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「へぇ」さえも使えない社会

As of April 16, 2004 (FRI) 12:28.

どこから書き始めればいいのかわからないが,漠然と考えているテーマは,社会の動きが速すぎると紋切り型発言によるコミュニケーション拒否が起こるのではないかということと,それが「へぇ」みたいに明白な場合ならまだ救いがあるが,「感動した」みたいなものは救いようがないということだ。解決策としては,社会の動きをゆっくりにするか,個人がコミュニケーションスキルをトレーニングするか2つの道があると思うが,前者は無理だろうから,後者が必要だというのが当面の結論になる。

かつての日本がそうであったように動きがゆっくりな社会では,新参者や初心者は,暫くおとなしく様子をみていて,慣れてから本格的に参加していくことが許される。子供の頃,小学生が鬼ごっことかをしていると,幼稚園や保育園の弟や妹は「おみそ」として混ぜてもらえて,逃げる中には入れるけれど鬼にはならないというルールがあったが,村の寄り合いでも職場の集団でも,実はみんなそうで,ある程度均質で経験を共有する集団の中には,専門用語やら不文律とか,アウトサイダーにはわかりにくい決まり事がいろいろあって,慣れるまで時間を要するのが当たり前だったし,インサイダーの経験知に従っていれば物事がうまく進んでいた。

ところが,今はそうではない。新しい事情が次々と生まれていくので,経験知に従おうにも,グループのインサイダーも頼るに足る経験をもっていないことが多い。しかも,グループメンバーの入れ替わりが激しいので,新参者でも十分な働きをすることが求められ,「おみそ」は許されない(役割を与えられたらすぐに目に見える結果を出さねばならない)。でも,専門用語やら不文律はある程度存在するので,アウトプットの要求水準は高く,コミュニケーションの齟齬が起こりがちである。本来なら,時間をかけて慣れていけば済む問題だし,そうでなくても,一々,「すみませんが,それはどういう意味でしょうか?」と尋ねることでコミュニケーションを深めることはできるはずである。しかし,それをやっていると,議論そのものの時間が長くかかってしまう。それすら許されないほど皆が忙しいわけだ。

議論を長引かせずに,誰かが強権的に物事を進めるか,あるいは合意に至らないままにインサイダーによって実力行使がなされるのが,多くの場合の現実である。国会すらそうなのだ。そこでなされていることは,強行採決とか,「言えないこともありまして」とか,あるいは新参者の側からの「話にならない」とかいった紋切り型の発言に終わる,コミュニケーションの拒絶である。

紋切り型の発言によるコミュニケーション拒絶といえば,すぐに想起されるのが,「へぇ」である。「トリビアの泉」スーパーバイザーの唐沢俊一が,今年の文藝春秋3月号(芥川賞受賞2作品が全文載っているので,文芸誌としては異例の100万部が売れたらしい)の85ページから86ページで,「へぇ」について,酒の席などでの「ロクに話もせずにただ雑知識を連発する手合い」への対抗策だと書いている。唐沢によると,本人は嬉々としているけれど大抵嫌われていてしかもそのことに気づかず,「『サザエさん』のタラちゃんは原作では左利きって設定なんだよね」とかいって対応に困った相手が「ふーん,よく知っているねぇ」とお茶を濁すと,褒められたと勘違いして,さらに……といって,以下のように書いている。

とっておきの(と自分が思っている)知識を披露しにかかる。

「”第三者”というのは中国語で”不倫相手”って意味なんだ!」

……どう返事をしろというのか。こういうときに,右手を上下させながら”へぇー”と,少し語尾の上がった,聞きようによっては小馬鹿にしているともとれるような声を上げる。あまり面白くないときには,「うーん,それ,四へぇ」と言い捨てればいい。

つまり,酒の席の一方通行を断ち切って,コミュニケーションの回復を図る道具として使えるというのだ。しかし,これが日常の場に溢れてくると,逆に無関心を増幅させ,コミュニケーションを紋切り型のものばかりにしてしまう危険も秘めている。その場合は,「へぇ」自体がコミュニケーション拒絶の記号と化す。そうならないように会話のテクニックが洗練されてくるかもしれないので,両刃の剣ともいえるのだけれど,前述のように,洗練にかかる時間を待つだけの暇がない場が多い。

ただ,この話が本当に怖いのは,ここに書いたような論考自体も,「へぇ」で終わらせることができてしまうという点だろう。終わらせないためには,何事にも無関心に陥らないで人生を過ごすことが一つの解となりうる。ぼくの出身研究室である東京大学人類生態学教室の先輩には,まさに薀蓄の語り手といえる方(仮にOさんとしておく)がいて,例えば,すし屋で板さんに向かって「この貝はエゾイシカゲガイが正式な名前で,今年は何日くらいからどこどこの漁港でいいのがでてる」等々,スシダネの解説をしてしまったりするのだが,人類生態学研究者は何にでも関心をもつ連中なので,何人かで飲むときには,Oさんが話題提供的なポジションを取られることが共通理解としてあって,楽しく飲み食いができる。この場合は,場に適応できているので,「へぇ」なしでも済むわけだ。先にも書いたように,「へぇ」でしか対応できないということは,そのグループの未熟を意味するという側面も否めない。

未熟なグループでありながらそうでないような顔をして,過半数の側が紋切り型発言でコミュニケーションを拒絶し,ビシバシとコトを進めて行くと,傍目には格好よく見えるらしいのが,また始末におえない点である。本当は深く考えなくてはいけないことまで紋切り型で即答してしまう。もう癖になってしまっているのだろう(元々の資質かもしれないが)。しかも,紋切り型の発言は,既にコミュニケーションを拒絶しているのだから,「へぇ」で対抗することもできない。考えてみると,これほど恐ろしいことはない。どうやったら,コミュニケーションを拒絶する多数派・インサイダーを議論の場に引っ張り出せるのか? 自分がインサイダーになっても互いにコミュニケートできないから意味が無いという閉塞。せめて,辛抱強くコミュニケーションを試みれば聴く耳はあるというのなら,救いはあるのだが。

最初に書いたように,コミュニケーションスキルを磨くことが必要なのだと思う。それを厭わない態度も。格好悪くても,効率が悪くても,一見無駄にみえても,大事なことは時間をかけて話し合って合意点を探るべきだと思う。自戒をこめて。


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