたら,この地区のLocal Government Officerになっているという。中央政府から正式に認められているかどうかは微妙だが,Local Governmentもあるのだった。うまくするとそこのトップに調査受け入れのLocal Authorityとしてサインを貰う仲介をしてもらえるかもしれない。若者が帰るときにB氏に自分が来ていることを伝えてくれるように頼んだ。

イセエビ料理Kuki Hotelの晩飯のメインディッシュはいろいろあるが,クレイフィッシュを選んでおいたのは正解で,実に美味であった。ここまでは怖い目には遭わずに済んでいる。Nokiaの携帯電話C1-01は,ダルーでもアンテナは全部立つくらい感度良く入っている。インターネット接続はゲートウェイが反応しないとかいうエラーが出続けてなかなか成功しなかったのだが,チャットのアカウントを作ってログインしたらGoogleなどにブラウザで接続することができた。日本語は入力できないが,表示はできて,自分のサイトも見ることができた。そこで群大医学部のwebメールをみようとしたのだが,Squirrel Mailは携帯の画面では表示できないのだった。Gmailでの接続には山内さんが成功したので,回線自体はhttpsも大丈夫なようだ。次はPCに接続しようと考え,コネクタをみるとWillcom03と同じmicro Bだったので,Willcom 03をY5に接続するのに使っているケーブルでつないでみると見事に接続は認識された。しかしドライバがないのでそこから先には進めないのだった。やや徒労感を抱きつつも,ドライバさえ入れれば先に進めそうな明るい見通しができたところで眠りに就いた。


【第6日目】 再びモレスビーへ(2011年9月23日金曜)

クキホテルの朝食朝食はウインナーとスクランブルエッグと豆とトーストとコーヒー。値段も味も日本の喫茶店のモーニングと同じくらいの感じ。前日撮った写真を印刷し,出かけようとしていたら,ホテルの従業員がやってきて,村の人が来ているが会うかと聞くので,外に出てみた。するとB氏とその弟と息子に加え,B氏の上司で,この地区の行政上のトップであるJA氏が来てくれていた。昨日のLさんに続き,今日はB氏と感動の再会を果たせた。それに,実はJA氏も村人で,河辺さんも良く知っている人なのだった。話を聞くと,ダルーから村に行くには,オリオモステーションまでディンギーで行って,そこから車で行くのが早いし安いという。ウィピム村はちょっとした町になっていて発電所もあるのだという。主にオーストラリアからの援助で発展しているのだそうだ。それに加えて,Digicelも正式にカバーしているのはダルー周辺だけだが,ずっと平らな土地なためか,村でも携帯電話はつながるのだそうだ。素晴らしい。俄然明るい未来が開けてきた。昨日車で回ってもらった感じだと,確かにダルーの町には怖そうな場所もあるが,意外に簡単に村に行けそうで,村まで行ってしまえば知り合いは大事にされるので大丈夫だろうと思われた。

病院のAdministratorに写真を進呈しに行ってから,スーパーに寄ってみると,ここにも村人がいて河辺さんと感動の再会となった。ホテルに戻る途中,怪しげなドラッグか何かの売人に声を掛けられたが,断ったらあっさり引き下がってくれた。4人で固まって歩いているからだろう。実はこの人はナイフを隠し持っていたので,1人だったら強硬手段に出てきたかもしれないのだが,手ぶらの男性4人だったから大丈夫だったのだと思う。村人と一緒に歩いていればこういう人は寄って来ないのだが,外国人だけだとやはり危険な面もある町なのだなと実感した。それでも,日本人はわりと好感をもたれているようだ。道端の子供などが"China?"と訊いてきて,"No, Japan"というと途端に警戒心を解いた笑顔になってくれることからもわかる。華僑が経営しているスーパーマーケットが襲撃されたことも何度もあるそうで,ここで儲けているからということで中国人には反感をもっている人が多いらしい。こういうレッテル張りは悲しいことだが,現実の一面には違いないので無視できない。

バラマンディーのフライ昼飯としてKuki Hotelでバラマンディー(という大きな白身魚)のぶつ切りのフライを食べたら,これも美味であった。国内線のボーディング予定時刻まで4時間あるが,万が一にも乗り遅れるといけないので早めにチェックアウトして空港に向かった。4時間前でもチェックインはできたが,席番号が未定であった。つまり,Kiungaという町から乗客を乗せた状態でダルーに寄った飛行機が,空いた席に乗客を追加してポートモレスビーに向かうので,席は決まらないのだ。予定より1時間遅れで着いた飛行機に何とか乗りこんでみると,完全に満席だった。乗れてよかった。それにしてもLさんやB氏ら,村人が飛行場まで見送りに来てくれて感激した。

