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リスクを知る

Last updated on February 8, 2004 (SUN) 22:25 .

この文書は,2004年2月8日に大阪で行われた,「産学官民の連携による日本の食を考えるシンポジウム(第2回)食と農 安心のためのリスクコミュニケーション」で『リスクを知る』と題して概論的に喋った内容の概要です。プレゼンテーションに使った資料(PDF形式)も公開しています。

関連資料として,公衆衛生学講義第13回「衣食住の衛生」公衆衛生学講義第15回「環境管理とリスク論」が参考になるかもしれませんので,併せてご覧いただければ幸いです。


イントロ

疫学におけるリスクの捉え方

リスクの話をするには,まずリスクとは何かというところから始められねばならないが,さまざまな使われ方がある。例えば,疫学という研究分野で,リスクを厳密に捉えるならば,特定のイベントに注目して(例えば上図の星印),一定期間観察したときに(例えば上図の白い枠),観察開始時にいた人のうち何人がそのイベントを経験するかという割合を意味するので,上図の場合なら4分の2,つまり2分の1になる。

何が問題かというと,まず,(1)観察期間中に起こったことしか示さない点が問題。観察期間以前にどういう状況にあったか? とか,観察期間後にどうなるのか? といった情報は含まれていない。毒物に曝露してすぐに病気になったり死んだりするような,急性毒性が問題になっていたうちはまだそれでも良かったが,ごく微量の毒物に慢性的に曝露したときに,長い時間がかかって病気になる可能性が高くなるというような(最近問題になっているものにはそういうものが多いが)問題では,短期間の観察に基づいたリスク評価しかできないのでは不完全(この点はリスク論でよく指摘される)。次に(2)対象イベントについての情報しか示さない点も問題(これはあまり意識化されていない場合が多いと思うので,少し詳しく説明する)。

厳密な捉え方をしない場合でも,リスクについて語るとき,対象イベントは,一般に「望ましくないこと」なので,大雑把に言えば,「望ましくないことが起こる確率」がリスクといえる。でも,その「望ましくないこと」が,

は,大きな違い。つまり,「何のリスクなのか?」を明確に認識することが必要。これが食い違うと議論にならない。BSEについての日米の議論の食い違いの原因の一つはここにあると思う。

人間の特性

ここで,「リスク」を問題にしているのは,我々人間なので,人間の特性ということに立ち返って考えてみると,ヒトは,

という特性をもっていて,これらの条件が満たされているとQOL(生活の質)が高いと考えられる。けれども,問題は,これが要求水準に対しての比であること。上2つの要求水準は生物としての条件だから変わりにくいが,3番目の要求水準は可変。例えば,ソロモン諸島で電話がないのは当たり前だが,日本で電話がない人は珍しい。

エンドポイントを同定する

「何のリスクなのか」つまり,エンドポイントを同定することが大事。病気や死亡を避けることは生物としての要求なので変わりにくい。安心は予測能力あってのものだから,ヒトだけで,社会によって多様。例えば,極論をいえば,安心を増すには,「予測しない」手もある。草むらに蛇がいても知らなければ不安でない。

でも,この方向性は限界がある。一度知ってしまったら,忘れることも無視することもできない(狂牛病が有名になる前は,肉骨粉を含む餌で育てられた餌を使って育てられた牛を平気で食べていたはず。病気や死亡のリスクが変わったのではなく,リスク予測ができるようになっただけ)。しかも情報は勝手にやってくる。

ゼロリスクの原則の崩壊

環境リスクをゼロにすることを目標とする「ゼロリスクの原則」が,かつてのリスク管理(1970年代以降,閾値がない毒性発現機構があることがわかる前は,ゼロリスクが可能であるというのが常識だった)

しかし,1つの要因によるリスクをゼロにすることが仮に可能だとしても,すべてのリスクを同時にゼロにすることは不可能。例えば,健康へのリスクを減らすためには農薬は使わない方がいいが,害虫の影響で食料不足になるリスクは増大するし,カビ毒による食中毒のリスクも増大する。

そもそも,局所的にゼロリスクを目指しても,外部と完全に隔絶した環境はありえない。例えば,南太平洋の漁民は,自分たちが排出しているのでもないのに,彼らの獲物である回遊魚や鯨類には地球を巡ってきた有機塩素化合物が含まれてしまっている。山奥の湧水でも雨水自体に含まれる化学物質は含んでいる。

リスク一定の原則

それなら,すべてのリスクを社会的に受容できる一定レベル以下に抑えることを目標としよう,と考えればどうか。化学物質を管理するための環境基準や一日許容量とかいったものは,この考え方に基づいている。

しかし,社会的に受容できるレベルとは? と考えてみると,例えば,10万人に1人以下とか100万人に1人以下の死亡や発病リスクは社会的に許容されると決めるわけだが,狂牛病対策の場合を考えればわかるように,どのくらいなら「社会的に受容できる」かは,世論や社会情勢や国際情勢によって変化する。

日本では,実際に死亡や発病そのものに意味があるというよりも,その予測値によって「安心を得られる」水準が政治的に決められることが多いように思われる。

なお,そうやって管理されるのは,科学的な知見に基づいてどの程度のリスクかを評価し,それを不確実性係数で割って基準値を決めるので,物質ごとに行われるしかない。物質が組み合わされたときにどうなのか,あるいはヒトの側の条件が違う場合にどうなのかというと,知見が少なすぎてわからない場合が多いので,リスクの評価は不十分。

