昨日は娘を連れ帰ってから夕食の支度をした。例によってレシピなどはなく勘で適当に作った。朝のうちに冷蔵庫に移して解凍しておいた皮付きの鶏もも肉を使ってメインディッシュにしたのだ。手順は以下の通り。
できあがったものは,甘辛くて(ちょっと薄かったかもしれないが)なかなかに美味だった。子どもたちにも好評だったから,20:00近くなってしまったのは,まあ許されるのではあるまいか。
今朝は目が覚めたら5:40で(というのも寒さで夜中に何度か目が覚めて,そのたびに何もかけずに腹を出して眠っている子どもたちにタオルケットをかけてやったりしていたせいもあるのだけれど),始発に乗るのは諦めた。どうせ始発に乗れないなら,ということで台所をきれいにしていたら,昨日の料理は油ものだったわけで処理に時間がかかってしまい,2番も逃した。結局,いま乗っているのは,7:02発あさま550号。間抜けかも。
最近,ニッポンニッキで,差別についての議論が盛り上がっている。ふと思いついて差別の記号的解釈をしてみたので書いてみる。どろどろしたナマの現実からは乖離しているから,何の役にもたたないような気もするが,もしかしたら問題の整理ができるかもしれない。
まず,主体として人物A,客体として人物B,対比されるべきあるいは判断の上で想定される社会なり世間なりその他の人びととしてCsを考える。AとBは,それぞれが自己及び相手について,Csとの包含関係を判断できる。判断としては,(1)AもBもCsに含まれる,(2)AはCsに含まれるが,BはCsに含まれない,(3)AはCsに含まれないが,BはCsに含まれる,(4)AもBもCsに含まれない,の4つがありうる。この判断をAとBがそれぞれ行うので,状況は4×4の16通りになる。
こう分けてみると,AがBを差別するという現象は,AとBの判断が食い違うときにのみ成立することがわかる。判断が一致していれば,(2)や(3)であっても,AとBの間には区別しか存在しない。AもBも(1)と判断すれば,そこには完全な同化があり,一様性・均質性が保たれる。AもBも(4)と判断しているなら,多様なままでいるかもしれないが,そこには連帯の生じる余地がある。ところが,Aが(1)と判断しているのにBが(2)と判断していたら,結果的にAはBのCsとの違いを無視していることになり,Bにとっては正当な評価をされていない,差別されている,と感じるであろう。これを差別(陰)と呼ぶことにする。いっぽう,Aが(2)と判断しているのにBが(1)と判断していたら,BはCsの一員であると思っているのにAからCsと違うと見られるのだから,明らかに差別を受けていると感じることになる。これを差別(陽)と呼ぼう。このようにして16通りのそれぞれの場合について,Aにとっての状況を整理すると,下表が得られる。
Bの判断\Aの判断 (1) (2) (3) (4) (1) 同化・一様 差別(陽) 被差別(陰) 被差別(陰)かつ差別(陽) (2) 差別(陰) 区別 反目または被差別(陽) 被差別(陰) (3) 被差別(陽) 反目または差別(陽) 区別 差別(陽) (4) 差別(陰)かつ被差別(陽) 被差別(陽) 差別(陰) 多様・連帯 如何なものだろうか?
長野では雲間から青空が見えていたのだが,上野は雨だった。多少は涼しいような気がするから,この時期なら雨もまんざら捨てたものでもない。
なんとなく仕事は捗らないままに,帰りは終電。内田康夫「津軽殺人事件」(中公文庫)を読了。事件解決に必然性がなく,浅見光彦探偵は「もてる男は辛いよ」という雰囲気を漂わせつつ,運良く謎の鍵にぶちあたるというご都合主義作品なので,ミステリーとしては今ひとつだが,津軽の旅情はなかなか。ついでに,青空文庫からダウンロードして読みかけだった太宰治「津軽」も読了したので,2つの作品がオーバーラップして感じられ,面白かった。酒に浸りつつ自虐的にくだを巻きながらも,津軽への強い愛情と誇りがほの見える太宰の文章は一流である。それにしても,たまたまそこに泊まった夜に強い西風が吹いていたからといって「蟹田ってのは風の町だね」という太宰も太宰だが,それだけで「風のまち」をキャッチフレーズにしてしまうという蟹田町商工会の軽いノリも何とも言えず良いなあ。