土曜の早朝から,家族4人で津軽へ行ってきた。前にも書いたように指定がとれなかったので,今回の旅の最大の懸念は,如何にして座るかということであった。長野電鉄も6:43発あさま502号も空いていたが,大宮で降りて東北新幹線やまびこ3号に乗り換えようと思ったら,いきなり懸念が現実のものとなった。立ってさえ入れないような無茶苦茶な混み方なのだ。仕方なく,上越新幹線あさひ302号で東京へと向かい,待ち時間16分のやまびこ7号を狙った。ところが,ぼくは間抜けであった。待つ場所を間違えていてやはり座れなかったのだ(14両編成なので後ろの端には停まらないことに気づかなかった)。慌てて隣のホームに入線していた9:00発Maxやまびこ35号の下の階に乗った。Maxは席数が多いので座れる可能性は高いのだが,停車駅が多くて遅いのが困りもので,盛岡に着いたのは12:26であった。やまびこ3号に比べると2時間以上遅い到着である。ほどなく青森行きのはつかりが出るのだったが,運悪く車両故障とかで5両編成だったため,はつかりも混んでいた。妻がすばやく禁煙席2シートを確保したので何とか青森まで座っていけたのは不幸中の幸いであった。青森から目的地の蟹田までは,快速海峡9号に乗った。ちっとも知らなかったが,現在,快速海峡は,なぜかドラえもんとタイアップして特別な車両構成になっていて,2号車がカーペット敷きで脚を投げ出して座ることができ,かつ2階に行ったり降りたりできるので,子どもたちは大はしゃぎであった。
16:00ちょっと前に着いた蟹田は雨だった。前にも書いたが,太宰は「津軽」の中でたまたま蟹田に泊まった晩に西風が強かったので,「蟹田ってのは風の町だね」と書いていて,それを元に蟹田の人たちは「風の町」をキャッチフレーズにしている。そうであってみれば,たまたま着いたときに雨だったという事実を元に,「蟹田ってのは雨の町だね」と云っても支障はなかろう(意味もないが)。「この町出身の有名人が4人いて,工藤静香,ボクシングの畑山,映画化されるという「空と山のあいだ」の作者である田澤拓也,それに横浜高校から西武ライオンズの若きエースとなった天才投手松坂大輔だ,と町の誰もが誇りにしている,そんな小さな町だ」と,ここに呼んでくれて旅館の手配などもしてくれたOさんがいうのを半信半疑で聞いていたが,歩いていて見つけた呉服屋の幟(右写真)に「蟹田の孫,だいすけ」と入っているのを見れば,信じないわけにはいかない。松坂投手は蟹田生まれで,お母さんの実家で西武の試合が見られるようにと衛星アンテナを贈ったのだそうだ。お母さんの実家はここではなくて,観瀾山の北方にあるのだが,それにつけてもなんとなく感じることは,蟹田の人たちのノリのよさである。
町に3軒ある旅館のうち料理の豪華さでも宿泊料金でも2番目だという佐々木旅館に17:00過ぎに車で迎えに来て貰って,メインイベントの青森ねぶたに出かけた。18:00近くに青森市内に入ると道路は渋滞に近い状態になり,車もノロノロと這うようにしか進まないのだが,車窓から見える歩道を着飾ったハネトがゆくのが見えるので,意外に飽きない。青森ねぶたといえば,1台で数千万円かかるという,勇壮な歴史上の人物や虎などがデザインされた巨大灯篭(これを「ねぶた」というらしい)が市内を練り歩く姿がまずイメージされるのだが,その後ろについて踊り歩くハネトも大きな特色なのだそうだ。ラッセーラー,ラッセーラーというかけ声とともに激しく跳ねる踊りを集団でやる姿はエネルギッシュで,東北地方のイメージからは意外なほど南方的である。ハネトの中には,志村けんの白鳥とか缶ジュースとか縄文時代人とかの異装をまとって,他のハネト以上に激しく踊る人がたまに混ざっているのだが,この人たちはバケトと呼ばれるらしい。ハネトやバケトは鈴をたくさんつけているのだが,踊りが激しいのでこれが飛ぶのを,子どもたちが拾って歩くのもまた風流である。なんでもこの鈴を拾うと幸せになれるそうだが,息子が10個以上,娘も7個拾ったから,相当幸せになるのであろう。
