気が付いてみると,忙しさにかまけて一週間以上も更新していなかった。先週末に上の子が発熱したせいもあるが,昨日の教室ミーティングで発表するための準備に忙殺されたのが一番の原因である。発表内容が「人口転換理論」(近代化に伴って人類集団の人口動態が多産多死から少産少子へ変化する,とNotesteinが1945年に述べて定式化された「人口転換」という現象を説明するための理論)のレビューという壮大なものだったせいもあり,常になく準備が大変だったのである。そのうち人口学のページに載せるつもりなので,関心のある方はご覧いただきたい。多量の論文に目を通していて,学問という営為についてちょっと考えたので,今日はその話をしたい。
これまでたくさんの本を読んできたが,ぼくにとって別格といえる本が2つある。ひとつは曾て読んだ本についてでも挙げた有吉佐和子「複合汚染」(新潮社)であり,もう一つはトール・ハイエルダール「コンチキ号漂流記」(偕成社)である。実はこの「コンチキ号漂流記」という本には,学問という営為のエッセンスが凝縮されているのだ。偕成社版だから総ルビの児童書であり,読んだのは小学校3年生の時なのだが,昨日のことのように鮮明に覚えている箇所がいくつもある。今にして思えば,小学生のときにこれら2冊を読んだことが,ぼくが研究者を志すきっかけになったのだろう。
ハイエルダールは,ノルウェーの学者である。彼はポリネシアに滞在したときに,古の民族のたった一人の生き残りの老人から不思議な伝承を聞く。と同時に,イースター島のモアイ像に代表されるような巨石文明が南米のそれと類似しているのではないかという感じをもつ。それまでの研究ではポリネシア先住民がどこから来たのか不明だったので,彼は南米から筏で来たのではないかという仮説を立てる。米国の権威のある学者にその仮説を話したところ不可能だと一笑にふされたので,「じゃあ,昔でもできたであろうバルサの筏を自分で作って南米からポリネシアに人力と風力だけで行ってやろうじゃないか」と思いつき,自力で金と協力者を集め,実現してしまうのである。漂流中に出会う海の生物たちや協力者たちと著者が織りなす人間ドラマも魅力的だし,実際この本のページ数の大部分はそれらで占められているのだが,本書の本質は学問という営為の実践なのである。
つまり,(1)魅力的な謎に出会って自分の仮説を思いつき(注:仮説を思いつくのは(2)や(3)の段階のこともある),(2)先行研究を調べてどこまでわかっているのかを確認し,(3)未解明であれば仮説を検証するための計画を立て,(4)計画を実現するために金と人を集め,(5)きちんと実行して,(6)結果を発表する,ということである。(4)の段階でさまざまな苦難に出会うことは多いが,それを克服するために主体的にtrial and errorの努力を重ねれば重ねるほど,(5)でのやりがいもあるし,結果が出たときの嬉しさも大きいものである。もちろん,それは学問の進歩にとっての価値の大きさとは無関係だが,学問という営為を行う主体である研究者にとっては大事なことだと思う。ま,難しいけどね。
レビューというのは(2)の作業(もちろん(6)でも必要)だが,謎の魅力が大きければ大きいほど先行研究は多いのが普通なので,時間がかかって大変である。人口転換,とくに出生力転換(高出生から低出生へ)は,直感的に考えると生物の本性に反しているような気がするので実に魅力的な謎であり,研究も山のようにある。近代化前は高出生という前提に問題があるかもしれない(たぶんパプアニューギニアのギデラと呼ばれる人々は欧米文明との接触前でも低出生だったのではないかと思う)が,少なくともヨーロッパについては実際に起こったことは間違いなく,相変わらずいろいろなアプローチが可能な大きな謎であり続けているのである。
(追記)さっきは書き忘れたが,謎が自明でない場合,「魅力的な謎を発見する」というのも学問の営為に含まれる。その場合でも,(6)結果を発表するだけは絶対に必要である。学問などという営為がヒトの社会において許容されているのは,「謎解き」という(知的)好奇心の充足がヒトの基本的な欲求だからに他ならないと思う。いくら謎を解いても自己充足しているだけではだめで,論文を書いたり一般書を書いたりしないと学問をしていることにはならない。社会への実利益なんてのは学問にとってはどうでもいいことだが,発表だけは本質的に大事なのだ。このことは忘れてはならない。自戒を込めて書いておく。