ポートモレスビーに着いたら疲れきっていて,ゲートウェイホテルにチェックインして晩飯を食べ(この日は最後なので……正確にはそのつもりだったので……ステーキにした。美味だったが70キナ近い,日本円でいえば2500円近いので美味で当然か),泥のように眠るだけであった。

ビーフステーキいや,眠るだけではなかった。晩飯後,メールチェックしただけで,最初にオンラインサインアップした20キナ分の無線LAN接続30メガバイトを使い切ってしまった。先にも書いたように二度とオンラインサインアップはできなくなっていたので,使い始めたら半年で無効になってしまう300メガバイトのカードのアカウントを使い始めるしかなかった。同時に何回線も接続するのは拒否されたが,メンバー4人で交替で使う分には問題ない。しかしそれでも余るので,ダルーの夜に考えた通り,C1-01をPCにつなぐためのドライバをダウンロードしてみた。Nokiaのフィリピンのサイトからダウンロードしたドライバ入りユーティリティは80メガバイト以上あって,購入した容量の1/3をこれだけで消費したのだけれども,回線速度は非常に速く,数分でダウンロードできてしまった。インストールしてからC1-01をつないでみると,見事にモデムとして認識され,自動起動したユーティリティからフォルダの同期にも成功し,[Connect]というボタンをクリックしてネット接続にも成功したはずなのだが,ここに最後の壁があった。PCにIPアドレスは割り振られるのだが,ブラウザでもメーラでも外のサーバにアクセスできないのだ。DNSが引けていないのかもしれないので,有効なDNSのIPアドレスを手動設定すればOKなような気もしたが,何せ疲れ果てていたので,ここで諦めて眠ってしまった。


【第7日目】 帰国するつもりだったが……(2011年9月24日土曜)

巨大なピザ朝飯は売店で買ったビスケットと部屋に備え付けのコーヒーで済ませた。10時にチェックアウトして暫くDeparture Barというところで待ち。昼飯として巨大なピザをとって食べてから空港へ。離陸予定時刻の約2時間前には空港に着いたのだが,受付カウンターは長蛇の列で,しかも遅々として進まない。エアニウギニの国際線は来る時もそうだったが乗客を捌くのが遅いと思う。やや不安が高まってきたが,何とか1時間前くらいの時点でチェックインカウンターに辿り着いた。これでチェックイン,と思いきや,恐ろしいことが判明した。成田行きはオーバーブッキングされていて,ビジネスも含めて全然空きが無く,かろうじて2席だけは取れたけれども,2人は残ってもらうというのだ。明日の朝のケアンズ便ですぐ乗り継いで成田に帰れるし,その振り替えも無料でやってくれるし,ホテルも食事も全部もってくれるというのだが,残りたくないので粘って交渉した。しかし埒が明かず,本当に空席が全くないということだけがわかり,時間は刻々と過ぎて行く中で,話は誰が残れるのかという方向に行かざるを得なかった。ファイナルボーディングコールがかかってしまい,乗り継ぎ飛行機が変えられないという山内さんと,リーダーの河辺さんが帰ることになり,萩原さんと自分が残留組にならざるを得なかった。呑気にピザなんて食べていないで,チェックアウトしたらさっさとチェックインしてしまうのだった。ここまでうまくいきすぎたので,多少気が緩んでいたことは否めない。エアニウギニ相手なのだから,油断してはいけないのだった。

エアニウギニのオフィスでもホテルの手配とかチケットの振り替えなど,やたらに時間がかかったが,PNGジャパンの皆さんに大変お世話になり(支配人の奥さんと気の良さそうな大柄な男性のお二人は親身になってエアニウギニと交渉してくれた),何とか無事に手続きが終わった。ホテルはゲートウェイが近いので延泊したかったが,それにはエアニウギニの偉い人のサインが必要で,今日は土曜なのでその人は休みだというので,ラマナホテルではどうかということになり,考えてみればNRIのオーストラリア人のお薦めホテルなので,この機会に泊まっておくのもいいかと思ってOKした。