なお,夜間のねぶた運行は2日から6日までだが,5日と6日が一番たくさんのねぶたが出るピークである。七夕の1つのバリエーションという見方からすると,7日に受賞作を海上運行するのが灯篭流しに当たり,それを見逃すわけにはいかないのだが,今年は日程的にちょっと無理だった。5日は最終日前日だからちょっと疲れ気味だったハネトが多かったように思うが,それでも時折威勢のよい掛け声とともに見せる踊りには迫力があった。
お兄さんの勤務先があるおかげで,車を運行コースの内部に止めることができるので,Oさんは毎年そうしているそうだ。しかもその前の一番いいところにとっておいてくれた席でねぶたを見ることができたので,迫力は最高だった。ねぶた運行が終わるのは21:00過ぎだから,それまで子どもたちの胃袋がもたないだろうということで,先に夕食をとることにしたため,見たのは途中からだったのだが,子どもの集中力を考えるとちょうど良かったように思う。食事は路傍で売られているイカ焼きとかでも良かったかもしれないが,Oさんが寿司にしようというので人ごみの中を抜けて寿司屋に行った。驚いたことに,その店は,寿司研究家の先輩が「青森だったらここだね」と推薦していた「一八寿司」なのだった。混んでいて頼んだものが出てくるまでに時間がかかったが,値段は安いし,Oさんお薦めのネギトロはとろけるような美味の中にネギのシャキっとした歯触りがたまらないうまさだったし,食べ終わる頃には子どもたちも大満足であった。席に戻って1時間半ばかり,ねぶたの迫力に圧倒されながらデジカメで撮った写真が右の2葉だが,やはり夜間の写真ははDC-210Zoomとかいう安物デジカメで撮るのには向いていないことがわかった。実はもっとたくさん撮ったのだが,手ぶれしたりピンぼけの写真が多くて使えないのだ。しかも連写が利かないので,シャッターチャンスを逃すことが何十回もあった。せめてマルチーズくらいのシャッター間隔でないと,駄目だなあ。
ともあれ,あの迫力は目と耳に焼きついているので,別に写真はどうでもいいのだ。21:00過ぎに交通制限が解除されるのと同時に車で蟹田に向かったが(出るのが遅くなると渋滞するとのこと),22:00頃旅館に辿り着いて入浴を済ませたら(佐々木旅館の風呂は家族風呂みたいな感じで,4人で入るのにちょうど良かった),疲れ果てて眠ってしまったのはいうまでもないだろう。
翌日は海水浴を楽しむのだと決めていた。蟹田海水浴場は青森県でも屈指の遠浅で設備の整った(鍵のかかるロッカーつきの更衣室や水のシャワーは無料だし,100円出せば温水シャワーも使える)海水浴場なので,行く前から楽しみにしていた。東京に住んでいたころも人で海が埋まっているようなところへは行きたくなかったから行かなかったし,長野には海がないので,子どもたちにとっては初めての海水浴である。たらこ,かつお梅,キュウリの漬物,生卵,味付海苔,味噌汁,ご飯という朝食を食べてから(これがまたうまいのだ。前夜の夕食が早くて空腹だったせいもあるとは思うし,気温が低いおかげもあるかと思うが,子どもたちもご飯をおかわりするほどだった),8時台だというのに速攻で海水浴場に出かけた。生憎の雨模様で,海水浴場の手前に林立するテント(そう,町営のキャンプ場にもなっているのだ)から出ている人もほとんどいなかったのだが,気合の入ったぼくらの目には海しか見えていないのだった。冷たくて透明度の高い水も気持ちよかったし,吹いてくる風の冷たささえもものともせず,海へと突入したのだった。が,しかし。
9:00前になって雨足が強くなり,さしものぼくらも一時避難を余儀なくされた。滑って足に擦り傷を負った娘は,トップマストという建物の屋根の下でバスタオルにくるまり,震えながら「もうやだ」と呟いているのだった。これはまずい。このままでは海が嫌いになってしまうかもしれない。
