枕草子 (My Favorite Things)
【第370回】 VAIOでのMP3再生(2000年8月24日)
- 馬刺しを噛むのに時間がかかったせいで,往路は8:05発あさま504号。昨日の今日でなんというていたらく。情けない。しかし結構噛み応えがあったのだが,6歳と4歳の子どもたちはバリバリ食っていたなあ。乳歯しかないくせに,大したものである。まあ,うまいものに対する情熱は親譲りかもしれん。
- VAIO-505-RXの蓋を閉じてもサスペンドにならずにLCDが消えるだけという設定をどこでするのだったか,さっぱり思い出せなくて,車内で聞き始めたMP3ファイルを上野に着くのと同時に止めるのがこの数日厭だったのだが,やっと思い出せた。PowerPanelで新規にプロファイルを作って登録すればよいのだ。PowerPanelのプロファイル設定でしかこんなに基本的な動作が設定できないとは,不便なマシンではある。SONY Notebook Setupに入れておけばいいのに。
- ついでに書いておくと,MP3再生ソフトとして,これまでDSMPとかWindows Media PlayerとかWinampとか使ってきたが,PC Japan8月号で萩原健太氏が音質を誉めていたのを思い出してAudioactive Playerをインストールしてみた。プレイリストエディタの使い勝手はあまりよくないが,Winampのプレイリストファイル(拡張子m3u)を認識するので,Winampからの移行は楽だ。音楽を聞いてみたところ,確かに萩原健太氏のいう通り,素直に音が伸びているような気がする。インフォメーションバイアスかもしれないが,それはそれでいいのだ。とどのつまり,ぼくにとって音楽を聴くという行為は主観の満足に過ぎないのだから。
- 午後,ソロモン諸島で大変お世話になったFさんが来て情報交換。見通しは誰にもまだ立っていないらしい。話していてふと思いついたのだが,武器をなくすために,取り上げるのではなく,買い上げて処分するというのはどうだろう。ただ金銭的に援助するよりも効果的ではないかと思うが。国際法的に難しいか?
- Alphaマシンに久々に手を入れてみる。SRMからCDROMを読みに行くと固まってしまうことと,AlphaBIOSからは(MILOからも)Tru64-UNIXのCDROMが見えないことが問題でTru64-UNIXインストールが手詰まりに陥っていたのだから,何か別のブートローダを試すというのはどうかと思いついたのだ。NetBSDとFreeBSDのAlpha版を見たら,独自のブートローダがあるようだったので試そうと思ったが,これらもSRMから呼ばれるローダだったので,SRMコンソールが復活しないと意味がない。そこで久々にFirmwareのサイトを見たらSRMの5.8というのが出ていて,これをAlphaBIOSのBIOS Updateから取り込ませたら,Ctrl+Xで割り込みが効くようになっていた。すかさずset auto_action HALTとして無限ループを断ち切り,SRMコンソールが出るようにできた。結局Tru64 UNIXがbootの途中で止まってしまうのは変わらなかったが,こうなればLinuxを入れるにせよFreeBSDを入れるにせよ何とでもなるから,大きな進歩といえよう(実は元に戻っただけだと思うとちょっと悲しいが)。
- 今日も帰りは終電。上野で満席だったので,ご恵贈いただいていた川端裕人「へんてこな動物」(ジャストシステム)を読み始めた。大宮で座ってからも読み続けて,高崎直前で読了。オーストラリア(の離島),ニュージーランド,マダガスカル,カリマンタンといった隔離された生態系が生み出した動物たちにセンス・オブ・ワンダーを感じて,野生状態で生きている姿を追った,とのことである。動物園でなくて,野外で撮ったという点にこだわりを感じる。裏テーマは島の動物だと書かれていたが,川端が島に惹かれるのは,池澤夏樹がハワイイに惹かれた理由と通底するものがある。著者後書きには,彼らをへんてこだと感じる人間の視線の方がへんてこかもしれないという自己相対化も含めて楽しんでしまうのが正しい読み方だと書かれているが,ハニーポッサムとかカカポほどのへんてこさを,これほど鮮やかな写真と一緒に見せつけられてしまうと,とても自己相対化なんかしている余裕はなくて,生物多様性を生み出した歴史的偶然(必然?)の重みに圧倒されるばかりであった。ただ,羽田空港の帰りに6歳の息子に見せたときは,それほどインパクトを受けなかったみたいだから,ぼくが感じている衝撃は写真だけじゃなくて,川端一流のコメントが果たしている役割も大きい。例えば,「世界昆虫記」と写真だけの力を比べると,迫力は見劣りする(注意深くみれば,ハニーポッサムの体重をばねばかりで量っている写真などにみられる繊細さは写真家の写真には滅多に見られない文脈を醸し出しているのだが,わかりにくい)。写真で読者を圧倒するためには,本の大きさも小さすぎると思う。もちろん,その辺りは著者川端もそうだし,企画編集の深澤真紀@タクト・プランニング(って,久美沙織の「孕む」の編集もしている人だよなあ)は十分わかった上で狙っている出版なのだろうけれど。高度だ。
- 余談だが,川端の自分語りが,たとえば井形慶子のそれと違うのは,自己相対化によって自分の発言を世界の中で位置づけてみせる点にある。やっとわかったのだけれど,たぶんそこが森山さんに批判された原因なのだろう。フィールドワークに基づく研究論文と共通するこの書き方は,読者が著者と主観を戦わせる余地を残さないから,嫌いな人は嫌いかもしれないが,教養書には古来必須であったはずだ。自己相対化がないノンフィクションを創作とすると,川端のノンフィクションは評論的だ。読者は,この手法を含めて批判的に読むことによって,作品に描かれた事実だけではなく(もちろんそれも大事だが),その事実を巡る言説に関しても見識を高めることができる。ぼくはこの手法も好きだけどなあ。
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