石鹸と合成洗剤のリスクの比較

1回の使用量でBOD(簡単に言えば有機物による水の汚染の指標)を比べると,合成洗剤25 gで0.22 gTOC/g,石鹸45 gで0.47 gTOC/gと石鹸の方が多い。けれども合成洗剤は生物分解が難しいため生態系には有害だし,東京で水道水のLAS(合成洗剤に含まれる界面活性剤の1つ)の濃度を測ってみると,基準値ぎりぎりのことも多い。でも,実は石鹸の原料として植物性の油脂が使われるため,東南アジアやオセアニアで原生林を切り開いて大規模なアブラヤシのプランテーション(大量の除草剤を投入している)が経営されていることを考えれば,石油から作った合成洗剤よりも地球環境に悪影響をもたらしているかもしれない。

何も考えないで使うのではなく,使用量とBOD,資源,生態毒性などを総合的に考えて適材適所で適量使うべき。そう考えると,ライフスタイルの変更へのターニングポイントとしての象徴的な意味もでてくるかもしれない。

リスクベネフィットの原則

リスクを一定の水準以下に抑えるという基準と同時に,マネージメント(リスク管理)の目標としては,リスクを上回る便益性があるようにすることも必要

ここで,便益性とリスクの評価軸が同じなら簡単だが,違うことが多いので問題が起こる

軸が同じ例
●東京湾三番瀬のデータのように,干潟のアサリの汚水浄化能力は,埋め立て後に予定されていた流域下水処理場の浄化能力を上回り,しかも定常的な汚水供給を要しないから,埋め立てない方がベネフィットが大きい,という同じ軸での比較は明白
軸が違う例
●干潟を埋め立てることによってアメニティ機能が失われるという評価軸でのリスクと,工場を建てれば雇用創出によって経済効果が生まれるという評価軸での便益性は,軸が異なるので比較困難

環境や食物の多面的な価値

軸が違ってくる原因は,さっきの石鹸と合成洗剤の例のように,リスク評価の軸がたくさんあるからということもあるけれど,そもそも,モノの価値が多面的だからということもある。

干潟の価値
●漁師にとってはアサリや海苔や魚を育んでくれる場(財源でもあり食料でもある)
●観光客にとっては遊び場
●アサリなどの水棲生物が川を流れてくる汚水を浄化してくれる湾の環境保全機能(Nature Service)
●人工干潟は定着しないから自然の干潟を残すことは世界遺産として意味があるかもしれない
リンゴの価値
●栄養源
●美味しいという幸福感
●果樹を見て美しさを楽しむ
●特産物という誇り
●農家にとっては収入源

リスク管理の役割

そういう難しい状況にあって,じゃあどうやってリスク管理をすればいいのか? ということが問題になってくる。原則としては,

ということになるのだが,具体的に,どうやって異なる軸をすりあわせて優先順位をつけるのか? といえば,(1)強引に同じ軸にあわせる,(2)異なる軸の相対的重要性を議論して重み付けをする,(3)全体のシナリオとして評価する(コンジョイント分析と呼ばれるものが有名)といった方法が考えられている。【注:時間の都合上(3)については説明しなかったが,(2)と同じ意味でリスクコミュニケーションは重要になるはず】

強引に同じ軸に合わせる方法

CVM(仮想評価法)と呼ばれるものが環境経済学分野で有名。

大雑把に言えば,あらゆる価値を仮想的な金銭に換算して考える。即ち,リスク削減のためにいくらなら払ってもいいか(支払い意思額:WTP),いくら貰えばリスクが増えてもいいか(受入れ補償額:WTA)をアンケートで調べる

(例)いくら貰えば,鎮守の森を潰してアミューズメントパークを作ってもいいですか? と住民に聞く。アミューズメントパークから得られる経済効果と同じ軸で比較できる。いくらまでなら有機JASマークのついた農産物に余計に金を出せますか? というのも,一種の仮想評価法。

仮想の妥当性,とくに日常的に現金経済に接していない人が対象の場合のWTPとWTAの不一致,質問のバイアス等が限界。どれだけ現実的な仮想ができるか? もわからない。また,世論や社会情勢によってコロッと変わる可能性がある。

異なる軸の相対的重要性を議論して重み付けする方法

CRA(相対リスク評価)というのが有名。本来は,米国EPA(環境保護庁)が環境問題の優先順位付けのために開発した手法。

問題の包括的なリストを作成し,問題の影響の大きさをリスクの側面から比較評価して(この際,健康リスクだけでなく,生態系リスクや生活の質へのリスクなども加味)ランクをつける

評価するのに専門家だけでなく,市民代表など幅広い人が参加して住民の立場からの意見も取り入れる

パネル(評価する人たち)の構成が一つの鍵

ここで大事なことは,議論の際,認識が食い違ってはいけない。議論がかみ合うためのリスクコミュニケーションが必須。意見が同じになる必要はない(というか,違うのが普通だからこそ幅広い人たちのパネル参加が必要なのだし)が,共通認識に立つ必要はある。

まとめ

リスクを考えるときには,どうやって管理するのかだけでなく,

が大事

もっとリスクコミュニケーションを

例えば,鳥インフルエンザの報道でも,山口県産の卵と鶏肉が自主回収されたことと,卵や鶏肉を食べて感染した例は知られていないことだけ報道する矛盾(感染しないなら自主回収の必要はないというのが論理的帰結のはず)。インフルエンザウイルスは熱に弱いので加熱調理すればほとんど感染しないはず,と伝えるべき。マスメディアのあり方は問題。

インフルエンザウイルスだけにフォーカスするのは他のリスクをマスクしている可能性もあることを一人一人が知るべき。

ゼロリスクが崩壊した以上,安心を得るには,よりよく知るしかない。単純ではないことだから知るのは難しい場合も多いのだけれど,わからないと思わないで知ろうとしなくては。食に関しては,リスク評価とリスクコミュニケーションのために昨年7月に食品安全委員会ができたわけだが,現状は?? 今後に期待。


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