危機感をおぼえ始めたぼくの願いが届いたのか,天は我を見放さなかった。9:30頃から雨が上がったかと思うと晴れ間がのぞきはじめ,昼からは夏の陽射しが燦々と照りつける海水浴日和になったのである。蟹田の海では,もともと白魚とか毛蟹が獲れたらしいが,現在では帆立貝の養殖がさかんになったせいで海が汚れたのと乱獲のせいでほとんどいなくなったというのは残念だ。海が汚れたとはいっても,胸くらいまで浸かった状態でも底まで見える透明度は,東京近郊からすると遥かに美しいし,何のためかしらないが石が積まれたところには小さなカニやら貝やらフナムシやらが居ついていて,海で泳ぎ疲れるとカニを捕まえたり海岸の砂を掘ってみたり山を作ってみたり,そうこうするうちにOさんが持ってきてくれたゴムボートに乗ってみたり,海へと突入する滑り台で遊んだり,と飽きることなく遊べたのだった。広い割には人が少ないので,海を堪能することができた。海の家で買ってきたラーメンと焼きそばも安くてうまかったし,子ども連れでくるには最高の海水浴場の一つではなかろうかと思う。最近のスキー場なんかもそうなのだが(きっと監視員が退屈しないようにだと思うのだけれど),流行の若者向けポップスがずーっと流れていたので,「…日曜,日曜」というリフレインが耳にこびりついてしまったことと,風が涼しいので紫外線を甘く見ていたために日焼けがひどくて水曜日現在もリュックを背負うのが苦痛なことが誤算だったが,まあこれもまた良い思い出である。
せっかく津軽にきたのだから竜飛崎を見たいとOさんに言っておいたら,Oさんのお兄さんが車で連れて行ってくれることになった。5時間ぶっ通しで海で遊びつづけた子どもたちも疲れたようなので,15:00頃出発した。太宰がさんざん義経伝説だから田舎の証拠だと馬鹿にしながらも行ってみたら感動してしまったらしい三厩の穴の空いた巨岩(右上写真)やら,全国でもここにしかないという階段国道(国道なのに狭い階段なのである)やら,竜飛漁港にうずたかく積まれた冬のアイナメ漁用の網籠やらを見ながら,竜飛崎の突端に辿り着くまで,1時間弱だったと思う。ふと振り返ると,風力発電用の風車が何本も立ち並んでいた(右写真)。ここは西も北も東も海で,風を遮るものが何もないので,東北電力がNEDOの資金援助を受けて風力発電の実験プラントを立てているということだ。なお,本当の突端部には防衛庁の施設があって立ち入り禁止になっており,太宰が「津軽」の中で国防上の要所だから詳しくは書けないと何度も繰り返していることに得心がいった。
竜飛崎灯台下の駐車場には土産物屋が並んでおり,ここで研究室への土産としてホタテの貝柱を焼いたやつを買った。蟹田への帰り道,露店に干してあったイカを4枚買った。かなり大きなイカだが,4枚で1000円だった。冷凍しておけばもつというので水曜日現在まだ食べていないが,実にうまそうだ。松並木の下を通り抜け,松坂大輔投手の生家を横目で見ながら,ほどなく観瀾山に着いた。ここは海水浴場だけでなく蟹田の町が一望できるほど眺めが良いが,それ以上に目を引くのは,川柳が刻まれたいくつもの大きな石である。蟹田町が主催している,「風の町」をテーマにした川柳コンクールの受賞作だという。このまま毎年1つずつ石が増えていったら山上が石で埋まってしまうのではないかと心配していたが,Oさんのお兄さんによると確かにそれを危ぶむ声もあるということだ。夕方の太宰碑の裏で記念写真を撮ってから山を降りた。山の裏手の林間にもキャンプ場があるのだが,時期のせいなのかアブでいっぱいだったので,早々に切り上げて旅館に戻った。日本最古かもしれないという縄文遺跡が時間の都合で見られなかったのは心残りだが,津軽半島東岸の名所はあらかた見たことになると思う。縄文遺跡については,また来ればいいだろう。