ラマナホテルは非常に雰囲気のあるいいホテルで,ゲートウェイよりいいかもしれないと思った。ゲートウェイと違って浴槽はないけれど,同じ無線LANのアカウントは使えるし,空調も効いているしテレビもあるし湯も沸かせるし熱いシャワーが出るし,何も問題は無い。晩飯もチキンマサラとガーリックナンを頼んだら,実に本格的なインド風のチキンカレーが出てきて驚くほど美味であった。土曜の夜だからかライブのようなものがあるらしく,レストランでも見られるようだったが,明日は朝早いので部屋に戻り,この記録を打った。ライブが大音量なので部屋からもかなり聞こえるのは善し悪しだが,まあ許容範囲といえよう。


【第8日目】 何とか帰国できそうな日曜(2011年9月25日日曜)

5:30に起きてシャワーを浴び,6:00からホテルのレストランに行って朝食。25キナ分の無料券だが,一番安いモーニングメニューが39キナだったので,それが無料で食べられた。クロワッサンとトーストとフルーツとジュースとコーヒー・紅茶とシリアルを自由に選んで食べられるバイキング形式の食事に加えて,オムレツとトマトスライスを焼いたものが付いてきた。オムレツが美味であった。食べ終えて荷造りし,すぐにチェックアウトして空港に送ってもらったら7:00過ぎであった。セキュリティチェックは簡単に通れた。しかし,9:35発のケアンズ行きのチェックインがまだ始まっていないのは当然として,チェックインカウンターが無人なのは何か嫌な予感がした。しかし,ケアンズ行きの人はここに並べという標識は出ていたので,そこに並んだ。我々の前に1人だけ客がいたが,たぶんこの順番なら乗れないことはないだろう。暫くしてチェックインカウンターの奥から出てきた係員が言うには,コンピュータが壊れたので手作業で処理するしかなく,いま,成田から飛んできたトランジット客(我々が来たときと同じ飛行機なので,ケアンズ行きとブリスベン行きとホニアラ・ナンディ行きの人がいる)の処理を先にやっていて,それが終わったら順次手続きするから待つようにとのことであった。うーむ。今日も一筋縄ではいかなかったか。

1時間ほど待って,漸く処理が始まった。2つカウンターが開いたので,すぐに受け付けてもらえたし,預け荷物は成田までスルーにできたし,ボーディングパスを無事に手にしたときの喜びは筆舌に尽くしがたいものがあった(若干大袈裟だが)。ケアンズ行きの飛行機は10:00ちょうどに出発し,12:00前にケアンズ空港に着いた。ケアンズのトランジットはブリスベンよりセキュリティチェックが簡単で,トランスファーデスクでも2番目に受け付けてもらえたのでカンタスとJetStarのコードシェア便である13:20の成田行きのボーディングパスを首尾よく手にすることができた。いま,空港での待ち時間で土産物を買ったので,あとは仕事をしよう。

予定のボーディング時刻より20分ほど早くボーディングが始まった。カフェオレを急いで飲まねばならなくなったのは誤算だったが,早く成田に着きたいので,これは歓迎だ。離陸も予定より若干早かった。JetStarはブッキングの時に注文しておかないと機内食が出ないようだが,エアニウギニは代替チケットをカンタスで取ってくれていたので,ちゃんと昼食も夕方の軽食も出た。飲み物はそれぞれソフトドリンク1杯だけついていて,それ以上飲みたかったり,アルコールを飲みたい場合は別に注文してクレジットカード払いで買わねばならない。ある意味合理的だと思う。ただ,アイマスクとかスリッパが入った袋は全員にサービスで配られた。JALではビジネスクラスでなくては貰えないので,金の使い方が違うのだなあと面白かった。

着陸も予定より20分ほど早かった。もっと驚いたのは,着陸後の地上滑走の途中から,携帯電話を使ってもいいというアナウンスが流れたことだ。なんとも合理的な会社だ。入国審査も一瞬で済み,荷物もすぐに出てきて,通関もあっという間だったので,想像していたよりも1本前のスカイライナーに乗れた。京成上野駅に着くのが20:54なので,うまくすると終電1本前のあさま553号に間に合うかもしれない。一日帰国が遅くなってしまったが,最後になって交通運が上向いたかもしれない。まあ総じてみれば,さまざまなラッキーに恵まれた調査と打ち合わせの旅だったといえよう。


Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.

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