旅館に着いて風呂に入ったあと,まぐろ,イカ,ホタテのさしみ,山菜の煮付け,ホタテを焼いたやつ,数の子,エビとサーモンのフライ,味噌汁にご飯という,腹一杯の晩飯を食べ終わって暫くしたら,Oさんのお兄さんがうまい酒を飲もうと誘いに来てくださった。Oさん自身は奥さん,お子さんと一緒に青森ねぶたを見に行ったのだが,わが家は子どもたちも海水浴で疲れきっているし,昨日見たので満足しているから,今日は行かないことにしたのだ。酒を飲んだ場所は,お兄さん行きつけらしいスナックだった。ほろ酔い加減で2時間ばかり,世間話をしたり南太平洋の調査の話をしたりカラオケを歌ったりして過ごしたが,なかなか楽しかった。お兄さんは津軽平野と津軽海峡冬景色を歌ったのだが,驚くほどうまいのだ。22:00過ぎにOさん一家が帰ってくるので,一緒に花火をしようね,と意気込んでいた子どもたちだったが,海水浴でよほど疲れ果てたらしく,旅館に帰ってみると熟睡状態だったので,花火は流れてしまった。まあよかろう。
翌月曜日も朝食後すぐに海水浴場に出た。この日は朝から天気が良くて気温も高く,子どもたちは目一杯最後の海水浴を楽しんだようだ。昼前に切り上げて蟹田駅まで歩き(途中ショッピングセンターで食料を買い込んだりしてちょうど良い時間になったのだが,既に日焼けで痛い肩に食い込むリュックの重みに耐えながら歩いているうちに,ぼくの頭がすっかり筋肉モード……かつてローカルに流行った言い回しによれば脳筋モード……になったことは後での失敗の言い訳として書いておくべきであろう),12:44発の海峡4号に乗った。これも往路と同じくドラえもん列車だったのだが,驚いたことには4号車にドラえもんの着ぐるみが乗っていた(右写真)。娘は最初怯えてしまって,ぼくの後ろに隠れるのだった。なんとか宥めて,一応記念写真は撮ったのだが,テレビでドラえもんを見るのは好きなくせに,間近で着ぐるみを見ると怖がるというのはどういう心理なのだろうか? 不思議である。海峡は4分ほど遅れて青森に着いたのだが,特急はつかりはちゃんと連絡待ちをしてくれていた。1号車の端の席が運良く空いていて,座ることができたのはラッキーだった。さてこれで一安心と思ったら,盛岡でまた失敗した。ちょうどホームにいたやまびこ20号で,何を勘違いしたのか,ぼくは4号車に席が空いているのを見つけて座ってしまったのだ。「ここ,私の席なんですけど」と指定券を見せられるまで何の根拠もなく自由席と信じていたのは,どう贔屓目にみても間抜けといわざるを得まい。しかも,間抜けはこれだけでは終わらなかった。やまびこ20号の自由席は既に満席になっていて通路に立っている人がたくさんいたので,ちょうど隣のホームに入っていた16:35発のMaxやまびこ100号の乗車待ちの列に並んで,2階席に座ってやれやれと思っていたとき,それは起こった。アナウンスがあって,仙台より先へ行くならこの後で別のホームに入るやまびこ22号の方が先着するというではないか。慌てて時刻表を見るとその通りで,大宮に着く時刻が43分も違うのだ(しかも自分の字でちゃんとチェックしてあった)。これも脳筋モード故であろう。慌ててMaxを降り,階段を駆け降り,駆け上がってやまびこ22号の1号車の乗車待ち行列に並んだら,4人目だった。それからは順調に大宮まで座れたし,乗り換え後のあさま559号も4号車に乗ったら熊谷から座れたので,まあ問題なかった。もっとも,今回の津軽行きはねぶたの日程とGO GO 3DAYSきっぷの制約からいって,6月の時点で日程は決まっていたので,もっと早く動き始めて指定を取るべきであったことはいうまでもないとはいえ,それができるくらいの抜け目のなさをもっていれば,当日の動きでもこんな失態は演じないと思うので,反省しても直らないような気もする。
苦しいから旅に出ると書き起こし,「さらば読者よ,命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では,失敬。」と結ぶことで最高の余韻をもつ太宰の「津軽」そのままに,やたらに忙しい東京の日常から離れて漂った津軽の日々は,振り返ってみると夢のようであり,心に後を引くのだった。また行きたいものである。